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絵を描き奇跡を待つ

2017-01-12 04:32:23 | 水彩画

車の中に描いた絵を並べてある。

絵を描いて居る時の頭の中を確認してみると、グルグルしていて、ぶつぶつつぶやいて居るようなおかしな状態である。数学を解いているときに近いかもしれない。冷静ではあるのだが、いつもと頭の働かせ方が違う。画面に向かい回答の見つかる奇跡を、ありとあらゆる角度から待っている。活路の見えない中で、前には奇跡が起きたのだと、思わぬ展開があったのだと、ほとんど希望のないグルグルを続けている。楽しいから描いている。描きたいから描いて居るのだから、何故こんなことをまたやりたくなるのか不思議なことだ。泥沼にわざわざ向かう訳だ。ほとんどの場合、すっきりしない解けない課題を持ち越したような感じで終わる。少しは描けたかなという日もあるが、良いと思ってやっていたことが方向違いに終わる。絵を描くという事は、実に絶望と直面するという事だと思う。やってもやっても訳の分からないところで、ぐずぐずしている。行きつ戻りつ。今日も一日無駄だったというのに、諦める気はしない。

中判全紙のタテも車の中で十分に描ける。

このだめな状態が自分だからだ。何も生み出さない徒労の日々が絵を描くことだと思う。それでも描き続けるのは、かつて経験した奇跡を待っている。始めるときは希望に満ちている。この絵ではできるかもしれないと、いまだかつてない絵が描けそうな気持になって始める。具体的にその進み具合を思い返してみる。描きたいと思うところから塗り始める。計画も、算段もしないようにする。構図を考えるとか、どこから何処を描こうかというようなことも考えない。考えると肝心のことから逸れる。ただ、いつもの場所に位置して、いつのもの所を、始める。紙は平らにおいて描く。その時一番描きやすそうな、描けそうな部分から筆をおく。大体はみずでかなり薄めた、グレーで始める。そのグレーも決まっている訳ではない。コバルトバイオレットとコバルトグリーンを混ぜることが多いい。白の混ざったグレーは使わない。絵具材料が変化して以来、もういいや、という感じでその場に合うグレーを混ぜ合わせては、作り出して描き始める。

描きたいと思ったところから始める。始めたら後は手順はない。急に反応して強い赤を置いて見たりする。気になりだしたところを、対象を見ながら進める。30分ほどすると画面全体に色が置かれている。紙を立てれば流れてしまうジャジャバ状態。そのくらい薄い。その時々だが、ともかく画面全体が濡れている状態になったら、画面を離れる。それを置いておいて、つぎの紙に描きだすこともある。昨日の続きを始めることもある。30分は乾くのを待つしかない。乾くのを待ちながら、描いて居る場所をブツブツ見ていることも多いい。天候にもよるが次の色が塗れるとこまで乾いたら、今度は画面を立てたり、寝かしたりしながら、濃度の様々に違う絵の具で描いてゆく。何をしているかわからない状態。そして結局のところ行き着いて大抵は絶望する。全く駄目だという事に気づく。

ここからは、もうやみくもにありとあらゆる思いつくことをやる。やっている内にあれという展望があったりする。何か新しい面白さが見つかりかかる。希望が湧いて来る。勇気が出る。またぶつぶつ言いながらやってみる。そして、2時間ほどするともうやれないという事になる。終わりというより、もうやればダメになるのが分かっている、いつもの限界のようなものに到達する。これでだいたい午前の仕事が終わる。昼間は車の中で弁当を食べて、昼寝をしている。午後は2時くらいからまた始める。場所を移動して又同じことを始めることもある。午前の絵の続きがやれそうなら続きを描く。奇跡を待っている。絵を描くという事は、人生を体験している感じだ。生きているという実感がある。一枚の絵を描くたびに人生を歩むようなすごさがある。生きたのだと感じる。失敗続きの人生でも、面白い。絵を描く奇跡。読み返して思ったのだが、絵を描くことで自分を作ろうという事のようだ。

 

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