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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

関東百駅巡礼歩行 東武野田線豊春駅(埼玉)

2008-06-07 23:51:07 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年6月7日(土)



 「やまさん」こと山浦正昭さん企画の「関東百駅巡礼歩行」
第46番目は、東武野田線豊春(とよはる)駅の集合。ところ
が集合時刻の11時を過ぎても、かんじんのやまさんはやっ
てこない。

 集まったいつものメンバー10人は、昼食地の慈恩寺で会
えるのではないかと期待し、11時10分に駅の北口を出た。

 線路に沿って東に進み、アシの茂る古隅田川を越え、少し
先から森に覆われた古隅田野鳥の森に入った。


 この森は、先ほど通過した古隅田川の古い堤防だったとこ
ろ。現在の隅田川とはかなり離れているが、江戸時代は、こ
のあたりを隅田川が流れていたらしい。

 豊春中の西で野鳥の森は終わるが、その先もわずかな堤
防上に古隅田公園の緑陰が続く。

 豊春中の北側を走る車道との三差路付近に、古い道しるべ
が立っていた。

 「左かすかべ」「右こしがや」と記されていて、享和2年
(1802)の銘もあり、この道が当時の主街道だったこと
が知れる。

 少し先には、移築された古い石橋があった。「やじま橋」
と呼び、元文2年(1737)に近くの古隅田川にかけられた
ものらしい。



 古隅田公園の緑陰は、宮川小の南側までつづく。


 宮川小の横から古隅田川を渡って住宅地の西に出た。古隅
田川に流入する小さい流れを暗渠(あんきょ)にした通学路で、
田園地帯を抜けている。


 徳力小のそばの車道に出て北に向かうと、りっぱな本堂の
常源寺があった。

 境内も、こぎれいに整えられている。

 道路際に、明応3年(1494)銘という一石(いっせき)五輪
塔のあることが記されていたので、墓地や境内を探したが、
見つからなかった。

 さらに進んで、岩槻北陵高の先にある坂東三十三観音第十
二番札所、慈恩寺に12時22分に着いた。

 私は、1993年4月4日にカントリーウオークグループの第2
回例会で来て以来、15年ぶりになる。

 坂東の札所だけあり、堂々たる本堂で鐘楼も大きい。境内
も広いが周囲は開放的で、西側の三差路際に小さめの山門
はあるが、南側は塀もない。

 期待していたやまさんは姿を見せず、大きな藤棚の下で
昼食をした。

 本堂の前には、ほかでは見たことがない南蛮鉄の灯籠が
あった。

 天正17年(1589)に寄進されたものらしい。

 寺の西にある屋敷の一角には、小さいかやぶき屋根の建物
が見える。


 皆さんから漬け物や果物、菓子などの差し入れをいただき、
ゆっくり休憩。記念撮影をして13時15分に慈恩寺を出た。


 岩槻北陵高の前まで戻り、田んぼのあぜ道を突っ切って
慈恩寺ゆかりの玄奘三蔵法師をまつる十三重塔に行く。

 15年前にはなかった、唐風のりっぱな山門ができていた。  


 これが十三重塔。長らく不明だった玄奘三蔵法師の霊骨が
昭和17年に中国・南京で発見され、日本にも分骨贈与され
たのをまつるため、十三重塔を慈恩寺で昭和25年(1950)
に建立したのだという。


 岩槻北陵高の北東側には、慈恩寺親水公園があり、池の
対岸には釣り人の姿も見られた。

 もう少しすると、スイレンの花も見られるのだろうか。

 公園から北へ、慈恩寺集落から裏慈恩寺集落へと進み、貝
塚団地を抜けると、広々とした田園地帯に出た。

 今まで蒸し暑かったが、田んぼに吹く風はさわやかで気持ち
よい。向こうに見える内牧公園の森に向かい、田園を横切る。


 内牧公園の中ほど、フィールドアスレチックや、以前カントリ
ーウオークグループの忘年例会で芋煮をしたことのあるバー
ベキュー場付近の広場で休憩する。

 駐車場を過ぎ、さらに南東方向に向かって公園を縦断する
林間を進むと、古代遺跡の付近に、復元家屋のような建物が
幾つかあった。


 公園の南端近くから東に抜け、栄町2丁目から3丁目、梅田
の田園地帯を横断し、東武伊勢崎線北春日部駅に15時42分
に着いた。

(参加 10人、天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、
 歩行地 春日部市、さい たま市岩槻区)

 


 



  




 

 
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関東百駅巡礼歩行 鎌倉駅(神奈川県)

2008-05-12 23:39:30 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年5月10日(土)



 やまさんの関東百駅巡礼歩行の第45回は、JR横須賀線
鎌倉駅。集まったのは、初参加の3人を加えて10人。小雨
模様の駅前で記念撮影をして、10時10分に出発した。


 駅前の若宮大路を越え、すぐ東の大巧寺へ。「おんめさま」
と呼ばれ、境内は花の寺として知られているという。

 いまはあまり花はないが、新緑がいっぱいだった。

 東側の細い通りに抜けて南へ、東身延と呼ばれる本覚寺
の山門そばで滑川を渡る。南西に進んで大町1丁目の常栄
寺に入った。

 山門には「ぼたもち寺」と記されている。文永8年(1271)、
日蓮上人の龍ノ口法難の折、この寺の尼が日蓮上人にぼた
餅を捧げたことによるという。

 少し先に、鳥居にりっぱなしめ縄が下がり、「厄除け祈願」
の赤いのぼりの並ぶ、八雲神社がある。

 永保年代(1081~4)、新羅三郎源義光の勧請といわれ、
徳川家康からは永楽五貫文の朱印地を下賜されたという。

 ご神木のクスノキの根元に、新羅三郎手玉石と呼ぶ二つ
の石が並んでいた。


 社殿の右手にある「祇園山ハイキングコース登山口」の標
識に従い、広葉樹林を上がるハイキングコースに入った。

 このルートは、車道を通らずに坂東三十三観音第一番札所、
杉本寺への最短距離になる。

 南東に延びる稜線を五分ほどで、斜度が緩んだ。見晴台へ
の三差路から1.2㎞ほど、見通しの利かない樹林を進み、V
字状に戻るように下ると、「高時腹切りやぐら」があった。

