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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

天皇陛下が皇太子当時の婚約発表と結婚式当日の新聞

2018-12-25 19:03:15 | アーカイブ
 2018年12月25日(火)

 平成最後の天皇誕生日のおととい12月23日(日)と、きのう12月24日(月)夜
19時30分から、NHKテレビで「天皇 運命の物語」が放映されたので、ご覧になっ
た方もおられるかと思います。

 このうちきのう12月24日(月)は「いつもふたりで」のサブタイトルで、ご結婚前
後から天皇即位までの期間の話題で、特に前半は皇太子殿下の妃殿下選びのことでかなり
の時間をとっていました。

 実は、皇太子殿下の婚約発表は、当ブログで前回紹介した東京タワー完成の日より、約
1か月前の昭和33(1958)年11月27日(木)のことでしたから、東京タワー完
成と同様、60年前になるのです。

 当時私は、勤務先の研修期間があった三重県鈴鹿市で入寮しながら専門教育を受けてい
たのですが、昼食時のニュースでそのことを知ったのか、授業終了後の夕方に最寄り駅の
近鉄白子(しろこ)駅まで夕刊を買いに行った記憶がありました。

 その新聞があるはずと思い昨夜探してみたら、古い新聞やアルバムをしまった段ボール
の中に見つかったので紹介します。

 60年もたっているので頁によってはかなり黄ばんでおり、また1頁が1枚の写真なの
で本文は読めませんが、全体のイメージだけでもと思い今日の話題とすることにしました。

 昭和34(1958)年11月27日(木) 毎日新聞中部本社第一夕刊から
 

 

 

 

 

 
 
 以上、1面から6面の広告までの全頁

 さらに、翌昭和34(1959)年4月10日(金)に行われたご結婚式の模様と、そ
のあとの馬車によるパレードの模様などを報じた当日の夕刊2紙もありましたので、その
一部を紹介します。

 最初は結婚式の報道が主の朝日新聞東京本社版夕刊から
 
 第1面 

 
 第3面

 
 第4面と5面

 
 第7面

 次はパレードを中心にした毎日新聞東京本社版第二夕刊から
 
 第1面

 
 第2面

 
 第3面

 
 第4面の祝賀広告

 この日は休日となったので、私もパレードを見に出かけて通過する写真を1枚だけ撮り、
持っているはずですが、その所在は今のところ不明です。

 これらのことをご存じの方は、もう少なくとも70歳以上の方ではないでしょうか…。

 




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昭和30年代前半の石神井公園の風景(東京・練馬)

2018-09-29 18:15:49 | アーカイブ
 2018年9月29日(土)

 前々回、9月16日(日)に石神井公園周辺を歩いたレポートの最後に、半世紀以上前
のことを少しだけ記したときに、当時の写真があるはずだと思い出しました。

 そこで、引っ越し用段ボールにしまったままになっていたアルバムを探してみたら、見
つかったので紹介することにします。

 時期は、昭和31(1956)年6月から33(1958)年3月までのわずかな期間
ですので、アルバムの掲載順に従ってご覧いただきます。

 初めは昭和31(1956)年6月中旬のもの。アルバムのタイトルは「新緑の石神井
公園」となっています。
     
      石神井池の東北端にあるボート乗り場周辺

 
 石神井池は、当時は「ボート池」と呼んでいたように思います。

 中の島の南側にかかる太鼓橋(たいこばし)は現在も同じよう見えるので、改修などは
してないのかもしれません。
     

           太鼓橋付近からの東方の眺め。
          

      三宝寺池の植物
     

           三宝寺池の弁天堂
           


 アルバムには「石神井グランド」と記されていますので、三宝寺池の北側台地上、現在
は区立石神井公園松の風文化公園になっている、当時の日本銀行石神井グランドではなか
ったかと思われます。

