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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

「関東百駅巡礼歩行 観音」が朝日新聞千葉版に紹介

2009-09-25 21:56:18 | 関東百駅巡礼歩行
 9月12日(土)に参加した、「やまさん」こと山浦正昭さんが企画・実施して
いる「関東百駅巡礼歩行」の銚子電鉄 観音駅からのウオーキング模様が、
翌9月13日(日)の朝日新聞千葉版に掲載されました。



 この日は、やまさんと私、そして取材に来られた朝日新聞銚子のSさんの3人
だけでしたが、Sさんはそれを、さっそく紹介して下さったのでした。

 関東百駅巡礼歩行は、関東1都6県を毎月ひとつずつ移動して、ふだんあまり
下りたことのない駅周辺を歩くというもので、思いがけない発見やふれ合いが
いつも楽しみです。

 毎年、7月と8月をのぞく10回実施していて、今年で6年目に入っていて、今月
の銚子電鉄 観音駅で57回目になりました。

 私は2004年2月の初回から参加していて、57回中の38回参加で、参加率は
ちょうど2/3の66.6%で、やまさん以外では最多です。

 いつも楽しみなので、これからもできるだけ参加したいと考えています。

 ちなみに、当ブログでは「カテゴリー」欄に「関東百駅巡礼歩行」を設けています。
ここをクリックすると、過去の様子がご覧頂けます。

 

 

 
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関東百駅巡礼歩行 銚子電鉄 観音駅(千葉)

2009-09-14 22:39:55 | 関東百駅巡礼歩行
 シアトルマリナーズのイチロー選手、とうとうやりましたね。9年連続で
200本安打達成というアメリカ大リーグの新記録。常人には考えられな
い偉大な記録です。

==============================

 2009年9月12日(土)  

 8月26日にドイツの歩き旅から帰って2週間余りは、その整理と、家事
のよんどころない事情発生などで、あわただしい日々が過ぎた。

 ようやくひと区切りついた9月12日、やまさんの関東百駅巡礼歩行の
第57番、銚子電鉄観音駅に参加した。



 朝6時20分過ぎに自宅を出た。JR池袋駅でジパング倶楽部会員限定、
期間も限定のホリデーパスを購入、千円でJR総武本線の成東までは使
える割安きっぷである。

 池袋、東京、千葉と乗り継いで4時間余りの10時33分にJR銚子駅に
着く。

 到着ホームの先方に銚子電鉄のホームがあり、可愛い待合室の先に
1両の車両が待っていた。

 車内は犬吠埼へ行くのか、何組もの観光客でほぼ定員の乗車である。

 車庫のある中野町駅の次が、今日の集合地、観音駅。無人駅かと思っ
たら女性の駅員さんがいた。

 駅には、先着のやまさんただ一人。間もなく、朝日新聞銚子支局のS
さんが来られた。記念撮影をして、10時45分に駅を出る。


 北に少し進み、まず円福寺へ。これから行く坂東三十三観音霊場第二十
七番飯沼観音の納経所があるので、先に納経帳にご朱印をいただいた。

 円福寺は、神亀5年(728)、漁夫が利根川河口から拾い上げた十一面
観音を仮屋に奉安したのが初めとか。弘仁年間(810~24)、弘法大師
が来られて伽藍(がらん)を建立し大師を開祖と仰いだという。

 境内には、江戸の豪商、鈴木金兵衛が天保12年(1841)に読んだ、
銚子を代表する句

   「ほととぎす 銚子は国のとっぱずれ」 の句碑が立っている。



 観音堂は200~300mほど南にある。


 同じ境内にある、太平洋戦争で焼失した薬師堂、多宝塔の再建をかねて
今年5月に完成したという五重塔は、銅ぶき、総ヒノキ造りで、高さ53.5m、
千葉県内でも2棟目とのこと。


 五重塔のそばに、明治5年(1872)、オランダ人技師・リンドが設置した
という「飯沼水準原標石」がある。

 日本における河川測量の原点で、日本水準原点設置の原点ともいえる
貴重なもののようだ。

 飯沼観音に参拝後、車道を西に進み、本銚子駅の南側にある海静寺に
行く。本堂はこぢんまりとした近代的な造り。


 その横に、鉢植えの見慣れぬ色鮮やかな花が咲く。アリスデライトなど
の名が記されていた。


 すぐ先の石鳥居をくぐり、階段を上がった金刀比羅宮の横に、地理学者
で大日本地名辞書を完成したという吉田東伍終焉(しゆうえん)碑が立つ。

 吉田東伍は、大正7年(1918)1月19日に銚子に来たが、発病1日で
逝去したとのこと。それでもこのようなりっぱな碑が立つのだから、その人
がらがしのばれる。

 境内には、小さな社の三峰神社があり、狛犬は、秩父の三峰神社ゆかり
のオオカミのようだ。

 境内は高台なので、利根川にかかる利根大橋が望まれる。橋を渡った
対岸は茨城県神栖(かみす)市になる。


 南に向かっての下り坂は、映画のロケ地にも使えそうな趣ある石垣が続
いている。


 交通量の多い車道を横断して、南側の古い家並みの残る旧道を西北に
進む。民家の軒先に朝顔のような花が咲いていた。種の袋を見ると、「琉
球朝顔・もみじ葉」となっている。

 近くには、倒れそうな煙突とさびついた構えの、銭湯だったらしい建物が
残っていた。

 利根川右岸の第一漁港際に出たら雨が降り出す。すぐに本降りになった
ので、漁港の建物の軒先を借りて雨具を付ける。

 近くにある川口神社への上がり口は、独特の傾斜の長い石段が続いて
いた。


 豊富な森に囲まれた神社境内。雨を避けて社務所の軒下で昼食にした。


 間もなく、社殿の下でこっそり飼っているという猫に餌(えさ)を与えに、
2人の小学生がやってきた。

 石段の途中には、吉田松陰が21歳の時に来たことを記した漢詩を刻ん
だ、「松陰先生曽遊之地」碑が立っている。


 昼食を終えた頃には雨も上がった。

 川口町二丁目の住宅地を進んで千人塚へ。銚子付近で遭難した船の
乗組員の、慰霊のための碑や歌碑などが立っている。

 それにしても、先ほどの金刀比羅宮や川口神社もそうだったが、ここにも
慰霊碑などが幾つも立っている。銚子の人は、石碑を建てて供養や業績
などを記すのがお好きなのだろうか…。

