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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

生誕100年で人吉出身、川上哲治さんなどのサイン

2020-07-26 15:30:01 | アーカイブ
 2020年7月25日(土)
 
 新型コロナウィルスが今年の世界を変えなければ、昨日は東京オリンピック開会式の日
でしたが、世界の現状を見ると1年後の開催も危ぶまれる状況です。

 一方今月は、九州を初めとして集中豪雨による洪水など「令和2年7月豪雨」と名付け
られた大雨による災害が各地で発生しましt。

 中でも、最初に報じられた3週間前の7月4日(土)早朝からの熊本県球磨川沿いの氾
濫などによる被害が特に大きかったように思います。

 この球磨川沿いには私は訪れたことがありませんが、中心都市の人吉と聞いて、先ず思
い出したのがプロ野球巨人の川上哲治(てつはる)選手でした。

 川上選手は1938年から1958年までの現役時代(戦時中の1943~5を除く)
には「打撃の神様」と呼ばれ、日本プロ野球史上初の2千本安打を達成した強打者で、首
位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回など輝かしい成績を達成しました。

 ほかに、シーズン打率3割以上12回は歴代3位タイ、打率ベストテン入り15回は歴
代3位、8年連続打率3割以上は歴代2位タイ、通算猛打賞194回は歴代2位、日本シ
リーズ通算打率3割6分5厘は歴代1位、2千本安打達成1646試合目は史上最速など
の記録も残しています。

 さらに引退後は、巨人の監督として1961年~1974年の通算14年で11回の優
勝、その中1965~1973年には不滅の9連覇を成し遂げ、日本シリーズ優勝11回
は歴代最多であり、54歳で引退後は少年野球の育成やNHKの野球解説者としても知ら
れ、2013年10月に93歳で亡くなられました。

 監督として9連覇した最初の年、昭和40(1965)年に野球殿堂入りしています。

 その川上さんは、大正9(1920)年3月に熊本県球磨郡大村(現在の人吉市南泉田
町)の生まれなので今年は生誕100年になり、今回の豪雨で大きな被害を受けた人吉市
の中心部、人吉城を挟んだ球磨川右岸から300mほどのところが生家だったようです。

 その後もあちこちでの豪雨被害の報道が続く中、わが家周辺も雨の日が多いので古い資
料整理などをしていたところ、昭和26(1951)年にもらった川上哲治さんなどのサ
イン入り葉書がみつかりました。

       

 当時は現在のような厳しいプライバシー問題などは無く、人気の野球選手の住所が少年
雑誌などに掲載されていたので、往復葉書で依頼するとサインして返信してもらえたので
した。

 ちなみにこの年、1951(昭和26)年の川上選手の成績は、打率3割7分7厘で首
位打者を獲得しており、出塁率4割5分もリーグ最高、さらにシーズン三振数6もリーグ
最少で現在も最少三進数日本タイ記録になっているようです。 


 川上選手のほかに、同じ年にもらったプロ野球選手4人のサイン入り葉書がありました。

 これは大島信雄投手、1921年生まれでで岐阜商業から慶應義塾大学に入り、戦中戦
後の慶応大のエース兼5番打者や卒業後の都市対抗では大塚産業のエースとして活躍し、
1950年に29歳でプロ野球松竹ロビンスに入団しました。
       
 2リーグに分裂した初年に20勝4敗、防御率2.03を記録してセ・リーグ初の最優
秀防御率、最高勝率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分立後の初のリーグ優勝に貢献
しました。

 なお、29歳での新人王獲得は史上最年長で、この記録は現在も破られていないようで
す。

 文面は、「今年も是非御声援下さい お互いに確(しっか)りやりませう 松竹 大島
信雄」と記されています。

 サインをもらった1951年は15勝13敗、防御率2.74を記録しており、翌年か
ら中日ドラゴンスに移籍して1955年まで通算6年の選手生活後は、テレビやラジオの
解説者や評論家として活躍しました。


 次は坪内道典(つぼうちみちのり)外野手、1914年生まれで1936年に大東京軍
の結成に参加して後に選手権監督を務め、戦後の1946年から1951年までゴールド
スター金星から中日ドラゴンスに移籍し、中日では助監督兼選手として通算15年の選手
生活を送りました。
       
 はがきの文面には、「諸君のご声援のうちに既に第八節の試合も終了致しました お望
みのサインを送ります」と記されています。

 坪内選手は、1941年と42年に盗塁王、1946年~1951年の6年連続で四球
数リーグ最高を記録しており、1948年9月に日本プロ野球最初の1000試合出場と
1000本安打を達成し、この年には25試合連続安打も記録しています。

