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地場・旬・自給

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新自由主義的復興論を批判する。

2011-08-17 04:55:00 | 
現代農業9月号の主張として、「新自由主義的復興論を批判する。」が掲載されている。震災のどさくさにまぎれての、火事場泥棒的経団連「復興・創生」プランを徹底批判している。批判としても的を得ているうえに、後半部分の今農村で起きている構造的変化の分析が興味深い。いくつかの論文を引用をしながら、農村の生の状況を深くとらえている。現代の農村の状況は、そこに暮らす者にもとらえきれない多面的な問題が、混在して現われている。部外者の評論的分析が、的外れな物言いが多く失望を重ねている。農文協らしく農業者に密着した、正確な見解を主張している。現代日本社会の矛盾のすべてが農村に集約されているともいえる。国際競争力の強化の為に、山間地の小さな集落なら犠牲に成っても構わないという構造である。矛盾が集中している分野としての、農業農村を考察すると言うことは、世界経済の動向を充分考慮しながら、「むら」のこれからを考えなくてはならない状況、と言うことに成る。

一つ残念なことは、農文協の主張では土地所有制度には論究していない。この点が物足りない。私有財産制の呪縛が、純粋な食糧生産と言う農業本来の目的を歪めている現実に、踏み込んでいないという点である。資産としての農地。資産を管理するという農業の側面。ここから抜け出ない限り次の段階を考察することは難しいのではないだろうか。食糧と言うものを他の生産品と明確に分けて考える必要がある。食糧は水と同等の生活の基本要素である。国が等しく国民全体に保証する義務を負って居るものである。すべての生産品が生活必需品であると言えないこともないのだが、農産物については別枠で考えるべきものではないか。その食糧を生産する場である農地とは、どういう性格のもんであるか。食糧生産の担い手が不足している現実がある。この主張では単純にそうとも言えない実態を示して、正論である。しかし、農地の担い手は年々不足が深刻化している事実は認識せざる得ない。この点は、複雑な社会的矛盾の中に絡み合った問題であるので、単純な判断は危険がある。

「農地をむらから切り離してはならない。」この主張の中心である。むらとは何か。このことと向かい合わなくてはならない。「むら」というものが、封建制の象徴として、農業離れのひとつの要素になった。それは大資本が望む戦略でもあったが、村が精神的に自由な空間で無かったことも確かである。個人の自主性を尊重すべきとする、近代主義的な生き様と、むらという集合としての制約をどこで調和できるのかである。一人ひとりの生き方が保証された形で、しかも、むらと言う暮らしの最小単位が、集合した生命体として、もう一度自由に動き出す仕組みを作り出せるのか。農の会が目指している「新しいむら」は、今までにない組織なのだと思う。地域の中での、例えば集落営農集団としてのテーマコミュニテ―の再編。その集落営農がどこまでも個人の生き方を尊重できるのかが、具体的にはイメージできないでいる。生き方としての農業論が論議されない限り、経営としてだけの営農集団は、経済競争の中でその意義を歪められてゆくことになる。

引用―――かくして農地管理は、「農地の権利移動のみを意味するのではなく、地域にとって望ましい農地利用一般の実現を課題とする。農地の作付協定、農作業の効率化、合理化のための利用調整等、多様な内容を地域の状況に応じて、地域の自律的な取組みを前提として実現する」ものであり、「農地流動化の加速、流動化率の向上といった、国が設定した目標達成にのみ還元されるものではない」のである。―――
主張は以上を結論として終わっているが、実はこの部分が肝心であるにかかわらず、その意味が分かりにくい。地域経済と農業に連関が薄くなるなか、どのような村の思想でこれをつなげるかがカダではないか。地域と薄い関係の中で、実際の農作業を行う多くの農業者との感覚のづれ。農地の作付協定。と一言で書けるが、その過程が血に成っていない。農作業の効率化。これも同様である。むらの目的が同じであれば効率化も、作付協定もできるが、生きる目的の共有化が出来ていない関係の中での話し合いは、経済性に偏ることに成りがちである。少なくとも経済的合理性の主張を、乗り越えることは難しい。そこにも農地の個人所有を越える思想の提起が必要になると思えるのだが。
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現代農業7月号

2011-06-14 04:07:19 | 
今月の現代農業は「水&エネルギー自給」特集。雨水利用法。太陽熱利用法。夏を涼しくする法。発電法。燃料の自給法。どれも、農家自身が取り組む自給技術である。ペットボトルを黒くして温水器を作るなど、ちょっと笑ってしまう工夫が満載である。自給は工夫である。アイデアである。日々の工夫を楽しんでやれることに尽きる。屋根に散水して涼しく。これは洋ランをやっていた時随分やったものである。温室の屋根を水が流れるようにする。その水を雨樋で集めて地下の貯水槽に戻す。そして又屋根から落とす。半地下温室も何回か試みた。大地の持つ夏涼しく、冬暖かいという力を利用しようということである。水のタンクを地中に埋め込み。この水の安定している水温を利用する。雨水を井戸水に変換しようというのである。だいたいはアイデア倒れであったけど、やってみること自体が楽しいのである。

よしず、打ち水、すだれ、蚊帳。風鈴、うちわ、鈴虫、金魚。冷房機の普及は何よりではあったが、風情がない。ああ暑い暑いでどっぷり暑さに暮らす事も、一夏を楽しむ極意である。そりゃー涼しい方が良い。それで失ったこともある。農家は炎天下、否でも草取りをした。子供の頃これだけは十分やらされたと人に言える。一つの自慢である。厳しいお爺さんだったから、泣いてもやらされた。つらかったが、いま思えば有難いことだ。除草剤の登場で無くなった。確かにらくになった。庭に撒いた除草剤が雨で池に流れ込み、池の鯉が全滅した。又草取りが始まった。便利になることは、何時もリスクが高くなる。自給エネルギーなどと言うと、すぐコスト計算に成る。この本に出ている工夫は、楽しんだ分得になったという工夫である。緑のカーテンにコストはない。ゴウヤが何本取れたからいくら得したとか、堆肥にいくらかかったから損だ、など、二の次のことだ。楽しんで自給できれば、コストはない。

カラーページは大豆の苗作りのすごい工夫である。これは是非やってみる。よくもここまで大胆なことをしたものだ。根も切り捨てるし、芽も切り捨てる。この大胆さに脱帽である。反収600キロの大豆と言うから、驚異的である。ちょとした工夫がばかには出来ない。自給農業とはそういう農業のことだ。プランテーション農業と対極にある。土を育み、自分の存在を循環に織り込んでゆくすがた。実はこの大豆記事は去年も出ていた。しかし、カラー特集でインパクトが増した。余りの事に文章だけでは信じ難かった。少しの工夫が地球を救うという思想。今回の特集は、原発対応である。原発を止めるには暮しを変えなければ。そう言う思想だと思う。実は私も原発に関する記事を書かせていただいている。現代農業と同じ考えだ。国際競争力のある農業の道は、プランテーション農業の道であり、リスクの高い原発への道に成る。