 この辺りが、利根川の河口で、その先は太平洋に面している。海岸沿い
の道を西に進んで、展望台であるポートタワー下まで行く。

 タワー最上階の4階展望室は、高さ46.95m、眼下に銚子漁港、利根
川の河口や広大な太平洋の水平線などが望めるという。

 タワーに隣接している「ウオッセ21」と呼ぶ水産物即売センターに入る。
銚子漁港で水揚げされた魚介類や食料品、食事処などの店が並び、車で
来た買い物客で結構賑わっていた。

 今日はここがゴール、13時20分に着き、13時48分発の岬めぐりシャト
ルバスでJR銚子駅に戻る。


 構内の観光案内所をのぞいたり、新しいコンビニにあった銚子電鉄継続の
鍵ともいえるぬれ煎餅を買ったりして、14時34分発総武本線経由で帰路
についた。

(天気 曇り一時雨、距離 5㎞、地図 銚子、歩行地 銚子市)
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関東百駅巡礼歩行 JR水郡線 谷河原駅(茨城)

2009-06-16 15:49:28 | 関東百駅巡礼歩行
 2009年6月13日(土)



 関東地方の、ふだんは降りる機会の少ない駅を訪ねる、「関東百駅巡
礼歩行」の第56回に参加した。

 集合はJR水郡(すいぐん)線の谷河原(やがわら)駅、片側だけのホー
ムの両側は、緑濃い田んぼが一面に広がる。ホームで記念撮影をして、
10時15分に出発した。


 駅の北側は谷河原町集落の東端、まず、そばの西光寺に入る。

 山門に「親鸞聖人御旧跡二十四輩二十四番本跡」の看板がある。境
内の庭木はよく整えられ、大石の上に、親鸞上人像が立っていた。

 寺の横から、台地に向かって緩やかに上がる。路傍に「馬力神」と記
された石碑が並ぶ。ほかではあまりみたことのないもの。


 三差路を左折して西に向かい、集落の中を少しずつ下る。格子状に木
を組んだ板張りの壁面を持つ家が多く、これもこの地方特有の造りか。
大谷石造りの土蔵も幾つか見かけた。

 集落を見下ろす高台に、杉、ケヤキ、カシなど豊富な樹林に囲まれた
元白羽神社があった。

 しめ縄は、二つの縄を真ん中で結んであり、初めて見るもの。その土
地だけにあるものを見つけるのも、百駅の楽しみの一つである。

 集落の西端で田園地帯に下り、自然堤防に草の伸びた渋江川沿いに
進む。シロツメクサがたくさん咲き、チョウが何組か舞う。田んぼの稲は
しっかり根づき、一面緑の広がりが気持ちよい。


 猪ノ手集落に入って再び台地上に出て、アジサイの咲く集落を進む。
山菜のようなものを干しているのが見えた。聞いてみたら、素昆布だ
という。道理で、甘酸っぱい香りが漂っていたのだ。


 正午のチャイムを聞きながら、県道61号際にある坂東三十三観音
霊場第二十二番札所の佐竹寺に着いた。

 寛和元年(985)、花山天皇の勅願により開山されたと伝えられる
古寺。古い仁王の立つ山門をくぐると、正面に重厚なかやぶき寄せ棟
づくりの大きな本堂がある。

 天文15年(1546)、佐竹義昭により再建されたもので、火頭窓(か
とうまど)や柱、組み物など桃山時代建築の先駆として注目されるもの
という。国の重要文化財である。

 柱や扉などに数えきれぬほどの千社札が貼られ、あんな高いところに
もと思われるところにもある。

 参拝後、本堂背後の板張りに腰を下ろし、昼食にした。

 山門前から北に回り、黒米を無人販売する家の横から天神林町集落へ。
集落の南側、芝草の細道沿いに、廃屋になった民家が数戸あった。

 集落の北側に、「山寺の水道」の説明板があり、「この地方は水に恵ま
れなかったため、徳川光圀公が命じて、約2㎞の水道を施行したが、約
300前に一部トンネル式水路にした工法は、類例のない特色である」
などと記されていた。

 この水道は、現在も近隣の農家で利用されているようだ。


 近くに小さい神社があり、その鳥居には太い丸太を使っているが、木の
皮をはいだだけで加工せずに組んだ、そぼくな造りだった。

 宮ヶ作の小集落からは、緑の林と田んぼが見晴らせ、気持ちよい展望。


 田んぼの北に上がった草地に、「久昌寺遺跡」の石碑と、説明板がある。

 徳川光圀公が生母の菩提寺として、水戸から移した久昌寺の跡で、北
関東における日蓮宗の法城だったという。現在の久昌寺には、この後訪
ねた。

 近くの標識に従い、西山荘に向かうことにしたら、すぐ先に岩をくり抜い
た道があった。

 頭がつかえそうな岩穴のトンネルを抜け、その先は竹林などの林間を
上がる。

 峠を越え、そばの十字路を北に向かい、杉などの繁った谷間を下って、
西山荘の入口に出た。

 水戸黄門で知られる徳川光圀が、元禄4年(1691)から晩年の10年
間、隠居所とした遺跡。光圀公は、ここで大日本史の編さんをするかた
わら、領民にも接し、いろいろな事業もすすめたという。

 モミジや梅、下草には笹など、緑がいっぱいの広い敷地内に、かやぶ
き平屋の質素な建物が3、4棟あり、心字池と呼ぶ池をめぐらしている。
各々のかやぶき屋根の上には、ショウブが並んでいた。

 梅園の間の遊歩道を進んだ「西山の里 桃源」の菖蒲池は、ちょうど花
菖蒲が見ごろ。車で来た人も多く、花にカメラを向けていた。

 桃源の駐車場の少し先から、南への坂道を西山公園に上がる。桜など
の植栽が多く、光圀公の遺徳をしのんで建立されたという義公廟付近か
らは、こずえ越しに常陸太田の市街が望まれる。


 廟の前から急階段を下り、そばの久昌寺へ。コンクリート造りのどっしり
した本堂。鐘楼付近からは、やはり市街地の眺めがよい。


 予定の列車に間に合うようにと先を急ぎ、眼下の太田二高を半周して
源氏川沿いに下る。そばの橋を渡り、左岸沿いの遊歩道へ。アシの伸び
た川原でヨシキリが鳴く。

 運動公園の対岸まで進み、国土交通省の建物の横で県道に出て、15
時5分、JR水郡線の枝線の終点、常陸太田駅に着いた。

(参加 4人、天気 曇後晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 常陸太田、歩行
 地 常陸太田市)
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関東百駅巡礼歩行 安中駅(群馬)

