地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

動禅体操とゆる体操とヨガ 2

2024-04-03 04:12:51 | 暮らし


 動禅体操が乞食禅状態から抜け出るためには、何かが必要な気がしてきている。ヨガのことを考えていたら、ヨガにある目的の要素が煩わしいと言うことになる。ヨガは乞食禅なのだと考えると分りやすい。乞食禅丸出しの私が書くのも何なのだが。別段ヨガに因縁を付けようと言うことではない。

 こういう乞食禅的、欲しい欲しいの浅ましい修行法は、やはり商業主義から生まれたものだろう。ヨガでも、今や禅でもカルチャーセンターである。生徒を集めるためには、先ずは効能の宣伝である。禅を行っても何かを得られるわけではない。本来の禅の修行では只管打坐である。

 ヨガにある効能が先に来る考え方は、インド哲学の要素なのではないだろうか。インド的に言えば、行動するには観念的な裏付けが必要なのだ。呼吸法に様々な尾ひれが付く。この最もらしさが、ヨガ教室が広がっている理由でもあろう。目的を持たないではヨガの世界には入れない。

 ヒーリングヨガとか、ホットヨガいう言葉を聞くと、ちょっと近づきたくはない。ヒーリングヨガとは心を癒やすヨガと言うことらしい。ホットヨガは汗をかくことで様々な効能があるヨガと言うことらしい。私が考える動禅体操とは随分と違う。

 何んの目的も無い。効能も考え無いと言いきれるものにこそ、修行の本質がある。この逆説的な考え方に、生きると言うことの意味が潜んでいる。それが中国にヨガがもたらされて、禅に変わったということだろう。無になること。目的を捨て、達成することすら忘れ、ただ座ると言うことだけがある。

 執着を無くそうという執着すら手放す。何かを目的にすることによる不純が、修行を台無しにすると言う考え方になる。修行に目的を持つと修行が歪んで行く。何かをしようとすること、あらゆる目的を放棄する。ただ、心を無にしているだけの状態を保つ。それが何かになるという事ではない。

 しかし、心が無になるという事でも無い。無になることは悟りではなく。例え無の心境に到達したとしても、無という状態になったと言うだけのことだ。それがどうしたのかと言うことになる。無が偉いのかと言うことになる。無になって何が出来るのかと言うことになる。

 悟りと言う目的すら持たないことが禅の修行。とすれば、仏教の修行が、無になることの訓練であるとすれば、修行の自己矛盾が始めから存在する。座禅といった無意味な行為をひたすら行う修行は、無になることの訓練とみなすことはできる。無になったところで何もないと言う修行の姿。

 無になろうとする訓練である限り、決して無になることはできない。禅は無をも目的化しない。無になろうという意識から抜け出す事を目的にして、矛盾しながら坐禅をする。無になるという理論は、目的論を完全に放棄している。無は目的として設定される限り自己矛盾する。

 何かややこしいことを書いているようだが、禅に於いてこの点が一番重要な分岐点であった。それで私は禅の修行が継続できなかった理由になった。愚かな私にはその無目的の意味を、受け入れることが出来なかった。どこまでも乞食禅だったのだ。

 ヨガから入れば目的のあるヨガにはまったのかも知れないが、禅寺で生まれたと言うことがあった。祖父の黒川賢宗老師は確かに僧侶としての生き方を、見せてくれたと思う。藤垈の集落からも離れた山中の寺で、自給自足の生活をしていたのだ。禅僧が何かを示すとすれば、日々の生き方だけだろう。

 禅の理論はなんの目的も設定しない。禅とは「ただ禅に生きること」である。その一瞬をどれほど深く感じて生きる事ができるか。坐禅の無目的化はそのことを意味している。「あらゆることを手放すこと」でなければ、その時に生ききる事が出来ないと言う事であろう。

 ゆる体操では体操中にあくびが出ることを「良いですねぇー。その状態ですよ。」という。心がたるんでいるような、どうでも良いような状態に成ることを大切にする。身体を緩めることで、心を緩めることに至る。多分ゆる体操の本来の姿なのであろう。緩めた心を意識的に作り、味わうという体操。この考え方はおもしろい。

 日常の緊張をゆる体操で緩めると言うことのようだ。日常を緩めるために、ゆる体操をすると言うことではないようだ。緩んだ日常を目的にすると言うのであればおもしろい。体も心も緩んだ状態を身につければ、日常の暮らしの味わい方が変る。

 緩んだ心の意味とはなんだろう。緩んでいるから事で解放されると言うこともある。緩んでいると言うことと平常心と言うことは違うのだろう。緊迫感の無い状態の日常であれば、だめなだけだろう。言葉で説明すれば、心を緩めて、無限な世界に対して開くと言うことではないか。

 緩んで当たる柔軟性。緩んで心を開いて、楽観して事に当たる。緊張して身構えて事に当たるよりも、優れていそうだ。緩んでいると言うことは、前提条件がないと言うことであり、平明に事に当たれると言うことになるだろう。身体を緩めることで心を緩める。

 動禅体操は緩んで行うことでも無い。緊張はしていないが、頑張る気持ちがいくらかある。頑張る気持ちは悪いわけでもない。健康で働ける身体ののためというような目的を持って、がんばる。動禅体操は気持ちを統一させてゆくものだ。緩めるよりは集中させるという方向だろう。

 しかし、動禅体操も緩めているものもある。スワイショウを100回行えば、身体も頭も緩む。スワイショウも力を入れる動きと、緩める動きを組み合わせると良い。膝を曲げて、腰を低く落とせば、腰の回転に力が必要になる。力を込めて回し、力を緩めて戻す。

 八段錦も、太極拳も、力を入れるところと、力を抜くところを作っている。この緩急の動きが重要になる。心拍数は上がるようであれば、すぐ休む。疲れたらどこのタイミングでも休み、また動きたくなるまで待って動く。心拍数は100よりは上がらない。そのくらいの動きが良い動きになる。

 動禅体操は緩急の体操と言うことになる。緩めるところと、緊張をするところを併せ持つ。そして常に楽なものでなければ成らない。大変だったら、楽になるまで休んで続ける。嫌になる部分や辛い部分がどこにもないのが理想とする動禅体操だ。
 
 楽しいからまたやりたい。気持ちが良いからまたやりたい。そういう気分になれる体操であれば、いつでもやりたくなる。マッサージは誰でも気持ちが良いからやって貰いたくなる。そういう体操に動禅体操が成るのが目標になる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 心拍数を100より上げない動禅... | トップ | 沖縄県のミサイル基地配備 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

暮らし」カテゴリの最新記事