 次は、昭和32(1957)年2月24日撮影の三宝寺池弁天堂。

 三宝寺池の南西側、現在は厳島神社と呼ばれる建物のはず。 

 当時、夏になると「石神井公園灯籠流し花火大会」があり、たくさんの観客で賑わいま
した。昭和32年7月24日です。

 「各町競う灯籠群」となっています。


 その中の2つ、オランダ風車(左)と「夢よもう一度」と名付けられた大きな灯籠(右)。

      夜の打ち上げ花火も人気でした。
     

 最後は雪の石神井公園風景、以下の3枚は昭和33(1958)年2月28日と3月2
日撮影のもの。


 石神井池ボート乗り場周辺



 ボート乗り場付近から南西側の眺めと思われます。

 以下の4枚は日にちが記されていませんが、「雪の石神井公園(第二部)」となっいて、
かすかな記憶では同じ昭和32年の3月下旬か4月上旬だったはず。


 この2枚は、やはりボート乗り場付近からのよう



 こちらは、石神井池東端近くの南側、現在の「ふくろう広場」と「くつろぎ広場」と呼
ぶ辺りと思われます。


 さらに別頁に貼ってあった以下の3枚も、3月下旬か4月上旬のはず。

 ボート乗り場に近づく石神井公園駅行きのボンネットバス

 
 石神井池の南東側、現在の「くつろぎ広場」辺りから北側の眺めか。


 現在の「ふくろう広場」辺りから見た西側方向のよう。

 当時は三宝寺池はもとより、石神井池の周辺もボート乗り場以外には人工の構造物はな
く、自然のままの開放的な空間が広がっていました。

 テレビ放送が始まって2~3年の頃、まだ家庭にテレビ受像機を持っていたのは裕福な
家だけで、多くの家では情報や娯楽はラジオと4頁くらいの新聞、それに映画館での映画
観賞などに限られた時代です。

 〈参考〉現在の石神井池(上)と三宝寺池(下)の地図







 (公益財団法人 東京都公園協会発行のものの一部)

 







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カスリーン台風の襲来から70年

2017-09-15 20:23:04 | アーカイブ
 2017年9月15日(金)

 9月15日(金)は、関東地方に大きな災害をもたらしたカスリーン台風が接近して
70年になります。といっても最近は、カスリーン台風の名を知らない人が増えているか
もしれません…。

 下のパネルは、私たちカントリーウオークグループが5月28日(日)に東武日光線の
新古河駅から歩いて通過した、利根川の三国橋を渡ってすぐの利根川左岸、茨城県古河市
(こがし)の、国土交通省利根川上流河川事務所古河出張所前に掲示されていたものです。

 カスリーン台風は、第2次世界大戦終了から2年の昭和22年(1947)9月に発生
し、関東地方や東北地方に大きな災害をもたらしました。

 この台風は9月8日にマリアナ諸島東方で発生して次第に勢力を増し、9月14日には
鳥島の南西海上を北上、さらに15日未明に紀伊半島の南で北東に進路を変えて早朝に遠
州灘沖合を通過し、夜には房総半島の南端をかすめて16日には三陸沖から北東に去りま
した。

 台風が本州に近づいたときにはすでに勢力は弱まりつつあり、進路も東海地方から関東
地方の太平洋岸をかすめた程度で、強風による被害は出ていません。しかし、台風接近時
には日本列島付近に前線が停滞していたと推定され、そこに台風により南の湿った空気が
供給されて前線が活発化して、9月14日から15日にかけて大雨を降らせたのです。

 この台風による死者は1,077人、行方不明者は853人、住宅の損壊9,298棟、
浸水家屋384,743棟、耕地の流出や埋没12,927㏊などで、罹災者は40万人を
超え、関東地方を中心に大きな被害をもたらしたのです。

 なお、別の資料によれば、家屋の浸水303,160戸、家屋流出倒壊23,736戸、
家屋半壊7,645戸、死者1,100人、傷者2,420人、田畑の浸水176,789㏊
となっています。

 群馬県の赤城山ろくや栃木県の足利市などでは土石流や河川の氾濫が多く、これらを中
心に群馬県では492人、栃木県で352人の死者が出ました。また東北地方では、北上
川が氾濫し、岩手県一関市など岩手県内で109人の死者が出ているようです。