2009-05-01 22:40:27 | 関東百駅巡礼歩行
 今年も早くも1/3が過ぎてしまいました。5月に入りましたが、レポ
ート投稿が遅れており、4月中旬の記録です。

=============================

 2009年4月11日(土)



 関東百駅巡礼歩行の第54番目に参加した。集合は、JR信越線の
安中(あんなか)駅。参加の4人は、快晴の駅前を10時54分にスタート
する。


 駅の北に向かい、国道18号を越えて碓氷(うすい)川の左岸に出る。
ナノハナやモモ、ソメイヨシノやヤマザクラなど春の花がそちこちに
咲き競う。


 西方には残雪の浅間山や、独特の山容の妙義山などが望見できる気
持ちよい展望が広がる。


 久芳橋で碓氷川を離れ、駅の南斜面に複雑に広がる東邦亜鉛精錬所
の西側に回る。構内の一角にある食堂をのぞくと、昼食の準備中。

 メニューはいずれも350円で、一般の人も利用できるという。構内の
ソメイヨシノも満開だった。

 精錬所と柳瀬川の間から延びる、石段の道を上がる。中ほどに神社跡
らしい平地があり、安中の町並みや浅間山が見晴らせる。

 さらに石段の道をウグイスのさえずりを聞きながら進み、東邦亜鉛背後
の台地に上がった。


 社宅跡らしいところを抜け、まだかなり残る桑畑などの間を進み、北野
殿の集落へ。民家の前に大きなソメイヨシノとシダレザクラが咲き、いず
れも見ごろである。


 集落の東側にある念称寺に行き、暑くなった日差しを避けて本堂の屋
根下に腰を下ろす。


 目の前に見えるハナモモやソメイヨシノを見ながら昼食にした。


 南東の集落、東野殿に向かう。寺の近くのリンゴも白い花を開き始めて
いた。


 集落の入口にあった白山姫神社境内も数本のソメイヨシノが見ごろ。
桑畑やフキを栽培する畑などがあり、台地上なので榛名山塊など、周辺
の展望がよい。


 ホルスタインの遊ぶ牧場の先から、田んぼ近くまで下り、西側の西野
殿集落に上がる。像ではなく文字で刻まれた道祖神があった。


 集落の南側を進んで、ウグイスの鳴く棚田の横に下る。その先を少し上
がり、畑の間の細道を西の谷間に出るつもりで進んだが、道が途切れた。


 しかし、雑草地を少し回り込んだら桑畑に出て、切通し集落南側の棚
田に下ることが出来た。


 棚田を貫く流れに沿い、あぜ道を下って観音橋を渡り、後小峰集落へ。
集落を南西に進むと、産気大明神の朱塗りの鳥居があり、そばのソメイ
ヨシノもほぼ満開。

 神社の社殿は、東側を急降下し、さらに少し上がったところにあるので
参拝は省略し、鳥居のそばで小休止した。

 すぐ近くで折り返し気味に、北の台地下の田園地帯に下った。

 柳瀬川と信越線の線路を越え、新島襄ゆかりの新島学園の横に出る。
そばのつわや橋で碓氷川を渡り、中山道安中宿の一角、安中三丁目へ。

 T字路を少し西に行くと、公開されている土蔵作りの旧安中藩武家長
屋と、かやぶき屋根の安中藩奉行役旧宅があったが、時間の関係で
入館は省いた。


 戻って駅のある東方に向かう。安中城跡である安中小の校門付近は、
古木のソメイヨシノが10数本あり、満開の花が青空に映える。

 そばの日本キリスト教団安中教会は、明治11年(1878)3月、新島
襄の洗礼を受けた30名により創立した群馬県最初のキリスト教会で、
日本人の手で創立された日本最初のキリスト教会だという。

 建物は国登録有形文化財で、構内の何本かのシダレザクラが見ごろ
だった。

 隣の木造平屋は、明治44年(1911)に建築された旧碓氷郡役所。
群馬館内でただ一つ残る郡役所で、安中市文化財として公開されている。
入館して観覧した。


 安中宿本陣跡の安中郵便局前には、本陣跡を記した標識だけが立って
いた。通りには、安中宿の面影を残す古い建物も残っている。


 流れの両側に大きな一枚岩を見下ろす橋を渡り、15時35分にJR安中
駅に戻った。

(参加 4人、天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 富岡、歩行地
 安中市)
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関東百駅巡礼歩行(53) JR八高線明覚駅(埼玉)

2009-03-17 14:25:51 | 関東百駅巡礼歩行
 2009年3月14日(土)



 午後まで風雨が強いとの予報だったが、関東百駅巡礼歩行第53番
に参加した。

 集合は、JR八高(はちこう)線明覚(みようかく)駅。私は下りで9時26
分に着いたが、10時着の上り列車から降りたのは、やまさんのみ。

 雨具を着けて10時20分に出発した。

 駅の近くの県道172号と都幾川を横断し、少し先から田んぼのあぜ
を走る道路へ。雨に煙る低い山並みがやわらかな彩りを見せる。


 都幾川の左岸沿いに出て、小さい橋の先に進むと、小屋の中に雨を
避けてヤギが休んでいた。対岸の畑の一角の白梅が見ごろ。


 本郷集落の、若い紅梅が10数本咲き競う梅林の近くの観音寺へ。
小さめの本堂だが、本尊の聖観世音菩薩は、弘法大師作といわれて
いるという。

 「江戸時代中期から、現明覚小開校まで、近村の寺子屋としても栄
えた」とも記されていた。門前には、六地蔵などを祭った小屋がある。

 県道30号を越え、別所集落を過ぎると、車のほとんどとおらぬ車道
は、緩やかな上り道となり、堂山(250m)の山腹をジグザクに進む。

 ウオーキング中らしい、傘を差した奥さんが前を行くが、足どりが早
い。しばらくして追いつき聞くと、近くにお住まいの方で毎日一人で歩
いているとのこと。

 見学自由の木作り工芸「木造ちゃんハウス」という木工所の横で奥
様と別れ、、少し上がるとその建物が見下ろせる。

 さらに上がると西側の展望が開け、眼下に雨に霞む宿(しゅく)集落
だろうか、家並みなどの展望が広がる。


 展望のよいカーブ点に、大きなセカンドハウスらしい建物があった。
へいのすき間からのぞいたら、中から人が出てきた。聞くと、池袋に事
務所を構えるS工房という設計事務所の所長別邸とか。