いわき市の薄上さんが好塩菌という微生物の事を書かれている。塩類を取り除く菌を培養していたので、津波被害の地域の人に無料配布されるという。薄上さんとは中国に同行させていただいた。学ぶ所が沢山あった。農業者は次の時代を作り出す可能性を持っている。まだ伝承を身体の中に貯めている。伝承そのものと言うより、物を見る目を伝承から育てている。農業には日本が再生する、力が秘められている。「大丈夫だよ、にっぽん。」現代農業はいい雑誌である。農家の知恵を足で集める今どき珍しい雑誌である。私自身東京で絵を描いて行き詰まり、もんもんとしていた時、救いをこの本に見ていた。いつか、こんな暮らしをしようと漠然と思っていた。チェリーブロッサムである。幸い、セールスマンとして死なない内に、自給生活を目指す決意が出来た。
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組長をかたぎに変えた犬

2011-04-17 04:32:40 | 
 雷田 ドンちゃん

湘南タッズでは、10名くらいの人が、東北から来た犬の世話で一生懸命働いていた。若い女性ばかりである。「組長を堅気に変えた犬」㈱角川学芸出版 1,360円タッズの物語。犬は人間を変える。犬から学んだことの方が多い位である。確かに言葉に出来るようなことを、犬は教えてくれている訳ではない。しかし、犬は人間と暮らしながら、大きな自然の摂理のようなものを、自らの身体を持って教えてくれる。犬という動物が持つ、仲間意識や、生き抜く本能や、我慢強さ。言葉にすればそう言うことなのだが、彼等は自分の在り方に自然界の掟のようなものを、直の命で伝えている。「絆」がテーマとなっている。プロ野球がどれだけのものを我々に教えてくれるだろうとも、一匹の犬が示す、命がけの愛情にまさる絆は示せない。反抗的少年のだった私に対し、無言で伝えてくれたものの大きさは、今も忘れることは出来ない。彼等は「そう言うなよ。」といつも私の顔を見ていた。少年よ犬を飼え。

タッズさんとの出会いは、雷田である。子供のころブルドックを飼っていたが、その病弱なことで、つらい思いをした。しかし、その品格ある性格から多くのものを得た。又ブルドックを飼いたい。こう思っていた。しかし、「弱いからな―。」たまたま、ブルドックとブルテリアを交配した人が和歌山の方におられた。それで分けていただいたのが、「ドンちゃん」である。どんちゃん騒ぎのドンちゃんである。犬は1頭で飼うのはかわいそうだといつも考えていたので、その相棒を探した。そうして出会った犬が、ピットブルである。にんそうはまるでドンちゃんと変わらない。しかし、この犬凶暴に着き、要注意ということだ。しかし、どうも意見が分かれている。その中でグロリータッズ犬舎を知る。家庭犬のピットブルである。これだとひらめくものがあった。闘犬が戦うのは飼い主を助けようとする愛情であり、忠誠心である。

早速タッズさんに連絡したが、なかなか譲ってもらえなかった。ちゃんと飼ってくれる人以外には売れないというのだ。不思議なブリーダーがいるものである。話しているうちに、はっきりと断られてしまった。そうなるとまるで犬を飼う資格がない言われたようで腹が立つ。タッズさんよりも私の方が犬のことは知っている。犬とともに育ったのだ。しばらくして、やっとこさ信用してもらい、雷田を迎えることが出来た。想像通りピットブルという犬種の特徴は愛情の深さである。頭の良さもラブラドルに劣らない。この犬種は人類が作り出した最高の犬種かもしれない。ブルドックがブルバイティングから出来た犬でありながら、素晴らしい家庭県に成ったように、ピットブルは遠からず家庭犬種として最高と言われる時代が来ると思う。ところがこの犬は不幸なことに、飼育禁止の国もある。

闘犬などやる人間が悪い。犬には少しの責任もない。この素晴らしい犬種を何とか認めさせたいと、やくざな組長が思い立つ。そして、いつの間にかやくざが堅気になり、ドックシェルターを必死に引っ張っている。犬にはそうした力がある。タッズ父さんは能力が極めて高い。実行力は人並み外れている。信頼度も厚い。経営能力もある。こういう人がドックシェルターにはまったらどうなるか。素晴らしい事ではあるが、大変なことが起きている。それを天国のタッズとの約束だと、ひたすら突き進んでいる。今回の東北での大震災では、もう1カ月も仮眠生活を続けながら、奮闘している。出来るかぎりの支援を続けたい。この本の売り上げも、支援につながるので是非ともハンカチを用意して読んで欲しい。
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暮らし術

2011-03-28 04:13:27 | 
農家に教わる「暮らし術」――買わない 捨てない 自分で作る――農文協から出た最新の本である。これはまるで自給自足のバイブルのような本だ。暮らしのだいたいの所が網羅されている。これで自給生活が出来る。とまでは言え無いが、楽しくなること請け合いである。実は私の鶏の飼い方が、取り上げられている。だからという訳ではないが、とてもいい本である。生ごみ堆肥から(3種類もある)土間の作り方まで、農の会の教則本のようなものである。これから農の会に来た人には、必ず読んでもらうようにしよう。暮らしを知っていた農家も、急速に消えていっている。50年前は当たり前に農家のおじさんたちが協力して、土間を作っていた。釜戸も作っていた。屋根も葺いていた。ほとんどの道具は自給していた。ある時様々な貴重な技術が一気に消えていった。気がついた時にはほとんどの暮らしの技術が消えていた。

鶏の飼い方について言えば、農家の鶏の飼い方は前近代的なものとして、駄目なものに位置付けられた。世界で最も優れた飼育法だったにもかかわらず。あっさりと日本鶏の飼い方が、消え去った。犬のえさがドックフードに成ったように、鶏の餌は配合飼料に変わっていった。変わるのはまだしも、以前の餌の作り方は、どんどん消えていった。お風呂の作り方がある。ドラム缶風呂も、本格的な五右衛門風呂もある。こういう工夫自体が暮らしの面白さだと思う。使う必要性もあるのだが、作ること自体が楽しくなる。食べ物を作ることと同じだ。お米を作るのは、労働ではあるが、楽しみでもある。何故楽しいかと言えば、人に管理された、監視された労働者の労働ではないからだ。自分の暮らしに必要であるから働く、この労働は時間当たりいくらで労働を売る訳ではない。この違いが大切なところである。暮らしとはそもそもそういうもので、狩猟民が狩猟をすることは暮らしの一要素であり、基本的労働ともいえるが、それは楽しみそのものでもある。

