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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

相国寺から京都御苑へ

2010-05-07 21:41:46 | 京都を歩く
 2010年4月20日(火)

 この日は11時から、京都市街の中心、京都御苑の一角にある仙洞御所(せん
とうごしょ)の拝観を申し込んであったので、その前に、近くの相国寺(しょうこくじ)
と京都御苑を回りました。

 相国寺は、京都御苑の北側にあり、足利義満が創建した禅宗五山のひとつで、
下の図のように広い境内に、多くの堂塔が並んでいます。 


 これは宝塔。


 背の高いアカマツの向こうの大きな建物は、本堂に当たる法堂。


 東北の隅にある飛天閣と呼ぶ美術館に向かう両側は、みずみずしいモミジの新緑
が続いていました。


 モミジの下は、やわらかなコケに覆われています。




 秋のような彩りのモミジも。


 飛天閣の入口左手には、大きなソテツもありました。


 法堂の北側に回りました。法堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進による
ものです。


 法堂の東側にある鐘楼。


 南側に並ぶ同志社大の、幾つかのレンガ造りの建物の間を南進し、京都御苑
に入ります。

 京都御苑は、京都御所や、このあと拝観する仙洞御所を含む約65haの、緑が
いっぱいの国民公園。明治2年(1869)に御所が東京に移るまで、約200軒の
公家屋敷や宮家があったところです。

 園内北側に、シダレザクラが咲き残っていました。

 東の方に回ると、皇女和宮誕生の地といわれる橋本家跡の表示がありました。

 和宮は、弘化3年(1846)にこの地で生まれ、14歳までここで育ったとか。
有栖川宮との婚約を破棄され、14代将軍・徳川家茂(いえもち)に降嫁したことは
よく知られたとおりです。

 近くには、学習院跡の表示もあります。

 学習院というと、東京・目白がすぐ浮かんできますが、この地は、安永8年(1779)
に皇位を継いだ光格天皇が公家の教育振興に取り組もうと考たのが発端で、弘化4
年(1847)に開講したとのことです。

 京都御所の周囲は、高い土塀に囲まれていますが、ここは内部に入る門のひとつ。

 普段は閉ざされたままのようです。

 こちらは、このあと拝観する仙洞御所の長い土塀。


 塀の中にある八重桜が、花を見せていました。
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雨の仙洞御所(京都)

2010-04-22 22:04:52 | 京都を歩く
 昨日、4月21日夜、奈良・京都のウオーキングや社寺めぐりから帰宅しました。
先週歩いた国際ウオーキングトレイル実踏のレポートから投稿するつもりでしたが、
留守中に溜まった用事や資料整理などがあり、本日は時間がとれません。

 そこで、20日(火)午前に拝観した、京都・仙洞御所(せんとうごしょ)の写真を
数枚紹介することにします。



 仙洞御所は、京都市街の中心、京都御所の東南に接しています。 


 仙洞御所は、桂離宮や修学院離宮とともに17世紀に築かれた、宮廷庭園の姿を
いまにとどめる、スケールの大きな池泉回遊式庭園です。












 桜などの花はほとんど見られませんでしたが、冷たい雨に濡れて、新緑がみずみず
しい園内を1時間ほどかけて、ゆっくりと拝観しました。
コメント (2)
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京都・伏見の社寺を巡る(下)

2008-04-19 22:44:12 | 京都を歩く
 2008年4月1日(月)(続き)



 京阪電車墨染駅の先で、水量豊富な琵琶湖疎水を渡る。

 すぐ先、商店街の一角を入ると、狭い境内が桜に彩られ
た墨染寺(ぼくせんじ)。墨染(すみぞめ)桜寺とも桜寺とも
いわれ、桜の名所である。

 関白藤原基経(836~91)の死を悼んで、平安の歌人
上野峯雄が、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨
染めに咲け」と詠んだので、ここの桜は薄墨色の花をつける
ようになったという。

 ソメイヨシノの咲き競う一角に、3代目の墨染桜が花を開き
はじめ、門前には、週末の5~6日に開催される「墨染さくら
の市」の案内が張り出されていた。

 ひとつ手前の通りから、南側にある欣浄寺(ごんじようじ)に
も回る。曹洞宗の開祖、道元禅師がこの地で布教し、この寺
を建てたという。やはりソメイヨシノが見ごろである。


 この地は、もともとは深草少将の邸宅跡といわれ、ここから
山科の小野小町のもとへ百夜通った伝説の地。境内には、
深草少将と小野小町の塚や、「墨染井(すみぞめい)」と呼ば
れる井戸がある。