 壁面は檜皮葺(ひわだぶき)とのこと。「住宅特集」という雑誌の5月号
に紹介されるとも教えてくれた。


 そのあたりからは、雨に煙る山並みが幻想的な風景を見せている。

 さらに上がり雲河原集落へ。その名のように標高300m付近に散在
する山上集落。緑の斜面に梅が点々と咲き、日本の原風景ともいえる
静かなたたずまい。

 集落の先のうっそうとしたヒノキ林の下が四幡神社。八幡神社はあち
こちにあるが、半分の四幡神社というのは初めて。

 12時18分に着き、雨を避けて賽銭(さいせん)箱の横で昼食をさせて
もらう。


 12時半に出発、鳥居をくぐり、参道というより山道のようなヒノキ林の
中の土道を下る。分岐を右にとり、さらに細道をしばらく下り、後野集落
近くの車道に出た。

 集落の中ほど、「彩の森とき川」の建物下に下って県道273号西平
小川線を横断、林道赤木慈光線に入る。少し先のY字路で、「後野みか
ん山 慈光寺方面」の標識に従い山道へ。


 再び上りとなり、点在する集落を抜けると、あちこちに紅梅白梅が咲
き、緑の中に彩りを添える。

 桜の老木も幾つかあり、花どきにもう一度訪ねてみたいと思う。

 妙竹林山荘という一軒だけのセカンドハウス風の家を過ぎ、右からの
林道に合し、坂東三十三観音霊場九番札所の慈光寺に着いた。

 白鳳2年(673)慈光による開山という古寺。以後、役行者が修験道
場を建て、奈良から鑑真和尚の高弟、道忠(どうちゆう)が来山、慈光寺
第一世になったという。

 まず車道の上側にある観音堂に上がって参拝する。

 観音堂は享和3年(1803)の再建とか。社殿にはきめ細かな木彫が
施され、格天井にも絵が描かれていたようだが、今は色あせてしまって
判然としない。


 車道の下に下り、本堂に上がって参拝し、納経印をいただく。本堂内
にも2体の観音像などが祭られていた。

 本堂前には、最澄の弟子、慈覚大師円仁(794~864)が天長年間
(824~34)に植えたといわれる樹齢千百余年の多羅葉樹(たらよう
じゅ)が繁っている。

 葉の表皮に棒などで字が書けるので「郵便葉書(はがき)」の語源と
なった木だという。

 宝物殿には、後鳥羽法皇をはじめ、藤原兼実などが書写した国宝の
「法華経一品経」はじめ、多くの文化財があるが、時間の関係で拝観
は省略した。

 境内にいる間に急速に天気が回復、寺を出るころは日が差し、青空が
広がってきた。

 表参道である南へ下る車道へ。少し下ると、鎌倉時代の建立という板
石塔婆(いたいしとうば)9基など、りっぱな石碑が並んでいた。


 その下には、昭和61年(1986)に植えたという一葉と普賢象(ふげん
ぞう)という2種の八重桜の並木が続き、花どきが期待される。

 宿集落に入ったあたりには、入比坂東三十三ヶ所観音霊場一番札所
の女人堂が立っている。「入比」とは、埼玉県西南部の入間、比企地方
のこと。


 このあたりは宿集落の中心で、宿場の面影を残す建物も見られる。そ
のひとつ、宿交差点そばに、築150年という「寧々房(ねいねいぼう)」と
呼ぶ古民家ギャラリーがある。

 ウインドウや店内には、代表のSさんが自ら作ったという、仏像などの
陶器や木工家具がたくさん並んでいた。

 宿交差点から県道を東に少しで、インフォメーションセンターと記された
木造の建物があり、そこが慈光寺入口バス停、15時ちょうどに着いた。
すぐに来た明覚駅経由の小川町駅行きバスに乗る。

(参加 2人、天気 雨後晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 安戸、武蔵
 小川、(越生、正丸峠)、歩行地 埼玉県ときがわ町)
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関東百駅巡礼歩行 JR東海道線 鴨宮駅(神奈川)

2009-02-22 21:52:07 | 関東百駅巡礼歩行
 2009年2月14日(土)



 関東百駅巡礼歩行の第52番で、JR東海道本線の鴨宮(かものみや)
駅に行く。

 私がこの駅に下りたのは、開通前の東海道新幹線の試乗で、当時の
国鉄鴨宮電車基地に行った昭和39年(1964)の早春だったと思う。
以来45年ぶりになる。

 明け方までの強風と激しい雨が上がり、すっかり好天となった。今日
の参加者は、カメラの私を入れて11人。駅前で記念撮影をして、10時
18分に出発した。


 駅前を南に向かい、下菊川を斜めに横断し、まず酒匂(さかわ)神社へ。

 
 黒松や背の高いクスなどに囲まれた境内に、イチョウの古木がある。
 落ちていた葉を見て、葉の割れ目が深いのと、浅いので雌雄が分か
るという話になった。

 ところが、割れ目が深い方が雌という人と、ズボンのようなのが雄で、
割れ目の少ないスカートのようなのが雌と聞いているという2つの説が
出て、どちらが本当だろうかということになった。

 この先行く方向に図書館マークがあるので、あとで寄って調べることに
して、神社を出る。
 
 国道1号線に入ると、東京から81㎞の標識が立ち、近くに、長い黒へ
いと長屋門のある旧家らしい屋敷があった。 


 その前にある酒匂不動尊の角から、細道を海岸に向かう。すぐ先の空き
地のカヤの木の下に、「明治天皇酒匂行在所(あんざいしょ)跡」の石碑が
立っている。

 明治天皇が箱根行幸の帰路、立ち寄ったところで、名主だった鈴木家が
あり、その後、松涛園という旅館があったことが記されていた。

 海岸に近い松林のところに出たが、西湘バイパスの向こうの海側に回
れない。 


 少し東側に回ったら、バイパスの下をくぐるトンネルがあり、海岸に出ら
れた。朝方までの強風は治まっているのだが、まだ海は波がかなりあり、
ゴウゴウと激しい海鳴りを響かせている。