 サインををもらった1951年は選手生活最後の年ですが、試合数113と二塁打28
本、四球数14はリーグ最高でした。

 引退後は中日監督、西鉄のヘッドコーチと一軍打撃コーチなどを務め、1992年に野
球殿堂入りしています。

 ちなみに、坪内選手には声援とサインお願いのはがきを出したのに対し、自らはがきで
返信してもらったもの。ほかの選手には全部往復葉書でした。


 これは藤本英雄投手、1918年生まれで日本プロ野球史上初の完全試合を達成、通算
防御率1.90,シーズン19完封、通算勝率6割9分7厘の日本記録保持者で、投手5
冠、シーズン防御率0点台、史上最年少監督(25歳)も務め、1976年に野球殿堂入
りしています。
       
 ほかにノーヒットノーラン2回、6試合連続完封勝利、62イニング連続無失点、投手
としてシーズン7本塁打なども記録している大投手です。


 最後は平山菊二(ひらやまきくじ)選手、1918年9月生まれで、下関商業学校(現
在の下関商業高校)校時代には2学年下に藤本英雄投手がいたようです。

 1937年に巨人に入って戦前戦後の巨人軍で外野手として活躍し、ホームラン性の打
球を外野フェンスによじ登ってキャッチするのを得意としていて、「塀際の魔術師」と呼
ばれました。

 前年の1950年に郷里下関を本拠とする大洋ホエールズに移籍し、1953年まで
12年の選手生活を送り、1950年にはプロ野球記録の外野手シーズン最多捕殺24を
記録しています。 

 平山選手はこの年シーズン当初にけがをして負傷欠場中で、そのお見舞いとサイン依頼
のはがきを出したので、その返信としてもらったものでした。
  
              
 文面は、「御便りありがたう 足の負傷も殆ど快くなりました 試合出場は六月中旬頃
と思います 今後共宜しく御声援下さいね しっかり勉強して立派な人になって下さい」
と記されていて、表面の消印は昭和26年4月28日になっています。

 だが記録を見ると、この年の平山選手の出場試合は3試合で、4打席無安打なので代打
出場にとどまったようです。 

 ちなみに当時の郵便はがきの料金は2円でした。下は坪内道典選手からのもので、消印
は(昭和)26(1951)年5月25日です。現在の郵便料金は63円なので、当時よ
り31.5倍になっていることになります。
       

 なお、同じ頃に月刊の少年雑誌「少年クラブ」の懸賞に当選してもらった、「日本最強
チーム絵はがき」がありました。




 当時のプロ野球選手のベストナインともいうべき9人を3枚の絵はがきにしたものです
が、外野手3人の絵はがきはなくなっていました。




 参考までにもう一つ、別のスクラップブックに貼ってあった新聞記事の裏面にあった前
年の1950年度セ・リーグ成績と打撃ベストテンの表。
       
 11月5日までの記録なので、あと1節か2節くらいでリーグ戦終了という終盤の記録。
打撃ベストテンの常連だった川上選手の名がありませんが、この年の打撃成績は3割8厘
だったので、ベストテンにはもう少しの記録で入ってないようです。

 もう69~70年も前のことなので、全選手の名前をご存じの方はわずかでしょうね。




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あれから70年、朝鮮戦争勃発時の新聞

2020-06-27 21:23:55 | アーカイブ
 2020年6月27日(土)

 2日前の6月25日(木)は、昭和25(1950)年6月25日に朝鮮戦争が始まっ
てから70年になりました。

 私の古いスクラップブックを見直したら、開戦翌日から4日間の朝日新聞東京本社版の
1面トップ記事が残っていたので、その一部をコピーして紹介します。

 最初は、開戦と告げる6月26日朝刊


 次は翌日、6月27日


 3日目の6月28日


 4日目、6月29日です。


 本文記事は、現在の新聞活字よりかなり小さいので読みにくいかもしれませんが、タイト
ルだけご覧頂くだけでも、北朝鮮軍の侵攻が早くて韓国軍の敗勢のようすがお分かりかと思
います。

 あれから70年、最近の両国の情勢は緊迫の度合いが高まっており、このような戦いが再
び始まったら、兵器の大幅な進歩で大変なことになり日本国内への影響も大きいと想像され、
なんとか解決の方向に向かって欲しいと祈るばかりです。


 
 



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早春の安曇野から残雪の上越へ⑥ 巻機山麓から帰京(新潟~東京)

2020-05-16 17:09:11 | アーカイブ
 1965(昭和40)年5月3日(憲法記念日・月)

 巻機山麓・清水の民宿やまごにて5時に起床、予想通りポツポツしている。午後になっ
たら電車も混むだろうと早いとこ帰ることにして、朝食を食べずに上長崎に向かって下る。

 上長崎には6時45分に着いた。 上長崎の農家


   上長崎から見た金城山(1367m)
  

