goo blog サービス終了のお知らせ 

あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

長岡天満宮から長岡宮跡へ

2006-04-17 12:32:03 | 京都を歩く
06年4月11日(火)続き
 桂離宮の参観を終えて桂駅から阪急電車に乗り、3つ目の長岡天神駅で
降りる。10時54分に駅前をスタートした。

 駅近くに「乙訓(おとくに)地域は、西山の山麓に竹林が広がり、京タケノコと、
かごやざるなど竹製品のの特産地…」との看板があった。

 駅名にもなっている長岡天満宮は、西に500m足らずである。手前に、桂離宮
ゆかりの八条宮智仁親王が開いた、潅漑用の溜池、八条池がある。向うに見え
るのは料亭らしい。
 
 真ん中を横切っている中堤には、りっぱなキリシマツツジ両側に植えられて
いて、4月下旬という花どきは見事だろうと思われた。

 見返り天神ともいわれる長岡天満宮は、菅原道真公が昌泰4年(901)に
左遷され太宰府に向かう途中、かつて在原業平らと詩歌管弦を楽しんだこの地
に立ち寄り、名残を惜しんだという。

 境内は、ピンクのしだれ桜やソメイヨシノなどが見ごろで、モミジも淡い新緑
の若葉を広げていた。


 西北に進んで市民体育館の北側山すそにある長法寺(ちょうほうじ))へ。
延喜年間(901~923)に創建された天台宗延暦寺の末寺。平安時代の
仏画の傑作、国宝・絹本釈迦金棺出現図の模本があるというが、拝観はでき
ないとのことだった。

 さらに北に進み、西山(せいざん)浄土宗総本山・光明寺(こうみょうじ)に
着く。まず門前にある境内を描いた全景図を見て、予想外の境内の広さに驚く。

 光明寺は、建久9年(1198)、法然上人の弟子、熊谷直実が草庵を開いた
のがはじまり。法然上人が念仏の法門を最初に説いた地だという。

 総門をくぐってゆるやかな石段を上がると、大きな本堂(御影堂)など幾つ
もの大きな建物が並んでいる。

 本堂は、宝暦3年(1753)の建立。境内はやはりソメイヨシノがあちこち
で満開の花を競っていた。

 本堂の近くには、高さ15m、根元周囲4.6m、樹齢4~500年といわれる
ビャクシンの巨樹が立っていた。

 寺の門前には、竹製品を販売する旧家が残っていた。

 13時半近く、近くにあった「もみじの里」という手打ちうどん店に入り、遅い
昼食をする。                             
                              (さらに続く)

 


 

 

 
 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桂離宮の参観

2006-04-16 19:35:47 | 京都を歩く
 京都の3日目は、新年早々に申し込んでおいた桂離宮の参観です。この日も
1日となりました。

06年4月11日(火)
 大宮駅からの阪急電車を桂駅で降りる。桂離宮までは住宅地をおよそ15分ほど。
9時からの参観の参加者は30人ほどだった。

 宮内庁の係員の案内で1時間ほどかけて園内を一周する。距離は約1㎞とのこと。

 桂離宮は、後陽成(ごようぜい)天皇の弟、八条宮の初代智仁(としひと)親王に
より、宮家の別荘として元和元年(1615)頃に山荘の造営を始め、2代智親(とし
ただ)親王が妻の実家・加賀前田藩の財政的支援を得て、寛文2年(1662)頃
までにほぼ今日の姿に整えられた。

 明治14年(1881)、11代で宮家が途絶え、2年後に宮内省の所管となり桂離宮
と称されることになった。創建以来火災にあうことがなかったので、ほとんど完全に
創建当時の姿を今日に伝えているという。総面積は約6万9千㎡とのこと。

 中央に複雑に入り組んだ池があり、5つの中島に土橋、板橋、石橋を配し、書院
や茶室、灯籠や手水鉢を要所に配した回遊式庭園と、数寄屋風の純日本風建築物
で構成されている。