この本に出て来る暮らし術は、その術の全貌から言えば、ほんの一部である。「竹で作るハウス。」何とも面白い発想である。竹の暮らしでの利用は本当に失われてしまった。竹ほど使い道のある材料はない、竹を使った暮らし術という本があっても良い位だ。そうやって日本人は暮らして来た事が分かる。伝統工芸と言われるものの中でも、竹を材料にしたものがかなりある。茶道の道具など極限と言える竹利用だ。今や竹は迷惑な植物の筆頭に成っている。つい50年前までは屋敷周りの一角に竹藪というのは、当たり前の配置であった。そう地震の時は逃げ込むことに成っていた。あの素晴らしい繁殖力が、仇に成って目の敵である。現代農業でもどうやって竹を退治するかの暮らし術が取り上げられている。

ここにある暮らし術は現代農業の記者が歩き回って集めたものがもとだ。農文協は入社すると、どの社員もまず農家回りをするらしい。これで退社する人も結構いると聞いている。農家のおやじやかあーちゃんと気心知れないで、農文協はないという不思議な出版社らしい。多分農家を回っていれば、それまでのバーチャルの世界が、一変するはずである。農家がすでに見えなくなリ始めている。舟原という農村のはずの場所に暮らしていて、いわゆる農家だなというような家は、無くなってしまった。農家は工夫する。工夫を楽しんで暮らして来た。こうやった方が良いよ、というちょっとしたことに満ちている。そのちょっとしたものを見つける目が無くなって行く。この本は楽しい。読みながらぜひその工夫の山に分け入ってもらいたい。そしていつの日か、農家になれるかもしれない夢を見てほしい。
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仏教経済学

2010-11-03 04:11:21 | 
本の中に入れたが、仏教経済学を提唱している安原和雄氏のホームページである。以前から時々読ませてもらっている。なるほど自分の考えが、仏教から来ているのかということが、確認できる。何でも都合良く仏教と結びつけてはいる傾向もあるが、おおむね納得がいく。日本人に仏教が全面的に受け入れられたのは、仏教伝来以前の日本人の原始的な信仰が、仏教の考え方と通ずるところがあったところによる。「一切衆生悉有仏性」などという言葉は、そのままに原始日本人が抱いていただろう、自然観である。但し、インドやミャンマーの仏教はだいぶ違うようだから、仏教を日本人らしく、上手く取り入れたということでもある。仏教経済学の考え方でなければ、地球は生き延びることが出来ないと安原氏は書いているが、そうまでも思わない。それは、現実社会の仏教が、利他主義を強調する仏教の教義の中で、利己主義が蔓延したかの方に興味がある。

坊主丸儲けなどという言葉があるように、大多数の坊さんはいかに儲けるかに専念している。この点では、商売人以上に熱心である。戒名は院号がつけば、100万円いただきます。どういう情けのないことが宗教であろうか。死者というものを人質に、金儲けに専念しているのが、大半の寺院である。儒教が中国で生まれたように、宗教は逆説的な側面がある。賄賂や悪徳が蔓延しやすい社会であるがゆえに、孔子は儒教の教えを導き出した。仏教が本当のその教えを失ったのは、檀家制度と葬式仏教にある。江戸時代の最大の失敗である。鎖国の中で、宗教をコントロールする難しさがある。氏神様とお寺さんの共存。多分この神仏混合の経過で、思想としての仏教は変貌した。本来の仏教ということになれば、むしろ、ブータンやネパールに学んだ方がいいのではないか。実は仏教の悪いところから、書いてみたのは普通はお寺や仏教の経済となれば、そういうものと見ていると思うからだ。

ブータンの幸福社会論は、まさに仏教から来ている。東郷氏の連載に詳しい。世界が学ぶべき知恵が溢れている。そこに暮らす大多数が幸せと感じている、経済後進国、国民総生産的には貧困な国。豊かで不幸な国、日本では管内閣によって「最小不幸社会」という意味不明の標語が掲げられている。管氏には幸福ということの本当の意味が分からないのだろう。現代経済学では、表面を飾り立てた「虚飾」でしかないような貪欲、浪費、無駄を追求させる。それが資本主義経済の拡大再生産の本質である。物を排除することで本質に近付いてゆく暮らし。寒いから暖房ではなく、寒いならそれを味わう喜び。一枚多く着ることでしのぐ暮らし。小田原の冬なら、やればできるのである。もちろん暖房があればその時は快適である。しかし、寒くても、暑くても、自然に即して、きりっとしてしのいで暮らす喜びもある。

安原和雄氏が構想する仏教経済学の八つのキーワード ―「 いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性」となっている。私なりに解釈すれば、仏教経済学の原点は自給自足ということになる。そしてそのように暮らしを変えてきた。道元の時代の仏教は葬式とは関係が無い。自給自足を基本としている。布施は業である。いただいている命の意味を知るためである。仏教が我関せずで、自分のへそを眺めている間に、社会の方が崩壊している。僧侶である自覚はしている。しかし自己探求、自立本願どころでないというのが、あさましい衆生の焦る気持ちである。自分の悟りなどどうでもいいから、崩壊して行く日本をどうにか食い止めたい。その考えた時、安原氏の考え方は、とても参考になる。
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玉子と土といのちと

2010-08-24 04:09:02 | 
「玉子と土といのちと」著者:菅野芳秀氏(創森社1500円)日曜日の夜、小野田さんの呼びかけで、菅野さんの出版記念の集まりが、四季亭であった。山形の長井市から来ていただいたというので、迷惑をかけていなければいいのだがとちょっと心配でもあった。アジア農民交流センターのの関係の集まりを兼ねてということもあったのかと思う。タマネギ畑で涙して―タイ農村ふれあい紀行― 山下惣一氏の出版を機会にできた集まりらしい。らしいという範囲なのは、この会には入っている訳ではないので、あまり詳しくは知らない。以前、山下氏もこのあつまりで小田原まで来てくれた。その機会に、あしがら農の会の若い人も、一緒に交流することが出来た。とても感性の鋭い方で、すぐに農の会の方向性を理解してくれた。分かりにくい農の会をすぐ理解してくれるということは、どこかこのアジア交流センターという組織は、志が通じているようだ。

山下さんは百姓の親父らしい、辛辣なところがあり常に本音である。その点菅野さんはエンターテイナーである。あまり百姓風な人ではない。話はとても面白いし、配慮も生き届いた方だ。長井市でレインボープランを立ち上げた方なのだから、当然、人間の幅も広く柔軟な方のはずだ。誰にもわかりやすい配慮をしてくれる。早速この本を読ませていただいた。いたるところ養鶏農家の暮らし、毎日のだいご味のようなものが詰まっている。農家の面白さがとてもいい。文章も実に分かりやすい。良く良くわかったことを書いているから分かりやすい。菅野さんを知ったのは、現代農業に養鶏法を連載されたとき、質問をした。菅野さんが養鶏に入ったのは、現代農業で中島さんの自然卵養鶏を読んだためらしい。現代農業の橋渡し。菅野さんらしく、新しく始める人への同情心や思いやりがとてもある。養鶏をやる人の、心構えというか覚悟のようなもので、びしっと通っていると感じた。