 墨染駅のそばのそば屋で昼食を住ませ、東側の通りを北
に少し進んで、藤森神社に行く。

 平安遷都以前に建立された古社で、「菖蒲の節句」発祥の
神社として知られ、菖蒲が勝負に通じることから「馬と勝運の
社」ともいわれている。

 本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った賢所
(かしこどころ)の建物といわれているとか。

 本殿背後の八幡宮と大将軍社は室町時代の永禄10年
(1438)の建立で、ともに国重文に指定されている。
 
 絵馬殿には、古い絵馬に混じり、ナリタブライアンやトウカ
イテイオーなどの絵が奉納されていた。

 本殿東には、二つと無いおいしい水という意味の「不二
の水」が湧出していて、名水をくむ人が次々に来ていた。


 さらに北へ、京都健康センターの北から名神高速道をくぐ
り、JR奈良線の東に回ると、深草北陵。後深草天皇、伏見
天皇、後伏見天皇など、12の天皇の墓地である。

 入口横に、宮内庁職員の詰め所があった。来訪者の少な
そうな場所で、ほとんどすることもなく?どんな気持ちで勤務
しているのだろうかと、余計な心配をしたくなる。

 深草北陵の東側には嘉寺が、道路を挟んでさらに東には
真宗院がある。

 嘉寺は、嘉4年(851)、文徳天皇が先帝である仁明
天皇の菩提をともらうために、陵の傍らに清涼殿の建物を移
して寺とし、年号から嘉寺としたという。

 室町時代の応仁、文明の乱で寺は焼失し、その後再興した
が、現在地は旧寺域とは違うよう。

 境内には、「深草聖天」と呼ばれる聖天尊が祭られており、
開運招福祈願の信仰があついという。

 北西に400mほどには、深草山宝塔寺がある。藤原基経
が899年に発願した極楽寺が起こりとか。本堂は慶長13年
(1608)の建立で、国重文である。


 永享11年(1439)以前の建立という多宝塔や、室町
時代中期建立の四脚門(総門)も国重文で、1万坪といわ
れる境内は広く、何れの建物も歴史を感じる重厚たる造り。

 多宝塔付近からは、西側の町並みが見晴らせる。

 西側の総門に向かって幅広い石敷きの参道が緩やかに下り、
両側には、数か寺の子院が並んでいた。

 少しだけ住宅地を北に進み、細道を上がって中国風の山門
をくぐり、石峰寺(せきほうじ)に入る。


 黄檗(おうばく)宗の寺で、宝永年間(1704~11)の創建
と伝えられ、現在の本堂は昭和60年(1985)の再建という。

 本堂背後の竹林に、石像釈迦如来像を中心にして、十大
弟子や五百羅漢などの石仏群がある。顔や体型などははっ
きりしないが、それだけに歴史を感じさせる、静かなたたずま
いを見せる。


 江戸時代の画家・伊藤若冲(じやくちゆう)が、当時の住職
密山とともに制作したものとのことで、境内には、伊藤若冲
の墓と筆塚も立っていた。


 さらに進んで、今日の最終予定地、伏見稲荷大社の境内
に入る。全国に3万社あるという稲荷神社の総本宮。

 奈良時代の和銅4年(711)に創建し、後にこの地に社殿
が造営されたという。

 朝廷からはたびたび勅使が使わされ、庶民からは五穀豊
穣、家業繁栄の神として深い信仰を集めたとか。現在は商
売繁盛の神として知られ、正月には初もうでの参詣者で賑
わうという。

 本殿より上の、千本鳥居の入口付近から入った。ほかの
稲荷神社とは違う、りっぱな鳥居が山上の奥社に向かって
連なっている。


 少し下ったところに、修理中の仮殿らしい小さめの社殿が
ある。


 応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建。
幾度かの修造を重ね、現在は国の重文に指定されている。


 豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就して寄進したという
豪壮な楼門を出て、16時45分にJR奈良線稲荷駅に着く。

 17時過ぎの電車で京都駅に向かい、17時29分発ひかり
426号東京行きの東海道新幹線で帰途についた。

(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 京都南東部、
 歩行地 京都市伏見区、歩数 21700)

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京都・伏見の社寺を巡る(上)

2008-04-13 23:44:11 | 京都を歩く
 2008年4月1日(火)



 京都の社寺巡りの最終日は、京都市の東南部、伏見周辺
を回ることにした。JR奈良線のJR藤森(ふじのもり)駅を9時
35分にスタートする。

 東に1㎞近く進み、携帯電話のアンテナ塔の先の斜面を上
がって、古御香宮(ふるごこう)とも呼ぶ御香宮社に行く。

 文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見築城にあたり、城内の
鬼門除けの神として伏見九郷にあった御香宮をこの地に遷宮
して、社領300石を寄進したという。

 秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、現在の本殿は
その後に建てられたものとか。

 秀吉がここに神社を祭ったのは、隣接する「桓武天皇陵
参考地」を保護する必要とも伝えられているようで、南側
にはそれと思われる林が残っていた。

 車道に戻り、さらに南東に進み、八科峠の交差点際を東
に入って仏国寺へ。

 延宝6年(1678)、中国福清の人で隠元(いんげん)禅師
の招きで来日した、高泉(こうせん)和尚が復興した寺。


 墓地にある高泉和尚銅碑は、正徳元年(1711)に鋳造の
青銅碑で、撰文は高泉和尚の教えを受けた近衛家(いえ
ひろ)によるものという。

 墓地には、江戸初期の代表的作庭家で伏見奉行でもあった
小堀遠州の墓もあるというが見つからず、韓国姓の新しい墓
がたくさん並んでいたのが目についた。

 八科峠に戻ると、民家の傍らに道しるべの標石と、逢坂山
車石という石碑が並んでいた。


 峠の交差点を西に入る。すぐ先の左側一体は伏見北堀公園。
伏見城の北堀跡を自然公園に整備したものらしい。

 堀跡には小さい流れがあり、両側は桜やハクモクレンなど
が咲き競い、散歩やウオーキングの人たちが次々にやって
来た。

  堀跡を隔てた南側にあった高台に上がったら、思いがけ
ず大きな城が見える。
 
 地図で確かめたら何と伏見桃山城。野球のグランドの先に
回って城のそばへ行く。

 周辺のソメイヨシノが見ごろ。城は大きいのと小さいのが
並んでいる。しかし石垣は自然石の感じがせず、砕石して
形を整えたようで最近のものらしい。

 帰宅後調べたら、1964年に伏見城の花畑跡にできた遊園
地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉として建設されたが、
経営母体の近鉄のリストラで閉園、京都市が無償譲渡を受け、
一体を伏見桃山城運動公園として、最近整備したようだ。

 五重六階の大天守と三重四層の小天守、楼門などは史実
には直接関係ないと知り、ちょっと拍子抜け。公園内に、城
の説明が何もなかったことも納得した。

 雲行きが怪しくなりちょっと冷えてきたが、城を一周して
伏見北堀公園の西端に回り、北側の車道に出た。


 藤森小や森林総合研究所の北側を下り、JR奈良線の西を回
って海宝寺に入る。

 海宝寺とその周辺一帯は、仙台藩伊達政宗の伏見上屋敷が
あったところとか。正宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの
屋敷地を与えられ、一時は千人以上も住んでいたという。


 本堂横に正宗手植えという桃山時代の名木、モッコクがある。
手前は枯れたのか布で覆っているが、奥は枝を大きく伸ばし
ていた。

 境内の庭園もよく整えられている。

 国道が90度カーブしている近くには、栄春寺があった。
永禄11年(1568)、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として
開創したという。

 現本堂は天保10年(1839)の改築で、本尊は徳川家康
の家臣・酒井重勝が寄進したものという。

 この庭園も、よく手入れされていた。
 

 京阪電鉄墨染駅の横を通過し、水量豊富な琵琶湖疎水を
渡って桜の名所、墨染寺に向かう。

       
                                 (続く)

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京都御所とその周辺を巡る(下)

2008-04-10 23:16:24 | 京都を歩く
 20008年3月31日(月)続き

 イョウ並木のある寺町通を南に進む。二条通との交差点に、
井原西鶴の「通い路(かよいじ)は 二條寺町 夕詠(ゆうながめ)」
の句碑があった。

 この句は、延宝5年(1677)の「西鶴俳諧大句数」に納められて
おり、当時、このあたりの風情ある町並みの夕景色にみとれつつ、
四条河原の涼み床へ駆け抜けていった粋人たちをうたったものだと
いう。

 鴨川の二條大橋を渡る。2つ下流の三条大橋は、毎年の中山道
ウオークのスタートかゴール地点なので何度か渡ったが、この橋は
初めて。左岸のソメイヨシノはまだ少し早めだった。


 橋より2本東の通りに回って、頂妙寺へ。何か所か点々とし、延宝
元年(1673)にこの地に移ったという。 

 楼門には持国天と多聞天像を安置し、その前に仁王門の拝殿
と呼ばれる祓(はらい)堂があり、門前の通りを「仁王通り」と呼ぶ
のは、この仁王門が起源のようだ。

 再び二條大橋を渡って鴨川の西に戻る。加茂川左岸下流では、
しだれ柳が芽吹き始めていた。


 橋の近くに、2階建て洋館の島津創業記念資料館があった。明治
8年(1875)、島津製作所がこの地で理化学機械製造業を興し、
2代目島津源蔵は蓄電池製造法を発明するなど、わが国科学技術
の発展に尽くした場所。

