あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

歩きたくなるみち 箭弓稲荷神社から岩殿観音

2006-04-20 10:50:41 | ウオーキング
 昨日(19日)は、埼玉県ウオーキング協会主催の平日ウオーク、「美しい日本
の歩きたくなるみち500選」のひとつ、埼玉県東松山市の「箭弓(やきゅう)稲荷
神社から岩殿観音へのみち」(15km)に参加しました。

 東松山市は、毎年11月初めに開催される、日本一のウオーキング大会「日本
スリーデーマーチ」の主会場であり、このコースも、そのときの30kmや20km
コースでおなじみのエリアです。

 出発地の箭弓稲荷神社は、東武東上線東松山駅西口からすぐのところにあり、
創建は和銅5年(712)と伝えられています。

 平安期に平忠常討伐に向かう源頼信が、白狐に乗った神から箭と弓を授かる
夢を見て戦に勝ったので、社殿を寄進したと言われています。

 毎年、春分の日に開催されるウオーキング大会「武蔵野十里」のゴールになった
こともあり、私も何回か行っていますが、今日、改めて社殿を見上げたら、素晴
らしい彫刻が随所に施されていることを知りました。

 境内には、1500株といわれる広いボタン園がありますが、見ごろは来週以降
とか。それでも社殿横のそばのボタンはきれいに咲いていました。

 9時50分にスタートしました。参加者は300人くらいでしょうか。毎月開催され
ている「歩きたくなるみち」シリーズなので、平日ウオークとしては、かなりの人数
です。

 関越自動車道東松山インターチェンジに近いオタメ池のほとりに、「虎御石
(とらごいし)」という大きな板石塔婆(いたいしとうば)がありました。高さ
3.75mで、この地方(比企・入間)最大のもの。応安2年(1369)に建立
されたようです。

 青鳥(おおとり)城跡や、若宮八幡古墳のそばを通過しましたが、説明板など
には気づかず、詳細は分かりません。

 ウグイスの鳴く雑草地の先で、都幾川(ときがわ)にかかる冠水橋「おとうか
橋」を渡り、南側の稜線に向かって急坂を上がります。芽吹き始めたばかりの
クヌギなどの若葉が、淡い彩りを見せていました。

 この辺りは、スリーデーマーチの20kmコースです。

 南に下った田んぼの向うに見える里山も、やわらかな若葉の彩りです。

 門前町の面影の残る岩殿(いわどの)の家並みを進み、仁王門をくぐって
岩殿観音に上がりました。

 岩殿観音正法寺(しょうぼうじ)は、養老2年(718)開山で、坂東三十三観音
霊場第10番札所です。

 広い境内には、本堂(写真)のほか、観音堂、薬師堂、鐘楼などがあり、本堂
の前には、根元が複雑にからみ合った大イチョウが立ち、境内は豊富な緑に
覆われています。

 トンネルをくぐって南側に続く物見山に上がります。ソメイヨシノは咲き終えて
いましたが、たくさんあるツツジが花を見せ始めていました。

 その一角で昼食となり、埼玉県平和資料館のそばの芝生で弁当を食べました。
食後、平和資料館に入り、第2次世界大戦中の生活用具や、戦争に関する資料
などを見学しました。

 一番奥から展望塔にも上がってみました。晴れて見通しの良い日は、関東平野
を囲む山々や、東京の高層ビルなども見えるようですが、この日はかすんでいて、
眼下の淡い彩りの新緑しか見えません。

 車道の途中から、山林の中の細道を児沢(ちごさわ)沿いに下り、スリーデー
マーチでは豚汁サービスが楽しみな千年谷(せんねんだに)公園の奥に上がり、
それに続く松風公園の末端で解散となりました。

 関越自動車道を越え、高田博厚の彫刻の並ぶ「彫刻の散歩道」を進んで、
13時53分に東武東上線高坂駅に着きました。

 高田博厚は1900年生まれ、1931年から約30年フランスに住み、ロマン・
ロラン、ルオーなどと親交があり、1987年に死去した彫刻家です。

 新緑や春の花をあちこちで楽しむことができましたが、このシリーズの歩きに
参加していつも思うのは、このような大勢のウオーキングでは、「歩きたくなる
みち」の見どころをゆっくり見ることができません。