 以下は、それら庭園の主要部のみで許可された、写真の説明を主とする。


 池の中央部東側にある松琴亭(しょうきんてい)から雨に濡れる池

 松琴亭から見る対岸の古書院(こしょいん)。古書院は中書院、楽器の間、新
御殿と雁行状に連なっている中で、一番広い。

 松琴亭からの池

 池の南西端にある笑意軒(しょういけん)の扁額

 池の南側、中の島にある園林堂(えんりんどう)と土橋。園林堂は、本瓦葺き
宝形造(ほうぎょうづくり)の持仏堂。

 笑意軒、池のほとりに船着き場がある。

 西側の古書院から見る松琴亭。松琴亭は、離宮でただ一つの草庵茶室。

 古書院のそばにある月波亭の天井

 期待していた桜はほとんどなかったが、松やツツジ、モミジなどの樹木や石
灯籠、入り組んだ池と中島、それらを結ぶ橋、多少歩きにくいが趣ある石だたみ
など、雨に濡れてしっとりした日本庭園の美をいっぱい鑑賞した。


 このあと桂駅に戻り、阪急電車で3つ先の長岡天神駅に向かう。(続く)




 

 

  

 

 

 
 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・大原野の社寺(2)十輪寺、大原野神社、勝持寺

2006-04-15 10:36:05 | 京都を歩く
 善峰寺を出て、バス停終点から200m余り下った左手に、三鈷寺(さんこじ)
への道標があった。それに従い善峰寺同様、杉木立の下を標高差70~80m
くらい上がって三鈷寺に入る。

 三鈷寺は、平安中期の承保元年(1074)、善峰寺の開基と同じく叡山の源算
上人が草庵を建てたのが起こりとか。その後、三代目から譲られた西山上人
証空が念仏の道場として発展させ、多くの寺領荘園を持って栄えたが、応仁の
乱の兵火で興廃したままとなり、近年になって昭和52年(1977)に、西山宗
本山として独立したという。

 寺は東南に伸びる稜線上にあり、京都市街など東から北にかけての展望が
よく、中でも東山に上がる名月の眺めは関西随一といわれるようだが、やはり
冷たい雨にさえぎられて遠望は利かなかった。

 雨を避けて客殿の縁で昼食をさせてもらう。善峰寺には何組ものグループが
来ていたが、われわれのほか、この寺を訪れたのは3組だけだった。

 稜線を下る土道もあるが、雨で滑る危険があるのでバス道を下ることにした。
「よしみねの里」と呼ぶ竹の子や漬け物の販売店を過ぎて小塩の集落に入る。

 次の目的地、十輪寺(じゅうりんじ)は、小塩バス停のそばにあった。
 十輪寺は、嘉祥3年(850)、文徳天皇の御后(おきさき)染殿皇后が、安産
祈願のため創建したという。以後、勅願所として栄えたが、ここも応仁の乱に
より消失し、江戸時代の寛文年間(1661~73)に藤原氏により復興整備され
たとのこと。

 受付のある庫裡(くり)と本堂とを結ぶ二つの回廊を挟んだ、三方普感(さん
ぽうふかん)の庭と呼ぶ小庭園があり、満開のしだれ桜が雨に濡れていた。

 現在の本堂は寛延3年(1750)の再建で、御輿をかたどった鳳輦型(ほう
れんがた)というという屋根が珍しい。内部天井の彫刻も独特の衣装が施され
ているという。

 背後の竹林に上がると、平安時代の歌人、在原業平(ありわらなりひら)が
晩年に隠棲して、塩焼きの風流を楽しんだと伝えられる塩竃(しおがま)跡に、
竈が復元されていた。業平の墓と伝わる小さな宝篋印塔もあり、業平にちなみ、
寺は「なりひら寺」とも呼ばれている。

 雨が一層降りしきり、気温も下がって吐く息が白い。道沿いに咲く満開の桜も
冷たそう。

 寺の東側から竹やぶを上がって下り、最近開校したらしい京都女子学園の
西側を回って石作町を通過する。この辺り一帯の山は竹林が多く、タケノコの
産地である。

 大原野集落の南西にある池のそばに正法寺(しょうぼうじ)があった。鑑真
和上とともに唐から来朝した智威大徳の修禅の地で、元禄年間(1688~
1703)、桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となったという。

 幾つもの桜が咲き競っていたが、先を急いで拝観はせずに通過する。

 少しの林を抜けると大原野神社に出る。
大原野神社の祭神は奈良の春日神社と同じ。当初は、桓武天皇の皇后、藤原
乙牟漏(おとむろ)の意により藤原氏の氏神として長岡京に勧請されたが、嘉祥
3年(850)京都の守護神としてこの地に祭られたとのこと。