 砂浜に沿って下菊川の河口まで進み、川沿いを国道1号に回る。国道
の酒匂橋からは、箱根連山の山すそに、富士山が姿を見せてくれた。


 橋を渡って酒匂川右岸の遊歩道を少し進む。気温が上がって暑い
ので、日差しを避けて松林の下で昼食とする。

 12時11分に出発、向こうに見える上流の小田原大橋を渡り、再び
左岸沿いに回った。

 南鴨宮一丁目の住宅地の中にある小田原市立かもめ図書館に行き、
酒匂神社で決着がつかなかった「イチョウの葉による雌雄鑑別法」につ
いて調べることにした。

 司書の方も何冊か植物図鑑などを調べてくれたが、葉で判定するこ
とを記したものは見つからない。結局、小田原評定は「雌雄決せず」と
いうことになった。

 工場の構内に大きなコンクリート製の輪が飾ってあるPS三菱の工場
横から、JR東海道線と新幹線の下を抜けて北側へ出た。

 新幹線沿いにある明治製菓の工場横を東へ進む。鴨宮の古い住宅
地に入り、加茂神社に寄る。

 境内は狭いが、太いケヤキとイチョウがご神木として祭られていた。

 新幹線のそばまで進み、左折して北へ。両側に広い敷地でりっぱな
建物の民家が並び、その中にかやぶき屋根の家が残っていた。庭の
梅も、なかなかの古木である。

 奥様が道路を掃除していたので、お断りして庭に入り、建物やよく手
入れされた広い庭を拝見する。

 さらに、南側の別棟の玄関先に飾ってあるという、ひな人形も見せて
下さった。

 これは、奥様がお嫁入りしたときに持参したものとのこと。ほかに数組
のおひな様が飾ってあった。

 「すぐ先に、もっとりっぱな文化財のかやぶきの家もあります」と、I さん
の奥様はご案内して下さる。しかし、大きな門は閉ざされ、庭に入って見
ることはできず、門のすき間から勝手に撮らしてもらう。

 安政4~5年(1857~8)建築のもので、戦後、三越の社長など、財界
で活躍した岩瀬英一郎氏の生家。小田原市文化財に指定されていた。

 岩瀬邸の角を西に向かう。近くの光照寺には、市天然記念物で、樹齢
300年というヒイラギの古木が立っていた。

 その先は新興住宅地で、住宅が尽きた北側は田園地帯。丹沢や箱根
などの山並みの展望が広がり、ナノハナが咲き、柿畑などもあり、距離は
わずかながら、気持ちよいカントリーウオークのフィールドになっていた。

 国道255号を越えて飯泉の集落に入り、坂東三十三観音霊場第五番
札所の勝福寺(しょうふくじ)に行く。 

 「飯泉観音」とも呼ばれ、父の仇討ちで知られる曾我兄弟は、ここの
仁王門に納められている仁王像から力を授かった、といわれていると
のこと。

 また、篤農家として知られる二宮金次郎は、文化元年(1804)、18
歳のときに参詣し、観音信仰に目覚めたという。

 広い境内には、ケヤキ、ムクノキ、イチョウ、クスノキ、カヤなど木々が
豊富だが、特に本堂前のイチョウは、高さ30m、胸高周囲7.5m、推
定樹齢700年の巨木で、遠くからも目に入った。


 境内にはほかに、寛文6年(1629)製の銅鍾や、宝永元年(1704)
製で竜頭船の形をした青銅の水鉢など、貴重な文化財が目につく。

 宝暦8年(1758)造営で、県下でも最大級という堂々たる仁王門を
出て、酒匂川の左岸堤防沿いに出た。

 逆光に霞む箱根連山などを見ながら、国道255号の飯泉橋を渡る。 


 酒匂川の右岸堤防を下水処理場のそばまで進み、扇町五丁目へ。住宅
に囲まれた梅畑の梅が見ごろだった。

 ちなみに、小田原は関東でも有数の梅の産地。途中でも見ごろな白梅、
紅梅をあちこちで見た。

 近くの大雄山線 五百羅漢駅から皆さんは帰路につく。私は、少し先の
小田急線足柄駅に14時59分に着いた。

 (参加 11人、天気 晴後快晴、距離 11.5㎞、地図(1/2.5万)
 小田原北部、歩行地 小田原市)


 この日、小田原市の最高気温は26.1℃になったとか。2月としては
新記録となる高温で、シャツを腕まくりしても暑かった。

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関東百駅巡礼歩行51番・つくばEXP浅草駅(東京)

2009-01-13 19:05:56 | 関東百駅巡礼歩行
 2009年1月10日(土)



 「やまさん」こと山浦正昭さんの関東百駅巡礼歩行、6年目に入
って最初の第51番目は、つくばエクスプレス浅草駅。

 このあたり、つくばエクスプレスは国際通りの地下を走っている。
私は、JR上野駅から歩いて国際通りに入り、浅草駅に下った。

 今年の初歩きということもあり、参加者はいつもより多い15人。
改札口前で記念撮影をして、10時過ぎ地上に出る。


 西側のかっぱ橋本通りに入り、すぐ近くのテプコ浅草館に入館した。
東京電力のPR施設だが、電気のPRだけでなく、地元浅草ゆかりの
展示がいろいろとあった。

 1階では、明治から大正時代の浅草の様子をイラストマップや写真
で紹介しており、ギャラリーでは、漫画家12人による「ヒトコマ漫画
の旅」と題する展示をしていた。


 2階は、「東京浅草下町ストーリー」と題し、懐かしい浅草の雰
囲気にひたれる体験空間となっていて、浅草12階で知られた凌
雲閣(りょううんかく)や、電気館、千住火力発電所の「お化け煙
突」などが写真や絵、模型などで紹介され、また浅草オモチャ店、
浅草文庫、理髪店あさくさなどといった模擬設備が設けられている。

