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心拍数を100より上げない動禅体操

2024-04-02 04:36:21 | 暮らし


 東洋の体操である太極拳は心拍数を上げない運動法である。太極拳は本来体操と言うよりも、精神修養法と考えた方が良いものだったはずだ。オリンピック種目にするなどおかしな事だ。西洋の運動が身体の健康を目指すものであるならば、東洋の運動は精神の健康を目指すものである。

 自分の健康を考えるときに、この2つの方法の採り入れ方を間違えないようにしている。健全な肉体に健全な精神が宿るとするのが、西洋的な考え方である。東洋の肉体に対する考え方は、精神に重きを置き、肉体を消滅させるというような考え方になる。

 不老長寿法になるための断食というような、西洋の医学から見れば不健康極まりない方法が、自然治癒力を高める健康法として取り揚げられている。小田原にも断食道場があったが、それは宗教法人が行っていた。断食は宗教における修行法になる。

 西洋流で言えば、74歳で慎重170㎝の男性であれば、一日何カロリーの食事をするのが良いと言うことになる。健康のための一般論が存在する。しかし、自分の身体健康は全く個人的な特殊解である。一般論は全く無意味なことだ。自分の精神にどんな食事が良いかは、考案しなければならないものだ。

 禅宗の食事が不健康で危険なものだからと言う理由で、アメリカの禅宗の道場で禁止されたことがある。カロリーの少なすぎる食事が健康を害するというのだ。確かに西洋の医学でみれば、禅堂の食事は偏食であり、少なすぎるものに成るだろう。普通の人が真似をすれば、栄養失調になるに違いない。

 食事も修行の一つであって、初めて成り立つものだ。心拍数を上げない暮らしなのだと思う。そもそも、仏教では午前中しか食事を取らない。身体の健康などそもそも、精神の修養のためには問題にもされない。健康のために夕飯も食べたるという薬石などという考え方では、修行は達成できないと考えられてきたのだ。

 西洋の科学的な思考法では、不健康であるはずの禅宗の修行によって、精神的な安定した心境への到達が得られる。それは、孔子の論語にある、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言う考え方に見られるように、東洋の人間の生き方の根底にある精神重視の考え方。

 健康のために生きているのではないと言うことだろう。道を究める為に生きている。道を究める方法が、命を削るものであるとしても、かまわないという考え方。その極限の修行が、千日回峰行のようなものだろう。修行に挫折するときは死ぬときなのだ。

 道を究めることで、不老不死に至る。精神が完成されることで、死ぬことがなくなる。死ぬことがないと言うことは、健康の完成である。精神を極めることが生きて行く目的になる。しかし、千日回峰行をしたから、精神が極められるという精神は何を意味するのだろうか。苦行にはたえられないし、興味も無い。

 苦行より楽行である。やりたいことをやり尽くすことを行とする。そのことが人間や世界に繋がっていなければ嫌だ。苦行をやり遂げて、仙人になり、宗教を開き、信者にその教えを広める。そういう生き方は大嫌いだし、むしろ害があると思っている。 

 宗教というものが人間にとって良いものとはあまり思えないのだ。私自身が曹洞宗の僧侶でありながら、全くこういうことを書くのはおかしいかもしれない。しかし、宗教教団の存在が好ましくないのは、統一教会も曹洞宗もあまり変わりが無いと考えている。

 それよりもやりたいことをやり尽くすことが、世のため人のために繋がっている生き方が好きだ。楽行の先が人様に繋がっていたい。その楽行が健康にも繋がっていると考えている。心の欲するところに従えども矩を踰えず。楽しいと思うことを、精一杯やって居れば、心身健康。

 話ははずれたわけでは無く、心拍数を上げるような厳しい激しい運動は、私には良くないことなのだ。高校生の頃は陸上競技部にいた。弱い選手ではあったが、練習では日本一だと思って、厳しくやっていた。強くは成らなかったが、限界まで練習はした。

 それで、走りすぎて脚を痛めて走ることが出来なくなった。くるぶしが2つになるような瘤が出来た。これ以上走れば歩けなくなるとお医者さんに言われてしまった。身体が弱かったのだろう。それでも走って、ついに歩けなくなり、走ることは断念した。

 走ることを修行だと思ってやっていたから、かなり悔しい結果だった。受け入れるほか無いことだった。つまりだめな奴だと言うことを受け入れるしか無かった。座ることも出来ず、走ることも出来ず、どうなるのだろうかと途方に暮れた。相変わらず絵を描くことは好きだった。それで絵を描くことに逃げ込んだような気分だった。
 
 結局、やり尽くすことなく、やり遂げることはもちろん無く、何の革新も無いまま、曖昧なまま絵を描くことだけは続けてきた。絵を描くことが逃げ場だった。今だって大きくは変らない。自分の中に絵を持ち出すことで安心があるからだ。それが絵を描くこと好きと言うことなのかもしれない。

 心拍数を上げるような運動は、身体に合わない。心拍数を100より上げない、楽な静かな動きが良い。気持ちよく出来ることが最も大切である。自分の身体に聞いて確かめた、最大の心拍数は100までである。それ以上になることは身体にとって良くない。このことは自分の身体で確認して確信している。

 それは農作業がそうだ。心拍数を上げるような動きでは、長く続けることが出来ない。ゆっくり身体になじむように気持ちよく動く。心拍数が100を越えそうになったら、さらにゆっくりと動くか、休むようにする。そうすれば一日中農作業が出来る。

 一日中動いていても、疲れないような動きが理想的な動きである。百姓働きである。昔のお百姓さんはのろのろ動いていた。キビキビ急ぐようなことは無かった。のんびりのんびり空を見上げては、身体を伸ばしていた。百姓働きは休み休みである。

 動禅体操も同じである。これ以上はゆっくりは動けないぐらいゆっくりで合えば理想である。それではゆるすぎると思えば、重心をその分落とすことにする。低く動けば、動きに負荷が強くなる。ゆっくりと低くを目標にして、心拍数が上がったら、体操の途中で動きを止めれば言い。

 止めて、いくらでも休む。休んで動きたくなるのを待って、次の動きを始める。運動が終わっても、心拍数が上がっていない。疲れるどころか、十分休憩を取ったような落ち着いた状態に成るように進める。良い動禅体操の方角は、楽しく自分に合わせてである。

 具体的に書いておけば、74歳の私の場合は、心拍数が100以上になるような運動はしないことだ。農作業をしていても、時々スマートウオッチを見て、どのくらいの動きで心拍数が100になるかを確認する。田植えや稲刈りでもそうだが、100を越える状態では、むしろ身体を痛めることになる。

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