 資料館として公開されている建物は、国の登録有形文化財に
指定されている。

 すぐ南側は「高瀬川一之船入」と呼ばれ、いったん暗渠(あん
きよ)になった流れが再び姿を現したところ。

 高瀬川は、大量輸送を目的に伏見・二条間をつなぐ水運として
慶長16年(1611)につくられ、京都と大阪を直接水路で結ばれ
ることになり、近世京都の経済発展を支えるもとになった。

 全長約11.1㎞、川幅平均約8mあり、高瀬舟の荷物のあげお
ろしをする船溜まりを船入といい、水路に沿って九か所の船入り
が設置されたという。


 高瀬川一之船入の周辺には、京の昔をしのばせる趣ある家並み
が並んでいた。


 南側の広い通り、御池通に出て、京都市役所横まで進む。市役
所と通を隔てた南側は本能寺である。

 天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に襲撃され、自刃し
たことで知られるが、そのおり30余りの大伽藍は焼失した。

 その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年{1589}に現在
地に移転、現在の本堂は昭和3年(1928)の再建とのこと。

 境内には信長公廟(びよう)があり、武将の魂とされる信長所持
の太刀が納められているという。


 境内にはほかに、本能寺変の戦没者合祀墓、9代将軍家重夫人
の供養塔、後伏見天皇7世皇孫・日承聖人墓などがあった。

 南側の三条通から、いつも修学旅行生や観光客などでなどで賑
わう新京極のアーケードに入る。 

 幾つもの京土産店などをのぞきながら南に進む。

 通りの一角に、平安の女流歌人の代表とされ、才色兼備で知
られる和泉式部の墓所という宝篋印塔(ほうきよういんとう)があ
った。

 謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている石塔で、高さ約4m、幅約
2.4mあり、正和2年(1313)に改修建立されたもの。


 そばの誠心院の初代住職が和泉式部だったとか。関白藤原道
長が、娘の上東門院に仕えていた和泉式部のために一庵を与え
たのが、この寺の起こりだという。

 境内は狭いが、和泉式部歌碑や、珍しい二十五菩薩の石像(下)
などがある。

 二十五菩薩は、豊臣秀吉の頃、宇治田原の城主、山口甚助に
より誠心院に寄進、建立されたとか。10体が焼失しているが、
石仏の二十五菩薩は珍しいという。

 京都の繁華街、四条通の1本北になる錦小路通に入る。

 京野菜や漬け物、煮物など、京の台所に欠かせぬ品物の並ぶ
狭い通りを抜け、17時半近く、四条烏丸の宿に戻った。

(天気 晴時々曇にわか雨、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 集成図
 京都、歩行地 京都市上京区、中京区、左京区、歩数 23600) 
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京都御所とその周辺を巡る(中)

2008-04-08 22:22:50 | 京都を歩く
 2008年3月31日(月)続き

 京都御所を囲む築地塀の外に出て、御所の周囲を囲む
京都御苑を回ることにする。


 北に進んで御苑の西北端付近に行くと、しだれ桜を中心に、
桃や桜などが咲き競っていた。
 
 このあたりは、江戸時代末までの五摂家のひとつで、多くの
人が摂政や関白になった近衛邸跡。

 今も残る池の西側に大きな屋敷があったという。池のほと
りにある何本ものイトザクラ(シダレザクラ)が見ごろだった。

 さらに東に進むと、塀に囲まれた一角は中山邸跡。幕末期
の公家、中山忠能(だだやす)の敷地で、その娘慶子は明治
天皇の生母。敷地内にうぶ屋が残っているという。

 御苑の東に出て、御苑に沿って南に少し進むと、浄土宗
大本山の清浄華院(せいじようけいん)。

 貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所
内に造営したのが始まり。この地には天正18年(1590)に
移転したとのこと。

 本堂には、法然上人像や、清和・村上天皇尊像と歴代天皇
の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓など歴史上著名な
人物の墓があるという。

 すぐ南にあるのが廬山寺(ろざんじ)。現在の本堂は1788年
の天明の大火による炎上以後のものとか。

 境内は紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆地と伝えられ、本堂前
の「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址(あと)」の石碑や、歌碑が立っ
ていた。
 