 現在の春日造り総檜皮葺の本殿は、慶安年間(1648~52)に、再建された
ものという。

 境内にある「鯉沢の池」は、文徳天皇が奈良の猿沢の池を模して造ったもの
とか。ほかに、清和天皇産湯の清水とも伝えられ、紀貫之や大伴家持など多く
の歌人に歌われた「瀬和井(せがい)の清水」と呼ぶ名水、樹齢450年という
モミの大木などがあった。

 境内から西に、薄暗くなった林を抜けて、花の寺と呼ばれる勝持寺(しょうじじ)
の山門をくぐる。

 勝持寺は、白鳳8年(680)、天武天皇の勅により神変大菩薩役行者が創建
した古寺。応仁の兵火で仁王門を除きすべて消失し、現在の建物はその後の
再建という。

 まず拝観入口から本堂にあたる阿弥陀堂に上がる。隣接する瑠璃光殿は
照明が明るく、重文の本尊・薬師如来像のほか、力強い彫りの重文・金剛力士
像や、日光・月光菩薩像、十二神将像、西行法師蔵、醍醐天皇勅額などを拝観
した。

 境内には約100本の桜がある。花の寺と呼ぶもととなったのが、当寺で出家
した西行法師が植えたという西行桜だが、まだ開花前だった。しかし数の多い
ソメイヨシノやしだれ桜は見ごろである。しかし吐く息が白くなる冷雨で薄暗く
なり、きれいな彩りとはいえないのが残念だった。

 もみじも同じくらいの数があり、11月中旬には紅葉に彩られるという。

 16時24分に寺を出て、大原野神社前を通過、南春日町バス停終点に行く。
16時50分発で東向日駅に戻り、阪急電車で宿泊地の大宮に向かった。

(歩行距離 7㎞、地図(1/2万5千) 京都西南部、歩行地 京都市西京区) 

 

 

 

   

 

   

 





  

 




 
 
 

 

 

 

 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・大原野の社寺(1)善峰寺

2006-04-14 22:33:35 | 京都を歩く
 畑のジャガイモが芽を出しました。航空記念公園周辺のケヤキも、やわらかな
新緑の彩りを見せはじめています。

 今日のレポートは、京都の2日目、西山とよばれる辺りの社寺巡りです。


06年4月10日(日)
 朝から冷たい、1日中雨の予報だが、予定通り京都市西京区大原野の社寺
巡りをすることにした。

 大宮駅から阪急電車に乗り、15分ほどの東向日(ひがしむこう)駅で降りる。
9時16分発のバスに乗り、終点の善峰寺(よしみねでら)バス停に9時42分
に着いた。

 いきなり杉木立の間の参道をジグザグの上り坂が続く。標高差50m以上も
上がったろうか。善峰寺の大きな山門をくぐる。

 善峰寺は、長元2年(1029)、源算の開基と伝えられ、西国三十三番第二十
番札所。歴代朝廷の崇敬厚く、白河天皇が諸堂を建立し、後花園天皇が伽藍を
改築したとのこと。その後、応仁の乱で焼亡した僧坊を、徳川5代将軍綱吉の
生母・桂昌院の寄進により復興され、現在に至っているという。

 山門のそばの受付でもらった、リーフレットの参拝順路案内図に従い、3万
坪(10万㎡)あるという境内の、回遊式庭園の間に配された15か所を越える
堂塔などを巡ることにする。距離はおよそ800mほどあるらしい。

 山門を入ってすぐの桃が色鮮やかに咲いていた。

 石段を上がって手水舎で清める。なかなか趣のある手洗鉢だ。

 正面が本堂にあたる観音堂。元禄15年(1692)の再建、本尊は十一面
観世音菩薩である。

 右手の階段を上がると、つりがね堂と護摩堂、多宝塔(国重文)が立ち、多宝
塔の前に遊龍の松と呼ぶ樹齢600年の五葉松がある。以前は54mあったと
いうが現在は39m、それでも長さは日本一の松で、国天然記念物である。