 少人数か一人で地図を頼りにマイペースで歩いた方が、コースの良さが分かる
ので、それができるよう、早くコース地図を発売してもらいたいですね。
 

 

 

 
 
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カタツムリ歩行 和光市

2006-04-18 19:55:01 | カタツムリ歩行
 4月16日(日)は、1日雨の予報でしたが、朝起きたら曇り空でした。
これ幸いと、短い距離をあちこちに興味を持って歩く、「カタツムリ歩行」の例会
に参加しました。

 集合は、東武東上線和光市(わこうし)駅です。和光市駅は、東武東上線にも
乗り入れている東京メトロ有楽町線の始発駅でもあります。

 和光市は、埼玉県の東南部にあり、南に東京都板橋区と接しています。

 駅の南口広場に、この地ゆかりの童謡詩人・清水かつらの歌碑がありました。
清水かつらは、大正12年(1923)、関東大震災で被災し、母の実家の新倉
(にいくら)村(現、和光市)に身を寄せ、以後、昭和26年(1951)死去するまで
この地に住みました。かつらの名を知らなくても、この歌碑の童謡はご存じのこと
と思います。

 東京外環自動車道を越えて、下新倉の住宅地を回ります。近年、畑だった
ところが住宅地に開発されたようで、もらった地図と現状が大幅に変わって
おり、現地確認に手間取るところもありました。

 でも、古い民家の裏手の斜面には、シャガやムラサキケマンなどが咲いて
います。アシタバも大きな葉を広げていました。別の民家の屋敷林では、
ウワミズザクラが白い花を開き始めていました。

 交通量の多い笹目通りを陸橋で越え、白子小学校裏を経て東武東上線の南
側へ。滝坂を下って川越街道白子宿に近い白子コミュニティセンターに行き
ました。ここは以前来たことがあり、清水かつらと児童文学者・大石真の展示
があったので再訪しました。ところが日曜の今日は休館で入れません。

 隣接する熊野神社は、台地を背にした緑豊かな境内です。まもなく見ごろと
なるであろうツツジの築山もあり、大きなイチョウも立っていて、周辺の住宅
地とは違って、昔ながらのたたずまいを残していました。

 近くの白子川にかかる白子橋の欄干には、清水かつらの童謡「くつが鳴る」の
歌詞が埋め込まれています。

 再び東上線の北側に戻って線路際を進むと、熊野神社同様、緑の多い神護寺
があります。入口にある門柱のようなものの上に、少しエキゾチックな飾りが
ありました。写真を撮りましたが、少しアンダーだったので紹介だけにします。

 住宅地を北に進み、笹目通りを越えてゴールの下新倉の氷川神社に12時15
分に着きました。境内林はあまりありませんが、社殿はなかなかりっぱです。

 昼食後、山浦敬子さんのオカリナ演奏にあわせ、みんなで、清水かつらの
童謡、「みどりのそよ風」「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」を歌って童心に
帰り、解散となりました。

 天気が回復して青空が広がってきました。和光市駅への帰路、神社近くの
民家の庭先では、しだれ桜が満開の花を見せていました。



 

 
 

 


 


 

 

 

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長岡天満宮から長岡宮跡(続き)

2006-04-17 19:22:12 | 京都を歩く
 光明寺近くで遅い昼食を終え、田んぼと新興住宅地の間の間道を東に進み、
乙訓寺(おとくにでら)に行く。

 乙訓寺は真言宗豊山派長谷寺の末寺で、推古天皇の勅願で聖徳太子が創建
したとされる乙訓地方最古の寺。延暦4年(785)、桓武天皇が長岡京造営の際
に、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座した皇太子の相良親王をここに幽閉
し、また、唐から帰朝した空海が、弘仁2年(811)に別当となり、ここを最澄が
訪れ、密教について語り合ったとされるという。

 境内のいたるところに、約2千株という牡丹がある。4月下旬の花どきには、
たくさんの人が訪れると、桜を見に来た近所の奥様が話してくれた。

 ソメイヨシノも境内あちこちにあり、やはり見ごろの花を見せていた。

 また、樹高9m、根元周囲3.55m、推定樹齢400~500年、京都府内
でも屈指というモチノキがある。昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れた
ようで、それ以前はもっと幹高があって、さらに見事だったろうと思われた。