家に帰ると、自治会長と副自治会長が、私の養鶏場が臭うから、注意してほしいということで見えたという。本当にびっくりした。お二人とも、直接にくさい臭いをかいだ訳ではないらしいかった。そういうことが、あったという苦情が自治会に行ったらしい。私の養鶏場が臭いがするなどちょっと信じられない話だが、臭いというのは、感じる人には感じられることで、個人差は大きい。私が慣れてしまっているということもある。なかったこととはとても言えない。感じる人には、つらいことである。しかし、今の状態の臭いで、困ると言われるなら、もう鶏を飼うことはやれないということだけは間違いがない。それはそれで仕方のないことなのかもしれない。いまのところ原因はわからないのだが、たい肥を畑に蒔いた時の臭いだったのではないか。と想像している。たい肥も作れない、使えないという状態が近付いているのかもしれない。農業の継続はなかなか困難になってきている。

本の中の菅野さんがうらやましいと感じた。大きな農家の方である。昔からの地域の農家の方で、息子さんも後を継いで、いまや中心となって農家をやられているらしい。これなら、鶏も、菅野さんも空を飛ぶことだろう。朝日連峰の麓で悠然と1000羽の鶏と3町歩の田んぼを続けられている姿。当たり前のようなことが、実は奇跡的なことになろうとしている。日本人がどのようにして暮らしてゆくのが、幸せなことなのか、この本には山ほど詰まっている。鶏の幸せと、菅野さんの幸せが一つになっている。その幸せな姿こそ当たり前だった日本人の暮らしにつながっている。循環して行く暮らし。平和に暮らす生き方。読んでほっとした。落ち込んだ気持ちが、支えられる気がした。
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多文明共存時代の農業

2010-06-17 03:06:21 | 
「多文明共存時代の農業」高谷好一著(農文協)地質学を学んだ人による、世界の農業史である。京都大学の東南アジアセンターの名誉教授。新しい農業の歴史が、特にアジアの視点から、わかりやすく書かれている。アジア各地の現地調査を深く行なっている。そこに滋賀県で育った日本人の視点がある。高校時代学んだ、ヨーロッパは狩猟民族、アジアは農耕民族というような大雑把な意味のない民族の位置づけから、具体的な農業史の実像に転換がはかられている。誠にスッキリする本である。高校の頃、何故、ヨーロパを狩猟民族などというのか。歴史の先生に質問して以来の喉のつかえが取れたような思いである。1、麦羊農業2、ミレット農業3、根菜農業4、新大陸農業の4つに農業の起源を分析する。そして、販売のための農業と、自給のための農業を対立する概念としてとらえる。結論として、農業は地域の生態系に適応した、伝統農業を見直してゆかなければならないとする。

高谷氏はこの本の原稿を農文協に出版して欲しいと持ち込んだらしい。素晴しい企画が生れたと思う。著者の思いは「農業というのは本来、そこの生態環境に適応して行われるべきものです。しかも、なるだけ小さい範囲で自給自足的に進められるべきものです。しかし、現在では輸出用作物の大規模な単作の拡散などで、それが大きく歪められています。これは地球の生態と人間社会を破壊させる危険があるものです。本来のあるべき農業がいかに安全なものであるのか、それに対して、儲け一本槍の単作がいかに危険なものであるかを、世界的な視野をも含めて論じます。」このメッセージに込められている。また、稲作というものにも三つの種類があり、日本型の灌漑、田植え方の特徴と意味が分析されている。学問という物は問題意識があってこそ深まると言う事が分かる。

世界の農業が、そして人類がどうすれば次の世界で生き残れるのかを、実際の暮らし方から問題にしている人のようだ。もやいとという活動があり、高谷氏の発想が良く理解できる。プランテーション農業がいかに世界を破壊しつくしたか。人間の暮らしを崩壊して行ったか。環境に適応する農業というものが、多様で個別的で、そして共同してゆく形のそれぞれのあり方。個別性の重視。多様な変化にこそ、環境に対応した文明が存在できる。欧米型の経済優先の単一的価値観が、世界を行き詰まらせている。どのようにすれば、地域が循環して行く、環境適応型の農業文明に戻る事が出来るか。僅かに残っている、世界の農業文明をどのように再生させてゆけるか。大きなヒントが詰まっている本である。

今全国で生れている、新しい農業を模索する人の必読書である。地域に僅かに残る慣習の中に、貴重なヒントがある。地域に対する思いの中に、日本人がはぐくんで来た暮らしのあり方がある。その地域にある何かを、どのように考えればいいのかを、整理してくれる本である。すでにすべてが失われたような、農業の状況である。しかし、日本が再生するためには、小さな個人の農業を整えてゆく意味の確認が、不可欠である。方角が正しければ、もやいによって必ず船団として結ばれ、次第に整うはずである。今、起こっている姿は、あまりに小さく個別的であるため、一見すると何が起きてきているのかは、見えないかもしれない。小さく完結することの重要性が、文明としての意味が見えてくるはずである。そうしたとき初めて、個別のまま、舫う意味が理解されるだろう。
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武士の家計簿

2010-05-31 05:00:06 | 
「武士の家計簿」磯田道史著(新潮新書)実に納得の行く本である。幸運にも入手した、克明な加賀藩の御算用者の家計簿を読み解く本である。資料に基づく江戸時代の実像が活写されている。いたる所あいずちを打ちながらの通読である。さっぱりした。江戸時代の事は誤解が浸透している。封建社会、男尊女卑、農民一揆、士農工商、そうした先入観を浸透したのは、明治政府の歴史教育である。私がそうしたことに気付いたのは、自給自足を行なってみての事である。私のような人間に、自給自足が一日1時間で可能である。どうも江戸時代の農民像が狂い始めた。それは子供の頃からの趣味があった。ランチュウとか、チャボとか江戸文化に触れてきて、江戸時代という物のイメージに、焦点があって行かないというぐあいだった。何故、ランチュウの改良に生涯を費やせたのか。碁石チャボの作出に熱中できたのか。よほどの暇人である。

磯田氏の神田の古本屋での段ボール一杯の古文書との出会いの幸運。他人事ながら読んで安堵してしまった。これが残されていたからこそ、江戸時代の加賀藩の下級武士の生活が見えてくる。下級武士といえば、会計係は卑しい仕事とされていた。御殿医という医師の職も卑しい仕事で、役名は大小姓というと我が家では伝わっていた。武家社会というのは武士道と言うか、武力が最も大切な身分制度で、金勘定を武士にはさせない感覚があった。上級武士の教育には、会計学はない。二宮尊徳もそうである。農民でありながら、財政再建に乗り出す。これは尊徳が特殊なのでなく、江戸時代では普通の事であったという。これは面白い見方だ。金勘定のような下賎な事に、武士が関わって精神が汚れる。鳩山家のような育ちである。しかし、これが災いすると言うか、武士の生活は常に借金生活であった。仕方ないから、頼母子講のような、無尽のようなもので、凌いでゆく。ここでも尊徳が現れる。