 3階の貸ギャラリーでは、はがき絵愛好者数十名の作品を集めた
「第16回彩水回展」を開催中だった。 


 かっぱ橋本通りには、カッパが立って出迎えている店もある。


 日輪寺の角を北の通りに回り、天嶽院を訪ねる。そう広くはないが
浅草とは思えぬ木々の多い境内に、こんな立て札が立っていた。

 出てこられた奥様にうかがうと、昨年ご住職が亡くなられ、1年間
はこのような立て札を出すのだという。 

 本堂裏手の墓地には、都の史跡で米沢藩主・上杉治憲(鷹山)の
師だったという細井平洲の墓があった。


 浅草ビューホテルのところで国際通りを横断し、東側の花やしき
通りへ。ウオーカーとしてはちょっと入ってみたい看板の店がある。


 花やしきの門前を通って、浅草観音で知られ、都内最古の寺と
いう浅草寺(せんそうじ)に入った。


 広い境内は、初もうで客など、多くの参拝者で賑わっている。

 浅草寺は、坂東三十三観音霊場の第13番札所。持参した納経
帳にご朱印をいただいた。 

 境内東側の広場で、若い猿回しが猿に芸をさせていた。

 どのくらい仕込んだのか、モンキー君なかなかみごとな技を見
せてくれる。

 投げ銭もたくさん集まった。

 境内にある浅草神社の横から北に抜け、言問(こととい)通りを
東に向かい、隅田川の言問橋を渡る。

 橋の下流に立つ、左が墨田区役所、右がアサヒビールのビル。


 橋を渡ったところは、今年の干支ゆかりの牛島神社。境内には、
撫牛(なでうし)というのがある。 

 江戸時代からの風習で、自分の体の悪いところをなで、牛の同じ
場所をなでると、病気が治るとのこと。皆さん、そんなに悪いところ
があるの?…。


 そばの、隅田川左岸沿いに続く隅田公園に入り、昼食にした。


 午後は北に向かい、JR常磐線や東京メトロ日比谷線、つくば
エクスプレスの南千住駅がゴール予定とのことだったが、私は、
北浦和でのカントリーウオークグループの新年集会に参加する
ため、ここで皆さんと分かれる。

 ひとつ下流の吾妻橋を渡り、雷門前や合羽橋南通を経て、JR
上野駅まで歩き、JR京浜東北線で北浦和駅に向かった。

(天気 快晴後晴、距離 7㎞(上野駅まで)、地図(1/1万)
 上野、日本橋 歩行地 台東区、墨田区)


【参考】 浅草寺縁起(由来) <浅草寺Webから>

 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前
浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟は江戸浦(隅
田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。

 郷司(ごうし)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)は
これを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その
後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。

 大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地に
おいでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定め
られ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。

 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかっ
た浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚
大師円仁さま(794~864、浅草寺中興開山・比叡山天台座主
3世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。

 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者と
して歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ
増した。

 江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてか
らは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、
大きく繁栄したのである。

 かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全
国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの
参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。

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関東百駅巡礼歩行(50)(那古船形駅)(千葉・館山)

2008-12-16 22:25:34 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年12月13日(土)



 やまさんが2004年2月からはじめた関東百駅巡礼歩行、ちょう
どまる5年となる第50回目は、JR内房線の那古船形(なこふなか
た)駅。自宅から約4時間をかけて10時46分に到着した。

 参加者は、カメラの私を入れて6人。開設当時のままかと思われ
る古い駅舎の前で記念撮影して、11時ころスタートした。


 まずは駅の東側、堂山の中腹にある崖ノ観音に向かう。線路沿い
から田んぼのあぜ道に出ると、崖の観音の背後の堂山(107m)が
見えてきた。


 船形集落に入って山すそを進む。館山白百合幼稚園のドリームラ
ンドウッズと呼ぶ樹木の多い遊園施設の先に、大屋根の西行寺が
あり、境内の大イチョウが目に入る。


 堂山の東側山すそに古いゲートがあり、常緑広葉樹林に道がつい
ていたので進んでみた。しかし地図上の果樹園マークのあたりで道
は途絶え、その果樹園らしい面影も全く残ってなかった。

 戻って山すその民家の背後を進み、「崖の観音」と呼ばれる大福
寺に入る。本堂前に2本の大きなソテツが並び、南房総の暖かさが
実感できる。


 崖の観音は、背後の露出した岩肌にへばりつくように懸崖造りで
できている。

 西側にある急な石段から、観音堂に上がった。

 堂内の崖面に彫られているのは、十一面観音の真崖仏(まがい
ぶつ)。観音堂が断崖の中段に飛び出すように建てられたことから、
「崖の観音」と呼ばれていて、観音像のは平安時代中頃の様式と
うかがえるが、制作年代は確定できないという。


 観音堂の舞台からは、逆光に輝く館山湾や、眼下の船形集落、
東の山すそに広がる川名集落などの展望がよい。


 すぐ西側の山腹には、垂直の岩壁を背にして諏訪神社も祭られ
ていた。

 ちょうど正午になったので、観音堂前の椅子を借り、館山湾など
を眺めながら昼食をする。

 寺を出て、船形集落の家並みの間を回って船形漁港に出た。波
静かな湾内は小さな漁船が数隻だけ。漁協の卸売市場にも人影
は見られず、閑散としている。

 今朝は休漁なのか、東側の駐船場の上に漁船がたくさん引き上
げられいた。

 漁港の東側に回って小さい流れをどんどん橋で渡り、防波堤沿
いをさらに進む。富士火災シーサイドハウスという独特の形状を見
せる大きな保養施設の先に、「元禄地震再来想定津波高」を示す
標識が立つ。海面からは5m前後と思われる高さだった。

 浜を離れて車道とJRの踏切を渡り、那古集落に入る。広葉樹林
を背にした山すそに、那古寺の大きな本堂や多宝塔などが望まれる。



 房州うちわを製造直売する米澤屋商店のそばを進み、国道を横切
ると那古寺西側の階段がある。

 階段を少し上がると、小さいお堂の前に今は珍しい手押しポンプが
あり、きれいな水も出る。

 閼伽井(あかい)と呼ぶ井戸で、観音堂が再建された宝暦11年
(1761)、伊勢屋金物店が伊豆石を運んで井戸に石組みをして、
くんだ水を観音堂に奉納したとか。安房路を巡る旅人はこの霊水で
乾きをいやし、のどを潤したという。


 石段を上がって、朱塗りコンクリート造りの堂々たる本堂に参拝
する。本堂東側には、歴史を感じさせる多宝塔が立っていた。


 那古寺は、養老元年(717)、元正女帝の病気回復を祈り、行基
がこの地に来て千手観音像を刻み祈念すると女帝は回復し、女帝
の勅命で伽藍(がらん)を建てたという。

 寺は坂東三十三観音霊場第三十三番の結願(けちがん)寺。この
日も、昭和24年(1949)生まれで高校の同級生という男性4人が
来て、1年間かけて坂東札所を回ったとのことで、結願を喜んでいた。