 寺を出た頃、一時的に風が強まったが、長くは続かなかった。しかし、雨は
やみそうにない。今里の田んぼには、タケノコと並んでこの地の特産、ナノハナ
があちこちに花を見せていた。

 今里橋を渡って向日(むこう)市に入り、ちょっとした台地上にある向日神社
に東側の参道から入る。ゆるやかに上がる参道は、ソメイヨシノのトンネルと
なっていた。

 向日神社は、養老2年(718)の創建で、延喜式神明帳(えんぎしきしんめい
ちょう)に記載された式内社である。祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬が特に
篤(あつ)かったという。

 現在の本殿は、応永25年(1418)から4年の歳月をかけて建造された、
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という様式で、創建年代の残る室町
時代の代表的な神社建築として、国重文となっている。

 参道の途中に、国家に詠(よ)まれている「さざれ石」があった。岐阜県揖斐
郡(いびぐん)春日村(現、揖斐川町)の山中にあったものだという。

 長岡京市の中心街を南北に抜ける通の東に出て、国史跡・長岡宮(ながおか
きゅう)跡に行く。

 長岡宮は、延暦3年(784)から13年までの10年間、日本の首都だった
ところ。現在の国会議事堂に相当する大極殿(だいごくでん)跡や、正面入口
にあたる閤門(こうもん)跡の辺りを大極殿公園として向日市で整備中だった。

 南に進めば西向日駅、15時27分に着いた。

 これで今日の予定のコースは終わったが、まだ時間がある。この旅の最後に
東山山麓・円山公園のしだれ桜を見てから帰ることにした。

 阪急電車で終点の河原町駅まで行く。鴨川の四条大橋を渡り、八坂神社の横
を回って丸山公園へ。京都有数の桜の名所として知られているだけあり、雨にも
かかわらず観光客が多い。

 しだれ桜は見頃であったが、樹勢の弱った枝を剪定したのか、枝張りに勢い
がなく、雨の夕方ということもあり、期待したほどの花ではなかった。3日間、
あちこちで花をいっぱい見てきたからかもしれない。

 宿に戻って預けた荷を受取り、京都駅18時発ひかり382号で帰途につく。
花見どきとあり、京都駅内の観光案内所には、「本日の宿は満員」と記されて
いたので、新幹線自由席も途中まで立って帰らねばならぬかと思ったが、意外
に空いていて、京都からの乗客は全員座ることができた。(了)




 
 

  
 

 

 

  
 



 

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長岡天満宮から長岡宮跡へ

2006-04-17 12:32:03 | 京都を歩く
06年4月11日(火)続き
 桂離宮の参観を終えて桂駅から阪急電車に乗り、3つ目の長岡天神駅で
降りる。10時54分に駅前をスタートした。

 駅近くに「乙訓(おとくに)地域は、西山の山麓に竹林が広がり、京タケノコと、
かごやざるなど竹製品のの特産地…」との看板があった。

 駅名にもなっている長岡天満宮は、西に500m足らずである。手前に、桂離宮
ゆかりの八条宮智仁親王が開いた、潅漑用の溜池、八条池がある。向うに見え
るのは料亭らしい。
 
 真ん中を横切っている中堤には、りっぱなキリシマツツジ両側に植えられて
いて、4月下旬という花どきは見事だろうと思われた。

 見返り天神ともいわれる長岡天満宮は、菅原道真公が昌泰4年(901)に
左遷され太宰府に向かう途中、かつて在原業平らと詩歌管弦を楽しんだこの地
に立ち寄り、名残を惜しんだという。

 境内は、ピンクのしだれ桜やソメイヨシノなどが見ごろで、モミジも淡い新緑
の若葉を広げていた。


 西北に進んで市民体育館の北側山すそにある長法寺(ちょうほうじ))へ。
延喜年間(901~923)に創建された天台宗延暦寺の末寺。平安時代の
仏画の傑作、国宝・絹本釈迦金棺出現図の模本があるというが、拝観はでき
ないとのことだった。