 経堂のそばの大きなしだれ桜が、みごとに花を垂れていた。桂昌院お手植え
のしだれ桜で、樹齢は300年になる。

 開山堂や宝篋印塔(ほうきょういんとう)、桂昌院廟などを巡り、さらに上がる。

 東南の展望が開けてきたが、雨に煙り遠望は利かない。

 釈迦堂に安置されている石仏釈迦如来は、開山した源算上人作で、明治初年
まで釈迦岳に安置されていたという。

 さらに上がって稲荷神社から奥の院薬師堂に参拝。杉木立の下に並ぶ善峰寺
の住職を務めた宮様の御廟を回り、ようやく下り道となる。

 稲荷神社を経て、寛文13年(1673)建立で徳川家代々の位牌を安置する
阿弥陀堂内を拝観、しだれ桜のそばに下る。

 しだれ桜越しに見えるのは、経堂と多宝塔である。

 最後に観音堂の西にある宝物館に入る。善峰寺特別寺宝展を開催中で、不動
明王、聖観音立像、桂昌院画像、善峰寺曼陀羅図、綱吉筆の書、桂昌院筆の
和歌など、寺宝の数々を拝観した。

 ほかの寺では少ない、高度差のある回遊式庭園には、これから開花するしだれ
桜をはじめ、ツツジ、モミジなど季節に応じてさまざまな彩りが見られそうで、
晴れた日に期待される京都市街などの展望もあり、季節を変えてまた来てみたい。

 もらった案内図には、所要30分~40分と記されていたが、ゆっくり回ったので、
寺を出たのは、3時間近くも経過した12時30分になっていた。(続く)


 なお、善峰寺の詳細を知りたい方は、下記ホームページをご覧下さい。

http://www.yoshiminedera.com/



 

 



 

 

 

  

 

 

 

 



 



 





 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都、桂離宮、長岡京と向日市

2006-04-11 19:29:40 | 京都を歩く
一日雨でしたが、まず9時から京都の桂離宮を参観しました。

新緑がよい離宮内を1時間回りました。

阪急電車で、長岡天神まで行き、長岡天満宮へ。桜がみごろ。

北に歩き、長法寺に寄り道、さらに進んで、光明寺に行きました。

広い境内の奥にある大本堂に参拝、やはり桜とモミジの新緑が素晴らしい。

東に下り、向日神社へ。長い参道は、見ごろの桜のトンネル。本殿も大きい。

最後に、長岡宮跡を訪ねました。

以上、帰途の新幹線からとりあえずのご報告です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都大原野を歩く

2006-04-10 20:55:06 | 京都を歩く
一日雨でしたが、京都、向日市の郊外、善峰寺、三こ寺、十輪寺、大野原神社、花の寺といわれる勝法寺などを巡りました。

予想外の見所が多く、報告は別途とさせていただきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修学院離宮と曼殊院、知恩院など(2)

2006-03-23 21:10:24 | 京都を歩く
05年4月19日(火)の続き

 圓光寺のそばのしだれ桜が、こぼれるほどに花を開いていた。

 詩仙堂の下を西に下ったところに松が立っていた。一乗寺下り松で、宮本武蔵が
京都の兵法家、吉岡一門を相手に戦ったところ。現在の松は4代目らしい。

 近くの民家には、きれいな花が咲いていた。

 そばの交差点から西に150mほどのところに、雲母(きらら)漬けの「穂野出」と
いう店があった。創業は元禄年間(1688~)という京の老舗である。

 「接待所」と書かれた店に入ると、12代目の当主・田辺正さんが、「独特の味噌
漬けなので、味見してから買うか買わないか決めなさい」と言う。

 雲母漬けは、親指大の小ナスに白みそを和えた独自の漬け物。創業時の製法を
守り、店を訪れた人にだけ販売しているという。雲母漬けと花きゅうりを味見して、
買うことにした。

 白川通りに出て、交差点近くにあったSayur-Sayuran(さゆーる さゆらん)という
南国風のオリエンタルカフェに入る。定食のランチを注文したが、ベジタブルで
おいしかった。若い女の子には、ケーキが人気の店のようだ。