      

 上長崎発7時30分発のバスに乗り、六日町駅には8時頃に着いた。六日町駅8時03
分発上越線上り714列車に乗る。
    

           
 この切符は、Yさんが購入したもののよう(私は最下部の普通周遊券を持っていたので)
Yさんも、下車する時には通勤定期券で出て、あとで私がもらったものと思われる。

                 

   
 8時35分に越後湯沢駅に着き、9時01分発急行弥彦号(702M)に乗り換える。

 空席はひとつしかなくてYさんが座ったが、水上駅で隣が空き、私も座れた。

 雨な本降りになり、上越国境も雨でけむる。清水トンネルを抜けて関東平野に出たら、
すっかり緑に覆われていた。

 急行弥彦を11時03分に着いた大宮駅で降り、川口駅で途中下車して切符を池袋駅ま
で買い、下の周遊券を手元に残す。

 13時10分頃、3週間ぶりに無事帰宅した。健康にも支障なく帰れてホッとする。


 ちなみに、今回の旅に使用した普通周遊券と周遊ルート


     




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早春の安曇野から残雪の上越へ⑤ 残雪の巻機山登山(新潟)

2020-05-14 17:06:59 | アーカイブ
 1965(昭和40)年5月2日(日) 晴後薄曇り

 新潟県六日町清水の民宿・やまごにて7時15分に起床する。昨日に続いて上天気であ
る。8時20分に出発した。今日は、Yさんと巻機山(まきはたやま)への登山である。

 巻機山は、新潟県六日町(現在の南魚沼市)と群馬県水上町(現在のみなかみ町)との
県境・上越国境を走る三国山脈にあり、標高は1,967m、日本百名山のひとつ。

 Yさんに誘われ、初めて巻機山に登ったのはちょうど1年前の5月2日~5日にかけて、
清水峠からのテントを担いでの国境稜線縦走。以後、昨年は夏と秋に沢登りや別ルートで
訪れており、今回でYさんは7度目、私は4度目の巻機山登山である。

 昨年秋(10月)に来た時には、六日町駅前で東京オリンピック聖火リレーの通過を見
たことを思い出す。

  主要な登山道は山の南西側のここ清水から通じていて、清水には巻機山への登山者のた
めの民宿が何軒かある。

 宿からすぐに雪道でまだ冬景色。しかし雪はよく閉まっていて道でない雪上も突っ切っ
て進めるので、夏よりも歩くペースは早い感じ。桜坂付近で尾根道と分かれて割引沢へ。


      越後大源太山↓

 槍のような越後大源太山(だいげんたやま)が姿を見せる。

 割引沢へ入るあたり、右手の黒いピークは天狗岩


 割引沢から南方に望まれる七つ小屋山や大源太山方面


      雪の割れ目(クレバス)
     

     

 割引沢とヌクビ沢との合する落合、急峻な天狗岩はさすがに雪も寄せつけない。
     

 10時20分にあいがめの滝へ。滝だけは水を見せていたが、あとは上まで流れの見え
ないヌクビ沢を詰める。

 ヌクビ沢から西方、苗場山方面の展望



 鳥甲山も良く見えるが、日傘がかかり天気は下降のきざし。


 ヌクビ沢を詰めて、12時40分に割引岳と巻機山との鞍部で稜線に出た。近くのハイ
マツの上に雪を避けて座り昼食をする。

 西方からの風が出くきて寒くなり、キャラバンシューズも雪で濡れて足が冷たい。急い
で食事を済ませて歩き出す。

 草原になっている割引岳は、雪をべったり被っている。


 明るい太陽と雪の反射で目の絞りも絞りきれず、「1+2」グラスが欲しい。後方は越
後三山。 


 巻機山頂周辺は草原なので、やはり雪がべったり。


 越後三山(左から八海山、越後駒ヶ岳、中ノ岳)


 南に延びる桧倉山、朝日岳方面を望む。


 巻機山頂付近の樹氷


 巻機山頂(1960m)から望む雪坊主の割引岳(1930.9m)  


 スキーに良い斜面がいっぱいで、滑っている人がうらやましい。階段登行で山頂を目指
すスキーヤー


 広々とした巻機山頂付近は、山岳スキーの絶好の場。思い切り大きなシュプールもウェ
ーデルンもお好み次第。こんなところで滑ってみたい。来年はスキーを担いでまた来よう。
(翌年でなく2年後の1967年3月20日にスキーを担いで上り、スキーで下山した)