 堂内に上がり、仏像や源氏物語などの古文書、絵画などを拝観
する。松と白砂を中心の落ち着いた庭園も見て、堂内を一巡した。


 塀に沿って北に回ると、慶光天皇廬山寺陵があり、慶光天皇
のほか、内親王や、東山天皇と光格天皇の皇子、皇女など15
人の皇族の墓もあった。


 廬山寺の南側には、幕末の右大臣・三条実萬(さねつむ)と
内大臣三条実美(さねとみ)を祭神とする梨木(なしのき)神社
がある。


 境内には、京都三名水のうち現存する唯一の「染井の井」
があり、数人が、たくさんのポリタンクにくんでいた。

 飲んでみたら、まろやかな味わいだった。

 仙洞御所の南側から、再び京都御苑に入る。御苑の南側
中央部は、近衛家から分かれた五摂家のひとつ、鷹司邸跡
で、広葉樹の大木が豊富な枝を広げていた。


 少し先、御苑の南端は、やはり五摂家のひとつだった九条
邸跡。広大だったという屋敷跡に残る池のほとりに、九条邸
の鎮守だった厳島神社と、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)
のみが残っている。

 厳島神社の石鳥居は破風形鳥居と呼ばれ、当初は平清盛
が兵庫・築島の厳島神社に建てたもので、国重文である。


 池の中央、中の島に渡る橋のそばに、アオサギが羽を
休めていた。


 九条亭の北側にあるのが宗像(むなかた)神社。福岡の宗像
に建てられたことが古事記や日本書紀に記されており、平安京
創立の翌年である延暦14年(795)、桓武天皇の命により、
皇居鎮護の神としてここにも祭られたという。


 京都御苑の南西の角には、閑院宮邸跡が残っている。江戸
時代には200もの宮家や公家の邸宅が並んでいた京都御苑
でただひとつ、当時の建物や庭園の面影を今に伝える場所で
ある。

 歴史的価値が高いことから改修と整備をして、2005年か
ら公開されたが、この日は休館日で門内には入れなかった。

 京都御苑の南西端、烏丸丸太町交差点際で昼食をして、
ひとつ南の竹屋町通りを東進する。

 御苑の東側を南北に走る寺町通りに出て、下御霊(しも
ごりょう)神社に行く。

 不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子、伊予親王とその
母藤原吉子の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建
された。

 当初は、上京区にあったが、天正18年(1590)に豊臣
秀吉の都市整備でこの地に移転したという。

 ここにも、200年前に掘られたが枯れた名水を掘り下げて
1992年に復活したという名水の井戸があり、やはりくみに
来ている人たちがいた。

 上御霊神社の南側は、西国三十三ヶ所観音霊場第19番
札所、革堂(こうどう)と呼ばれる行願寺(ぎょうがんじ)。


 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人により創建、宝永
5年(1708)の大火後、この地に移されたという。

 現在の建物は、文化12年(1818)に建てられたもの。境内
には、都七福神のひとつになっている寿老人神堂や、愛染堂、
百体地蔵尊堂、加茂大明神塔などがある。       (続く)
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京都御所とその周辺を巡る(上)

2008-04-07 21:45:38 | 京都を歩く
 2008年3月31日(月)



 京都市内社寺巡りの2日目は、今回の旅の1番の目的で
ある、京都御所の拝観から始まる。

 京都御所の拝観は昨年4月10日に予定していたのだが、
出かける前日の4月7日に交通事故にあって中止したため、
今年の正月初めに改めて申し込んだもの。

 ちなみに、京都御所の参観には申し込みが必要で、3ヶ月
前1日から受付が始まり、サクラの頃は申し込みが多い。

 9時からの拝観を申し込んだので、8時40分過ぎ、御所西
側の清所門(せいしょもん)と呼ぶ参観者入口から入った。


 参観者は案内人に従い、説明を聞きながら回る。1回の
参観時間は約1時間で、1周約1kmあるという。

 以前行った修学院離宮や桂離宮に比べて人気が高いの
か、1回辺りの参観者は150人と多い。

 京都御所は、築地塀に囲まれた南北約450m、東西約
250mの方形で、面積は約11万㎡あり、京都大宮御所、
仙洞御所、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産として
宮内庁が管理している。


 参観者休憩所を出て、まず、御車寄(おくるまよせ)(写真
上)に続く諸大夫の間(しょだいぶのま)へ。

 正式な用向きで参内(さんだい)したときの控えの建物で、
3つの部屋がある。これは中間の諸侯・所司代の控えの間
に描かれた鶴の絵で、この部屋は「鶴の間」とも呼ばれる。