 これら首都圏以外の被害については私はいままで知りませんでしたが、今回調べてみて
初めて分かったのです。

 カスリーン台風として私の記憶に残っていたのは、利根川や荒川の氾濫による埼玉県東
部から東京23区東部に及ぶ大洪水による大きな被害でした。

 この大洪水の発端は、埼玉県北埼玉郡東村(現在の加須市)の利根川右岸堤防の破堤で
した。この場所は江戸時代に人工的に開削された新川通と呼ぶ直線部ですが、明治43年
(1910)の大洪水では破堤しなかったので比較的楽観視されていたようです。

 ところがこの頃には、上流の遊水地帯が開発で消滅するなどで明治の大洪水当時とは状
況が変わり、利根川の水がすべて新川通に集中し、さらに下流の栗橋付近の鉄橋に漂流物
が引っかかって流れを悪くし、加えて近くに渡良瀬川の合流点があるので増水時には水の
流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていました。

 このような要因により、15日21時頃から堤防上から水があふれはじめ、16日0時
過ぎにこの北埼玉郡東村(現在の加須市大利根地域北東部)の右岸堤防が340mにわた
って決壊しました(下の写真の上部中心のXは決壊か所、右からの流れは渡良瀬川)。
       
 決壊か所は現在、加須市によりカスリーン公園として整備されていて、私たちカントリ
ーウオークグループでは2003年10月5日に昼食をしましたが、公園にはモニュメン
トなどがありました。

 濁流は南に向かい、栗橋町(現在の久喜市栗橋区域北部)から順次、鷲宮(わしのみや)
町(久喜市鷲宮区域西部)、幸手(さって)町(幸手市中心部)を経て13時には久喜
(くき)町(久喜市久喜地区中心部)に到達しました。一方、荒川では15日夜に熊谷市
付近で左岸堤防が決壊し、洪水は16日午前中に北埼玉郡笠原村(現・鴻巣市東部)に到
達し、元荒川沿いに流下して行きます。
 
 利根川の濁流は、庄内古川、古利根川(ふるとねがわ)の周辺を中心に何か所も決壊し
ながら17日の未明には現在の春日部(かすかべ)市、夜には元荒川(もとあらかわ)か
らの水を合わせて吉川市に達し、現在の中川と江戸川の間を南下し、18日夕方には埼玉
・東京都県境の大場川および小合溜井(こあいためい)の桜堤(水元公園付近)に達し、
一時的に食い止められたようです。

 しかし19日未明には桜堤が決壊し、その日のうちに葛飾区の金町や柴又、小岩付近が
水没しました。さらに、現在の八潮市で中川右岸が決壊し、綾瀬川の東側も水没します。

 その後、20日3時には葛飾区亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には立石、四ツ木付近
まで浸水しました。金町付近の水は20日夕方には江戸川区船堀付近に達し、荒川や旧江
戸川を経て東京湾へ流入し始めたようです。

 下の図は、小さくて分かりにくいかもしれませんが、これらの決壊による水没地域を示
したものです。
     

              

 歴史を遡ると約1,000年前の利根川は、現在のように千葉県銚子市と茨城県神栖市
との県境から太平洋へ流れていたのではなく、江戸湾(現在の東京湾)に流れていました。
現在のような姿になったのは、利根川の東遷事業と言われるもので、徳川家康の江戸幕府
入府を機に、埼玉平野の新田開発や舟運の振興、江戸を水害から守る目的で、「瀬替え」
と呼ぶ幾度にも及ぶ流路の付け替えにより、現在の骨格となったと考えられるようです。

 私たちのウオーキンググループはこの6月に、埼玉県羽生市を歩いたのですが、その時
訪ねたひとつに川俣締切阯がありました。ここは、利根川東遷事業の最初に行われた場所
で、文禄3年(1594)に南に分流する会ノ川(あいのかわ)を締め切る堤が築かれた
ところで、そのことを示す碑が「道の駅はにゅう」の利根川堤防際に立っていました。
       

 この大洪水の流れは、江戸時代の東遷事業以前にあった本来の川筋に沿ったものでした。

 この台風を教訓にして当時の経済安定本部は本格的な治水事業に乗り出し、ダムによる
計画的な洪水調節を計画し、利根川本流を始め烏川、神流川、吾妻川などに大規模なダム
8か所を建設する計画をして、利根川水系に8つのダムが建設されたのです。

