2013年1月9日(水)
「世界の山々をめざして~山から見た自然環境~」と題する、登山家・田部井淳子さん
の講演会が所沢市環境クリーン部環境総務課の主催で開かれたので参加しました。
会場は所沢市役所8階の大会議室。約200人収容の会場は、開会前にいっぱいになり
ました。
会場内は撮影禁止だったので、田部井さん講演模様を撮ることはできませんでした。
講師の田部井淳子さんは、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者として知られ、いまも年
に数回は海外登山に出かけ、現在60カ国の最高峰・最高地点を登場されているとのこと
です。
山岳環境保護団体であるNPO法人日本ヒマラヤン・アドべンチャー・トラスト(略称
HAT-J)の代表や、20~40代女性のための山の会、MJリンクの呼びかけ人など
もされているようです。
講演の前半は山の環境を中心の話で、その要旨は以下のようなものでした。
1975年に35歳で世界最高峰のエベレストに初登頂したが、その頃から親交のあっ
た世界最初のエベレスト登頂者ヒラリー氏から、山の環境保護組織を日本でも作ってとの
要請で、HAT-Jを立ち上げた。
初登頂した当時はあまり環境のことは念頭に無く、残して行くことがその地に行った証
拠になるというシェルパの勧めもあり、8,700m付近に酸素ボンベを置いてきた。
当時は、ネパール政府の政策でヒマラヤに入れるのは1シーズン1チームしか許可され
ず、ベースキャンプ周辺もきれいだったが、1985年からは何チームも入れるようにな
り、ゴミや屎尿(しにょう)処理が問題になっている。
エベレストの環境問題を学ぶため、59歳で九州大学修士課程に入り2年間勉強した。
日本の山もきれいにしようと考え、1990年から毎年、富士山のゴミ処理を始め、
HAT-Jのメンバー1500人が活動している。
1991年頃は、5合目から7合目くらいまででゴミがいっぱいになったが、1995
年頃から理解者が増えて、最近はきれいになってきている。小さな一歩でも実行すること
が大事と思う。
東日本大震災の発生により、地震、津波、原発に風評被害が重なり、福島県民は大変な
ことになっている。自分に何か出来ないかと考え、避難者に聞いたら、「1日中何もする
ことがない(のが辛い)」と言われ、「ではハイキングをしますか」と言うと、「やって
下さい」との声があり実行することにした。
山の用具などは持っていないので、誰でも歩ける場所として裏磐梯の五色沼散策を最初
に実施した。
行きのバスは静かだったが、現地に着くと浜通り(福島県の太平洋側)の人にとっては
初めてのきれいな景色に感激し、「元気が出た」、「気持ちよい」などの声が出て、帰り
のバスではすっかり賑やかになり、震災は過去のことでこれからは前向きに生きようとい
うような声も出た。
高校生にも元気になってもらおうと富士登山を計画にしたら、希望者が60人もあった。
それらの高校生へのアンケートでは、震災により無情感におちいったり、夢も希望も無く
なったので、どうしたら良いかと思い応募したとの声があった。
登山にあたりNPOの人など100人がサポートしてくれることになり、さらに地元の
富士吉田高校の30人も参加することになり、90人を10班に分けて登ることになった。
8合目くらいで高山病になったり、歩けないから泊まりたいと言いだす高校生などがい
たが、大勢のサポーターのお陰で、正面しか見えない盲学校の生徒を含め全員登頂するこ
とが出来た。行きにはしょんぼりしていた人も、帰りには元気になり輝いて見えた。
帰ってからの感想文の中には、震災で亡くなったお父さんの遺品の携帯電話を持参した
高校生が、いままで送ったことの無いお母さんに登頂を伝えるメールをして、お母さんを
感激させたこと、
途中で歩けなくなったが、「1歩1歩続ければ頂上に行ける」という田部井さんの言葉
を思い出し、すぐ前の人に追いつこうと少しずつ進んだら、その人が手を出してくれて、
一緒に頂上に上がることが出来、1歩ずつのわずかな歩みも続けることが大事ということ
を感じ取ったこと、などが記されていたとのこと。
後半はスライドを上映しながらの話。