 さらに北に進み、西山(せいざん)浄土宗総本山・光明寺(こうみょうじ)に
着く。まず門前にある境内を描いた全景図を見て、予想外の境内の広さに驚く。

 光明寺は、建久9年(1198)、法然上人の弟子、熊谷直実が草庵を開いた
のがはじまり。法然上人が念仏の法門を最初に説いた地だという。

 総門をくぐってゆるやかな石段を上がると、大きな本堂(御影堂)など幾つ
もの大きな建物が並んでいる。

 本堂は、宝暦3年(1753)の建立。境内はやはりソメイヨシノがあちこち
で満開の花を競っていた。

 本堂の近くには、高さ15m、根元周囲4.6m、樹齢4~500年といわれる
ビャクシンの巨樹が立っていた。

 寺の門前には、竹製品を販売する旧家が残っていた。

 13時半近く、近くにあった「もみじの里」という手打ちうどん店に入り、遅い
昼食をする。                             
                              (さらに続く)

 


 

 

 
 

 

 
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桂離宮の参観

2006-04-16 19:35:47 | 京都を歩く
 京都の3日目は、新年早々に申し込んでおいた桂離宮の参観です。この日も
1日となりました。

06年4月11日(火)
 大宮駅からの阪急電車を桂駅で降りる。桂離宮までは住宅地をおよそ15分ほど。
9時からの参観の参加者は30人ほどだった。

 宮内庁の係員の案内で1時間ほどかけて園内を一周する。距離は約1㎞とのこと。

 桂離宮は、後陽成(ごようぜい)天皇の弟、八条宮の初代智仁(としひと)親王に
より、宮家の別荘として元和元年(1615)頃に山荘の造営を始め、2代智親(とし
ただ)親王が妻の実家・加賀前田藩の財政的支援を得て、寛文2年(1662)頃
までにほぼ今日の姿に整えられた。

 明治14年(1881)、11代で宮家が途絶え、2年後に宮内省の所管となり桂離宮
と称されることになった。創建以来火災にあうことがなかったので、ほとんど完全に
創建当時の姿を今日に伝えているという。総面積は約6万9千㎡とのこと。

 中央に複雑に入り組んだ池があり、5つの中島に土橋、板橋、石橋を配し、書院
や茶室、灯籠や手水鉢を要所に配した回遊式庭園と、数寄屋風の純日本風建築物
で構成されている。

 以下は、それら庭園の主要部のみで許可された、写真の説明を主とする。


 池の中央部東側にある松琴亭(しょうきんてい)から雨に濡れる池

 松琴亭から見る対岸の古書院(こしょいん)。古書院は中書院、楽器の間、新
御殿と雁行状に連なっている中で、一番広い。

 松琴亭からの池

 池の南西端にある笑意軒(しょういけん)の扁額

 池の南側、中の島にある園林堂(えんりんどう)と土橋。園林堂は、本瓦葺き
宝形造(ほうぎょうづくり)の持仏堂。

 笑意軒、池のほとりに船着き場がある。

 西側の古書院から見る松琴亭。松琴亭は、離宮でただ一つの草庵茶室。

 古書院のそばにある月波亭の天井

 期待していた桜はほとんどなかったが、松やツツジ、モミジなどの樹木や石
灯籠、入り組んだ池と中島、それらを結ぶ橋、多少歩きにくいが趣ある石だたみ
など、雨に濡れてしっとりした日本庭園の美をいっぱい鑑賞した。


 このあと桂駅に戻り、阪急電車で3つ先の長岡天神駅に向かう。(続く)




 

 

  

 

 

 
 

 
 
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京都・大原野の社寺(2)十輪寺、大原野神社、勝持寺

2006-04-15 10:36:05 | 京都を歩く
 善峰寺を出て、バス停終点から200m余り下った左手に、三鈷寺(さんこじ)
への道標があった。それに従い善峰寺同様、杉木立の下を標高差70~80m
くらい上がって三鈷寺に入る。