      逆光を浴びて上がるスキーヤー
     

 下山は普通は尾根道を下るのだが、今日は雪もよく閉まっていて雪崩の危険もあまりな
さそうなので米子沢を下ることにした。

 ニセ巻機の中腹から米子沢へ


      スキーヤーのシュプール
     

     
 雪が無ければとても下りられそうにない20mの滝も、どこにあるのか分からず雪の下。
富士山の砂走りのような調子で、米子橋まで下った。

 どの辺りだったか分からぬが、大きく雪崩れた場所があった。こんなのに巻き込まれた
ら大変だった。


     

 16時20分に無事民宿やまごに戻った。午後は次第に高曇りになったが、午前の太陽
と雪の反射で、顔が真っ黒に焼けた。




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早春の安曇野から残雪の上越へ④ 妙高山麓から巻機山麓へ(新潟・長野・新潟)

2020-05-12 18:50:02 | アーカイブ
 1965(昭和40)年5月1日(土) 快晴

 妙高山麓新赤倉温泉の、妙高逓信保養所赤倉荘で5時30分に起床した。食事をせずに
宿を出て5時50分発のバスに乗り、6時05分に田口駅(現在の妙高高原駅)に着いた。
       

 田口駅に入る信越線下り列車。


 田口駅6時30分発信越線上り324列車に乗る。


 田口~柏原間での妙高山の眺め(古い写真なので山容が確認し難いが)。


 田口駅では空いていたが、次の柏原駅辺りから長野市内への通勤通学客が次第に増えて
東京並みの超満員になる。乗り換えの豊野駅には7時32分に着いたが、出入り口には回
れずに窓から下車した。

 豊野からは、7時45分発飯山線の飯山行き117D列車に乗る。2両のディーゼルカ
ーは千曲川沿いに進む。この辺りは信州リンゴの本場だが、まだ枯れ枝のリンゴ畑が一面
に広がっていた。


 8時17分に飯山駅に着いた。


 飯山駅構内にて貨車入替え作業中のC56↑とC12型蒸気機関車↓。


 飯山市は善光寺平の北端、広々と開けた善光寺平が信越国境の丘陵に押されてつぼまり
始めたところの、千曲川に沿って飯山の街がある。

 古くは上杉謙信の飯山城普請で発生した城下町、幕末は本多氏2万石の所領で飯山街道
の要衝として栄えた。

 乗り換え待ちの1時間ほどの間、街の中を巡る。

 この街で目立つのが、軒を並べる仏具店。飯山線の北側を走る街道に沿って何軒も並ん
でいる。270年前から続くという仏壇造りの歴史が、この地方の住民の信仰と結びつい
て発展したものだという。
       

 裏通りを歩いていたら、右書きの看板のある芝居小屋か活動写真館かの建物があった。
     

 飯山電報電話局


 飯山駅前では、この地区の統一メーデーが始まろうとしていた。




       
 飯山駅発9時21分の飯山線119D列車に乗る。今日の行程図


 りんごの里豊野から千曲川に沿って奥信濃を貫き、上越線の越後川口までの飯山線は国
鉄きっての豪雪地帯を走る。信濃と越後との国境にある森宮野原(もりみやのはら)駅は、
積雪量でも国鉄最大で、4mを超えることも少なくない。

 今回の旅でも飯山から十日町までの間は線路脇に残雪が多く、2月の長野原線(群馬)
と同じくらいの雪が見られた。

 飯山~信濃白鳥間






 信濃白鳥~十日町間


 苗場山の見える越後田沢付近


 県境を越えると千曲川から信濃川と名を変え、流れも広がる。


       
 十日町駅に11時ちょうどに着き、再び途中下車する。

     

 スイセンの咲く十日町駅ホーム。向こうは冬の務めを終えたラッセル車。


 雪の十日町として知られるように、毎年2月の雪まつりには雪の彫刻のほかいろいろな
催しがあり、各地から観光客が訪れる。

 十日町織物は、飛鳥天平の昔から続いているという。山野に自生する草麻を冬の間雪に
さらして縮布を織ったのが始まりで、これが風土に適したためだんだん盛んになり、越後
上布として珍重された。

 その後、越後縮(ちぢみ)の全盛を経て、明治から絹織物に変わり明石縮の全盛が続く。
戦後は、本格的なお召しの時代となり、高級絹織物界で揺るぎない地位を築いたようだ。

 (十日町小唄)
   越後名物かずかずあれど  明石縮(あかしちぢみ)に雪の肌
       着たら離せぬ味の良さ    テモサッテモソジャナイカ



 十日町でもメーデーの行進を見る。名産十日町織物の工場の人たちの行進。




 農家の人も耕運機を持って参加していた。


              
 十日町駅11時53分発飯山線115D列車に乗る。車輌は1両で終点の越後川口駅に
は12時21分に着いた。

 越後川口駅
       

 越後川口駅12時12時50分の上越線上り738列車に乗り、六日町駅に向かう。浦
佐付近からみた八海山(はっかいさん・1,778m)