 本堂の右手背後から、豊富な広葉樹林の間の階段を進み、潮音
台と呼ぶ展望台に上がった。

 大きく湾曲した館山湾や、館山の市街地、船形漁港などが一望で
きる。伊豆半島や大島も遠望できるようだが、この日は霞んで見え
ない。しかし天気予報とは逆に、晴天が広がり暖かくなった。

 展望台には東屋やベンチがあり、背後の木の下に、平安の女流
歌人、和泉式部の供養塚が立っていた。


 東側に延びる稜線に設けられた「式部夢山道」と呼ぶ遊歩道に向
かう。一帯はスダジイを中心に、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、
モチノキなど、亜熱帯系照葉樹の豊富な森。うっそうと繁る林間を
進んで、芝崎集落に下った。

 集落の中の細道を進み、別の寺の前を通過して那古寺の駐車場
に戻る。そばの納経所で先ほどの4人が、結願した人だけもらえる
証書を作ってもらい、もう一度喜んでいた。

 改めて朱塗りの仁王門から那古寺に入り、鐘楼や納経堂、観音
堂(本堂)などの前を回り、上がってきた石段を下りて駅に向かう。

 さすが南房総、石段の横には早くもスイセンが花を開いていた。

 国道を西に進み、JR内房線の陸橋下を通過し、14時55分に
那古船形駅に戻った。

(天気 曇後晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 那古、歩行地 館山市)
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関東百駅巡礼歩行 益子駅(栃木)

2008-10-14 21:48:12 | 関東百駅巡礼歩行
 きょうは、当日3枚の写真だけで報告した、3日前の関東百駅
巡礼歩行のレポートです。

==========================

 2008年10月11日(土)


 
 やまさんの関東百駅巡礼歩行、第48回は真岡(もおか)鐵道の
益子(ましこ)駅。参加者10人は記念撮影後、11時11分に益子
駅を出た。


 県道41号を横切り、古い虚空蔵(こくぞう)堂の先から、生い茂
った草をかき分けて行くと、地図に記された林間の細道が残って
いた。樹林下の、小さいほこらが二つ並ぶ横を通過する。

 左へ回り込んでしばらくで、地図にはない車道が下に見えた。
その道に下ると、益子小の横から南西の石並集落とを結ぶ通学
路らしく、車道際に「学道につき最徐行」の立て札が立つていた。

 「学道」という標識は、はじめて見た。

 すぐ先にあった林間の細道に再び入り、緩やかにトラバースしな
がら東斜面を進む。右から、工事を終えたばかりで未開通の車道
が現れた。

 その道を進むと西側に、ぽっかりと山をえぐった広大な砂利採取
場が見下ろせる。


 東側に見えた谷地田(やちだ)のあぜに下り、西明寺集落の車
道に出る。野菜を無人販売する建物があったので、場所を借りて
昼食にした。

 青空が広がり、日が差してきた。東側の一軒家と細い谷地田の
間を進んで東側稜線上の畑を横切るつもりだったが、そこは若木
のヒノキと杉林になっていた。

 その林に上がり稜線を越えて反対側の田んぼに向かって横断
する。ところが中ほどで、米粒くらいの小さなひっつき虫が、シャツ
やズボン、ザックなどに何千とも知れずにくっついてしまった。

 まるで着衣に模様ができたようで、ひとつひとつ手で摘まぬと
取れない。摘みながら田んぼのあぜを進むが、いつになったら取
り切れるか計り知れぬほど多い。こんなしつこいひっつき虫に遭
遇したのは皆、初めてのことだった。

 帰宅後、ネットで調べてみたら、どうやらこれはイノコズチという
草の実らしい。

 東側山腹に見えた芳賀青年の家に向かって、駐車場の横から
ジグザグに上がる。青年の家の広場では、小学生だろうか、テン
ト代わりのシート張りの訓練をしていた。

 青年の家の上が、坂東三十三観音霊場第二十番札所の西明
寺(さいみようじ)。一番下の納経所は、かやぶき屋根である。

 その前に、県天然記念物の大きなクスノキが立っていた。


 手をこまねいていたひっつき虫は、濡れティッシュでぬぐうと取
れることが分かり、寺の駐車場のトイレの水で濡らしたティッシュ
を何枚か使い、なんとか目につかぬくらいまで取ることが出来た。

 林間の石段を上がってくぐる楼門も、どっしりしたかやぶき屋根。
明応元年(1492)建築で、そばに立つ天文7年(1538)建立の
三重塔とともに、国重要文化財に指定されている。


 楼門右手の閻魔(えんま)堂もかやぶき屋根だった。閻魔堂内に
は、5体の仏像が並び、中心の閻魔大王は日本でただひとつと
いう、珍しい笑い顔の閻魔様である。


 かやぶきにトタンを被せた堂々たる本堂に参拝する。欄間(らん
ま)に紙の千社札(せんじゃふだ)がたくさん貼られ、色あせては
いるが、精巧な木彫にも目を引かれる。


 本堂右手に、「とちぎ名木百選」のコウヤマキの巨木が、複雑に
枝を伸ばしていた。

 樹高30m、周囲5.4m、承元3年(1209)に宇都宮景房が本
堂修復記念に植えたと伝えられているという。

 コウヤマキの横から背後の林に入り、関東ふれあいの道を400
mほどで権現平に上がる。権現平には展望台とベンチがあり、少
し霞んではいるが、広葉樹の間から西北方が展望できる。


 さらに先へ、県道262号を2度目に横断したところに、大日本史
に関東六城の一つとして紹介されているという、高館城跡の説明
板があった。

 関東ふれあいの道は、「益子の森」と呼ぶ稜線上の気持ちよい
遊歩道を北に向かう。途中の窯眺橋で車道の上を陸橋で通過し、
少しずつ下ってトリム施設の横を過ぎ、フォレストイン益子という
宿泊施設の前に出た。


 さらに林間を下って須田ヶ池のそばまで行ったが行き止まり。
フォレストインのそばに戻り、東側の車道から県道230号に出た。
 このあたりから益子焼きの製陶所が幾つか並んでいる。


 カモの泳ぐ須田ヶ池の西で県道に分かれて南側の旧道へ。
 小峰窯業センターの先にて広い車道を横断、丘陵に上がって下
り、田舎料理の店の横県道230号に合した。そばの道祖土(さや
ど)上バス停で時刻を確認したが、しばらく来ないので、駅まで歩
くことにする。

 益子焼きの品定めに来た人で賑わう益子焼窯元窯業センター
には、益子焼きの大ダヌキが鎮座していた。


 道路の南の広場では、幾つかのテントの下に益子焼の製品を
たくさん並べて販売している。

 窯業センターの横を北に入って益子陶芸美術館に行く。この日
まで休館中で観覧はできない。構内を先に進み、遊歩道を遺跡広
場の先まで行く。このあたりは益子古城の城跡らしい。

 幼稚園を併設した観音寺の横から県道の交差点際に下る。そば
に、かやぶき屋根のりっぱな家が見えたので回ってみた。

 県文化財の日下田邸で、藍染め工房になっている。中に入って
藍染めの窯(かま)や、水でさらす工程などを見せていただく。


 藍染製品もたくさん並べて販売していた。

 鍵の手のところで県道に分かれて南を平行する細い旧道へ。
 益子保育園のそばを通り、15時58分に益子駅に戻った。
 
(天気 曇後晴、距離 10㎞、地図 真岡、歩行地 栃木県益子
 町、歩数 20700)
コメント (2)
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関東百駅巡礼歩行 桐生駅(群馬)

2008-10-01 18:28:14 | 関東百駅巡礼歩行
 10月に入り、半月余りの遅れになってしまいましたが、
9月13日のレポートです。

=========================

 2008年9月13日(土)



 やまさんの関東百駅の第47番、JR両毛線桐生駅に参加
した。

 桐生は、1300年前から続く織物の町。市街地には、織物
工場だったノコギリ屋根や、レンガ造りの建物が数多く残っ
ているという。そんな近代化遺産に期待して桐生駅に下りた。

 11時の集合時刻までに集まったのは私を入れて5人。


 まず、駅前に見えた交番としてはユニークな洋館風の、桐生
駅前交番に入った。


 桐生市内の地図も置いてあり、駅前の角にある、観光案内
もしているという桐生市民活動推進センター「ゆい」を教えて
くれた。

 その「ゆい」に入る。市から委託された市民団体が運営して
いて、桐生を紹介する観光パンフレットなどがいろいろ用意さ
れ、英文のガイドもあり、市が観光に力を入れていることが
うかがえる。

 ほかに、市民活動相談コーナー、談話コーナー、インターネ
ット、本の貸し出し、コピー機などが利用できる。

 東西に走る末広通を東へ。郷土資料展示ホールで、「虹」と
いうフォトクラブの写真展をしていたので入館する。風景写真
だが、みななかなかの力作。見るだけでなくお茶と和菓子も
ごちそうになる。

 すぐ先の、本町通との角にあった桐生ガス一階のショール
ームに入り、やまさんがご存じの「あひるの子」という一角を
訪ねる。

 幼児を遊ばせるコーナーには絵本や遊具があり、遊ばせな
がらお母さんたちが学べる料理教室、絵本やおもちゃづくり
などができるようになっていた。

 南北に走る繁華街、本町通に入って北に向かい、次の細い
通りを左に入る。吉野鮨ののれんを下げた、古い和風の建物
が残っている。


 次の通の角、木の陰の壊れかけたような建物に、「芭蕉」と
いう看板が上がっていた。

 入ると、古民家風の建物のあちこちに、レトロなものがたく
さん飾られ、戦前にタイムスリップしたよう。

 店の方の話では、昭和12年(1937)から営業しており、
坂口安吾や棟方志功、加藤登紀子、モレシャン、イベットジロ
ーなどが訪れているとのこと。

 店の料理は「異国調菜」と名乗り、印度カリーや自家焙煎
のコーヒーなどが評判らしい。思いがけぬ掘り出し物だった。

 糸屋通りを過ぎ、トチノキの街路樹のある通りの角にあった、
レンガ造りの洋館で国の有形文化財になっている桐生会館
旧館に行く。

 昭和9年(1934)に桐生織物同業組合の事務所として建
設、現在は桐生織物記念館で、1階には桐生織物の製品や
織機などが展示され、販売コーナーもある。

 係員に、19世紀にフランスで発明されたという、ジャガード
織機を実演してもらい、上部にあるパンチカードで模様を組み
替えるという仕組みに、興味をひかれた。


 さらに西に進み、上毛電鉄の終点、西桐生駅へ。

 かなりの歴史を感じる洋風駅舎に入り、空いているベンチを
借りて昼食をした。

 北に向かい、少し先で右折し、西小や桐生宮本町郵便局前
を通過、本町通を挟んでクランク状に進み、桐生の見どころの
ひとつ、有鄰館(ゆうりんかん)に入った。

 土蔵やレンガ蔵などの建物が11棟あり、近代化遺産を多目
的イベントとして活用しているという。

 この日は、第7回有鄰館藝術祭の初日。「河原井源治が愛
した昭和とそして桐生」をテーマにして、それぞれの蔵では、
昭和のカメラコレクションと昭和の生活風景写真展、懐かしい
映画ポスターコレクション、ホーロー看板のコレクション、桐生
お銭湯七福神めぐりスタンプラリーなどが見られ、16ミリフイ
ルムの活弁ライブの準備も進められていた。




 中央通りを北に進む。「花のにしはら」という生花店(下)
など、木造や蔵造りの趣ある建物が、幾つか残っている。


 近くに「無鄰館」の表示があった。通りから少し入ると、工
場だったらしい木造ノコギリ屋根の建物があり、若い芸術家
などに開放されているようだが、中には誰もいなかった。


 その先にも、レンガ造りのやまと生命や、羽仁五郎の実家、
森家だという、白壁の「天然染色研究所」など、古い建物が
残っていた。

 桐生市内には、まだ見たいところも多そうだが、14時を過
ぎた。日差しはそう強くはないがむし暑く、帰路にかなり時間
がかかるので、今日は本町一丁目バス停までとする。

 新桐生駅行きバスで本町五丁目まで戻り、JR桐生駅に
14時35分に着き、解散となる。

 パンフレットを見ると、桐生市内にはまだ多くの近代化遺産
があるらしい。改めて訪ね、もう少し時間をかけて歩いてみた
いと思いながら帰途についた。

(天気 晴、地図(1/2.5万) 桐生、大間々、歩行地 桐生市)
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