 三鈷寺は、平安中期の承保元年(1074)、善峰寺の開基と同じく叡山の源算
上人が草庵を建てたのが起こりとか。その後、三代目から譲られた西山上人
証空が念仏の道場として発展させ、多くの寺領荘園を持って栄えたが、応仁の
乱の兵火で興廃したままとなり、近年になって昭和52年(1977)に、西山宗
本山として独立したという。

 寺は東南に伸びる稜線上にあり、京都市街など東から北にかけての展望が
よく、中でも東山に上がる名月の眺めは関西随一といわれるようだが、やはり
冷たい雨にさえぎられて遠望は利かなかった。

 雨を避けて客殿の縁で昼食をさせてもらう。善峰寺には何組ものグループが
来ていたが、われわれのほか、この寺を訪れたのは3組だけだった。

 稜線を下る土道もあるが、雨で滑る危険があるのでバス道を下ることにした。
「よしみねの里」と呼ぶ竹の子や漬け物の販売店を過ぎて小塩の集落に入る。

 次の目的地、十輪寺(じゅうりんじ)は、小塩バス停のそばにあった。
 十輪寺は、嘉祥3年(850)、文徳天皇の御后(おきさき)染殿皇后が、安産
祈願のため創建したという。以後、勅願所として栄えたが、ここも応仁の乱に
より消失し、江戸時代の寛文年間(1661~73)に藤原氏により復興整備され
たとのこと。

 受付のある庫裡(くり)と本堂とを結ぶ二つの回廊を挟んだ、三方普感(さん
ぽうふかん)の庭と呼ぶ小庭園があり、満開のしだれ桜が雨に濡れていた。

 現在の本堂は寛延3年(1750)の再建で、御輿をかたどった鳳輦型(ほう
れんがた)というという屋根が珍しい。内部天井の彫刻も独特の衣装が施され
ているという。

 背後の竹林に上がると、平安時代の歌人、在原業平(ありわらなりひら)が
晩年に隠棲して、塩焼きの風流を楽しんだと伝えられる塩竃(しおがま)跡に、
竈が復元されていた。業平の墓と伝わる小さな宝篋印塔もあり、業平にちなみ、
寺は「なりひら寺」とも呼ばれている。

 雨が一層降りしきり、気温も下がって吐く息が白い。道沿いに咲く満開の桜も
冷たそう。

 寺の東側から竹やぶを上がって下り、最近開校したらしい京都女子学園の
西側を回って石作町を通過する。この辺り一帯の山は竹林が多く、タケノコの
産地である。

 大原野集落の南西にある池のそばに正法寺(しょうぼうじ)があった。鑑真
和上とともに唐から来朝した智威大徳の修禅の地で、元禄年間(1688~
1703)、桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となったという。

 幾つもの桜が咲き競っていたが、先を急いで拝観はせずに通過する。

 少しの林を抜けると大原野神社に出る。
大原野神社の祭神は奈良の春日神社と同じ。当初は、桓武天皇の皇后、藤原
乙牟漏(おとむろ)の意により藤原氏の氏神として長岡京に勧請されたが、嘉祥
3年(850)京都の守護神としてこの地に祭られたとのこと。

 現在の春日造り総檜皮葺の本殿は、慶安年間(1648~52)に、再建された
ものという。

 境内にある「鯉沢の池」は、文徳天皇が奈良の猿沢の池を模して造ったもの
とか。ほかに、清和天皇産湯の清水とも伝えられ、紀貫之や大伴家持など多く
の歌人に歌われた「瀬和井(せがい)の清水」と呼ぶ名水、樹齢450年という
モミの大木などがあった。

 境内から西に、薄暗くなった林を抜けて、花の寺と呼ばれる勝持寺(しょうじじ)
の山門をくぐる。

 勝持寺は、白鳳8年(680)、天武天皇の勅により神変大菩薩役行者が創建
した古寺。応仁の兵火で仁王門を除きすべて消失し、現在の建物はその後の
再建という。

 まず拝観入口から本堂にあたる阿弥陀堂に上がる。隣接する瑠璃光殿は
照明が明るく、重文の本尊・薬師如来像のほか、力強い彫りの重文・金剛力士
像や、日光・月光菩薩像、十二神将像、西行法師蔵、醍醐天皇勅額などを拝観
した。