 南側に回ると、鮮やかな朱塗りの柱の承名門(じょめいもん)
がある。

 承名門からは、南庭を通して北に紫宸殿(ししんでん)の大
きな建物が望まれる。

 紫宸殿は、安政2年(1855)の再建、代々の天皇の即位礼
など、重要な儀式を行う最も格式の高い正殿で、間近で拝観
することは出来ない。

 間口37m、奥行き26.3m、棟の高さ20.5mの入母屋
(いりもや)檜皮葺(ひわだぶき)の高床式宮殿建築である。

 建物の右手前に見えるのは左近の桜で、門扉で見えないが、
左側には右近の橘がある。 

 東に回ると、御所の東南の門、建春門(けんしゅんもん)が
見える。


 東側から紫宸殿の背後を回って清涼殿前に行く。
清涼殿は、天皇の日常の生活の場として使用されたところ。


 清涼殿の北側に続く建物


 東側に戻って小御所の横を北に進むと、入母屋檜皮葺の
御学問所(おがくもんじょ)がある。

 学問のためだけでなく、和歌の会などにも用いられたという。


 小御所や御学問所の東側には、池を巡らした御池庭(おいけ
にわ)が広がっている。




 御池庭の北側にあって御所最大の建物が御常御殿(おつね
ごてん)。これは、御殿の扉に描かれた絵。


 御常御殿で折返し、御学問所との間を西に抜けると広場
になっていて、しだれ桜が見頃である。

 参観者は、思い思いに桜をバックに記念撮影をしたり、花
を鑑賞したりして拝観を終えた。


 参観者休所にある売店で記念の品を幾つか求め、10時
15分に参観者の出入り口、清所門を出た。     (続く)
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京都・醍醐寺とその周辺を巡る(下)

2008-04-04 18:39:02 | 京都を歩く
 2008年3月30日(日)(続き)

 3時間近くの醍醐寺拝観を終え、旧奈良街道を北に向かう。

 まず、近くの京栄堂という和菓子店の建物の一角にあった
「鬼めん」といううどん店で遅い昼食。醍醐寺へ花見に来た
人がたくさん入ったのか、残りのメニューは限られていた。
 
 しかし、お店の人の対応はよく、気持ちよく食事を済ます
ことができた。

 交通量の多い新奈良街道と交差してさらに進み、地下鉄
小野駅に近い随心院門跡(もんぜき)に行く。

 随心院は、弘法大師から8代目の弟子、仁海僧正により
正暦2年(991)に開基した曼陀羅(まんだら)寺がはじまり。
次第に整備された七堂伽藍は承久応仁の乱で焼け、現在
の本堂は慶長4年(1599)の再建だという。

 随心院は小野小町の旧跡とも伝えられ、謡曲「通小町」の
前段、深草少将が小町のもとに百夜通った伝説の舞台であり、
小町は境内の化粧の井付近に住んでいたという。

 境内には小町文塚(こまちふみづか)もある。

 この日は、年に一度の「はねず踊りと今様」という、奉納の
舞と観梅祭の日だった。

 「はねず」とは、うす紅色のこと、随心院門跡にある梅園の
紅梅が、古くからこの名で親しまれていたようだ。

 古くから毎年、「はねず」の咲く頃に、門内の庭で踊ってい
た「唐様(はねず)踊り」は、小野小町伝説を主題としたもの
で、一時途絶えたが、近年復活したのだという。

 踊りの最終回が15時から始まるというので、その前に庫
裡(くり)から上がって、奥書院、表書院、本堂などの内陣と、
仏像や古文書、庭園などを拝観する。


 「はねず踊り」は、午前中には外で踊られるようだが、雨に
なったので、庭園を眺められる本堂の廊下で行われた。

 近くの小学校高学年の女性児童8人が、邦楽の演奏に合
わせてはねず色の衣装で踊る。

 小野小町をしのばせる、しっとりした舞だった。
    

 踊りを見た後、境内の一角、名勝・小野梅園を巡る。今年は
開花が早めだとかで盛りは過ぎていたが、雨に濡れたはねず
色の花も、味わい深いものだった。


 西に向かい、地下鉄東西線が地下を走る小野駅に近い車
道と、山科川を横断し、名神高速道の南側にある勧修寺(か
じゅうじ)に行く。

 16時15分に着いたが拝観時刻は16時まで。でも受付に
いた女性に聞いたら、拝観させてくれるとのこと。感謝して
入る。

 勧修寺は、昌泰3年(900)に醍醐天皇が創建されたという
古寺。庭園は「勧修寺氷池園」と呼ばれ、氷室池を中心に造園
され、周囲を借景とした地泉庭園がある。

 平安時代には、毎年1月2日に氷室池に張る氷を宮中に献
上し、その厚さでその歳の五穀豊凶を占ったといわれていると
いう。

 書院の前の灯ろうは、水戸光圀公の寄進で「勧修寺型灯籠」
と呼ばれるユーモラスなスタイル。

 周りを覆うハイビャクシンは、樹齢750年といわれ、国内で
も無双の名木として名高いようだ。

 観音堂の周辺では、数本のソメイヨシノが冷たい雨に濡れて
いた。


 氷室池の中の島は、自然のままに木が茂り、サギの巣が幾つか
出来ていた。(中の島は下の写真の左にある)

