魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

それぞれ

2024年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

EUは環境のためガソリン車の新車販売禁止を決めたが、結局、合成燃料を認める形で方針転換した。
これは、欧米人の狂信的な「魔女狩り」体質の一面であり、一つ思い込むと一辺倒になる傾向を中国に見透かされ、揺さぶられたのだろう。

奈良の土産物店に飾ってある鹿の角を見て、アメリカ人らしき若い観光客が「残酷だ」とつぶやいていた。思わず一言言いかけたが、ややこしくなりそうなので止めた。
欧米によくある頭の剥製とは違い、角は殺した結果ではない。放っておいても春には勝手に落ちるが、見かけたのは秋の角切りによるものだろう。

何人であろうと人間に大差はない。ただ、環境や生い立ちで、表れ方には違いがある。
合理的と言われる欧米文化だが、非常に情緒的な一面があって、合理的なら、よく確かめもせず叫び出す合理的短絡がある。
クジラにしても難民にしても、人権問題にしても核にしても、先ず、思い込みやパニックから起こす行動が少なくない。子は親のカガミ、環境ジャンヌダルクのグレタさんにしても、そのような欧米文化の申し子だ。
子供や若者には、その文化の表情が素直に表れる。しかし、リアルタイムで互いの言動に接する情報社会では、若者の行動も、表面上はあまり変わらなくなった。

犬の民族性
ここで面白いことがある。情報で言動が世界的にシンクロする人間の若者に対し、「犬」は子供より素直に元来の民族性が表れることだ。
犬と人間を一緒にするなと叱られるだろうが、オオカミとは違い、犬は人間の好みによって選別され、進化して生き残ってきた。その民族の中で生まれた犬は、その民族の好みと特性を良く体現している。例えば、愛玩、狩猟、牧羊とあらゆる専門能力に特化された洋犬と異なり、日本犬は人間とつかず離れずの「犬格」を持っていて、日本人の曖昧さ自然との「間」をよく体現している。

情報や教育で、表面上は区別が付かなくなる人間だが、実際には各々の民族性を宿していて、同じ言動に対し、違う感覚や違う意味を感じている。これにより、わかり合ったように見えることが大きな誤解に繋がっていき、やがて、また大きな衝突の種になる。
個々の人間も、「同じだ!わかり合った!」と思うことが、最も大きな誤解を生み、後に大きな衝突や悲しい別れを招く。
人も民族も国も、互いに違うことを良く理解し、それを容認し合うことこそが、ともに歩む最も近道だ。

日本犬に見る島国日本人の「情と達観」に対し、中露や中東を含む大陸の犬に見る「物と直情」の分かりやすさとの違いを、少なくとも日本人は良く理解しておくべきだろう。
日本人が思う「善」と、世界の多くの人が思う「善」は必ずしも同じではない。ましてや、「誠」など存在しないと思っておいた方が、互いのためだ。
「誠」や「誠意」は日本人の抱く幻想で、日本文化の中だけで互いに容認し合う「思い込みの善」に過ぎない。
外国人が「誠意を期待する」とか「誠意を見せろ」と言う場合は、日本人が自ら持つ幻想を見抜き、利用しているに過ぎない。足下を見られているに過ぎない。
未来世界で日本文化が広まり、世界の人が「誠」を知り、尊重するようになればとても素敵なことかも知れないが、今、それを信じるのは、むき身のヤドカリより危険なことだ。