 境内には約100本の桜がある。花の寺と呼ぶもととなったのが、当寺で出家
した西行法師が植えたという西行桜だが、まだ開花前だった。しかし数の多い
ソメイヨシノやしだれ桜は見ごろである。しかし吐く息が白くなる冷雨で薄暗く
なり、きれいな彩りとはいえないのが残念だった。

 もみじも同じくらいの数があり、11月中旬には紅葉に彩られるという。

 16時24分に寺を出て、大原野神社前を通過、南春日町バス停終点に行く。
16時50分発で東向日駅に戻り、阪急電車で宿泊地の大宮に向かった。

(歩行距離 7㎞、地図(1/2万5千) 京都西南部、歩行地 京都市西京区) 

 

 

 

   

 

   

 





  

 




 
 
 

 

 

 

 

 
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京都・大原野の社寺(1)善峰寺

2006-04-14 22:33:35 | 京都を歩く
 畑のジャガイモが芽を出しました。航空記念公園周辺のケヤキも、やわらかな
新緑の彩りを見せはじめています。

 今日のレポートは、京都の2日目、西山とよばれる辺りの社寺巡りです。


06年4月10日(日)
 朝から冷たい、1日中雨の予報だが、予定通り京都市西京区大原野の社寺
巡りをすることにした。

 大宮駅から阪急電車に乗り、15分ほどの東向日(ひがしむこう)駅で降りる。
9時16分発のバスに乗り、終点の善峰寺(よしみねでら)バス停に9時42分
に着いた。

 いきなり杉木立の間の参道をジグザグの上り坂が続く。標高差50m以上も
上がったろうか。善峰寺の大きな山門をくぐる。

 善峰寺は、長元2年(1029)、源算の開基と伝えられ、西国三十三番第二十
番札所。歴代朝廷の崇敬厚く、白河天皇が諸堂を建立し、後花園天皇が伽藍を
改築したとのこと。その後、応仁の乱で焼亡した僧坊を、徳川5代将軍綱吉の
生母・桂昌院の寄進により復興され、現在に至っているという。

 山門のそばの受付でもらった、リーフレットの参拝順路案内図に従い、3万
坪(10万㎡)あるという境内の、回遊式庭園の間に配された15か所を越える
堂塔などを巡ることにする。距離はおよそ800mほどあるらしい。

 山門を入ってすぐの桃が色鮮やかに咲いていた。

 石段を上がって手水舎で清める。なかなか趣のある手洗鉢だ。

 正面が本堂にあたる観音堂。元禄15年(1692)の再建、本尊は十一面
観世音菩薩である。

 右手の階段を上がると、つりがね堂と護摩堂、多宝塔(国重文)が立ち、多宝
塔の前に遊龍の松と呼ぶ樹齢600年の五葉松がある。以前は54mあったと
いうが現在は39m、それでも長さは日本一の松で、国天然記念物である。

 経堂のそばの大きなしだれ桜が、みごとに花を垂れていた。桂昌院お手植え
のしだれ桜で、樹齢は300年になる。

 開山堂や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、桂昌院廟などを巡り、さらに上がる。

 東南の展望が開けてきたが、雨に煙り遠望は利かない。

 釈迦堂に安置されている石仏釈迦如来は、開山した源算上人作で、明治初年
まで釈迦岳に安置されていたという。

 さらに上がって稲荷神社から奥の院薬師堂に参拝。杉木立の下に並ぶ善峰寺
の住職を務めた宮様の御廟を回り、ようやく下り道となる。

 稲荷神社を経て、寛文13年(1673)建立で徳川家代々の位牌を安置する
阿弥陀堂内を拝観、しだれ桜のそばに下る。

 しだれ桜越しに見えるのは、経堂と多宝塔である。

 最後に観音堂の西にある宝物館に入る。善峰寺特別寺宝展を開催中で、不動
明王、聖観音立像、桂昌院画像、善峰寺曼陀羅図、綱吉筆の書、桂昌院筆の
和歌など、寺宝の数々を拝観した。

 ほかの寺では少ない、高度差のある回遊式庭園には、これから開花するしだれ
桜をはじめ、ツツジ、モミジなど季節に応じてさまざまな彩りが見られそうで、
晴れた日に期待される京都市街などの展望もあり、季節を変えてまた来てみたい。