 大きな洞穴の中に、小さい五輪塔ひとつと、たくさんの卒塔
婆が並んでいたが、由緒などを記したものはない。

 すぐ下は、鎌倉幕府3代執権北条泰時創建という東勝寺跡。
元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めの時、北条高時
以下の一族郎党がたてこもり、火をかけて最期をとげたとこ
ろという。

 その後再興され、室町時代には関東十刹の第3位に列せ
られたが、戦国時代に廃絶したとされ、鎌倉幕府滅亡の地
として重要な遺跡で、国指定史蹟になっていた。

 いったん滑川右岸に回って小町3丁目の住宅地を進み、
次の橋で再度左岸に戻る。住宅地を上流に向けて少し進む
と、史蹟「紅葉山やぐら」の説明板がある。

 昭和10年(1935)、この付近から五輪塔や納骨などが
出土され、北条執権ゆかりの納骨といわれているという。

 少し先で道が途切れてしまった。戻ると大きく迂回して車
道を進むことになるので、東側斜面を突っ切ることにした。

 急斜面に設けた崩落防止のコンクリート壁に上がり、壁に
沿って進む。さらに滑りそうな急斜面を木につかまったりし
てよじ登り、下に見えた雪ノ下4丁目の小さな畑に下りた。


 すぐ先の斜面中腹にあった大蔵稲荷の社殿前で、小雨を
避けて昼食とする。

 社殿左手にかすかな道があったので進むと、間もなく通行
禁止の立て札。でも、道は続くので少しずつ高みに上がった
が、やはり道は途切れた。

 細い稜線に上がり、灌木をかき分けたり、木々につかまっ
たりして、滑らぬよう注意しながら進む。

 木々の間から、時々北側の家並みが見下ろせる。

 かなりの急斜面を慎重に下ると、雪ノ下4丁目の民家に
入った。その家の奥様が出てきたので、お断りして通らせ
てもらう。

 雨は本降りとなり、ポンチョを被る。浄妙寺1丁目の住宅
地を進み、「田楽辻子のみち」の説明パネルを過ぎる。
滑川の橋を渡って県道に出た。

 県道の北側が、坂東三十三観音第一番札所で、鎌倉最古
の寺という杉本寺。かやぶきの山門をくぐり、受付で拝観料
を納めて境内へ。

 雨でみずみずしい新緑の参道、こけむす石段の横を上がる
と、やはりかやぶき屋根の本堂がある。

 参道や本堂の周囲には、「十一面杉本観音」の白いのぼり
がたくさん並んでいた。

 靴を脱いで堂内に上がり、ご本尊の十一面観音や、幾つか
の仏像などを拝観し、持参した坂東札所の納経帳に納経印
をいただく。

 境内には、古い五輪塔がたくさん並び、地蔵堂や小さな
かやぶきの社に祭られた熊野大権現と白山台権現の合社な
どがあり、本堂内のたたずまいと合わせ、この寺の歴史が
しのばれる。

 県道に戻り、すぐ先から北側の民家の間の細道を進んで、
浄妙寺に行く。

 本堂の前には、良く整えられた植え込みが広がり、背後は
緑いっぱいの紅葉樹林に囲まれ、ツツジが彩りを添える。

 本堂左手の散策路を上がって振りかえると、新緑の衣張山
が望まれる。


 少し上にある「石窯ガーデンテラス」に入った。

 雨は本降りとなったので、今日はここまでとする。1時間
半近くのコーヒータイムをとり、初参加の方の活動状況を伺
うなどして、ゆっくりと歓談した。

 15時過ぎに散会し、ガーデンテラスを出る。私は多くの皆
さんと浄妙寺前バス停から鎌倉駅に向かい、鎌倉駅15時
56分発上総一ノ宮行きで帰路についた。

(天気 雨、距離 4.5㎞、地図(1/2.5万) 鎌倉、歩行地
 鎌倉市)
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関東百駅巡礼歩行 見沼代親水公園駅

2008-04-12 23:19:51 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年4月12日(土)



 やまさんの「関東百駅巡礼歩行」の第44回目は東京都
内の駅。

 今回は3月30日に開通したばかりの東京都交通局の
「日暮里・舎人(とねり)ライナー」の終点、見沼代(みぬま
だい)親水公園駅である。

 集合したメンバー10人は、記念撮影をして10時5分に
駅を出た。

 日暮里・舎人ライナーは、JR日暮里駅そばから尾久橋
通りの上を高架で走るモノレール。ほぼ真っ直ぐに北へ
9.7㎞、日暮里駅のほか12の駅があり、見沼代親水公
園駅までは約20分(320円)である。

 この駅自体が東京の最北端の駅だが、駅付近も東京23
区の最北端に近い。北に300mほどの舎人4丁目に回っ
て、最北端の場所を確認する。

 このカーブミラー付近が最北端だと、近くの民家の奥さん
が教えてくれた。小さい流れを隔てた左側は埼玉県草加市
で、武田薬品の大きな建物がある。

 150mほど南を流れる毛長川。

 東側や西側は、この川が都県境なのだが、最北端付近の
600mほどが一つ北の細い流れが都県境になっている。
むかしは、毛長川の流れがこのあたりで蛇行していたもの
と思われる。
 
 駅のそばに戻り、東南に向かう小さい流れに沿って緑陰
の続く、見沼代親水公園に入った。


 公園沿いにあった諏訪神社、覆い屋に保護された本殿
の、周囲を飾る木彫がすばらしい。


 少し先の「すいしゃ池」では、小さい水車が回っていた。


 すいしゃ池で見沼代親水公園を離れ、近くの西門寺へ。
朱塗りの山門の正面に本堂があり、そばのシダレザクラが
見ごろだった。


 本堂前の小さい石の水たまりに、メダカがたくさん泳いで
いた。

 普通のメダカより赤っぽい、ちょっと変わったメダカだ。

 門前を南に進んで車道に出る。

 「赤山道」と呼ばれ、江戸時代の関東郡代伊奈氏の赤山
陣屋(埼玉県川口市)と日光道中の増田橋を結んだ古道だ
ったようで、当時の舎人宿はこの北側になることを記す石碑
が立っていた。