武士が農民からお金を借りる姿、これを体裁を整え、保証を確実にする制度。この工夫は商人や、尊徳の世界。この精神が新しい時代を作ってゆく。そしてそれが、海軍に繋がるという。海軍で重要な事は、計算だそうだ。数学。そもそも江戸時代の加賀藩の数学のレベルは世界レベルである。その世界レベルの数学を背景とした、御算用者の家計簿が残っていたのだ。ここには武士の家制度の本質まで覆してみせる、驚きがある。女性像の見直し。女性に与えられるお金の数々から、意外な尊重が見られる。また、実家との終生切れない、深いつながり。そう離縁。離婚も三行半ではない。現代以上の離婚社会。困窮する武家の生活実態。それでも体面だけは維持しなければならない武家社会。年貢を上げる領地との関係、封建制度とは違う領地の実態も浮かび上がる。

その家計簿やら手紙は明治維新を経過してゆく。明治政府の実像。明治に入っても政府は武士の禄だけは出していた。徐々に引く波のような形で、給与がなくなる。それでも何の障害もなく、給与の廃止が行なわれる。そして武家の商法。仕官。現代の日本人と少しも変らない、維新への他人事のような対応。江戸時代を見直す重要性。明治政府の作り上げた、貧困社会の先入観。これを作り上げたのは、江戸の封建社会を否定しなければならなかった、共産主義思想。上からも下からも実像を離れて言った江戸時代。今こそ、実像に迫る重要性が起きている。世界希な循環型社会を江戸時代は実現していた。稲作こそその思想を育んだ物である。土地を基盤に循環する社会。新しい循環を模索する現代こそ、ますます江戸時代の再検討が重要だと思う。

昨日の自給作業:お茶の台刈り6時間 累計時間:36時間
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日経電子版

2010-03-28 04:59:00 | 
日経新聞は有料化した。4月30日まではは無料お試し期間と言う事なので登録してみた。紙印刷と言う新聞は遠からず衰退する。ネットの方が早いし、簡便である。日経新聞社の挑戦と言う事だろう。テレビが普及してゆく過程で、新聞と言う報道機関の役割は変った。父は新聞を全て読むと言うような人だった。大手新聞はもちろん赤旗まで、取っていた。右翼的だった兄は弁当が赤旗で包んであったと言うので、学校で広げられなかったと怒っていた、記憶がある。テレビはが報道としての役割を果し始めたのは、NHKである。民放は後追いで、新聞社とタイアップを始めて、娯楽から報道までと、徐々に体制を整えた。NHKが国民から強制的にお金を集めて、報道を行う。NHKは大本営的な世論形成を行う事になり、民放が対抗しなければバランスが取れない状況が生まれた。注意深く運営されてきたとは思うが、例えば、一般ごみを家庭ごみにしたのは、NHKの責任である。

報道が偏向しているのは当然で、全ての情報はその報道の思想、哲学が選択している。それを偏向が無いという前提で、情報発信すること事は不可能な事である。その点赤旗とか、日経新聞は正面からその思想を明確にしている点で、正しい報道姿勢である。また、赤旗とNHKは違うが、日本の報道は基本的に広告収入で成り立っている。広告主がどこかに存在している、その前提で読む事になる。ネットも同様である。同様であるが、ネットの広告効果という物は、新しい要素があるだろうから、模索中と言う事だろう。そこで日経が有料化したことが、どういう結果になるのか、とても興味深い。紙面を注意深く見ているが、特別に有料でも見たいほどの記事は今の所見つからない。無料の所があるからだろう。浅田真央さんが金メダル。ネット各紙それほど写真も内容は変らない。有料に相応しい、奥行きのある記事が書かれているという訳ではない。

では、得意分野の経済展望の記事のはどうか。「マネー」と言う露骨なタイトルの分野があって、確か、そういう名前の雑誌を出していて、すごいものだと思ったことがあった。きっと金儲けのヒントが掲載されているのだろう。そういう意味では、この分野では有料読者は獲得できるのではないか。と思って内容を見てみようとしたが、そちらのページは有料登録しなければ入れないように成っている。金儲けがテーマだから、さすがただ見はさせない。宅配とセット価格と言うのがある。紙面印刷も読むのは、経過措置。どうもただ見は誘導手法らしい事がわかる。検索機能もあるので、一応試みてみたが、情報がないという事ばかりで、まだ利用価値はない。ネットの特徴はあらゆる情報が並立して、表れてくる。選択しているのは、見る側である。大手新聞社の名前で一応はアクセス者数は、頭抜けているだろうが、世論形成の役割は大きくはない。

ネット情報が、社会形成の大きな役割を担っている。有料でなければ、運営できない報道機関は、既にそのことで限界がある。個人や小さな組織でも、ネット通信を有料で発信しようと言う試みは多い。しかし、無数に存在する、無料の情報の中で成立する可能性はないだろう。あると考えているのが、金儲けのマネー欄だから、はっきりと結果は出るはずだ。しかし、その他の大手新聞社はどうするのだろう。神奈川新聞では何かシステムを作ったようだが、良く理解できないままで、あまり見ないことになった。今までの体制は変る。近所の火事の事なら、新聞社より詳しい。取材などしないでも、裏情報まで知っている。その積み重ねが、ネットである。自給の醤油作りなら、人に伝えられる。確かに、検索機能がグーグルが操作されていたら、怖いことになる。

昨日の自給作業:もみ洗いなど2時間 累計時間:19時間
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タッズよ、ありがとう

2010-03-05 04:48:37 | 
『タッズよ、ありがとう』玉那覇 葉音著が送られてきた。手に取るや否や、一気に最後まで読んでしまった。涙が流れて止まらなかった。タッズはアメリカン・ピット・ブルテリアのショードッグのチャンピオン犬である。あえて、ショードックとつけなければならないのは、ピットと名前にあるように、アメリカン・ピット・ブルテリアは闘犬用犬種として一般には見られているからである。この不幸な犬種は、最強の犬と呼ばれる不幸を負っている。かつてのブルバイキングに使われていた、ブルドックと同じ運命である。高校生当時、ラブラドルリトリバーとブルドックを飼っていた。それは父も子供の頃ブルドックを飼っていて、その叔父は明治末期に横須賀で大津ブルドックケンネルという、犬舎をやっていたと、何度も聞いていたからである。ブルドックほど魅力がある犬は居ないと、刷り込まれていた。本気で飼ったブルドックはとても病弱だった。夏の花火の音に驚いて死んでしまった。