 庭園を一巡し、15分ほどで勧修寺の拝観を終える。

 南側に神社が見えたので向かってみたら、目的の神社の
手前にもう一つ、小さな社の宮道神社というのがあった。

 このあたり宇治郡を本拠とした、氏族宮道氏の祖神、日本
武尊などを祭神として、寛平10(898)に創建されたという。

 平安時代初期の宇治郡司・宮道弥益は、醍醐天皇の生母・
藤原胤子の祖父で、その邸を寺としたのが、いま拝観した勧
修寺だという。

 石段下には、三条右大臣の「名にし負はば 逢坂山の さね
かづら 人に知られで くるよしもがな」の歌碑がある。

 この地は、父の藤原高遠が宮道弥益の娘と結ばれたロマン
の地だったようだ

 目的の神社は、その南側にある八幡宮。仁寿3年(853)の
創建と伝えられ、江戸時代までは勧修寺の鎮守社だったという。

 現在の本殿は、元禄8年(1695)の建築。向背(こうはい)が
改変されているが、江戸中期の大型切妻造り平入本殿として
の価値が高いとして、京都市有形文化財に指定されていた。


 境内の一角にある天満宮前には、安産の神という二つの石
があり、鳥居のそばには、ツブラジイの大木が高く枝を伸ば
していた。

 市営地下鉄東西線の小野駅に17時5分に着き、初日の予
定を終わり、連泊する四条烏丸のビジネスホテルに向かった。

(天気 曇後雨、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 京都東南部、
 歩行地 京都市伏見区)

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京都・醍醐寺とその周辺を巡る(上)

2008-04-03 12:31:03 | 京都を歩く
 関西のサクラも見頃が近づいた3月30日~4月1日、京都
御所の参観と、京都市東南部の伏見区にある社寺巡りに出
かけた。順次、その模様を報告する。

=========================

 2008年3月30日(日)
 =醍醐寺とその周辺へ(上)=


 
 東京駅7時3分発のひかり361号で京都駅に9時48分に
着く。JR琵琶湖線(東海道線)で山科まで戻り、京都市営地
下鉄東西線にて醍醐駅まで行く。10時半に駅を出た。

 地下鉄東西線の、駅のホームにある車両の扉と連動する
ドアは、天井まで達する本格的なもの。相当な費用をかけた
設備で、首都圏にはない。

 新しい住宅が並ぶ醍醐東団地を、緩やかに東の高台に向
かって上がる。南北に走る新奈良街道を横切ると、広い境内
の醍醐寺である。

 醍醐寺は、弘法大師の孫弟子にあたる理源大師により、
貞観16年(874)に醍醐山上に草庵を造ったのが始まり。

 醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依により、次々に堂塔
が建立され、大伽藍(がらん)が整ったという。

 開山以来、醍醐寺は日本仏教史上重要な位置を占め、国
宝や国重文に指定されたものも多く、平成6年(1994)には
世界文化遺産に登録されている。

 総門を入り、広い境内に広がる堂塔の一角、まず左手の
三宝院へ。三宝院は永久3年(1155)の創建、醍醐寺の
本坊的な存在で、歴代座主が居住する坊とのこと。

 入口周辺のしだれ桜が見ごろである。


 大玄関(下の写真)から上がって葵の間、秋草の間、勅使
の間を経て、表書院から池を中心とした庭園を見る。

 豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計したという、
桃山時代の雰囲気を伝える庭園である。

 奥の本堂では、鎮座する快慶作の弥勒菩薩像などを拝観し、
ほかの建物も一巡した。これらは写真撮影は禁止だった。

 予報通り雨となったが、建物から出て、憲深林苑と呼ぶ庭
園に回る。

 何本もあるシダレザクロやソメイヨシノが見ごろ。

 ヒカンザクラやハクモクレン、紅梅、サンシュユ、アセビなど
も咲いていた。

 総門から真っ直ぐの西大門を入ると、松などの多い広い境
内に幾つもの堂塔が散らばっている。

 醍醐寺の総鎮守である清瀧宮本殿は永正14年(1517)
の再建で国の重要文化財である。


 国宝の五重塔は、天暦5年(951)の完成で、高さ約38m、
屋根上の相輪は約13mあるという。


 醍醐寺の中心お堂である金堂は2度焼失し、現在のもの
は豊臣秀吉の命で慶長5年(1600)に完成し、やはり国宝
である。


 ほかに、祖師堂、不動堂、大講堂(写真上)、鐘楼堂、弁天
堂(写真下)などがあった。


弁天堂の先から山道を約1時間上ると、醍醐寺開創の起源
となった醍醐水や、西国三十三観音霊場第11番札所准胝
堂(じゅんていどう)のある上醍醐だが、天候と先の予定もあ
り今回は省略した。