 一乗寺駅から京阪電車で三条駅まで行く。縄手通りの古い家並みの間を南に
進んで、大和橋から白川左岸の白川南通の遊歩道に入る。

 コイの泳ぐきれいな流れ沿いは、八重桜やしだれ桜、山吹、ツツジなどが咲き、
ヤナギの新芽が淡い彩りを見せている。

 白川北通りに入ると、葉桜となったソメイヨシノの並木が続く。流れにはアオサギが
いて、対岸の民家から投げるえさをもらっていた。

 この辺りは祇園の一角、2階のひさしからすだれを垂らした家並みが続いていた。

 東大路通りに出て、華頂短大や宿坊の並ぶ華頂通りなどを経て、三つ葵のまん幕
が下がる大きな山門・三門(さんもん)をくぐって浄土宗総本山知恩院に入る。

 国宝の三門は、高さ24m、桁の長さ27mあり、木造の門としては世界最大だと
いう。

 知恩院は、鎌倉時代に法然上人が居住し念仏の教えを説いた場所。寛永16年
(1639)に徳川家光が御影堂(みえどう・本堂)を、元和7年(1621)に秀忠が三門
を建立し、現在の寺域が形づくられたとのこと。

 女人坂を上がり御影堂の東に回って、まず方丈庭園を拝観する。小堀遠州と関係
の深い僧、玉淵坊(ぎょくえんぼう)の作と伝わる回遊式の庭園である。

 新緑が影を映す二つの池が大方丈、小方丈に面して広がる。小方丈の奥を上がる
と徳川権現堂と千姫の墓がある。

 最上部に法然の遺骨を納めた御廟があり、そばの八重桜が満開だった。

 御影堂に戻り、堂内に上がって参拝する。4000人が入れるという広い堂内には、
大勢の僧侶と信徒が並び、御忌(ぎょき)と呼ぶ法要が行われていた。

 16時を過ぎたので帰り道に向かう。三門を下って知恩院道から東大路通りに出て、
祇園会館の角を入った。舞妓さんも垣間見える狭い通りを経て四条大橋を渡る。

 ビジネスホテルに預けた荷物を受け取り、京都駅17時発ひかり号で帰途についた。

〈距離 14㎞、地図(2万5千分の1) 京都東北部〉

 


 
 
  

 

 

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修学院離宮と曼殊院、知恩院など(1)

2006-03-22 19:38:00 | 京都を歩く
 妻も出展しているので、市内の百貨店で開催中の華道展に行って来ました。桜、
サンシュユ、レンギョウなど、春の花がたくさん活け込まれ、華やかな彩りでした。

 昨日の続き、翌日の修学院離宮の拝観と東山山麓の寺社めぐりです。

05年4月19日(火)
 今日も素晴らしい、四条駅から京阪電車で出町柳まで行き、叡山電車
(通称叡電)に乗り換え、修学院駅に降りた。

 今日のメインは、3か月前から予約してあった修学院離宮の参観である。

 受付を済ませ、参観者休憩所で9時まで待つ。1度に30人くらい案内するのか
と思ったら、集まったのは10人だった。

 50代くらいの男性案内人から、参観にあたっての注意を聞く。全体を回るには、
およそ3㎞を1時間15分ほどかかるという。

 修学院離宮は、後水尾(ごみずのお)上皇の雄大な構想により万治2年(1659)
に比叡山の麓に造られた。桂離宮と並ぶ江戸時代初期の代表的な山荘である。

 自然景観を巧みに取り入れた開放的で簡素な造形は、わが国固有の文化遺産
として知られている。

 離宮は、下離宮、中離宮、上離宮の3つに分かれ、その間は松並木で結ばれて
いて、松並木の両側は、民間人が耕作する棚田や畑などの農地になっている。

 まず下離宮へ。玉砂利を踏んでこけら葺きの御幸門をくぐり、モミジの新緑や、
花開く山桜、木々の影を映す池、苔むす足元などを見ながら、寿月観(じゅげつ
かん)の庭先に回る。
 
 案内人から、開け放たれた3つの間に描かれたふすま絵などの説明を聞く。

 東門から下離宮を出て、黒松の間を進んで中離宮に向かう。耕作前の棚田の
東側に、東山の山並みが新緑の借景を見せていた。

 中離宮の建物は楽只軒(らくしけん)と客殿。楽只軒の間(ま)には、狩野探信の
ふすま絵が描かれていた。客殿には、天下の3棚といわれる飾り棚や、円山応挙
の絵などがあった。
 
