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コロナウイルス感染は昔からあった。

2021-06-08 04:19:21 | 暮らし


 草刈りの終わった溜池。今回は過去最高の参加者数で10名もいた。有難いことである。もう一息で何とか継続できるところまで、来たのではないか。あの荒れ果てた舟原溜池が、美しい場所に戻ろうとしている。

 今回のコロナの蔓延でウイルスのことで新しく分かってきたことがいろいろある。実はコロナが過去に流行したことがあったこともわかってきた。中国の奥地では、5年前に健康診断のため住民から採取した200名の血液が保存されていた。

 その血液にコロナ感染の証拠である抗体が6名から見つかったという事が明らかになった。今回の流行の5年以上前に、たぶんもう少し病気としては軽いタイプのコロナが、すでに中国奥地で広まっていたことを意味している。

 そのために、コロナの死者数は一度過去の感染の広がった東アジアでの感染はかなり少ない結果になっているのだろう。ウイルスの考査免疫が出来ていたと考えられる。過去に流行のなかった、他の地域ではすごい数の感染が広がる結果になっている。

 感染の連鎖で起こるウイルスの変異についても、各地で変異株が出現して、新しい感染爆発が起こることもはっきりしてきた。以前から心配されてきた、大規模畜産のウイルス変異の危険がはっきりしてきたと言えるだろう。

 人間の場合何万回の感染の連鎖はなかなか起きにくいが、それでも大都市での感染の連鎖では人間の中で感染を繰り返して変異してゆくことが、世界各地ではっきりとしてきた。

 コロナウイルスは動物も感染することが分かっている。一番心配なのはミンク養殖である。デンマークではすべてのミンクを淘汰した。私の想像では中国でミンクが過去に感染したのではないかと思う。そして感染の連鎖が起きて、人間に強毒化のウイルスが出現したのではないかと考えている。

 これは全くどこでも言われていな説なので、たぶん私の考え過ぎなのかもしれないが、大型畜産から、新しい人間に危険なウイルスが登場するだろうという考えは、かなり科学的な証拠が出てきたと言える。

 10年前、鳥インフルエンザの流行のときに、大型畜産は止めなければならないと主張したことは間違えではなかったという事が分かってきた。あの時には私自身の養鶏の経験で、すべては推測であったわけだが、今回のコロナウイルスでウイルス学が一気に進展した。その結果は大型畜産の危険を意味している。

 ところがそのことはあまり主張されていない。経済に結びついているからだ。報道は利害があるために、そう考えても主張できないでいるのではないか。ミンクや豚や鶏が、1万頭が密飼いされている。そこで起こる感染の連鎖は新しいウイルスの出現に繋がることがはっきりしてきたのではないだろうか。

 大規模畜産から起こる可能性のあるウイルス危機が、相変らずあまり発言されていないのはじつに残念である。今回のコロナももともとはミンクの密飼いにあるのではないかと疑っている。ミンクの飼育は相当に劣悪な環境のようだ。

 大規模畜産は禁止されなければならない。これは10年前から主張してきたことだが、いよいよその危険が迫ってきたという事だろう。今回のコロナがエイズやサーズよりも病気としては軽いものだったことは、単なる幸運に過ぎない。

 畜産は小さく分散して行う以外にない。そして自然の中に溶け込んで、自然を乱さない範囲でしか行えないものだ。規模が大きなればなるほど、新しい危険なウイルスを生み出す可能性があるという事だろう。

 今も、人間が自然の奥に入り過ぎたという事が、新しいウイルスの出現だと言われているが、これは間違っている。野生動物と人間は昔から接触してきた。むしろ昔は野生動物の狩りをして生活していた時代もあるのだ。

 コウモリだから食べない、センザンコウだから食べないなどという事はなかった。食べられるあらゆるものを食べていたはずだ。人間は自然と接触しながら、病気になりながら、どこかで折り合いをつけて生き抜いてきた動物である。

 その人間が一番密な動物になった。そしてむしろウイルスを変異させる宿主になっている。大規模畜産を行い、新しい危険なウイルスの登場をさせていると考えるべきだ。今回のコロナでいかに密が危険なものか身に沁みてわかったではないか。動物の密飼いも危険という事を学ばなければならない。

 これからの社会は拡大再生産ではなく、縮小してどこに収束するかを考えなければ人間は生き残ることができない。人口も減少しなければならないだろうし、人の暮らし方も自然の中に織り込まれるようなものにならなければだめなのだろう。

 富裕層の金銭に依存した暮らしよりも、自然の中に溶け込んで自給的に暮らす暮らしの方が、はるかに豊かで実りある人生になるという事を自覚すべきだ。人間はシャベル一本で、100坪の土地があれば自給的な暮らしが可能なのだ。しかも、一日の内2時間を食料生産に充てれば、後は絵を描いていても大丈夫なのだ。

 この暮らしの原点にいつでも戻ることが出来る。私の絵は今だろくでもないものではあるが、何にも媚びてはいない。自分の為だけに描いている。こうしていて平気なのは、自給的生活を体験してきたからだ。精魂込めて作ったお米も、食べてしまえばなくなる。

 自分の人生をかけて描く絵も、重要なことはどこまで描くことにひたすらになれるかだろう。それが自分のひたすらであれば、他所からの評価など大したことではない。実にやりがいが湧いて来るし、未来を思うと明るい希望に満ちてくる。

 今回のコロナはまだ序の口であり、予兆のようなものと考えておかなければならない。愚かな守銭奴たちは、金儲けのために地球を壊し続けることだろう。これはもう人間のどうしようもない愚かさなのだろう。今はもうそういう物を変えることはできないと思うようになった。

 せめて、自分の生き方だけは地球と共存できるものに変える以外にない。一人が変わることから始める。大きな流れは変わらないのかもしれないが、結果はむなしいかもしれないが、そんなことは考えず自分の生き方の方角だけは間違えないでおこうと思う。
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