 その後70年の間、利根川や荒川が決壊したことはありませんが、地球温暖化の進展と
ともに近年は、50年に一度とか100年に一度といった集中豪雨が全国各地で次々に発
生しており、世界的に見てもこの1~2か月の間にアメリカでもメキシコ湾沿岸やフロリ
ダ半島への2つのハリケーンにより大きな被害が発生しています。

 今後、カスリーン台風と同様に利根川や荒川が氾濫した場合、洪水の流路は当時と同様
になることが予想されており、前回のブログで紹介した「川と地図」の講演会でもらった
講師の高橋浩先生の著書「川と国土の危機」(岩波新書)でも、次のように述べておられ
ます。

 カスリーン台風と同様に埼玉県加須市で堤防が決壊した場合、浸水面積は約530㎢、
浸水区域内人口は約230万人と想定され、浸水深は住居の3階以上に達して避難が困難
になる。さらに下流で氾濫した場合は浸水地域は限られるが、浸水深はより高くなり死者
数は増加し、地下鉄への浸水は都心部の駅にも及ぶと予想される、ことなどが記されてい
ます。

 カスリーン台風から70年を機に当時の被害の状況をふり返り、その後の都市化の進展
や地盤低下などによる被害の増大などについても学び、どう対処したらよいか関心を持っ
て行きたいと思います。


 蛇足ながら、私の手元に古いスクラップブックがあります。
  

 最初の頁のスクラップが、カスリーン台風の決壊場所の東村などを視察された昭和天皇
の記事を掲載した昭和22年(1947)9月23日付の新聞です。


 上の記事の左は、昭和天皇(上)や片山哲首相(下左)、高松宮殿下(下右)の写真が。
     

 ちなみに、この後の頁のスクラップには、古橋選手の800m・1500m自由形世界
新(1947.7~9)、東京裁判A級戦犯判決(1948.12)、吉田第3次内閣顔
ぶれ(1949.2)、ロンドン五輪に参加出来なかった古橋・橋爪選手が全米水上選手
権で世界新記録(1949.8)、湯川博士にノーベル賞(1949.11)、帝銀事件
の平沢被告に死刑判決(1950.7)、北鮮、韓国に宣戦布告(1950.6)、ジェ
ーン台風阪神を襲う(1950.9)、京都駅きのう全焼(1950.12)、猛風雪関
東を荒らす(1951.2)、マッカーサー元帥を解任(1951.4)などがあります
が、これらのことをご存じの方の多くは、光輝?高齢者かもしれませんネ…




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1964の東京オリンピック開会式から50年

2014-10-11 18:08:12 | アーカイブ
 2014年10月11日(土)

 昨日、10月10日は昭和39年(1964)の東京オリンピック開会式からちょうど
50年の記念すべき日で、メディアでは50年前のことが種々報道されていました。

 私も当日は、東京国立競技場でのオリンピック開会式を見ることができました。

 開会式の入場券は往復はがきで申し込むことになっていて、私も家族5人の名前で申し
込んだところ、幸運にその1枚が当選して入場することができたのです。

         開会式の公式プログラム表紙
        

 当日撮った写真が5枚残っていましたので、ご覧いただくこととします。

 最初は選手入場に先立つブラスバンドの入場。


 私の席は、バックスタンド中段のやや第2コーナー寄りでした。次々に各国の選手が入
場してきます。


 最後は、開催国の日本選手団の入場。


 メインスタンド前に並ぶ選手の列。全選手の入場を終えた頃かもしれません。


 1か月前の9月10日に69歳で亡くなられた最終ランナー、坂井義則さんが聖火台に
点火した後の燃える聖火。右後ろにふり返って撮ったものです。


 当日のことを記録した短い日誌を読み直してみたら、以下のように書いてありました。


 10月10日(土) 快晴 朝15℃ 夜 23℃

 オリンピック開会式の日、前日までの雨上がり、うそのように雲一つない快晴。2時間
年休で正午ごろ国立競技場に入る。緑の芝生に赤のアンツーカー、14時ギリシヤを先頭
に94ヶ国入場行進。赤青黄茶さまざまの服装で大小選手団の美しい色の行進。白と赤の
日本選手団が最後に入り、開会宣言などののち聖火入場は坂井義則君。小野選手の宣誓な
ど2時間にわたる音と光の華麗なパレードを終わる。世界を一つに結んで若さあふれる集
い、忘れられぬひとときだった。