 
 五日町駅付近からの八海山


 ちなみに、2020年5月12日の毎日新聞デジタルに、八海山に雪形が現れたことを
紹介した『八海山に雪形の「田かき馬」出現 新潟・南魚沼』という記事が掲載された。
 

 13時39分に六日町駅に着いた。ここで東京から下り列車で来たYさんと落ち合い、
明日登る巻機山(まきはたやま)山麓・清水方面への13時55分発のバスに乗る。

 終点の上長崎バス停には14時30分に着いた。上長崎付近は梅の見頃である。向こう
の山は金城山(1,369m)


      雪解け水を集めて流れる急流
     

          水田に影映す無黒山(1,049m)
         

 上長崎から清水へは7㎞の道のりである。


   

 清水集落に近づくにつれて、除雪された道の両側はまだ1m余りの雪が残る。

 上長崎から残雪の道を歩いて2時間余り、宿泊する予定の巻機山麓にある清水の常宿で
ある民宿・泉屋に行くが満員で断られ、近くの民宿・やまごに入る。
            

 ここも混んでいて、ほかの2人との相部屋。ゴールデンウィークとはいえ、ずいぶん混
むむものだと驚く。夕食は山菜料理のごちそうだった。




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早春の安曇野から残雪の上越へ③ 細野から妙高山麓へ(長野・新潟)

2020-05-09 21:22:28 | アーカイブ
 1965(昭和40)年4月30日(金) 晴

 連泊した長野県白馬村細野の宮の下旅館で7時15分に起床した。
    

 集落あげてのスキー宿は、民宿から旅館までへと発展している。かやぶきの建物の半分
を壊し、洋式建築をくっつけた和洋混合の家がある。


 この集落は丸山姓がほとんどで、「丸山さ-ん」と呼べば、どこの家からも「なんだい」
と答えそう。


          路傍に幾つも見られる道祖神のひとつ
         

 細野9時発のバスで信濃四ッ谷駅まで行く。駅からは電車に乗らず国道を北へと向かう。
雲が切れて日が照り始め、白馬連峰も次第に姿を見せてきた。それらを眺めながら次の信
濃森上(しなのもりうえ)駅まで約2㎞を歩くことにした。

 東方の山々


 白馬連峰北方

 信濃森上駅

 信濃森上駅は、大糸線のうちの電化区間(松本~信濃森上)と非電化区間(信濃森上~
糸魚川)の分かれ目(2年後の1967年12月に信濃森上~南小谷も電化された)。

 したがってほとんどの列車はここで乗り継ぎをしなければならない。非電化区間はディ
ーゼル車が走っている。 

       
 
 松本行きの上り電車


 10時03分発下り糸魚川行き123D列車、これに乗車した。


 白馬大池(はくばおおいけ)駅~千国(ちくに)駅間、姫川の流れに沿って。


 千国~南小谷(みなみおたり)間、南小谷駅近くの進行方向右手(東側)で見られた土
砂崩れの対処状況。

 土砂崩れのためにコンクリート護岸が1日に5㎜も押し出されるので、線路はぐっと湾
曲しているが、崩れる危険があるのでつっかい棒をしている。

 「近く、付近の地下水に色の付いた水を流し、地下水の流れから土砂の動きを突きとめ
るよう検討中」と、2日前の28日に松本で聞いたラジオは伝えていた。

 中土(なかつち)駅を出ると両岸はいよいよ迫り、姫川以外に平らなところはなく、線
路はトンネルに入るが、国道も雪崩除けの下を走るようになる。
 
 冬の大雪で不通になるのはこの辺りだ。

 北小谷(きたおたり)を過ぎて新潟県に入り、日本海に向かって姫川も次第に開け、周
辺の景色も冬から春へと変わる。発電所のそばのサクラも満開である。


 糸魚川(いといがわ)駅には11時15分に着いた。


       
    