 上離宮の表門を入り、急な石段を上がり詰めたところが修学院離宮の最高点、
隣雲邸(りんうんてい)である。

 眼下に、松や桜、モミジ、ツツジなどが影を映すU字状の浴龍池が見下ろせ、
鞍馬など洛北の山々や洛中の町並みも見える素晴らしい展望。しばらくはその
展望を楽しんだ。

 深い木立の間から流れ落ちる雄滝の下を下り、シャクナゲの咲く道を進む。
二つの中の島にかかる屋根付きの千歳橋が静かな池に独特の影を映している。

 池の北側はもみじ谷と呼ばれ、何種類ものモミジが新緑の彩りを見せていた。

 船着き場や生垣の横を回って浴龍池を一周、移り変わる池の景観や、生垣越し
に見える棚田や周辺の山並みなど、やわらかな春の彩りを満喫し、参観を終える。

 民家の間を北に抜け、鳥居をくぐってモミジの多い参道を上がり、赤山禅院
(せきざんぜんいん)に行く。

 赤山禅院は、京都の表鬼門にあり、陰陽道の祖、泰山府君を鎮守とし、日本
最古の「都七福神」の寺。比叡山延暦寺の荒行・千日回峰行の800日目の寺
としても知られているという。

 モミジやしだれ桜、つつじなど、樹木の豊富な境内には、地蔵堂、赤山大明神、
七福神など、神仏混淆(しんぶつこんこう)の遺構を残す社殿が幾つもあり、それ
らを周遊できるようになっている。

 もとの道を戻って修学院離宮前を通過、東に進んで曼殊院(まんしゅいん)を
拝観することにした。

 曼殊院は、明暦2年(1656)に現在地に再興された天台宗の門跡寺院。江戸
時代初期の代表的書院建築で、桂離宮との関係が多いという。

 庫裡(くり)から靴を脱いで上がり、狩野永徳のふすま絵のある虎の間など、
幾つかの間と大書院、小書院などを回る。

 それぞれの間にある書や日本画の掛け軸とふすま絵、違い棚などに見るべき
ものが多く、随所にあった生け花が彩りを添えていた。

 大書院前の庭は、樹齢400年の五葉松を中心に、ツツジ、モミジなどが
多く、白砂や石を組み合わせた趣ある景観を見せていた。

 山すそを南西に下がって圓光寺へ。慶長6年(1601)、徳川家康が国内教学
の発展を図るために建立した学校で、多くの書籍を刊行し、わが国出版文化史上
特筆すべき寺院。現在も伏見版版木活字52,000個余りが残っているという。

 山門をくぐり拝観受付に行くが不在、庭にはやわらかな新緑のモミジが多く、
その下に苔が一面に広がり、色鮮やかなシャクナゲが咲いていた。

 山側の墓地には、井伊直弼に仕えた密偵・村山たか女や、広島原爆で死んだ
マレーシア留学生オマール氏の墓があった。(続く)

【参考】修学院離宮を参観したい方は、下記「宮内庁参観案内」をご覧下さい。
http://sankan.kunaicho.go.jp/



 

 、

 

 

 

 



 


 

    
  




 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都・栂尾から清滝川沿い

2006-03-17 19:04:07 | 京都を歩く
 前線が通過して天気が回復しましたが、強風の吹き荒れた1日でした。

 一昨日、2度目にサクラの開花予想が発表になり、東京は最初の予想より早まる
とか。そろそろお花見の計画をしている人もおられることでしょう。

 今日は、昨年春の花どきに歩いた、京都の栂尾(とがのお)付近のウオークを報告
します。

05年4月17日(日)
 東京駅7時36分発ひかり363号に乗り、京都駅に10時20分に着いた。
四条烏丸のビジネスホテルに荷物を預け、高尾行きバスに乗る。途中、仁和寺付近は
御室ザクラを見に来たマイカーで大渋滞、13時31分に終点高尾で降りる。

 清滝川の対岸斜面に満開のミツバツツジがたくさん咲いていた。

 国道162号(周山街道)は歩道が無く、行楽の車で込んでいるので、JRバスに
乗り継ぎ、2つ目の栂ノ尾(とがのお)で降りる。

 そばに檜皮葺(ひわだぶき)の茶屋があり、周辺は若葉の新緑がみずみずしい。

 清滝川を渡り、右岸山すそにある世界文化遺産のひとつ高山寺(こうざんじ)へ。
宝亀五年(774)、光仁天皇の勅願で開創、鎌倉時代に明恵(みょうえ)上人が中興
した寺である。
 