 その通りを越えて南側の古千谷本町2丁目に入り、全学寺
を経て、すぐ東側の常光寺に行く。

 享禄3年(1530)の創建で、開基は古千谷開拓者の一人、
花井肥前守正義といわれているという。
 
 墓地には、珍しい唐破風付の墓が並んでいる。

 開基した花井肥前守正義など、花井家のものらしい。

 ご住職夫人が居られ、3~40年前のこの周辺のことなど
をお聞きした。

 南に400mほどで、足立区最大の公園、23区内でも有
数の広さを持つ舎人公園に正午頃入り、豊富なクローバー
の上で昼食にした。


 昼食後は、3月初めに香港から北京までの約3000㎞を
野宿しながら歩く計画で出かけたが、シンセン郊外の無人の
原っぱで寝ていた深夜に、着衣とシュラフ代わりのシート以
外の身ぐるみ全部を盗難に遭い、やむなく帰国したてんまつ
を、Dさんから聞く。

 外国旅行での注意点の幾つかを知る、貴重な話だった。

 ここで解散となり、Dさんを囲んでもう1度記念撮影をして
散会した。


 公園の中心にある池のそばまで行ったが、今日はイベントが
あるようで園内は大勢の人出で賑わっている。

 いかに広い公園といえども、こんな混雑する人出ではその
先まで回る気にならず、入ってきた北東に戻り、公園を出た。

 その後は、用意してきた地図で見つけた、10数か寺が集ま
った「寺町」ともいうべき伊興4丁目に回って寺を一巡し、東武
伊勢崎線竹の塚駅に15時30分に着いた。

 寺町周辺の様子は、別途紹介することとしたい。


  

コメント (2)
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関東百駅巡礼歩行(いすみ鉄道新田野駅)

2008-03-19 23:33:57 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年3月8日(土)

 やまさんの「関東百駅巡礼歩行」第43番目は、好天
に恵まれた。



 集合地は、房総半島を走る、いすみ鉄道の無人駅、
新田野(にったの)。

 東京、神奈川、埼玉から集まった10人は、記念撮影
をして10時58分に出発した。

 東側一帯は田んぼが広がり、駅の周辺には商店は
おろか民家も少ない。よくここに駅が出来たと思われ
るような場所である。


 東側の農道のあぜにナノハナが咲き、少し先の田ん
ぼも、盛りを過ぎたが、ナノハナ田になっている。

 そばの農家の前にテントを張って、新田野郷生産組
合の人たちが、ナノハナなどを販売していた。

 夷隅(いすみ)川の支流、落合川の「じろうま橋」を渡
って大和田の小集落を北に抜け、谷間の草道に入る。
湿地帯に出て北側の山すそに回り、右折して南東に
向きを変えた。

 ひとつ目の沼の先で道は不明瞭になり、しの竹や灌
木の間などをかき分けて進んで、二つ目の沼のほとり
に出た。




 ちょっとした枯れ草の広場あったので、暖かい日差し
を一杯に浴びて昼食をする。


 地図上では、その先も道がついていて、200mほど
の間だけ、尾根を越える林間を抜ければ三つ目の沼
に出られるので、先に進むことにした。

 しかし、沼の北岸沿いの辛うじて付いていた道が少
しで途絶え、再び林間の急斜面をかき分けながらの
やぶこぎとなる。

 シダの間の倒木を越えたり、ツタの間をくぐったり
して、何とか原生林模様の林間を稜線に上がった。


 方向を定めて杉林の林間を谷間まで下ったが、
どうやら南側に回り過ぎて、昼食をした沼の上流に
出てしまったらしい。

 再び急斜面を稜線まで上がって北に向かい、少し
進むと右に下る踏み跡らしいのが見つかった。下っ
て行くと、水は少ないが目的の沼のほとりに出るこ
とができた。

 昼食を終えたのが12時42分で、次の沼に出たの
が14時30分。直線距離にして500m足らずを抜
けるのに2時間近くかかった。

 でも全員トラブルもなく通過でき、やまさんの企画
ならではの、なかなか得難いノンロードウオーク(や
ぶこぎ)だった。

 谷地田に沿って北東に進み、右手に岬ダムの堰堤
(えんてい)を見て西の谷の小集落を抜ける。


 不入集落南側のT字路に出て、左手にあった標識
に従い林間を上がって、坂東三十三観音第三十二番
霊場の清水寺(きよみずでら)に着いた。

 清水寺は、伝教大師最澄が草創し、坂上田村麻呂
が建立したといわれている古寺。スタート時は、ここ
で昼食の予定だったが、すでに15時が近い。

 重厚な仁王門をくぐると、文化14年(1818)再建と
いう朱塗り鮮やかな四天門がある。


 さらに石段を上がり、どっしりと構える本堂に参拝。
拝殿の上には、龍などの精巧な木彫が施されていた。


 境内には、新しい赤穂四十七士の木像を祭ったお
堂や、坂東、秩父、西国の百観音の写し本尊を祭っ
たお堂、朱塗りの鐘楼、文政9年(1826)の芭蕉翁
123回忌を記念して建立したという芭蕉の句碑など
がある。

 境内とその周辺には、スダジイ、ヒサカキ、ヤブコウ
ジ、モミ、カゴノキなど、豊富な自然林が残り、「清水
観音の森郷土環境保全地域」に指定されている。

 境内の白梅は満開だった。

 予定よりだいぶ時間が経過したので、あとは駅まで
最短距離で急ぐことにする。

 県道155号を西に向かい、夷隅川の急カーブ点を
見下ろし、嘉谷トンネル(109m)を抜ける。

 細尾で田のあぜ道をショートカットし、送電線の保安
路を上がって、一軒家の裏手に出た。外で作業して
いた家の主に断って、屋敷内の私道を何とか通過さ
せてもらう。


 りっぱな屋敷林の多い下原集落を南に進み、16時
15分に、新田野駅に戻った。


 女性メンバーの一部は、駅のそばに咲くナノハナを
摘んで野歩きの土産にして、間もなく来たナノハナ色
の大原駅行きディーゼル車に乗る。


(天気 快晴、距離 10㎞、地図 国吉、歩行地 いす
 み市(旧夷隅町))
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関東百駅巡礼歩行竜ヶ崎駅(茨城県)

2008-02-13 21:35:52 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年2月9日(土)



 やまさんの「関東百駅巡礼歩行」第42番は、関東
鉄道竜ヶ崎線の終点、竜ヶ崎駅に集まった。

 関東鉄道竜ヶ崎線は、JR常磐線佐貫(さぬき)駅
から竜ヶ崎駅までの全長4.5㎞である。

 中間に無人の入地駅だけの短い路線を、1両のデ
ィーゼル車が1時間に約2往復している。


 集まったメンバーは15人。昼過ぎには雨の予報
だが、しばらくは持ちそう。11時12分に駅を出て、
市街地を東北に向かう。

 寺後にある消防署の東側の通りを進み、用水沿い
に出る。少し東に回って北側から、大屋根の本堂が
目につく般若院に入った。

 本堂裏手に、高さはさほどではないが枝を大きく
広げた、しだれ桜がある。

 樹齢約450年のエドヒガンの園芸品種で、茨城県
天然記念物。樹高約10m、目通りの幹回りは約5m。
開花時には毎年、大勢の花見客が訪れるようだ。

 般若院は天元元年(978)に創建され、大永4年
(1524)現在地に移り、土岐氏の祈願所になり、
のち仙台領になって伊達家の位牌所(いはいしょ)
として寺領3石を与えられたという。

 本堂前には、りっぱな宝篋印塔(ほうきょういんと
う)が幾つか立っていた。

 南側の山門を出て、歩行者レーンが小豆色に塗
られた通りに出る。

 撞舞(つくまい)通りと呼び、市内栄町にある八坂
神社の祇園祭に行われる雨乞いと五穀豊穣、無病
息災を祈願する神事「撞舞」を描いたタイル画が埋
め込まれていた。

 その通りを南東に進むと、龍ヶ崎二高がある、こ
んもりとした台地の下になる。

 台地は、16世紀後半、江戸崎城主・土岐治英が
築いた龍ヶ崎城跡である。

 龍ヶ崎城は、秀吉の関東攻めで佐竹氏の支配に
服し、その後、徳川領の一時期を経て伊達政宗の
配下となり、仙台領1万石が支配したという。 

 南側を回って保健所横から城山通りと呼ぶバイ
パスを横断、やはり裏手から「龍ヶ崎観音」で知ら
れ、茨城百景にも選定されている医王院に入る。

 安産・子育て・厄除け・開運の観音様として親し
まれ、開放的な境内には、たくさんの水子地蔵や、
年彼観音、母子地蔵などの石仏が多い。


 小さいお堂には、人形や玩具の風車、千羽鶴など
がたくさん奉納されていた。


 ポツポツしてきたので本堂の屋根下を借りて昼食
にする。しかし本降りにはならなかった。 

 商店街大通りを横切り南へ。江川に出て右岸沿い
を西に向かう。道路が途切れたところは雑草地や民
家の裏手を抜ける。

 1㎞余り先で川を離れ、広々とした田園地帯に出
た。

 田起こしの済んだ田んぼの間を南西に進み、論所
排水と呼ぶ流れも越える。

 周囲を田んぼに囲まれた前新田集落には、かなり
朽ちたかやぶき屋根の廃屋が残っていた。


 小さい社の天神社横から、北側の長沖新田町集落
へ。これも小さい社の厳島神社の狭い境内に、円形
の鉄のふたで保護した4.4mの三角点があった。

 「ク」の字状に大きな弧を描く小貝川の旧河川に出る。


 中間辺りを横断、内側の高須町集落に入り、南西
端から旧河川の橋を渡った。


 河川沿いには道がないので、アシなどの雑草地や
田のあぜを進んで大留町集落の阿弥陀寺に裏手か
ら入る。

 本堂は鉄筋の四角い近代建築だが、古い鐘楼が
あり、境内のミツマタが咲き出していた。

 ここで小休止する。

 旧河川の南岸沿いに小貝川左岸堤防に向かう。旧
河川には、漁に使ったらしい木の小舟が幾つか放置
されている。


 流れ沿いの道が無くなり、最後は少し雑木林の中
を突っ切り、小貝川左岸に出た。

 取手コミュニティバスの大留バス停付近から堤防
に上がり、「利根川合流点から2・75㎞」標識を経
て、冷え冷えとした小貝川の流れを見下ろし、高須
橋まで進む。

 途中から、再び雨が落ちてきた。

 橋のすぐ先、杉やカシ、竹などの豊富な樹林に囲
まれた熊野神社社殿は、旧藤代町指定文化財。現
在は合併して取手市内である。

 神社や高須町の屋敷林の北側を少し東に進み、北
に向かう。雨が本降りになってきたのでピッチを早め、
道仙田集落や川原代小横を経て、15時40分に中間
の無人駅、入地(いれじ)駅にゴールした。

 15時58分発上りで佐貫駅に向かう。

(天気 曇後雨、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 龍ヶ崎、
 歩行地 龍ヶ崎市、取手市、歩数 15900)
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関東百駅巡礼歩行 宝積寺駅(栃木)

2008-01-20 21:44:38 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年1月19日(土)

 カントリーウオーカー「やまさん」企画の、「関東百駅
巡礼歩行」、5年目に入って最初になる41番目は、JR
東北線宝積寺(ほうしゃくじ)駅11時集合で開催された。



 集まったのは東京、神奈川、埼玉、それに地元栃木
からの16人。宝積寺駅は、昨年10月に東西連絡用
コンコースを兼ねた橋上駅になったばかりで新しい。

 新しく整備された東口には、建築家・隅研吾(くま
けんご)氏設計の石の蔵をイメージした建物が並び、
それを囲む「ちょっ蔵広場」ができていた。


 橋上の改札口そばで記念撮影をして、11時12分に
出発した。


 雪の日光連山や高原(たかはら)連峰などが望める
西口に出て、もとは国道4号だった県道101号を少し
南へ、信号のあるT字路を左折して線路の東に回る。

 商店街を400mほど、信号のある交差点そばの細
道を左に入ってKさん宅を訪ねる。

 昨年12月14日、やまさんの「歩く旅30年」の集い
をした東京・金町の「夢や」の、お姉さんの家があると
聞き訪ねたもの。幸い在宅しておられ、お会いすること
ができた。

 交差点際に戻り、斜めの通りを進んで、高根沢町役
場へ。土曜で閉庁日だが玄関は開いていて、町のこと
を少し聞き、パンフレットをもらう。

 町内には、東京国際空港(千葉・成田)の建設に伴い
三里塚から移転した宮内庁の御料牧場や、キリンビー
ル栃木工場、宇津救命丸の工場や史料館などがある
という。

 役場の南で県道を横断、そばの小さい社を経て、ス
ーパー「Lion D'or」の南側の住宅地を西へ折り返すよう
に進み、踏切を越える。

 県道101号を横断しさらに西へ、今日のチェックポイ
ントともいうべき最初の記念碑を見つける。「生駒神社」
と記された碑だが、そばに神社はない。

 国道4号に向かって阿久津小の南側の坂を下ると、
がけ下に赤い頭巾を被った3体の地蔵と、数体の石仏
が並んでいた。

 ちょうどそのお地蔵さんに、お供えをあげに数人のご
婦人が来た。地蔵さんは子どもを守ってくれるとか。安
産を祈願して1月と8月にお供えをあげ祈るのだという。

 地蔵さんの首にかけてある竹筒に、以前は御神酒を
注いでいたのだが、首が重かろうと最近は傍らに注ぐ
ようにしたとも話してくれた。

 国道4号交差点際にある稲荷神社社殿横には、祭礼
に使う山車の新しい保管庫ができていた。


 跨道橋で国道を越えると田園地帯。男体山や女峰山
など日光連山、その右に雪のない高原連峰、さらに右
奥には雪で白い那須連峰も望見出来る。

 写真左から右へ、男体山、大真名子山、小真名子山、
女峰山

 鬼怒川左岸堤防に上がり少し上流に進み、枯れ草に
腰を下ろし、県民ゴルフ場の向こうに日光連山などを見
ながら昼食にした。

 寒中だが風もほとんど感じず、穏やかな日和である。

 20分ほどで食事を終えて堤防を南に進む。ゴルフ場
の下流の河川敷一帯には「鬼怒グリーンパーク」と呼ぶ
施設が広がっている。

 冒険の森、水上アスレチックス、ボート池、テニスコー
ト、野球場などがあり、ナノハナやポピー、コスモスなど
の花畑も花どきは見ごとだという。

 堤防の東側にある管理事務所横のトイレを借り、次
の石碑ウオッチングへと国道4号に向かう。

 管理事務所の近くには、「磧地開発記念碑」があり、
国道交差点際には、りっぱな「百観音霊場巡拝記念碑」
が立っていた。

 そばの広い民家、加藤家の奥様が出てこられ、百観
音を巡ったのは、77歳だった祖父母だという。碑には
昭和47年(1972)建立と記されていた。
 
 国道4号の東に並行する旧道を、宝積寺中から宝積
寺下集落へと進み、東側台地上を走る県道101号沿
いにある次の記念碑を目指す。

 宝積寺下集落が終わっる辺りで台地下に行き、小さい
ほこらの背後から、斜面林の中をやぶこぎして県道に上
がる。

 ホテルCCCのそばに上がり、少し南側に進むと、「野中
満吉翁頌徳碑」が林の中にあった。大正13年(1924)
の建立で、石碑マークの碑としては小ぶりだった。

 少し先で左に入り、JR東北本線の深い堀割の上を越え、
線路沿いを300mほどで南へ、3本の送電線下を進んで
国道408号に合した。


 高根沢町と宇都宮市の市町境付近から、西側がけ下
の鬼怒川にできている岡本頭首工(とうしゅこう)を目指
すことにする。

 道のない畑のあぜと雑草地を西に進む。雑草地には
ツルやバラがあり、ちょっと歩きにくかった。


 数戸だけの住宅地の南側から、急な斜面林を下る。
一足ごとにズーッと滑るような急坂を、木につかまりな
がら慎重に下る。

 田のあぜを少しと敷石の敷かれた雑草地を進んで、
岡本頭首工の左岸に出た。満々と水をたたえた堰にな
っている。

 頭首工とは、河川の流水を用水路に引き入れるため
の施設で、一般には、取水堰(せき)、取り入れ口、付帯
施設及び管理施設から構成されており、用語としては、
明治以来用いられているという。

 ちなみに、岡本頭首工は、鬼怒川中流部の水田2518
ha、畑490haの耕地にかんがいを行うために、昭和60
年(1985)完成し、堤長364.5m、堤高2mとのこと。


 鬼怒川左岸のコンクリート護岸上を北に向かい、国道
4号の2つの橋、新鬼怒川橋下から鬼怒川橋下まで進ん
だが、その先は護岸がない。

 新鬼怒川橋下のがけには、長いつららがのびていた。

 
 鬼怒川橋東詰付近に向かってもう1度急斜面を上が
ることになった。高さは数mながら、垂直に近い斜面を
木やむき出しの根などにつかまり、両手両足を使って
橋のそばに上がった。

 このシリーズでは、毎回のようにやぶこぎがあるが、
今日のように3回も、しかも急斜面の上り下りは初めて
だった。

 でも昔の娘さん達も、橋のそばに上がったら、かつて
のお転婆ぶりを思い出したのか、「面白かったー!」と
の声が出た。

 国道4号をすぐ先の跨道橋で越えて県道101号に回
り、一部往路を通過し線路沿いに進み、15時45分に
宝積寺駅に戻った。

 15時54分発宇都宮行き上り電車で帰途につく。

(天気 晴、距離 10.5㎞、地図(1/2.5万) 宝積寺、
 歩行地 高根沢町、宇都宮市)  

 

 

 
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関東百駅巡礼歩行・茂林寺前駅(群馬・館林)

2007-12-10 23:13:18 | 関東百駅巡礼歩行
 2007年12月8日(土)

 やまさんの「関東百駅巡礼歩行」、4年目の最後で
ある第40番目は、東武伊勢崎線茂林寺前(もりんじ
まえ)駅からのウオーキングである。



 参加者は8人、記念撮影をして11時12分に茂林寺
前駅をスタートした。


 駅前の少しだけの商店街を南へ。茂林寺駅前郵便
局は三日月型の屋根で、局舎全体も郵便局とは思え
ぬモダンなデザイン。

 その先の「なかむら」という酒店をのぞく。越後の
銘酒・久保田の姉妹酒などを販売していて、遠方か
らも注文があるとのこと。

 店内に掲げてあった北原白秋の「東海の小島の磯
の…」の歌は、娘さんが書いたものだという。

 三差路の手前に細い旧道があったので東に入る。

 格好のよい松のある中里さんの宅地内に、根本山
神社という小さな社が、こんもりした丘の上に祭られ、
長いくさりをとぐろ巻きにした掲額がある。

 ちょうどそばにおられたご当主に伺ったが、なんで
奉納したかは分からないという。

 数戸の民家が尽きて湿地の間を進み、笹の茂る
林と墓地横を抜け、館林七福神の大黒尊天の寺で、
館林名所七所のひとつ、茂林寺に入る。

 大きな本堂はかやぶき。広い境内には、樹齢550
年以上で群馬県天然記念物の大ラカンマキ、樹齢
280年以上の大サワラ、樹齢550年以上でヒイラギ
の上にモクセイの葉が茂る不思議な大ヒイラギ、しだ
れ桜、フジ、黄葉がみごとな大イチョウなど、古木が
多い。

 本堂南側の守鶴堂には、タヌキの木彫り人形が
たくさん奉納されていた。

 かやぶきの中門をくぐり東の山門に向かう両側は、
大きな陶器製のタヌキが並んでいる。


 山門の前には、タヌキや酒徳利などを並べた土産
店が2,3、店を開けていた。

 境内の北東側は、イチョウの落ち葉がじゅうたんの
ように広がり、きれいな彩りのモミジも何本かあった。

 北側の茂林寺沼と湿原を貫く自然探勝路に入る。
沼には、2羽の白鳥とたくさんのカルガモが泳いで
いた。


 枯れきった芦原の間を北に抜け、茂林寺川の橋を
渡る。教会風の建物もあるベルシューネという結婚
式場の駐車場を横切り、野鳥の森に入った。


 りっぱなアカマツ林の間に、広葉樹の黄葉がよい
彩りを見せる。

 探勝路を東に抜け、車道を横切る。別の林に沿っ
て南に回り、こぢんまりとした熊野神社の境内に入
り、社殿の前で昼食にした。

 午後は、下堀工集落の南に出て、南側に広がる田
園に沿って東に向かい、堀割の流れ沿いへ。

 堤防には、大きく育ったカラシナがたくさん育って
いた。
 
 橋を渡って上野前集落に入り、観音堂のある永明
寺を経て北へ、交通量の多い国道354号を越える。

 並行する旧道の先に、館林七福神・布袋尊の寺で、
館林名所七所のひとつでもある普済寺に入った。

 境内のモミジがよい彩り。かやぶきの山門の奥に、
背の高いイチョウが2本黄葉を残していた。


 鐘楼の鐘とは別に、山門に江戸時代の慶安2年
(1649)寄進されたという銅鐘が保存されていた。

 本堂前には、親木は徳川家康のお手植えといわ
れるしだれ桜の古木が立つ。墓参用の井戸は、まだ
手押しポンプが使われていた。

 東に抜け、畑の間の土道を北へ進み、大袋の新
興住宅地を経て、城沼(じょうぬま)南岸のツツジの
名所、つつじが岡公園に入った。

 古木のツツジに囲まれた高台の一角に、大きな
「消防忠魂碑」がある。
<
 あちこちでいろんな石碑を見るが、こういう碑は
初めてだ。


 5月のシーズンにはツツジの花見客で賑わう公園
も、いまはほとんど訪れる人もいない。午前は好天
だったが雲が一面に広がり、薄寒くなってきた。

 城沼南岸に沿った遊歩道を西に進む。ケヤキの
独立樹の下に、その落ち葉を集めた大きなビニー
ル袋が、数十個並んでいた。


 城沼の西側には、枯れたハスがたくさん見られ、
湖岸の数本のメタセコイアが鮮やかな彩り。

 西端まで進み、沼に流れ込む鴨生田川の尾曳橋
を渡ると、冬ザクラがたくさん咲いている。

 最後の館林藩主、秋元家ゆかりの旧秋元別邸の
裏手には、数本のモミジが鮮やかな彩りを見せる。

 すぐ西側に、田山花袋記念文学館と向井千秋子
ども科学館がある。


 その一つ、田山花袋記念文学館に入った。田山
花袋は明治4年(1871)館林で生まれ、明治19年
に江戸に出て、のち小説「布団」で日本の自然主義
の確立者として近代文学界に大きな足跡を残した。

 「田舎教師」は、館林に近い埼玉県羽生市が舞台
である。館内を一巡して、花袋の原稿や作品などを
観覧した。

 館林城の本丸だった館林市役所や文化会館の北
側を回り、昭和57年(1982)に復元されたという
館林城土橋門をくぐって、わずかに残る三の丸の
土塁(どるい)を見る。


 すぐ先を南北に走る県道佐野行田線を横断、古
い家並みの残る「まちなか散策ガイド」地図のコース
に入った。

 すぐ先に、武鷹館(ぶようかん)という公開された
建物がある。

 移築復元したかやぶき平屋の旧藩士の住宅で、
ボランティアガイドの高瀬さんから、館林城の規模
や城下町の説明などを聞く。

 かつての酒と醤油製造業、外池(とのいけ)商店
前の三差路を少し南に入り、昭和13年(1938)の
建築という二業見番(にぎょうけんばん)組合事務所
だった建物を眺める。

 二業とは、芸妓置屋業と甲種料理店業の二種を
指すのだという。

 さらに西に進み、江戸時代からの造り酒屋で国の
登録文化財の毛塚記念館前を経て、15時45分に
東武伊勢崎産館林駅に着いた。

(天気 晴後曇り、距離 10㎞、地図(1/2.5万)
 館林、歩行地 館林市、歩数 15,100)






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関東百駅巡礼歩行(西武池袋線仏子駅)

2007-11-10 21:33:01 | 関東百駅巡礼歩行
 やまさんの、関東百駅巡礼歩行、第39回は、11月
10日(土)、西武池袋線の仏子(ぶし)駅集合で開催
された。



 一日中冷たい雨の予想にもかかわらず、6人のメン
バーが集まる。記念撮影をして、10時10分にスター
トした。


 駅西側の跨線橋を越えて線路の南側に回る。車の
多い車道を進んで、金子坂の手前から武蔵野音大に
沿った車道に入った。

 大学とは反対側の空き地にあったツタが、鮮やかな
彩りを見せる。


 近くのカエデも見ごろになっていた。


 南に横たわる加治丘陵のピークに向かっての上り
が続くので、ゆっくりと上がる。

 武蔵野音大の敷地が終わり、間もなく稜線に出て、
南面への下りとなった。東側一帯は、入間台団地の
戸建て住宅が続いている。

 中神の古い集落まで下って西に入ると、いまにも
壁面が崩れ落ちそうな土蔵が残っていた。


 すぐ近くにあった根岸子育地蔵堂に、正午過ぎに着
いた。


 雨は小降りになったが、地蔵堂のひさしを借りて昼
食をする。


 食事を終え、出発する頃には雨もほとんど止んだ。

 近くの住宅の庭先に咲くマユミ。ほかでは見たこと
のない、色鮮やかで大きめの花だった。


 県道63号を横断し、霞川を渡ってさらに南に進む
と、一面の茶畑が広がる。

 関東最大の茶どころである狭山茶の、中心的生産地
である。

 茶畑の縁には、発芽期の霜害を防ぐファンが、たくさ
ん並んでいた。

 入間市農業研修センターの先で、堀割になっている
圏央道(首都圏中央連絡自動車道)を越えて、狭山台
工業団地に入った。

 空き地や建設中の工場もあり、半分以上進んだあた
りに、なぜかただ1軒だけ民家があった。

 庭に、たくさんの子犬が放し飼いになっている。立ち
止まってのぞいたいたら数頭が出てきた。


 工業団地の南端まで進むと、木の塀に囲まれた広い
敷地内に、変わった建物が幾つも見えた。

 東側に回ってみたら東野高校で、校門は開いていた
ので中に入る。

 校内にはL字型の池もあり、池の向こうに見える下の
写真の建物は食堂らしい。


 事務室棟の横のアーチを入ると、両側に教室が
並んでいた。

 日本建築風の建物もあり、洋風に見えるものもある。

 ちょうど出てこられたK先生に伺うと、ドイツ人の建
築家、クリストファー・アレグザンダー氏の設計による
ものだという。

 構内の敷地は、東京ドーム20個分もあるとのこと。
この建物は体育館で、木の柱で出来ていて、木造の
体育館としては日本一の大きさともいわれた。


 東野高校の東側は、入間市博物館。南西端の入口から
入ったら、国土地理院が設置した電子基準点があった。


 東野高校側は広い芝生になっていて、東側に博物館の
かなり大きな建物が立っている。


 入館して40分ほど、古代から近代までの入間市の
歴史や自然、狭山茶ゆかりの展示などを見学する。


 特別展「入間を創った人たち」も見て、15時過ぎ、
博物館を出た。

 少し離れたバス停に行って待ったが、博物館行き
しか無く、南側の国道16号に回り、北中野バス停
16時11分発西武バスで西武池袋線入間市駅に向
かった。

(天気 雨後曇、参加 6人、距離 8㎞、地図(1/2.5
 万) 飯能、青梅、歩行地 入間市)
 

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関東百駅巡礼歩行38(伊豆箱根鉄道大雄山駅)

2007-10-21 23:40:33 | 関東百駅巡礼歩行
 さわやかな秋空に恵まれた今日は、カタツムリ歩行
会の例会で、つくばエクスプレス、流山おおたかの森
駅に出かけましたが、まだ先週のレポートが2つ残っ
ているので、そちらを先に報告します。

========================

 2007年10月13日(土)
 関東百駅巡礼歩行(38)
 =伊豆箱根鉄道大雄山駅=


 
 やまさんの関東百駅巡礼歩行、38番は、伊豆箱根
鉄道大雄山(だいゆうざん)線の大雄山駅である。

 小田急電車で小田原駅まで行き、大雄山線へ。もう
少しローカル色豊かな路線かと思ったが、沿線は住宅
地が続き、車両も首都圏の大手私鉄と変わりないりっ
ぱなものだった。

 終点大雄山駅に集まったのは、神奈川と東京在住が
中心の12人。駅前に、大きな熊に乗った足柄山の金
太郎の銅像がある。


 いつものように記念撮影をして11時3分にスタート
した。


 今日のやまさんのテーマは、地図上にある「記念碑」
マークを探しながら回ろうというもの。確かに目指す
エリアには、幾つもの記念碑マークがある。

 町並みを西北へ向かう。南足柄市役所前を狩川に
向かって下り、橋を渡る。

 
 火の見やぐらの横を上がって広町の名前の分から
ぬお寺へ。コンクリート造りで、寺らしくない本堂の
建物。でも中をのぞいたら古い仏像が祭られていた。

 そばの民家に、「パンあります」の看板が出ていた。
高橋さんのパン工房で、土曜の今日は休業という。

 でも、美味しいパンを試食させてもらう。

 隣の寺は、高橋さんのお父さんがひとりで建てたと
いう。「しょうぼう寺」といわれたが、漢字名は分から
なかった。

 河沿いに戻り、南東の猿猴院に回る。庫裡(くり)は
工事中だった。南側の小さな神社を経て、飯沢の次
の神社を目指したが、少し回り道して正午近くに着く。

 飯沢八幡ともいわれる南足柄神社である。

 室町時代の応永元年(1394)に大雄山最上寺が
創立されたとき、足柄明神と飯沢八幡の2神が手伝
いにきたとの伝説があるという。

 広い境内は豊富な緑に覆われ、社殿もりっぱ。もと
本殿だったという、社殿らしい造りの神楽殿もある。
境内の緑陰に並ぶベンチで昼食にした。

 南に回り、大雄山街道を下り、金剛禅寺へ。鐘楼が
あり、秋葉神社も祭られていた。近くの富士フイルム
足柄工場の、テニスコートと社員寮の間を抜ける。

 Mさんが、畑の隅の色づいた柿の実を採る。かじっ
てみたら甘かった。

 さらに南に進んで極楽寺に入る。
駿河の今川義元の血筋を引く仏満(ぶつまん)禅師の
建立という。

 りっぱな本堂を取り巻く境内は広く、うっそうとした
樹木に覆われ、庭木や参道はきれいに手入れされ
ている。


 目を引くのは鐘楼。四隅の柱に、亀や龍、キジ、
ヘビ、松竹梅などの精巧な木彫が施されている。

 このような鐘楼を見たのは初めてだ。つるべ井戸の
遺構もあった。

 山ふところを西に回って行くと、色づいた柿の葉が
たくさん落ちていた。

 何れも色鮮やかだが、持ち帰っても色あせてしまう
だろう。

 西が高い斜面林の下に、清左右衛門地獄と呼ぶ湧
水池があった。

 昔、清左右衛門という人が、よい水源を探してここ
まで来て、乗馬もろとも地中深く落ち、そこから勢い
よくたくさんの水がわき出したのだという。

 現在は、富士フイルムが管理し、足柄工場の第二
水源地になっている。

 池の中には弁天堂が祭られ、池のそばには、紅白
のフヨウがたくさん咲いていた。

 北に上がって大雄山詣での古道に出る。街道らしい
雰囲気を残す道筋を上がり、バス道路に出て少しで
石造の細長い円柱が立っていた。大雄山ゆかりのも
のらしい。

 その先に大雄山最乗寺の仁王門があり、14時ころ
に着く。ここで今日のウオークは解散となる。


 すぐにきた大雄山行きバスで、やまさんなど数人が、
まだしばらく先の大雄山最乗寺に向かい、私など残り
のメンバーは下ってきたバスで大雄山駅に戻った。

 戻った皆さんは、近くにあるタオルの量り売りの店
に行くという。私は皆さんに別れ、別のバスで新松田
駅に出て、小田急線で新宿駅に向かった。

(天気 晴、参加 12人、距離 5㎞、地図(1/2.5万)
 関本、歩行地 神奈川県小田原市) 
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関東百駅巡礼歩行・松陰神社前駅