 糸魚川駅11時31分北陸線上り215列車で直江津駅に向かう。列車はC5717号
牽引のなつかしい汽車ぽっぽ(当時はSLなどとは言わなかった)である。


 列車は日本海沿いに進み、直江津までずっと海岸線沿いに走る。天気は快晴で海の色は
あくまでも青く、水平線の彼方まではっきり見える。

 海岸線沿いに山が迫る狭い土地に鉄道と道路、そして道路に沿って漁村がある。

 梶屋敷駅付近
 
 浦本駅からの日本海


   この日の行程
  

 谷浜駅付近
 

 12時39分に直江津駅に到着する。


 直江津駅前に明治を偲ぶ洋風の旅館があった。


 直江津電報電話局


         
 直江津駅13時02分発信越線上り114D列車にて13時21分に高田駅に着く。


 高田市内(現在は上越市)も少し巡ることにした。高田市の中心地、雁木(がんぎ)の
通りが雪国らしさを感じさせてくれる。


 高田駅13時35分発信越線上り316列車に乗り継ぐ。やはり蒸気機関車牽引だった。
        

 脇野田駅を通過する下り特急白鳥号


 新井駅付近、前方に妙高山塊が望まれる。


 二本木駅を出る列車。


 14時45分に田口駅(現在の妙高高原駅)に着いた。妙高・赤倉温泉の玄関口で、冬
はスキー客で賑わう。


 田口駅からは14時45分発のバスがすぐに出て、妙高高原前バス停で下車した。今日
の宿は、妙高山麓新赤倉温泉にある妙高逓信保養所赤倉荘である。
    


 左の建物はTBS山の家、右が宿泊した赤倉荘。後方の山は黒姫山のよう。
 
 妙高山と妙高高原スキー場


 宿は4階建ての立派な建物、2階の部屋はスチーム暖房で暖かい。浴槽からは妙高山が
正面に見える広い温泉で、今日の宿泊者私1人だけとはもったいない。

 周辺には残雪が多く、すぐそこでスキーができそう。夕食前にビールを飲んだら、すっ
かり良い気分になった。

 



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早春の安曇野から残雪の上越へ② 八方尾根でスキー(長野)

2020-05-07 15:28:54 | アーカイブ
 1965(昭和40)年4月29日(天皇誕生日・木) 雪のち雨

 長野県白馬山麓・細野の宮の下旅館で朝起きたら雪、いつもならサクラも咲くのにと地
元の人も驚く季節外れの雪のようだ。


 ラジオでも東京で6.1℃の低温と伝えており、全国的な寒波に見舞われたよう。
   

 9時半ころ旅館を出て、近くの観光斡旋所でスキーとスキー靴を借りる。
      
 細野から八方ケーブルで標高1,400mの八方尾根兎平に上がると、まだ2m近い積雪
である。
         

 雪は降り続き周辺の展望は全く得られず、スキーヤーは少なくリフトはガラガラだ。兎
平リフト頂上付近からの兎平ゲレンデ。冬もこれくらい空いていれば天上の楽園であろう
が・・・




 借りたスキーは滑らず、ゴム製のスキー靴はエッジが利かず、今年初めての滑りにベタ
雪という悪い条件ばかり。さっぱり曲がらず、期待の春スキーはさんざんだった。



 雪は止まず展望はなく、午後は視界も50mくらいに下がり、みぞれになってヤッケが
濡れる。

 午後は13時30分から15時30分まで滑り、細野まで下って連泊の宮の下旅館に戻
った。昨日は私以外に宿泊者はなかったが、今日は2組ほど来ていた。




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早春の安曇野から残雪の上越へ① 安曇野と仁科三湖(長野)

2020-05-06 15:54:18 | アーカイブ
 
 2020年5月6日(祝・水)

 新型コロナウィルスの感染拡大は収束しそうになく、さらに5月末日まで緊急事態宣言
が延長となりました。

 外出自粛の日々が続き歩く範囲も限られ、新緑や花も見慣れたものが多いので、今日か
らは前回の東京オリンピックから半年後、翌年、1965(昭和40)年春のゴールデン
ウィークのころに巡った、信州から越後への55年も前の旅のアルバムをふり返ります。

 この旅は、その前の4月12日から27日まで、当時、三重県鈴鹿市にあった社内研修
期間への出張があり、それが終了後に年次休暇とゴールデンウィークを組み合わせて回っ
たのでした。

 使用したカメラは、オリンパスペンSという35㎜フィルム1コマに2枚撮れるという
携帯用の小型のもの。プリントは手札判という名刺サイズよりやや大きいくらいなので、
スキャナーで取り込んでもあまり見栄えがよくありませんが、現在では見られなくなった
風景もあるので、紹介することにしました。

 =======================================

 1965(昭和40)年4月28日(水)

 前日宿泊した長野県松本市の東郊、里山辺の宿にて7時15分に起床、曇天だが雨の心
配は無さそう。宿からは松本市街の向こうに白い峰が見える。

 春闘の私鉄ストでバスの運行がなく、松本駅まで50分ほど歩く。ちなみに私鉄ストは
24時間続き、沿線を走る松本電鉄は1日中動かなかった。

 松本駅前


 松本駅9時49分発大糸線下り電車に乗り、穂高駅で10時11分に下車した。

 神社風建築の穂高駅


 まずは近くの穂高神社へ。境内には遠足の生徒などが訪れていた。


 なお、この神社の奥社は上高地の明神池畔にある。

 穂高駅の東方にはわさび畑があり、常念岳から流れ出す烏川と燕岳からの中房川が合し
た穂高川と万水川(よろずいがわ)とが犀川に流れ込む扇状地にあり、アルプスの雪解け
水で年間13℃前後という水温がワサビの栽培に適し、全国一のワサビ生産地となってい
る。