 もらった案内図には、所要30分~40分と記されていたが、ゆっくり回ったので、
寺を出たのは、3時間近くも経過した12時30分になっていた。(続く)


 なお、善峰寺の詳細を知りたい方は、下記ホームページをご覧下さい。

http://www.yoshiminedera.com/



 

 



 

 

 

  

 

 

 

 



 



 





 
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奈良・聖林寺から安倍文殊院

2006-04-13 19:49:26 | 奈良を歩く
 今日は、年1度の人間ドックで、東京・池袋まで行って来ました。
検査は午前中で終わり、午後の面接では特に異常はないと言われ、安心しました。

 以下、昨日のレポートの後半です。


06年4月9日(日)(続き)
 桜井駅行きバスを聖林寺(しょうりんじ)バス停で下車し、南側にある聖林寺に
行く。

 聖林寺は、8世紀の初め、藤原鎌足の子・定慧(じょうえ)が、父の菩提を弔う
ために開山、のちに兵火に会い、鎌倉時代に再建された。

 寺は北向き斜面の高台にあり、北に三輪山が望まれる。

 本尊の子安延命地蔵尊(下の写真)は、大和最大の石地蔵とか。近在では安産
祈願のお地蔵さんとして知られているという。こんな大きなお地蔵さんは見たこと
がない。

 観音堂に上がり、国宝の十一面観音菩薩を拝観する。760年代に東大寺造仏所
で造られたとする説が有力という。豊かな顔立ちや量感のある上半身など、ミロの
ビーナスとも比較されるというが、確かに仏像彫刻の優作というのがうなずける。

 近くの下集落には、数戸の杉玉が下がった造り酒屋など、古い民家が残っていた。

 メスリ山古墳の下や、幾つかの製材所の横を通過し、国史跡の安倍寺(あべ
でら)跡へ。

 安倍寺は、大化改新時の左大臣、安倍倉梯麻呂(あべくらはしまろ)の建立と
伝えられ、一帯は安倍氏一族の本拠地だったという。

 寺の範囲は約200m四方で、東に金堂、西に塔を配し、北に講堂という法隆
寺式あるいは川原寺式に近かったようだ。写真の基壇は、塔跡らしい。

 東側に、りっぱな民家があった。中西家で、近くに同姓の家もあったので、
この地の旧家かと思われる。

 その通を北に進むと、境内を満開の桜に彩られた安倍文殊院(あべもんじゅ
いん)が見えてきた。

 17時を過ぎていたので入れないかと思ったが、桜並木の参道を進んだら、
まだ参観している人がいたので入る。

 安倍文殊院は、日本三文殊の一つで、先ほど寄った安倍寺の後身といわれる。
安倍氏の氏寺として、安倍仲麻呂や平安時代の陰陽師・安倍晴明ゆかりの地と
しても知られている。

 文殊様だけあり、東京の湯島天神と同様、本堂前に合格祈願の絵馬がたくさん
下がっていた。

 本堂には、国重文で鎌倉初期の巨匠・快慶の作による、わが国最大の文殊像
「文殊菩薩騎獅像」があるというが、時刻も遅いので拝観は省略した。

 境内には、国特別史跡の文殊院西古墳など、3つの古墳もある。

 大きな池には金閣浮御堂があり、池の周辺は満開のソメイヨシノが咲き競って
いた。

 ほかに、広い境内には、葛の葉稲荷、縁結び大神の白山堂、奈良や京都を米軍
の空襲から救ったウオーナー博士の報恩塔、安倍晴明公の晴明堂など、幾つもの
堂塔があった。

 17時40分文殊院を出て桜井駅に向かう。桜井市は木材の町とか、途中、幾つ
もの木材業者が並んでいた。

 18時5分に桜井駅に着き、18時12分発近鉄電車で、京都に向かった。

 なお、この日、関西の歩きのグループ・野楽路(のらくろ)の皆さんも、明日香村
の甘樫丘(あまかしのおか)から高家(たいえ)を経て、聖林寺から安倍文殊院へ
と歩いたとのこと。私たちはその後を追ったことになる。
 