2007-09-08 23:58:41 | 関東百駅巡礼歩行
 台風9号が去り、東京都内も残暑で33℃を越えました。

 今日は、「やまさん」の「関東百駅巡礼歩行」の第37番
目で、東京都世田谷区の東急世田谷線松陰神社前駅
周辺を歩きました。

========================

 2007年9月8日(土) =関東百駅巡礼歩行 No.37= 



 東急世田谷線は、京王線下高井戸駅と世田谷区の中心、
三軒茶屋を結ぶ、全長5kmの路線である。

 線路の幅が、JRや西武鉄道より広いと感じたので調べ
てみたら、やはり1372㎜だった。ちなみに、JRや西武は
1067㎜、新幹線は1435mである。

 私は、京王線下高井戸から乗り、松陰神社前駅に10時
前に着いた。

 今日の参加者は東京、神奈川、埼玉からの8人、写真は
私以外のメンバー。10時3分に駅を出た。


 駅東側の通りを北へ、まず松陰神社をめざす。

 途中で、地図に記されていた図書館に寄り道すること
にして、細い路地を入ったら、住宅の庭に珍しいピンク
のノウゼンカズラが咲いていた。


 世田谷図書館を確認して北側の松陰神社通に出て、
緑の豊富な松陰神社に入る。

 長州藩の志士、吉田松陰は、幕府の弾圧により江戸伝馬
町獄で処刑後、千住小塚原に罪人として埋められたが、
文久3年(1863)門下生の高杉晋作などにより、長州藩
の所有地だった、ここ世田谷若林に丁重に改葬され、明治
15年(1882)に松陰神社が建立されたという。

 神社西側の墓地に、吉田寅次郎(松陰)の墓があった。 


 社殿の東側には、吉田松陰の教育道場だった松下村塾
を模した建物がある。ほんものは、山口県萩市にある松陰
神社境内にあることは、萩を訪ねた方はご存知のとおり。

 神社の境内は、桜、モミジ、カシなどの豊富な緑に覆わ
れていた。

 神社の南側の松陰神社通を西へ、世田谷区役所前
交差点を通過し、中央図書館の西にある勝国寺に寄る。

 山門、この本堂、そして薬師堂とも最近の改築のようで、
いずれも新しい。

 さらに西へ進み、烏山川を暗渠(あんきょ)にして、その
上を緑道にした烏山川緑道に入り、南へ進む。

 緑道には、大正初期の世田谷城址付近の地図や江戸
名所図会・豪徳寺の絵など、この付近の昔をしのばせる
白磁のプレートが埋め込まれていた。

 もとの城下橋のところから緑道を離れ、西北に進んで、
豪徳寺に入る。

 豪徳寺の創建は文明12年(1480)だが、天文10年
(1633)に世田谷領主井伊直孝が井伊家の菩提寺と
して伽藍を創建し整備したという。  
 
 広い境内は緑が豊富だが、その中でも新しい三重塔が、
ひときわ目についた。


 豪徳寺は、招き猫発祥の地ともいわれ、境内の一角
に招猫観音が祭られていて、奉納された招き猫がたく
さん並んでいた。


 墓地の奥には井伊直弼(いいなおすけ)の墓がある。

 井伊直弼は、第16代近江彦根藩主で、幕府の最高
権力者になったが、直弼が行った安政の大獄に反対する
水戸浪士に桜田門外で、安政7年(1860)3月に暗殺
された。

 このあたり、世田谷郷は彦根藩井伊家領地であった。
墓は、右にちょっとだけ傾いていた。

 こちらは、豪徳寺境内に立つ大イチョウ。


 豪徳寺の正門がある西に出て、烏山緑道まで南下し、
緑道を少し東に回って世田谷城址公園に入った。

 ここも豊富な緑に覆われている。正午も近いので、木陰
のベンチで昼食をする。

 世田谷城は、14世紀後半に吉良治家が居住したのが
始まりとされ、のち北条氏と結んだが、天正18年(1590)
豊臣秀吉の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。

 昼食後、南に延びる城山通りを進み、東急世田谷線と
世田谷通りの南に回って、ボロ市通を東に向かう。

 ここがボロ市通り、12月15日の世田谷ボロ市には、
この通りは出店(でみせ)で埋めつくされるという。


 少し進んで、世田谷代官屋敷に入った。

 江戸時代の初め、この家の主、大場氏は彦根藩井伊家
世田谷領(2300石)の代官職を務め、明治維新まで世襲
したとのこと。

 この母屋は、江戸中期の元文2年(1737)と宝暦3年
(1753)の2度における工事で完成したという。
 
 約70坪(231.4㎡)あり、関東地方における代官屋敷
としての規模をよく保存していることから、母屋と表門が
国の重要文化財に指定されている。

 中に入ると、高い天井に曲がった太い梁や屋根組みが
丸見えで、当時の高い建築技術が垣間見られる。

 屋敷内には、樹齢200年といわれるタブノキをはじめ、
やはり緑が豊富で、セミの鳴き声が賑やか。屋根掛けを
したつるべ井戸も残っていた。

 地続きにある世田谷区郷土資料館に入り、出土品や
代官屋敷の模型、玉川上水の木桶などの展示を見て、
13時半前に、解散となる。

 私はこの後、東急世田谷線の西側沿いに北へ向かい、
吉良氏歴代の墓のある桜一丁目の勝光院や、源義家が
奥州の内乱を取り鎮めた記念に建てたと伝えられ、来週
15日が秋の大祭となる世田谷八幡宮、その北の常徳院
などを回り、14時20分に小田急線豪徳寺駅に着いた。

(天気 晴、距離 4.3k(郷土資料館まで)、7k(豪徳寺
 まで)、地図(1/1万) 世田谷、歩行地 世田谷区)
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