また、飼いたいと思いながらも飼いきれないだろうと考えて、ラブラドルを飼っていた。2頭のラブが相次いで長生きして死んだ。又ラブを飼おうかとも考えた。この犬も、確かに魅力があって、賢さが群を抜いている。しかし、自分の年齢を考えると、ブルドックを飼えるラストチャンスの年齢が近づいている。悩みに悩んで、ブルドックを探していると、和歌山の人で、ブルドックとブルテリアの交配種をホームページで告知している人がいる。これだと直感した。この交配なら、丈夫であるし、両種の良さを表している可能性がある。今ならまだ飼えるのではないか、20年の付き合いを考えると、最後の機会に違いないと確信した。それで我が家に来たのが、ドンチャン騒ぎのドンチャンである。雌一匹で飼うのでは可哀想なので、雄犬を探した。それが京都のグローリタッズ犬舎の雷田である。ピットブルの家庭犬としての魅力を世界に認知させようと決意している人だった。

タッズ犬舎から来た犬を飼う全ての人から、タッズ父として慕われている人である。この本にあるように、タッズという名犬に人生を変えてもらった人である。そして、この不幸な運命を負った犬種を、認知してもらうために生きている人である。タッズファミリーとしての同意書に判を押さなければ、譲れない。京都まで来てもらわなければ譲れない。部屋飼いが出来ない人には譲らない。我が家にも、どんな飼い方をしているか確認に見えた。京都の犬舎に伺うと、初対面の私に対し、タッズは堂々と近づいてきて、その大きな舌で顔をぺろぺろ舐めて親愛の情を示してくれた。博愛主義である。警戒心というものがない。じゃれているのではなく、受け入れてくれている事がわかる。本当の強い心を持った犬種だと言う事がわかった。こんな犬に育てなくてはいけないと、考えた。雷田を連れてかえる私たちを駅まで送ってくれた、タッズ母は別れが辛くて泣き続けていた。

犬を飼うと言う事ではない。犬から学ぶと言う事である。子供の頃から、犬から教えてもらったことばかりである。犬の方が人間よりだいぶ優れている。我慢強い。誠実である。心が大きい。差別はしない。もし犬のような人間が存在すれば、まさに聖者である。その代表のような犬種が、ピットブルである。ラブラドル以上に頭が良い。この犬を一度飼った人は、もう他の犬を飼う事は出来ない。問題は私の体力である。力が私より強い。私をを守ろうと考えたら、雷田は何も怖れないだろう。だから、私にとって最初で最後のピットブルだろう。一つだけ残念な事がある。それはこの犬種はまだ、断耳があることである。それは闘犬の歴史を示している悪習だとおもう。雷田は断耳していないが、とてもカッコイイ。充分の犬相である。
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乳酸菌大活躍

2010-03-01 04:29:29 | 
現代農業の4月号の特集である。オカラの乳酸発酵について記事を書かせてもらった。読んでもらえればと思う。「現代農業」は農村漁村文化協会の出している、月刊誌である。狭い範囲の知識しかないが、日本で最も期待できる出版社だと思っている。農家の知恵を集める。現代農業の編集方針のようだ。反骨の出版社である。もちろん大きな会社だから、怪しげと言えば怪しげな所も無いわけではないのだが。例えば、どぶろく解禁論。前田敏彦さんと言う方が、マスコミを集めてどぶろくを造る。「作る自由を!」と言う論陣を張る農文協。正面から違法行為を支える出版社。この気骨に、惚れ込んでしまった。都会で絵を描きながら、初めて手に取る、農業雑誌。アーサーミラーの「チェリーブロッサム」である。いつかさくらんぼ農園を作りたい。そういう夢を育ませてもらった「現代農業」

農業に憧れた訳ではない。炎天下の桑畑の延々と続く、草取りをやらされた人間である。ただ、子供の頃から、鶏は好きだった。この小さな眠っていた火種が、手に取った現代農業を開くたび、少しずつ火が吹き上がって行く事になった。鶏が又飼える様な暮らしがしたい。自分の鶏を作出する夢が膨らんでいった。現代農業は都会暮らしの救済のようなものだった。宗教書を読んで、救済されると言うような素直な性格ではなかったのだ。技が技術に展開されてゆく所に、救われてゆく感触があった。実は絵を描いていてもそうで、「技・わざ」という物のない絵が描きたかった。マチスへの憧れである。上手くならないすごさ。誰でも出来る分かりやすい一つ一つで、人間精神の根源に到るすごさ。マチスから出発できる幸運。農家に眠っている、無限の技を技術に育てる、コミュニケーションツールとしての現代農業。

渋谷で「ゆうじん画廊」をされていた、和田敏文氏が書かれた「木内克の言葉」も農文協が出していた。人間選書と言ったと思う。和田さんの絵の見方から学んだものが沢山ある。農文協という出版社については、彫刻家の本を出す出版社としての印象の方が先なのだ。農村漁村文化協会と言うぐらいだから当然かもしれない。『近代化は、あらゆる場面で生産効率を高め便利な生活をもたらしましたが、自然と人間の関係を敵対的なものに変えてしまいました。 農文協は、農と食・健康・教育を軸心として「いのちの流れ」を呼びおこし、都市と農村の関係を変え、自然と人間の調和した社会を形成することをめざして、総合的活動を展開する文化団体です。』杉並にあった農文協図書館には、戦前の養鶏の事を調べに通った。そこで、近藤康男先生に指導いただけた幸運。農文協にはお世話になっている。

是非とも、多くの人に現代農業をささえてもらいたい。回しものでも、差し金もないが、この雑誌は日本に必要な出版物だ。環境問題に感心のある人なら、実用知識が満載だと思う。教育関係者であれば、実践教育の事例が様々にある。観念ではなく実際の技術から、環境や教育に繋がっている。もちろん日本の農業の未来を考える上では、必読書である。それは統計や世界情勢のような上からの情報でなく。農家の声の中に、例えば田んぼの除草技術の一つに、未来が潜んでいる。4月号は乳酸菌特集である。「米ヌカから、ヨーグルトを作る。」と言う記事がある。乳酸菌と言うからには、つい牛乳である。実践的に実用している人達の知恵が、乳酸菌を研究する学者に必ず繋がってゆくと思う。それが普遍的な技術となって、循環型の暮らしを支える技術になる。今回10冊の現代農業の4月号が手許にある。希望される方に差し上げます。是否年間購読者になってもらいたい。
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立花隆『農協』

2010-02-05 04:40:23 | 
立花隆氏は1974年田中角栄研究で注目を浴びた。田中角栄研究は独特の視点のジャーナリズムだと思った。当時は雑誌というものが、社会的な世論構成に力があった。その世界の一角に週刊誌的論壇。と言うようなものがあったと言える。まだテレビの世界では、報道はあっても本格的な評論は無いように感じていた。文章の方が、言葉より信頼されていた時代。と言ってもテレビは持っていなかったから、本当の所はわからない。週刊誌ジャーナリズム手法で政治家の批判的研究を行い、ともかく田中金脈問題に便乗するように着目された。あまり良い印象はなかった。秀吉に擬せられる様な、成り上がり田中角栄を、官僚出身のエリート政治家が裏で叩く。と言う図式が嫌だったのだ。その後週刊誌的に注目を浴びそうな所と言う感じで、共産党研究をした。これについてはあまり評価された風でもなかった。日本にいなかったのでこの辺りは抜けても居る。1979年週刊朝日で、「農協」の連載を始める。再度、注目をされる。農業問題にはとても関心があったので当時も、読んだ。

最近は、完全に角が取れて、テレビでニコニコしている姿には少し驚く。ガンになってガンを研究して書いているらしい。農業のこの先を考える上で、農協とのかかわりを考えながら、再度立花氏の「農協」を読んでみた。当時は良く調べていると感じたが、今読んでみると農業の全貌がとらえられていない。調べ方に、ある角度がある。自分の位置は動かさないで調査する手法。簡単に言ってしまえば、全てを色眼鏡で見ている。しかし、その見方は深く、本質的核には突き通っている。この点ではやはり鋭い見方だ。問題は全貌を見ようとしないところ。問題を指摘する手法としては、優れているが、問題を解決する視点はない。長文の研究ではあるが、農業をどのようにすればいいのか、と言うような部分はほとんど無い。

唯一ともいえる展望的指摘は、アメリカのように競争原理を農業に持ち込み、農業人口を3割減らせばいいとしている。全体的には批判にとどめ、用心深く展望を避けている。ここで書かれている優良事例としての農協のその後はどうなったのであろうか。着目点は総合商社的経営をしている農協。日本一の畜産飼料会社である、農協。ブロイラーでは鳥取、東伯農協。どうもそれほどの発展をしたようでもない。それから、30年以上が過ぎて、農業人口は3割減どころか3割になった。何かが解決したかと言えば、問題が深刻化しただけである。農業と言う産業が日本人が日本列島に暮らして行くために、どうあればいいのかという、より大きな視点が不足していた。小泉理論と不思議に似ている。農業の非効率を見て、生産性の向上には何が必要か。と考えると、問題の解決どころか、深刻化に繋がる。

生産性が低い。土地利用が充分でない。農業機械の過剰投資。金融業、保険業、不動産業への傾斜。農薬、化学肥料の販売業。畜産配合飼料の販売。問題は30年少しも変わっていない。農業人口だけは減り続けている。農地の減少も著しい。農協の問題でもあるが、農業そのものの問題であり、責任が農協と言う組織にだけあるとも思えない。この本を再読しながら、農家の戸別補償制度が、単なる受け狙いの選挙対策であるといよいよ思えてきた。農協と言う農業総合商社が何故、挫折したのか農業も産業であり、資本主義社会である以上、競争原理の中で経営されている。。その解決に税金を恒久的に、補助し続ける事はありえない。3年ないし、5年間補助をして、解決できないようなことにお金を使うべきではない。その産業のゆがみを大きくしてゆく事になる。立花隆氏が、立花隆的であるなら、もう一度農業問題を未来に向けて、研究してもらいたいものだ。
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奇跡のりんご

2009-09-28 06:17:01 | 
「すべては宇宙の采配」(東邦出版)奇跡のりんごの木村秋則氏の本を読んだ。農の会一の読書家の高橋さんが貸してくれた。なかなか面白い本で、あっという間に読んでしまった。木村氏ご自身の「奇跡体験」が書かれた本である。龍を見たとか、宇宙人に時々会うとか。言う話である。奇跡のりんごとよく言われている。りんごがりんごとして実る、と言う事実が奇跡なのかと思っていた。超自然の力としての奇跡が、木村さんの畑に作用している。そういう意味での「奇跡のりんご」らしい。神経衰弱に陥り様々な妄想が去来した。と読むほうが普通の事であろう。自殺をしよう岩木山の奥に入ってゆく。そして紐を投げ上げた所、野生化したりんごの木が3本たわわに実っている。何故、こんな所に、りんごの木が。畑ではどうしても実らない、花も咲かないりんごが、何故山のなかでは、病虫害もなく、見事に実っているのか。

なるほど、人為を捨てることが、自然栽培への道と気付くことになる。しかし、再度確認のため、その野生のりんごの所まで行ってみると、りんごの木はなく、クヌギが3本あるだけである。これを宇宙人の采配と読むか、気を病んだ妄想と読むか。10年間の艱難辛苦を経て、全ての人為的操作を捨て去った時、りんごの自然栽培を達成する。と言う事に物語りは終わる。これではりんごの自然栽培の参考書にはならない。福岡さんの本も、川口さんの本も、栽培の参考に成る本ではない。自然界に起きている事を、論理的に解明することが、科学である。農業を科学する姿勢を捨てた時、奇跡のりんごが実る。ちょっと困る農業のカリスマの登場である。どこの誰でも、同じことをやれば同じになる、農業技術の確立。これでは話として面白くないので好まれないのか。

技の蓄積が、伝統農法である。同じ畑で同じものを、何百年も繰り返し作り、これしかないと言うように、一子相伝に伝えられた技。それは生き方暮し方を含めたた伝承的世界。この伝統農の世界は、江戸時代に豊かに充実を向かえていた。鶏の世界を考えても、今も再現できない技術が秘伝として、山のように存在した。一切が変わる明治維新以降の日本農業。西欧の近代農法の導入。特に戦後食糧増産。伝統的鶏飼いの技は過去の遅れたものとして、蔑まれ、捨てられ消えてしまった。経済合理性。配合飼料。合成化学物質の添加。消毒、ワクチン。大規模化。こうした背景によって、ごくごく当たり前の世界が、奇跡の世界として登場する。りんごが自然農法で実ることは、当然の事で誰にでも出来ることでなければならない。フランスのナンシーでは自然栽培のりんごがいくらでもあった。

村八分。木村さんが一番苦しんだ事。違うものを排除する思想。違うものが、宇宙人と交信しているとなれば、深刻なことになる。自然農に挑戦し、挫折する若者は相当数いる。自然農がすばらしいのなら、誰にでも出来るものとする必要がる。福岡農法に憧れる。これは一度は誰でも通る道だ。福岡氏は科学者である。しかし、宗教的色合いを持って、その自然農を主張するカリスマになった。そこで科学性が後退する。農業者を持ち上げる、報道。出版。特異な位置に受け入れたがる社会背景。りんごがりんごとして実る当たり前の事を、出来るだけ、平静な事実として受け入れる必要。村八分に対抗し、耐えるには、宇宙人との交流するしかなかったのかもしれない。そのどこか違う者が、今持ち上げられた違うものになったが。これもまた村社会にとっては好ましいとは限らない。
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「夜水」和田傳

2009-06-27 04:16:05 | 
和田傳の短編に「夜水」昭和27年の作品がある。もう消えて行った、水争いの感覚がここにある。私にとっては田んぼの浅水のことだ。ドンブラコと水を入れることは、罪悪感が伴う。ヒエが生えないように、8センチ以上の水張りを目指す。これが何となく申し訳ないことなのだ。あるいは、代掻きには水がいる。上の田んぼから順番に水を入れるとすれば、下の方のものは、田植え時期を待たなければならない。待っている間に何があるかも知れない。最悪、下まで水は来ないかもしれない。水が足りないと言う事は今はない。水がないのに田んぼをやる。どんな世界になるか子供の頃、夜水廻りについていったことがある。子供が居ればそうひどいことも起こるまい。そんなことではなかったか。和田傳の作品はいつも、のひんやりとする関係を、ことさら暴くようなことをしている。

浅水の普及の背景には、工業用水の需要の増大があったと思う。水を減らす農法の開発と普及は、農業技術の見えにくい方向性となった。これと、夜水の問題と相まっている。夜他所へ行く水を止めてしまうのだ。水路をいじって我田引水のこと。これは深刻なことだった。ここに、様々な力関係が働く。上の田の者は、永久に上の田。動くことが出来ない、閉鎖社会。ここで出来上がって行くエモイワレヌ関係が、今も変わりなく続いている。もちろん続いているのは、気分の上であって、水が余っていても、水をドンブラコと使う罪悪感だけはある。ここに今度は、管理の問題が重なる。水を管理する労力。金銭。田んぼが減少する中、管理の負担は年々増大する。足柄平野では、閉鎖されてしまった水路が半分以上に成ると、記録されていた。舟原の下流になる欠の上の田んぼが、水路がなくなり、田んぼの耕作を止めている所がある。自然水路果しかに環境には重要であるが、コンクリート3面張りは誰が見ても解り安い所が良い。

素人の田んぼが、ドンブラコト水を張るのは、面白くないだろうな。そう言う事を勝手に感じてしまうのだ。本当の所は解らないが、昔、水路の水でもめたことは、舟原でもあったと聞く。なかった地域など、日本全国でないに違いない。この水のことが、日本の地域の相談の方法を生み出したと思う。否が応でも、話し合わざる得ない問題である。そうして、延々とした話し合いと、長い体験をとおして、不思議な慣習が出来上がる。ここであるものは、平等とか、権利とか言う、ものではすまない、人間的であり過ぎるだけに善悪併せ持つような、理屈で割り切れない部分がある。これに耐え切れなくて、田舎はいやだ、都会に出てゆく。こういう若者の何かがあった。

写真は舟原田んぼの入水路である。巾80センチ長さ8メートル。面積にして、2坪は水路に潰した。なんと、もったいないことである。しかし、昨年までは上の田んぼの入水口周辺は何時までも青かった。それを思えば、水温さえ上がれば、元が取れる。岩越さんが工夫して作ってくれた。水はジグザグ、さらに上下、渦を巻き淀みを作り、この狭い水路を進む。狭まった部分には石が置かれ、水が石に当るようにできている。この入水路の効果は、何と、なんと晴天時水温3度の上昇。曇天時1,5度の上昇の成果が出た。すごいことだ。子供だましのような工夫の積み重ねが、田んぼをとても良くする。水温1度上げれば、1俵とれる。こう言われた。今年はいいだろう。そう考えていたら、何故だか、今年は入水温自体が、高い。1度か2度必ず高い。17度か18度である。だから、20度もある日がある。と言って、6月で夏日という日が続いているのだから、今年は特別だ。
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経済危機への提言

2009-01-15 05:38:04 | 
『金融危機を希望に転じる』25の提言と実践、農文協の現代農業増刊号である。農文協の増刊号はタイムリーな企画を、意外なことによく取り組む。定年帰農とか、新規就農とか、田園住居とか、新しい時代を切り開こうという、社会一般から見ればドンキホーテのような企画を次々に、取り組んできた。その意味で、今金融危機一色とも言えるこの機会に便乗しよう(失礼)という辺りがさすがというか。実際的というか。「ローカルな力で、食糧・雇用・家族の安心を自給」こういう副題が付いている。先ず、この中で紹介されている近々にだされる本に、注目。『東アジア四千年の永続農業』――中国・朝鮮・日本――F.Hキング著この本の解説が出ている。「永続農業」はなぜ滅びたか渡辺京二氏が書いている。1909年に日本、中国、朝鮮を訪れ当時の農業に驚嘆し、アメリカの収奪的近代農業に警鐘を鳴らした。アメリカの農務省に勤務した人のようだ。

日本の農地はガーデンと讃えられている。その土地の形状を余す所なく利用し、水を巧みに利用した、永続性のある農業と高く評価される。又、下肥を中心とした、循環型の全てを廃棄しないシステム、人間の暮らしが農業の生産の循環の輪にうまく組み入れられた姿に着目。キングは東アジアの労働者が奴隷的でなく、栄養も良く、幸せそうである、民衆生活の安穏な様相を支えていたものに、永続農業があると注目している。では、辛亥革命や明治維新は一体何であったのか。渡辺氏はこの疑問を投げかけている。市民革命以前の社会を前近代的という、曖昧なくくりで分析を怠ることの危険を主張している。「中国の水上生活者の、特に女性や子供が輝かしい目で、快活そうな顔、」この相貌は国家というものに、管理される以前の民衆の自立した共同社会が示していた相貌ではないか。我々の言う近代国家とはそもそも難であったのか。

ナショナリズムによって点火された近代国家の成立、近代工業文明の創出。これが結局は日本の永続農業を今日の崩壊に導く、基点であったと言う疑問。とすると、人類史は何を弁証してきたのか。こう問題を提起している。私の長年抱いている疑問そのものである。誰しも暮らしというものが便利快適に成ることに異存はない。しかし、ここで言う快適は人間の生命としての本質的な快適であるのかが疑問ではないか。近代工業社会は、欲望というものを創出する。車が欲しい。冷房が欲しい。現状を不足なものであると、幻惑を与えることで、ニーズを産み出す。消費は美徳の名の下に、拡大再生産こそが社会発展の基本構造である。現状維持は旧態依然で悪と言う事になる。このメカニズムの中では、伝統的な完成された永続農業は崩壊せざる得ないであろう。

自給の思想について、立ち戻って考える時、前近代と呼ばれた、古臭いと呼ばれた、農業の中に、その背景となる哲学の中にこそ、次の時代を示す指針があるのではないか。人類が地球で生息するための合理性がどこにあるか。不足を埋めるという考え方から、不足を受け入れる暮らしを再構築する、必要があるのではないか。金融危機に対する具体的な処方箋と言う事になれば、この増刊号に示された。25の実践的提言はいかにも、悪評の定額給付金よりも、頼りない具体性のないものである。資本主義経済の発展という枠組みから見る以上、箸にも棒にもかからない、金融危機とは無縁の提言に見える。根本の経済体制が、グローバリズムというアメリカ主導の世界経済体制の、元ではどれほど可能性のある提言も。ドンキホーテなのだろう。
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