 三宝院のそばまで戻り、東側にある新しい霊宝館に入る。
数多い醍醐寺の仏像などの宝物を展示するところ。春期特
別公開中の20を越える国宝や重文の仏像や、図像、工芸
品などを拝観した(館内は撮影禁止)。

 霊宝館の周りも、何本もある古木のしだれ桜が見頃だった。








                           (続く)
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長岡天満宮から長岡宮跡(続き)

2006-04-17 19:22:12 | 京都を歩く
 光明寺近くで遅い昼食を終え、田んぼと新興住宅地の間の間道を東に進み、
乙訓寺(おとくにでら)に行く。

 乙訓寺は真言宗豊山派長谷寺の末寺で、推古天皇の勅願で聖徳太子が創建
したとされる乙訓地方最古の寺。延暦4年(785)、桓武天皇が長岡京造営の際
に、藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座した皇太子の相良親王をここに幽閉
し、また、唐から帰朝した空海が、弘仁2年(811)に別当となり、ここを最澄が
訪れ、密教について語り合ったとされるという。

 境内のいたるところに、約2千株という牡丹がある。4月下旬の花どきには、
たくさんの人が訪れると、桜を見に来た近所の奥様が話してくれた。

 ソメイヨシノも境内あちこちにあり、やはり見ごろの花を見せていた。

 また、樹高9m、根元周囲3.55m、推定樹齢400~500年、京都府内
でも屈指というモチノキがある。昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れた
ようで、それ以前はもっと幹高があって、さらに見事だったろうと思われた。

 寺を出た頃、一時的に風が強まったが、長くは続かなかった。しかし、雨は
やみそうにない。今里の田んぼには、タケノコと並んでこの地の特産、ナノハナ
があちこちに花を見せていた。

 今里橋を渡って向日(むこう)市に入り、ちょっとした台地上にある向日神社
に東側の参道から入る。ゆるやかに上がる参道は、ソメイヨシノのトンネルと
なっていた。

 向日神社は、養老2年(718)の創建で、延喜式神明帳(えんぎしきしんめい
ちょう)に記載された式内社である。祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬が特に
篤(あつ)かったという。

 現在の本殿は、応永25年(1418)から4年の歳月をかけて建造された、
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という様式で、創建年代の残る室町
時代の代表的な神社建築として、国重文となっている。

 参道の途中に、国家に詠(よ)まれている「さざれ石」があった。岐阜県揖斐
郡(いびぐん)春日村(現、揖斐川町)の山中にあったものだという。

 長岡京市の中心街を南北に抜ける通の東に出て、国史跡・長岡宮(ながおか
きゅう)跡に行く。

 長岡宮は、延暦3年(784)から13年までの10年間、日本の首都だった
ところ。現在の国会議事堂に相当する大極殿(だいごくでん)跡や、正面入口
にあたる閤門(こうもん)跡の辺りを大極殿公園として向日市で整備中だった。

 南に進めば西向日駅、15時27分に着いた。

 これで今日の予定のコースは終わったが、まだ時間がある。この旅の最後に
東山山麓・円山公園のしだれ桜を見てから帰ることにした。

 阪急電車で終点の河原町駅まで行く。鴨川の四条大橋を渡り、八坂神社の横
を回って丸山公園へ。京都有数の桜の名所として知られているだけあり、雨にも
かかわらず観光客が多い。

 しだれ桜は見頃であったが、樹勢の弱った枝を剪定したのか、枝張りに勢い
がなく、雨の夕方ということもあり、期待したほどの花ではなかった。3日間、
あちこちで花をいっぱい見てきたからかもしれない。

 宿に戻って預けた荷を受取り、京都駅18時発ひかり382号で帰途につく。
花見どきとあり、京都駅内の観光案内所には、「本日の宿は満員」と記されて
いたので、新幹線自由席も途中まで立って帰らねばならぬかと思ったが、意外
に空いていて、京都からの乗客は全員座ることができた。(了)




 
 

  
 

 

 

  
 



 

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