1975年の最初のエベレスト行き当時は、カトマンズは車が少なく交通機関は人力車
が主体で空気もきれいだったが、最近は車社会となりスモッグに覆われ、白いヒマラヤの
山並みも見にくくなっている。
当時はベースキャンプまでの360㎞、11トンの装備を600人のポーターの力で運
んだが、現在はベースキャンプから頂上までも有料道路化していて、お金を払えばポータ
ーに容易に運んでもらえるし、装備も酸素ボンベが7㎏から3㎏以下となり、眼鏡も1/3
になるなどみな軽量化された。
当時の氷河に比べ現在は温暖化で氷河が大きく後退している。
1975年5月16日に初登頂したとき、中国の情報は全く分からなかったが、11日
後の5月27日に中国側から9人のメンバーが初登頂しており、そのなかに女性も1人い
て、中国側は田部井さんの情報を始終つかんでいたようだ。
田部井さんはヒラリーの初登頂から22年後で38人目だったが、現在では1日に100
人以上が登頂を目指す日もある。
ネパールの人たちへの恩返しのため、HAT-Jで15年前から植林を続けており、実
のなるものが良いとの要望でリンゴを植林し続け、ようやく12年たって実るようになり、
昨年は1900個の収穫が得られた。
3年前から若い女性向けの山の会・MJリンクを立ち上げ、滝桜の時期に三春を歩いて
いる(田部井さんは、三春町の出身)。三春の桜は滝桜だけでなく、11あるお寺に皆、
シダレザクラがあるので訪ねてみて欲しい。 といった話がありました。
最後の質疑応答の中では、「田部井さんの元気の源は?」との問に対し、「今日は何を
しようかではなく、毎日何かやることがあること、行くところがあること」と言われ、積
極的な行動が元気の源と理解しました。
会場の様子が撮れなかったので、蛇足ながら会場入口付近から見た眼下の所沢航空記念
公園や、所沢中心街の写真を紹介します。
高層ビルは全部マンション棟
所沢駅周辺
所沢航空記念公園
ドームは所沢航空発祥記念館
所沢航空記念公園の中央部付近
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「世界の山々をめざして~山から見た自然環境~」と題する、登山家・田部井淳子さん
の講演会が所沢市環境クリーン部環境総務課の主催で開かれたので参加しました。
会場は所沢市役所8階の大会議室。約200人収容の会場は、開会前にいっぱいになり
ました。
会場内は撮影禁止だったので、田部井さん講演模様を撮ることはできませんでした。
講師の田部井淳子さんは、女性で世界初の7大陸最高峰登頂者として知られ、いまも年
に数回は海外登山に出かけ、現在60カ国の最高峰・最高地点を登場されているとのこと
です。
山岳環境保護団体であるNPO法人日本ヒマラヤン・アドべンチャー・トラスト(略称
HAT-J)の代表や、20~40代女性のための山の会、MJリンクの呼びかけ人など
もされているようです。
講演の前半は山の環境を中心の話で、その要旨は以下のようなものでした。
1975年に35歳で世界最高峰のエベレストに初登頂したが、その頃から親交のあっ
た世界最初のエベレスト登頂者ヒラリー氏から、山の環境保護組織を日本でも作ってとの
要請で、HAT-Jを立ち上げた。
初登頂した当時はあまり環境のことは念頭に無く、残して行くことがその地に行った証
拠になるというシェルパの勧めもあり、8,700m付近に酸素ボンベを置いてきた。
当時は、ネパール政府の政策でヒマラヤに入れるのは1シーズン1チームしか許可され
ず、ベースキャンプ周辺もきれいだったが、1985年からは何チームも入れるようにな
り、ゴミや屎尿(しにょう)処理が問題になっている。
エベレストの環境問題を学ぶため、59歳で九州大学修士課程に入り2年間勉強した。
日本の山もきれいにしようと考え、1990年から毎年、富士山のゴミ処理を始め、
HAT-Jのメンバー1500人が活動している。
1991年頃は、5合目から7合目くらいまででゴミがいっぱいになったが、1995
年頃から理解者が増えて、最近はきれいになってきている。小さな一歩でも実行すること
が大事と思う。
東日本大震災の発生により、地震、津波、原発に風評被害が重なり、福島県民は大変な
ことになっている。自分に何か出来ないかと考え、避難者に聞いたら、「1日中何もする
ことがない(のが辛い)」と言われ、「ではハイキングをしますか」と言うと、「やって
下さい」との声があり実行することにした。
山の用具などは持っていないので、誰でも歩ける場所として裏磐梯の五色沼散策を最初
に実施した。
行きのバスは静かだったが、現地に着くと浜通り(福島県の太平洋側)の人にとっては
初めてのきれいな景色に感激し、「元気が出た」、「気持ちよい」などの声が出て、帰り
のバスではすっかり賑やかになり、震災は過去のことでこれからは前向きに生きようとい
うような声も出た。
高校生にも元気になってもらおうと富士登山を計画にしたら、希望者が60人もあった。
それらの高校生へのアンケートでは、震災により無情感におちいったり、夢も希望も無く
なったので、どうしたら良いかと思い応募したとの声があった。
登山にあたりNPOの人など100人がサポートしてくれることになり、さらに地元の
富士吉田高校の30人も参加することになり、90人を10班に分けて登ることになった。
8合目くらいで高山病になったり、歩けないから泊まりたいと言いだす高校生などがい
たが、大勢のサポーターのお陰で、正面しか見えない盲学校の生徒を含め全員登頂するこ
とが出来た。行きにはしょんぼりしていた人も、帰りには元気になり輝いて見えた。
帰ってからの感想文の中には、震災で亡くなったお父さんの遺品の携帯電話を持参した
高校生が、いままで送ったことの無いお母さんに登頂を伝えるメールをして、お母さんを
感激させたこと、
途中で歩けなくなったが、「1歩1歩続ければ頂上に行ける」という田部井さんの言葉
を思い出し、すぐ前の人に追いつこうと少しずつ進んだら、その人が手を出してくれて、
一緒に頂上に上がることが出来、1歩ずつのわずかな歩みも続けることが大事ということ
を感じ取ったこと、などが記されていたとのこと。
後半はスライドを上映しながらの話。
1975年の最初のエベレスト行き当時は、カトマンズは車が少なく交通機関は人力車
が主体で空気もきれいだったが、最近は車社会となりスモッグに覆われ、白いヒマラヤの
山並みも見にくくなっている。
当時はベースキャンプまでの360㎞、11トンの装備を600人のポーターの力で運
んだが、現在はベースキャンプから頂上までも有料道路化していて、お金を払えばポータ
ーに容易に運んでもらえるし、装備も酸素ボンベが7㎏から3㎏以下となり、眼鏡も1/3
になるなどみな軽量化された。
当時の氷河に比べ現在は温暖化で氷河が大きく後退している。
1975年5月16日に初登頂したとき、中国の情報は全く分からなかったが、11日
後の5月27日に中国側から9人のメンバーが初登頂しており、そのなかに女性も1人い
て、中国側は田部井さんの情報を始終つかんでいたようだ。
田部井さんはヒラリーの初登頂から22年後で38人目だったが、現在では1日に100
人以上が登頂を目指す日もある。
ネパールの人たちへの恩返しのため、HAT-Jで15年前から植林を続けており、実
のなるものが良いとの要望でリンゴを植林し続け、ようやく12年たって実るようになり、
昨年は1900個の収穫が得られた。
3年前から若い女性向けの山の会・MJリンクを立ち上げ、滝桜の時期に三春を歩いて
いる(田部井さんは、三春町の出身)。三春の桜は滝桜だけでなく、11あるお寺に皆、
シダレザクラがあるので訪ねてみて欲しい。 といった話がありました。
最後の質疑応答の中では、「田部井さんの元気の源は?」との問に対し、「今日は何を
しようかではなく、毎日何かやることがあること、行くところがあること」と言われ、積
極的な行動が元気の源と理解しました。
会場の様子が撮れなかったので、蛇足ながら会場入口付近から見た眼下の所沢航空記念
公園や、所沢中心街の写真を紹介します。
高層ビルは全部マンション棟
所沢駅周辺
所沢航空記念公園
ドームは所沢航空発祥記念館
所沢航空記念公園の中央部付近
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