 そのワサビ畑はあまり無かったが、その広さはさすが日本一のわさび田だ。背後には常
念岳などが望まれる。周辺のサクラは、まだチラホラだった。


 信濃民謡の安曇節には、「一夜穂高の山葵(わさび)となりて 京の小町を泣かせたや」
と唄われている。

 次に穂高駅の北方、約10分ほどの碌山美術館に行く。

 碌山美術館は、穂高中学校校庭の隅にある。

 碌山・荻原守衛(ろくざん・おぎわらもりえ)はこの地の出身で、ロダンに彫刻を学び
明治の鬼才と言われたが若くして病没した。
       
 碌山美術館は、その遺品や作品を集めて展示されている。赤レンガのヨーロッパ風建物
は背後の常念山脈と見事な調和を見せている。


 観覧後、穂高中の東側で女性にシャッターを押してもらった。
     
 このとき通りかかった小学生曰く 「あの人は 山へ行くと言って山の支度をして家を
出て こんなところへ来てらあ」

 穂高駅12時24分発下り電車に乗り、で信濃大町駅に12時53分に着いた。

 夏は鹿島槍など後立山連峰、あるいは黒四ダムなどへの玄関口も、いまはまだひっそり
している。


 駅前の案内所で今夜の細野の宿を探して予約してもらい、大町駅の東方1㎞の小高い丘
にある大町山岳博物館に行く。

 日本で唯一の山岳博物館で、昭和31(1956)年秋、地方文化の向上のため、市民
の協力によって生まれたもの。
       


 もとは学校の建物を利用してつくられた2階建ての本館には、登山、スキー、北アルプ
スの動植物、民俗など、北アルプスを中心としたあらゆる資料が展示されている。


 博物館付属のカモシカ園のカモシカ。ほかにライチョウ園、コマクサ園もある。


 大町公園のサクラはまだつぼみ。いつもなら見ごろのはずなのに、今年は春の訪れが遅
いのが残念。


 市街地の背後に後立山連峰が望まれるが、高曇りのため上部はガスに隠されていた。


 信濃大町駅15時17分下り電車に乗り、信濃木崎駅で15時43分に下車した。


 ここからは国道と線路沿いに進み、仁科三湖(にしなさんこ)と呼ぶ三つの湖のうちの
木崎湖から中綱湖まで歩く。沿道に人影など無く、湖は静か。木崎湖東岸から南方を見る。


 木崎湖東岸から望む西岸


 木崎湖東岸から北方を見る。


 海ノ口駅、駅員のいない駅のようであった。


 海ノ口駅から簗場(やなば)駅間。両側から山が迫り、国道148号線・糸魚川街道、
国鉄大糸線、電電公社電話線、川などがずっと並行して走っている。


 中綱湖は周囲2㎞で仁科三湖の中で最少、曇り空で対岸の山には残雪、夕暮れが近く、
まことにわびしい感じ。


 6.9㎞歩いて簗場駅に着いた。中綱湖はすぐ駅前にある。


       


 再び17時46分発大糸線下り電車に乗り、最後の青木湖は車中から眺めた。18時01
分に信濃四ッ谷駅(現在の白馬駅)で下車した。


 宿泊する細野集落へのバスもストで動かず、歩いて向かう。予め購入してあったこのバ
ス乗車券は不要になる。
    

 細野に向かう沿道から望む、八方尾根や白馬岳は残雪で真っ白だ。


 細野集落の宮の下旅館には18時30分に着いた。こたつに入り、入浴してホッとする。
今日の歩行距離は18㎞くらい、よく歩いた。

 スクラップブックに作成した旅のアルバムに記してあった当日の行程図
     

 



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成田国際空港の一部 半世紀前は三里塚御料牧場、そして今も(千葉・成田)

2019-04-12 14:52:59 | アーカイブ
 2019年4月12日(金)

 ちょうど50年前の今日、昭和44(1969)年4月12日(土)、私は、現在は成
田空港になっている成田市三里塚(さんりづか)の宮内庁下総(しもうさ)御料牧場に出
かけました。

 この年、成田に新しい国際空港の建設が始まるということで、当時花見の名所だった三
里塚の御料牧場へ、最後の花見ハイキングに行くことにしたのです。

 当日の短い日記には以下のように記されていて、モノクロ写真も数枚残っていたので、
日記の間に挿入します。

 『7時起床、花の見頃の三里塚牧場へ出かける。日暮里駅10時頃の急行に間に合わず、
途中2か所乗り継ぐ。12時15分に成田駅からバスに25分乗って牧場に着く。
         


 天気は快晴で花(桜)もまさに満開。広々した牧場のところどころにある区切り道は、
車が通るとホコリになるが、緑の草とたくさんの桜。






     


