資本主義が行き詰まった時代こそ、宮沢賢治の思想に学ぶところが大きい。それは現代社会が、個人主義が強まったこと。阻害された社会になっていること。能力主義が正義になっていること。お金の価値観が絶対視されるようになったこと。どこまで行っても競争を続ける社会であること。
〔雨ニモマケズ〕 宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
雨にも負けず、正に今ののぼたん農園である。稲刈りしなければならない田んぼがあるのに、雨に負けて、稲刈りが出来ないで延びている。濡れている稲は刈り取れば、黴びてしまう。穂発芽を始める。雨瀬を見て刈り取るしかない。宮沢賢治が目指したイーハトーブはなかなか厳しい。
「下ノ畑ニ居リマス 賢治」賢治さんは今も仲間として、花巻の羅須地人協会で農作業をしていると思うことにしている。賢治の理想郷から、社会はどんどん離れて行くばかりである。豊かな社会が来れば、人間は他者のことを感じられる人間になるだろうと思われたが、そうではなかった。
私の74年はそういう次第に悪い世の中になる74年であった。豊かになる競争に追い込まれ、他者が見えなくなり、自分のことだけの人間に痩せ細るばかりだ。豊かな社会の中での心の貧困。格差社会の拡大。虐めや虐待が増え続ける病んだ社会。疲れてしまい、全体を変えることは不可能に感じられる。
いまできることは自分が関わるその場所から、すこしづつ変えて行くほかない。その時力をくれるのが、羅須地人協会で農作業を続けている賢治さんのことだ。一人が頑張ることは人に繋がること。賢治にしがみついて居るようなものだ。感謝を忘れず、努力を続ければ、必ず良くなることを願っている。
仲間の誰かが農場で働いている。小田原では麦刈りの途中で石垣に戻った。そのまま渡部さんが終わりまでやってくれた。全くすごいことだ。ありがたいことだ。私がやり残してしまった農作業を続けてやってくれる。賢治さんのやり残した農作業を続けねばならない。
玉ねぎの収穫もやってくれたはずだ。何もかも助けて貰っている。私もどこかでいくらかでも手助けをできればと思う。小田原では渡部さんには助けられているわけだが、実は石垣の渡部さんにも助けられている。渡部さんと言うから出は会津のの方ではないのだろうか。会津もすごい人間のいる場所だ。
宮沢賢治の産まれた花巻もすごいところである。何しろ今度は大谷翔平が表れて、励ましてくれている。羅須地人協会の畑で働いている賢治さんを見て育ったに違いない。花巻という場所に魂があるのだろう。確かに石垣島にも百姓の魂がある。小田原にも百姓の魂がある。
賢治は自給生活の理想郷を作り出そうとした。私たちはその思想を受け継ぎたい。必要なものを作り、暮らして行く。小さな仲間の存在。その小さな輪の中で、自己確認して暮らす。自分が生きると言うことが仲間が生きると言うことにいくらかでも繋がる暮らし。
ともかく今日1日、のぼたん農園にいること。出来ることを見付けて作業すること。たいしたことは出来ないが、地道にデクノボウとして農作業を続けること。それが何にもならない木偶の坊であろうとも、良しとして生きる事。十分とは言えないが、少ない収穫に感謝して暮らすこと。
宮沢賢治が37年間の短い生涯を生きた時代は、日本が帝国主義で日に日に悪くなってゆく時代である。ひどい税制のために、過去最悪の飢饉が東北で起きた時代だ。江戸時代の農民は飢餓を体験はしたが、まだまだ豊かであった。明治帝国主義政府の軍事費のために農民はとことん搾り取られた。
東北の1930年代は大災害の連続であった。31年と34年は凶作・飢饉にお そわれ、その間の33年には三陸大地震・大津波にみまわれた。東北 の凶作は天災ではなく、「ブルジョア政策そのものの破綻」「世界経済恐慌の 一環としての農業恐慌そのもの」であると、その資本主義的災害とされる。
1933年に37歳で賢治は死んだことになっている。本当は今も羅須地人協会ノは竹で農作業を続けている。江戸時代の飢饉を3大飢饉と呼ばれるが、それは明治政府が意図的に作り上げた側面が強い。江戸時代は農民をないがしろにすれば、藩の財政は破綻したのだ。農民から収奪したことは確かだが、明治政府は農民を追い詰め、殺すような政府だったのだ。
賢治は農民が痛めつけられる苦しい時代の中で、イーハトーブを作ろうとして、取り掛かるが志を遂げられずに今も、下の畑で農作業を続けている。生涯を通して科学的姿勢で農業技術の探求し、肥料学を研究し、農民の暮らしを豊かにしようと努力を続ける。
羅須地人協会(らすちじんきょうかい)1926年、農学校を退職した賢治が農民たちを集めて農業技術や農業芸術論などを講義するために設立。1928年に病気になるまで、賢治はこの建物で自炊生活をしていた。短い期間ではあるが、この羅須地人協会に賢治のイーハトーブがあった。
私たちはまたひどい資本主義の末期の時代を迎え、農業技術や芸術論を学び合う場を作らなければならない。のぼたん農園の活動には賢治ほど卓越した哲学も思想もないが、石垣島で30人が心を合わせて自給農業の探求をしている。
再現性のある科学的技術の探求である。そして農業は実践である。誰でもがここで学び、自給的な生活を可能にする場である。昨日は1番田んぼの稲刈りを終わった。残るは7番田んぼ一つである。今度の土曜日に稲刈りをして、日曜日に脱穀したいと思っている。