あるきメデス

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ポーランドとバルト3国の旅④ ビリュニスとカウナス観光後 リガへ(その2)

2015-07-31 17:46:27 | バルト3国とポーランド旅行
 2015年7月14日(火) 続き(午後)

 == ビリニュスとカウナスの観光後 ラトビアのリガへ(その2) ==  

 リトアニアの首都ビリニュスの市内で午前の観光と昼食を終えてバスに戻り、12時
33分に出発した。ネリス川の北側から西に延びる高速道路A1号線に入り、西方約
103㎞の都市カウナスを目指す。

 町外れに出ると北方にテレビ塔が望まれる。

 テレビ塔の高さは、東京タワーに近い約326.5mで、165mの位置に展望台とレ
ストランがあるとか。この付近は、1991年の「血の日曜日」事件の際に、最も多くの
犠牲者を出したところだという。


 その先の台地上には、原子力発電所かと思われる独特の建造物が見えた。


 しばらく郊外を走り、ビリニュスに次ぐリトアニア第2の都市、カウナス(Kaunas)の
市街に入る。カウナスの人口は約45万人、ソ連併合以前の22年間、ポーランドに占領
されたビリニュスに変わりリトアニアの臨時首都だったという。


 中心街からは少し外れた東部の住宅街に回り、旧日本領事館だった杉原記念館に14時
過ぎに着いた。建物は、少し大きめの住宅といった感じ。
      

 最初に映写室に入り、杉原千畝(すぎはらちうね)の生涯についての映像を見る。

 杉原千畝は岐阜県八百津町に生まれ、早稲田大学在学中に外務省留学生試験に合格し、
中華民国ハルビンでロシア語を学んだ。ハルビンの日本領事館、フィンランドのヘルシン
キ日本公使館勤務などを経て、1939年(昭和14年)に、ここカウナスの日本領事館
領事代理となり、その直後に第2次世界大戦が始まった。

 翌1940年7月から8月にかけて杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドな
ど欧州各地から逃れてきた、主にユダヤ系難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に
反して日本を通過するための大量のビザ(通過査証)を発給し続け、6,000人にのぼる
といわれる避難民を救済した。

 第2次大戦終結後、杉原一家はソ連軍に拘束され、1947年2月にようやく帰国し、
その年に外務省を退職している。その後は、幾つかの貿易会社に勤めるなどして、モスク
ワなど再び海外生活を送ったことなどが紹介された。

    
 このあと公開されている幾つかの部屋を巡り、当時の写真や執務室の様子などから、第
2次世界大戦中の緊迫した状況における杉原の英断や仕事ぶりを推察した。


   

      

               

 杉原記念館周辺の住宅にはリンゴの木が多く、実が大きくなっていた。



 西方眼下には聖ミカエル教会らしい建物の周辺などが望まれる。


 狭い路地まで入って近くに駐車してくれていたバスに戻り、14時50分に出発する。
この辺りは高級住宅街のようで、近くにはアメリカのプロバスケットボールチームで活躍
したという選手の自宅↓もあった。


 今日の行程はまだ先が長い。「十字架の丘」を経て国境を越えてバルト3国2番目のラ
トビアに入り、首都リガまで約260㎞の道のりである。


 カウナス郊外に出て川を渡り、高速道路A1号線に入って西北に向かう。



 小麦畑や牧草地などの間を進み、16時10分にガソリンスタンドでトイレ休憩に。や
はり売店があり、周辺には麦畑が広がる。16時40分に出発した。



 国道A9号線からA12号線を経て、北部リトアニアの中心都市シャウレイ(Siauliai)
を通過する。下は沿道で見えた風車。


 さらに12㎞ほど北東に進んだところにある「十字架の丘」の駐車場に17時28分に
着いた。

 インフォメーションセンター棟と土産店のある建物の間のゲートをくぐり、広々とした
草地を進むと、小さい丘とその周囲に大小数えきれぬほどの十字架が林立している。



 「十字架の国」とも呼ばれるリトアニアの象徴的な聖地のようだが、墓地ではないので
死体は埋められていないという。


 最初の十字架は1831年のロシアに対する蜂起の後、処刑者や流刑者のために建てら
れたらしい。

 それ以後、十字架の丘は抑圧された民族、宗教の象徴として扱われ、ソ連時代はこの丘
は禁城とされ、KGBと軍は何度も十字架をなぎ倒したり焼き払ったりしたが、人々は夜
陰に紛れて新しい十字架を立て続けたとか。
      
 近年は十字架建立がますます盛んになり、アメリカやオーストラリアなどからも、移民
の人々が運んできた十字架を残しているという。中には日本人らしいものも幾つか見られ
た。       

 


 丘のピークから反対側に見える建物↑は、この丘とは関係ないらしい。その右手には、
こんな建物も見えたが、ほかに周辺に建物は見あたらなかった。



 18時18分に出発して国道A12号線を北北東に進み、18時53分に国境を通過し
てリトアニアからラトビアに入る。

 片側1車線ながら、真っ直ぐ延びる国道A8号線を順調に進む。沿道にはアカマツやカ
ラマツに似た林が続いている。


 幅広いダウガヴァ(Daugava)川の橋を渡ると高いテレビタワーが望まれ、ラトビアの
首都リガ(Riga)の市街地に入る。


 20時3分、旧市街の西端近い「ブラックヘッドの会館」と呼ぶ建物近くでバスを下り
た。

 右側がその建物で、15世紀に建てられたものが1941年にドイツ軍の空襲で破壊さ
れたのを、リガの創設800周年を記念して1999年にほぼ完全に再建されたという。


 その前から旧市街中心部のリーブ広場を抜けて、「猫の家」と呼ぶ屋根上に2つの猫の
上がる建物の横を通過する。
      



 近くにあるレストランに20時11分頃入り、ゆっくりと時間をかけての夕食をした。
21時45分にレストランを出て、ようやくたそがれてきた旧市街を戻る。

 この時間になってもリーブ広場などはまだ多くの人で賑わっている。

 ちなみに、リガは北緯57度以北にあり、日本付近の緯度ではサハリン北端よりさらに
北になる。


 夕日で映えるブラックヘッドの会館まで戻り、21時57分にバスは今日宿泊するホテ
ルに向かう。
    

 そばのアクメン(Akmens)橋を渡ると、北側の斜張橋、ヴァンシュ(Vansu)橋の向
こうにちょうど夕日が沈むところ。

 晴天と良いタイミングに恵まれ、素晴らしい落日を見ることができた。

 橋を渡り間もなくの今日の宿、ベルビュー パーク ホテル リガ(Bellevue Park Hotel
Riga)には、22時過ぎに着き、長かった1日の観光を終えた。 (歩数 10,300)



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コメント (2)
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