 その後、10月18日に同じ国立競技場で行われた陸上競技を観覧しました。この日は
あいにく冷たい雨の日でした。当日のプログラム表紙。
        

 大会期間中発売された東京都交通局の記念乗車券(都電用)も残っていました。 
   

 以下は、大会後に刊行されたアサヒグラフと毎日グラフの表紙。


    

        

    

 さて、6年後の2度目の東京オリンピックも観戦することができるでしょうか……

 (一部10月13日に追記)




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川上哲治さんなどのサインが見つかる

2013-12-02 18:47:10 | アーカイブ
 2013年12月2日(月)

 つい先日、30年以上も開けたことの無かった古い紳士靴の空き箱に、中学校卒業
から結婚前後までの古い手紙が入っていたのを見つけました。とって置いても、もう
あの世へ行ってしまった人からの手紙が多いので、シュレッダーで処分を始めました。

 ところがその中に「大日本雄辯會講談社 懸賞部」からの薄い封書があり、中を見る
と昭和26年(1951)に、当時のプロ野球選手に往復はがきを出してもらったサ
インが5枚入っていました。

 その頃私は中学生で、自分でプレイするのはへたくそでしたが、野球を見たりラジ
オで聞いたするのは大好きで、当時の人気雑誌「少年クラブ」や「野球少年」、今年
83歳で亡くなった従兄弟が購読していた「野球界」や「ベースボールマガジン」、
「ホームラン」といった雑誌を愛読していたのです。

 当時はまだテレビ放送も開始前で、ラジオだけが埼玉県中部の田舎村に住んでいた
少年たちの外部からの娯楽といってもよく、年に1~2度隣町の映画館に行ったかど
うかというような生活でした。

 その頃多分、少年クラブかほかの野球雑誌に掲載されていた選手の住所を知り、往
復はがきでサインをもらったのを保管していたのでした。

         
 最初の1枚は、今年10月28日に93歳で亡くなられ、今日「お別れの会」が行
われたという、川上哲治(てつはる)さんからのものです。

 川上哲治さんは「打撃の神様」と呼ばれ、戦時中から戦後のプロ野球界の大スター
であり、監督としても読売ジャイアンツの黄金時代を築き、プロ野球選手の代表とも
いえる方であることは、多くの皆さんがご存じのとおりです。

 主な記録として、選手時代は1938年から1958年までの19年(1943~
45は兵役)間で通算安打2351、通算打率3割1分3厘などの成績を残し、首位
打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回、MVP3回などのタイトルや
表彰に輝きました。

 ほかに、シーズン打率3割以上12回(歴代3位タイ)、打率ベストテン入り15
回(歴代3位)、8年連続打率3割以上(歴代2位タイ)などのほか、史上初として
は、1イニング2本塁打や逆転サヨナラ本塁打、通算2000本安打を達成されてい
ます。

 監督としても、通算14年で優勝11回は歴代最多、うち9年連続優勝・日本一も
プロ野球史上唯一の記録です。

 このサインをもらった1951年は、通算打率3割7分7厘の高率で首位打者とな
り、シーズン打率歴代8位の記録となっています。

 
 川上さんが長くなりましたが、ほかの4枚のサインの主についても少しずつ紹介し
ます。

         
 平山菊二さんは、1937年から1949年まで戦役を挟んで巨人軍で活躍した外
野手で、川上哲治、千葉茂さんらと巨人軍の第一期黄金時代を作り上げました。

 戦後は、外野フェンスに入る本塁打性の打球をジャンプして捕球したことから「塀
際(へいぎわ)の魔術師」と呼ばれました。

 晩年は太陽ホエールズ、太陽松竹ロビンスで1953年まで活躍されました。

 主な記録としては、15人目の通算1000試合出場をしており、通算安打912
本、通算打率は2割5分5厘です。

 サインにはお礼の言葉が記されていますが、この年、平山選手は春先に足の故障で
欠場していたので、そのお見舞い文を往信に書いたことへの返信ですが、記録を見る
と、この年(1951年)は大洋ホエールズで3試合の出場にとどまっています。

         
 次は藤本英雄さん、1942年に巨人軍に入り、1947年のみ中日に移籍しまし
たが翌年から巨人に戻り、1955年まで通算13年間活躍した大投手です。

 主な記録は、1943年に34勝11敗で完投39回、完封19回、勝率7割5分
6厘、奪三振253、防御率0.73などのリーグ記録を樹立し、通算勝率6割9分
7厘と通算防御率1.09は日本プロ野球記録になっています。

 主なタイトルは、最高勝率3回、最優秀防御率3回、最多三振奪取2回などに輝き、
1950年6月には史上初の完全試合を達成しました。

 ほかに1950年に投手としてシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立し、1976
年に野球殿堂入りしています。サインしてもらった1951年は15勝7敗でした。

         
 こちらは坪内道典さん、川上選手より2年早い1936年に大東京軍の結成に参加
し、監督兼任選手などで戦前の試合出場はわずかでしたが、戦後は1951年までゴ
ールドスターや中日の外野手として活躍されました。

 通算出場1417試合、通算安打1472本、通算打率2割6分2厘、通算盗塁数
344などの記録を持ち、盗塁王に2回なり、1946年には選手兼任監督ながら
25試合連続安打を達成し、最初の通算1000試合出場選手でもあります。

 このサインをもらった1951年で引退していますが、その年は2塁打26、死球
14がリーグ最高でした。1992年に野球殿堂入りしています。

         
 最後は大島信雄さん、岐阜商業高校や慶応義塾大学、大塚産業のエースとして活躍
後、1950年に29歳で松竹ロビンスに入団し、前述の藤本英雄投手を押さえてセ
リーグの最優秀防御率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分裂後初のリーグ優勝に
も貢献されました。

 選手としては1955年までの通算6年でしたが、引退後はラジオやテレビの解説
者として活躍されました。サインをもらった入団2年目の1951年は15勝13敗
でした。
 
 さて最後に、少年クラブの懸賞で当選したのが、「日本最強チーム絵はがき」です。
   

   

   

 3枚あったはずが2枚しか残っていないので、絵はがきの帯封に記されている外野
手も思い出していただけたらと思います。
   

 でももう62年も前のことであり、この頃のプロ野球選手をご存じなのは70歳台
後半以上の方だけかもしれませんね…。

 ちなみに1951年は、日本が第二次世界大戦の講和条約を調印(9月)、第1回
NHK紅白歌合戦開始(1月)、マッカーサー元帥がトルーマン大統領と対立して連
合国軍最高司令官を解任される(4月)、国鉄桜木町電車火災事故(4月)、民間放
送ラジオ局が開局(9月)などの年でした。

 なお、この頃のはがきの値段は2円(往復はがきで4円)です。




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1964年の東京オリンピック 思い出のきっぷ

2013-09-09 20:51:36 | アーカイブ
 2013年9月9日(月)

 日本時間の昨日、8日朝、2020年のオリンピックとパラリンピックの開催都市が
東京に決まりました。

 東日本大震災の復興も半ばであり、福島原発の汚染水の処理も東京電力任せで一向に
安心、安全が見通せない状況の中で、7年後とはいえ大丈夫なのだろうかと気になり、
イスタンブールにでも決まる方が良いのではないかと思っていたのですが、再び東京で
開催されることになり、ちょっと複雑な思いです。

 それはそれとして、1964年の東京オリンピックのときの、きっぷなどがあるはず
と思い、しまい込んである段ボールを開けて探してみたら、幾つか見つかったので、ご
覧いただくことにしましょう。

 まずは10月10日の開会式の入場券。

 これは家族5人の名前で応募した中の1枚が運良く当選し、バックスタンドの中央付
近で快晴の青空の下、見ることが出来ました。

 10月15日に駒沢バレーボール場でのバレーボールの入場券。

 この日は見に行った記憶がありません。もしかしたら、せっかく購入しながら仕事で
行けなかったのかもしれません。

 10月18日に国立競技場で行われた陸上競技の入場券。

 雨の中で競技が行われ、走り幅跳びや3000m障害などを見たように思います。

 これらの入場券が入っていた封筒。


 こちらは、東京オリンピック用に特別に発行された電話番号簿。定価100円です。

 サイズはA5判で150頁。日本語、フランス語、英語の3か国語で記載。

 電話番号簿の中のある頁。大会会場の電話番号が記されています。


 英語で記され頁。

 左側の広告頁にある、これらカメラを当時使われた方も居られたのではないでしょうか。

 オリンピック会場への最寄り駅行きの、国鉄の特殊往復乗車券。
 
 千駄ヶ谷駅前にある東京体育館や、メイン会場の国立競技場などに行く場合に便利。 

 これも国鉄の記念急行券。東京から301㎞以上に利用できるので、東京~名古屋間
や東京~仙台間などに使えました。買っただけで使ってはいません。


 記念切符も何種類も発売されましたが、とりあえず見つかったのはこの5円切手。


 開会式の9日前、10月1日に開業した東海道新幹線の記念切手。
 

 オリンピック前に開催された競技会の入場券も残っていました。

 これは、1964年なのか1963年なのか分かりませんが、1964年9月の記録
帳を見たら記されてないので、1年前の1963年9月のようです。

 東京オリンピックの体操競技というと、男子の小野選手や遠藤選手が活躍したのが思
い出されます。


 ところで、2020年の東京オリンピックの会期は、7月24日が開会式で8月9日
まで、パラリンピックは8月25日から9月6日までが予定されているようですが、今
年のような猛暑も予想される1年で一番暑い時期。どうしてこのような時期を選んだの
でしょうか。

 今日の日本気象協会のサイトでも気象予報士の方が指摘しており、前回のように10
月開催の方が良いように思われますが…。

 日本気象協会の該当ページ




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古い登山用品とスキー学校のゼッケンが

2011-01-29 22:16:21 | アーカイブ
 1月9日(日)に、立て替えのための仮住まいに引っ越してきた後、運んできた段ボー
ルを少しずつ明けてみたら、すっかり忘れていた、こんなものが出てきました。

 1950年代から1960年代の頃、週末の土・日曜を利用して、あちこちの山登りに出
かけていたときに使っていた、登山用品の一部です。


 上の写真の左上は、組み合わせのコップです。


 その右は、日本海軍の飯ごう。若い人は見たことがないでしょう。

 父親が第二次世界大戦中使ったものを、分けてもらったもので、ザックに米とともに
入れて山行に行き、テント泊の時などに、この飯ごうでご飯をつくったのでした。

 上ふたを開けると中ぶたがあり、ご飯が出来たらそれぞれに盛って、2人でご飯を食
べることが出来ます。だいぶ使ったと見えて、中はお焦げで、外は燃やした薪で、黒く
なっています。


 これは、味噌汁や鍋物などを造ったコッフェル。


 中身は、このようになっています。

 鍋や皿、湯沸かしとその置き台が組み合わさっているのです。

 左下の2つは、水を入れたポリタンク。

 左の小さい方が1リットルと記されているので、右は2リットルでしょうか。2つに水を
入れると、これだけで3㎏になります。

 最初の写真の右下も、日本海軍の水筒。これも父親譲りで、ポリタンクを持つ前は、
水を入れるものは、この水筒しかなかったように思います。


 ほかに出てきたのが、この4本爪の簡単なアイゼン。いつ買ったか思い出せません
が、1971年夏に、白馬岳大雪渓を上がったときには使ったものです。


 これらの用品を入れて背負ったいたのが、このザックでした。


 買い換えて、余り使っていなかったのか、割合きれいです。


 同じ段ボールの中に、こんなものも入っていました。

 1960年代の冬、毎年のように数年参加した、交通公社のスキー学校のゼッケン。
国鉄信越線で関山や妙高、志賀高原、米坂線の天元台スキー場などで開催された、
スキー学校に通いました。

 1回で数日間、しんしんと雪の降る日も、一生懸命滑ったことが思い出されます。
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