 奥の、羊や豚、ニワトリ、牛など家畜のいる方は、人も少なく松の古木やいろいろな木
もあり、気持ち良い。

 牧草地で昼食してあちこち回り、16時過ぎに帰途につく。あと半年で新国際空港工事
となり、この桜も最後。まったく惜しい場所だ。帰宅は20時過ぎ。』

 なお、交通費は 池袋~日暮里~成田(国鉄)250円、成田~三里塚(バス)50円。
ほかに、成田の名物、米屋のようかんを買っていましたが、100円と150円でした。

 写真を貼ってあったアルバムには、前日の4月11日の新聞(何新聞か不明)に掲載さ
れた『三里塚牧場ハイキング この夏限りのコース』という記事もありました。

 現在と比べるとかなり活字が小さくて読みにくいですが、以下がそれです。



 話は変わり、半年前の昨年(2018)10月12日(金)、海外旅行に行くのに朝の
空港バスでは空港の集合時刻に間に合わないので、空港近くのビジネスホテルに前泊した
のですが、その際、成田国際空港の第1ターミナルビルのコンビニ・ミニストップで弁当
などを購入しました。

 帰宅後、そのときもらったレシートを見て、おや! とビックリしました。店の住所が、
「成田市三里塚御料牧場1番地1」になっていたのです。
            
 50年近くなるのに、あの三里塚御料牧場の名が残っていたとは思ってもいないことで
した。

 ネットで調べてみると、同じ第1ターミナルビルのコンビニ各社とも同様でした。

 さらに調べたら、第1ターミナルビルの住所はやはり当時のままになっていることが分
かりました。

 第1旅客ターミナルビル 成田市三里塚字御料牧場1番地の1



 近年は、市町村合併や住居表示変更などの際に、全く新しい地名に変えてしまう例が多
く、その土地の歴史などが忘れ去られてしまいがちですが、成田国際空港のように歴史的
な地名を残しているというの貴重であり、このままいつまでも続けてほしいものです。





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きょう、天皇・皇后両陛下ご結婚から60年の記念日 

2019-04-10 17:34:06 | アーカイブ
 2019年4月10日(水)

 きょうは1日中、首都圏でも真冬並みの冷たい雨となりましたが、60年前のきょうは
晴天でした。

 天皇・皇后両陛下は、60年前の昭和34(1959)年4月10日に結婚され、きょ
うは60回目の結婚記念日を迎えられました。

 皇居の宮殿「松の間」では、午前11時から両陛下が皇族方の祝賀を受けられたことが
テレビニュースなどで報道されたので、ご覧になった方も多いかと思います。

 60年前のきょう、私は当時の皇太子殿下ご結婚式の後のパレードを沿道で見に行った
ので、写真があるはずと探してみたら4枚見つかりました。

 その前に、当日の短い日誌には、以下のように記録されていました。

 『皇太子殿下と正田美智子さんの結婚の儀が行われ、前日の曇り空はすっかり晴れ上が
った。

 私もお二人の晴れの姿を見ようと、東京駅から三宅坂~半蔵門間の街路に12時ころよ
りお待ちし(その前に下谷郵便局でご成婚記念切手を買う)、待つことしばらく、14時
45分ころ、騎馬の先導で美しい偽装馬車に乗ったお二人が見える。

 急いでカメラのシャッターを押したので、よくお顔も見られなかったが、さすがは美智
子さん、にこやかな笑いが気品の高いお顔から出ておられた。皇太子様も微笑みつつ手を
振られた。

 沿道は70万人以上の人とか、車のあと警視庁音楽隊、アメリカ海兵隊、武蔵野音大、
ボーイスカウトらの音楽パレードも見事。人々々の波で埋まった。ホコリもまた多し。

 神宮外苑の主競技場まで行ったが、招待券がなくお祝いの集まりには入れず、疲れた体
を引きずって帰る。』





 こちらは音楽パレードの一環、都内小学生の鼓笛隊のよう。

 前日に雨の中、職場の横を練習で通ったことも日誌に記されていました。

 アメリカ海兵隊


 なお、東京都交通局から当日発売された記念乗車券2枚も。
       

             

 最初の「無軌条電車」というのは、集電用のトロリー(ポール)はあるが線路を走るの
でなくて車輪はタイヤのトロリーバスのこと。この4日前の4月6日の日誌には、入谷か
ら亀戸までトロリーバスに乗ったことが記されていました。

 当時はまだ都電もたくさんの路線があり、上の写真にも都電の架線と線路がありますが、
記念切符は買い漏らしたのかもしれません。


 




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