(歩行距離 7㎞、地図(1/2万5千) 畝傍山、桜井、歩行地 奈良県桜井市) 

 

 

 

 

 

 
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奈良・談山神社へ

2006-04-12 22:10:48 | 奈良を歩く
 10日、11日と2日間雨にあいましたが、無事、昨晩京都から帰宅しました。
そこで今日は、9日の奈良県桜井市の談山(たんざん)神社などの報告です。


06年4月9日(日)
 東京駅8時6分発ひかり403号にて京都に向かう。三島駅を通過して間もなく
富士山が近づく。快晴なのだが春霞で、ちょっとぼんやりしている。

 静岡県内の桜は満開、あちこちで花が見え隠れしていた。

 米原を過ぎ、残雪の伊吹山が見えてきた。

 京都駅に10時43分に着き、近鉄電車に乗り換える。車窓から見える、郡山城
まつりのぼんぼりの下がる大和郡山市の郡山城や、ファミリー公園付近は、満開
の桜であふれている。耳成山ろくの桜も満開だった。

 12時28分桜井駅で降りる。バスで寺川に沿って上がり、談山神社バス停に
13時06分に着いた。

 談山神社は、藤原鎌足の長男・定慧(じょうえ)和尚が、唐から帰国後の白鳳
7年(678)、鎌足公の遺骨の一部を改葬し、十三重塔、講堂を建立して妙楽寺
とし、さらに大宝元年(701)に神殿を建て、鎌足公の御神像を安置したのが
はじまりという。

 神社の背後の談所ヶ森は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、中臣鎌足
(のちの藤原鎌足)が、蘇我入鹿を討つ密談をした場所といわれている。

 神社は標高は約500mにあり、ソメイヨシノはまだチラホラし始めたところ。
見ごろは10日くらい後になりそうだ。

 樹齢600年といううすずみ桜もまだ枯れ枝の様相。その辺りから神社境内が
一望できるが、山を背に朱塗りの建物が10数棟並び、予想外の規模にまず驚く。

 境内に入り、比叡神社、総社拝殿、権殿、十三重塔、本殿、楼門、拝殿、東宝庫
などを巡る。そのほかを合わせ国重文の建物は15棟に及んでいる。

 拝殿内部に入り、藤原鎌足公の御神像、絵巻物、けまり、三重六歌仙扁額など
を拝観した。 

 4月第2日曜日のこの日は、神幸祭の日とか。午前中に祭典が行われたようで、
本殿の前には、祭りに使われたみこしや神具が残っていた。

 現存の十三重塔は、享禄5年(1532)の再建で、木造十三重塔としては、国内
唯一(談山神社のパンフレットでは世界唯一)という貴重な建造物である。

 昼食を含め、1時間45分にわたりゆっくりと境内を巡り、神社を出る。

 チラホラし出したソメイヨシノ並木沿いにバス道を下る。道路沿いの木の上で
ウグイスが間近に鳴く。よく見たら木のてっぺんに姿を見せていた。

 多武峰(とおのみね)バス停の先、神社から1㎞ほどのところに、北向不動
とも呼ぶ破(やぶれ)不動尊がある。根元から枝分かれした太いご神木の杉が
立ち、そばに不動滝がきれいな流れを見せていた。

 さらに500mほどの百市(もものいち)バス停まで下ったら、ちょうどバス
が来たので乗り、次の目的地、聖林寺に向かう。(続く)

  

 
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京都、桂離宮、長岡京と向日市

2006-04-11 19:29:40 | 京都を歩く
一日雨でしたが、まず9時から京都の桂離宮を参観しました。

新緑がよい離宮内を1時間回りました。

阪急電車で、長岡天神まで行き、長岡天満宮へ。桜がみごろ。

北に歩き、長法寺に寄り道、さらに進んで、光明寺に行きました。

広い境内の奥にある大本堂に参拝、やはり桜とモミジの新緑が素晴らしい。

東に下り、向日神社へ。長い参道は、見ごろの桜のトンネル。本殿も大きい。

最後に、長岡宮跡を訪ねました。

以上、帰途の新幹線からとりあえずのご報告です。
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