 モミジの新緑がやわらかな彩りを見せる斜面を上がり、国宝の石山院を拝観。室内
に、教科書でおなじみの鳥獣人物戯画や、絵画、古文書などが展示されていた。

さらに上がって開山堂、明恵上人御廟などを回る。老杉の林立する表参道の石段を
下って寺を出た。

 国道を槙尾(まきのお)まで戻る。バス停前のY字路を右に入り、朱塗りの橋を渡って
西名寺(さいみょうじ)へ。

 天長年間(824~)に弘法大師の弟子、智泉法師が神護寺の別院として創建、現本堂
は、元禄13年(1700)、将軍綱吉の生母、桂昌院の寄進により再建されたという。

 山門の横にご神木の槙が立ち、境内はやわかな若葉のモミジが多く、シャクナゲが
咲き始めていた。

 ミツバツツジの大群落下を回って、高尾山の山麓にある神護寺(じんごじ)に入る。

 和気清麻呂が愛宕神社の前身として建てた高尾山寺がはじまり。和気一族は最澄や
空海を招いたが、特に空海は、唐から帰朝して大同4年(809)に入山、14年間住持
して真言宗立教の基礎を築いた。前年、四国遍路を結願(歩き終えること)した私として
は、ぜひ訪れてみたいところだった。

 20万㎡あるという境内、幅広い石段を上がってかやぶきの大きな楼門をくぐる。
書院前のしだれ桜が満開。和気公霊廟、大きな鐘楼、若い山桜の咲く五大堂、精巧な
木組みや太い柱に圧倒される朱塗りの金堂、若緑に囲まれた多宝塔、静かなたたずまい
の大師堂などを巡った。

 さらに金堂内部に入り、国宝の本尊・木造薬師如来像や、国重文の日光月光菩薩像、
毘沙門天立像、愛染明王像などを拝観した。
 
 南側のハイキングコースに回り、清滝川沿いに出る。

 清滝橋を渡って左岸へ。すぐ先に堰(せき)があり、流れの大半が用水に取り入れられ、
本流は水量が減って景観がいまひとつとなる。

 渓谷沿いは東海自然歩道と、京都一周トレイル北山コースになっている。

 冠水橋を渡って右岸に回ると、道幅は人ひとり分に狭まった。東側から小さい流れが
幾筋か入り、淀みにハヤらしい小魚の影が見える。
 
 道は右からの支流沿いに入り、緩い上りとなる。せせらぎも聞こえる気持ちよい山道、
北山杉の林立する坂を上がって車道に出た。右に月輪寺への道標があった。

 反対方向に向かい、清滝川の高みを緩やかに下る。流れでカジカが鳴く。左岸に回ると
モミジが増え、竹林にはシャガが咲き、ウグイスがさえずる。間もなく清滝バス停である。

 京都駅行きバスもあるが、もう少し歩くことにする。トンネルを抜けるバス道を避けて、
トンネル上を越える旧道へ。

 ループ状に回って嵐山高尾パークウェイの横断点まで上がり、急な下りとなる。狭い峠
の壁面に、珍しい下向きのカーブミラーがあった。

 バス道がトンネルを抜けたところに、愛宕(おたぎ)念仏寺がある。17時の拝観
終了時刻間際だが、急いで拝観する。

 京都市内最古という鎌倉初期の仁王門をくぐると、狭い斜面いたるところに苔むした
羅漢像が並ぶ。その数1200体とか。

 寺は、称徳天皇(764~770)の開基という。国重文の本堂は、鎌倉中期の和様建築
の代表的遺構。穏やかな曲線の屋根と、白木と白壁の壁面が新緑によく溶けこんで
いる。

 仏像彫刻家・西村公朝(こうちょう)の寺としても知られる。公朝は昭和30年
(1955)に住職となり、荒れ寺を復興し、自作の仏像や仏画を奉納した。

 三宝の鐘や中国風のお堂など、異色の建物が目立つ寺でもあった。

 旧道を400mほど進んだところに、愛宕神社の一の鳥居があり、その辺りから、
南側にかやぶきの茶屋や旅館、鮎料理の店など並んでいる。

 一帯は、国の「嵯峨鳥居本(さがとりいもと)伝統的建造物群保存地区」に指定され、
その先にも、町並み保存館など、かわらぶきの古い民家が多い。

 近くの鳥居本バス停に17時20分頃着き、間もなく来た京都駅行きバスで四条
烏丸の宿に向かった。


 

 


   


 

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする