魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

柄杓の水

2020年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム
子供の頃、少なくとも1960年代までは、若者にありがちな行動を、「はしかみたいなものだ」と言った。
はしかは子供が一度はかかり、通過儀礼のように、免疫をつける試練と考えられていた。だから、近所の子供がはしかにかかると、子供を連れて、「移してもらいに来ました」と訪問し、一緒に遊ばせていた。
50歳以下の人には信じられない、とんでもない話だろう。

はしかにかかわらず、病気に対する態度は今と昔では全く違う。今の人は、病気は治るものと思い込んでいるから、死ぬかもしれない病気を極端に恐れる。
昔の人間も恐れてはいたが、日常に死があふれていたから、「不治の病」には諦めがあって、死生観がまるで異なっていた。
現代人のように、不治などあり得ないとは思わず、不治と聞けば嘆いて諦めた。もちろん医療訴訟などもなかった。
だから、死んだ人より治った人を見て、病の程度を判断し、治る病なら前向きに考えた。
はしかも「かかった方が良い病気」と考え、仮にそれが原因で死んでも、元々、弱い子で、運が悪かったと諦めた。通過儀礼は死を賭けるバンジージャンプのように、毎年死者が出る祭りと同じ世界であり、死を恐れては決行できない。

昔は、「人は死ぬもの」であることを、誰でも心の底まで解っていたから、生きている事実を大切にし、生きることに前向きな人だけが、受け入れられる社会だった。
死ぬのは仕方がないが、病人であることはどんな病気であれ、威張れることではなかった。今とは真逆に近い価値観、諦めと前向き、差別と優しさの世界があった。
例えて言えば、穴の開いた柄杓で水をすくうか、少しも水を漏らすまいと穴の修理にこだわるか。前者なら重労働だが火を消せる。後者は場合によっては間に合わなくなる。どちらが正しいかは解らない。

WHOは12日、はしかによる死亡者数が去年、世界で20万7500人にのぼったので予防接種を怠らないよう呼びかけた。
発生以来、約一年で、新型コロナによる死者は130万人余。はしかの6倍以上だ。しかし、はしかにはワクチンがあって、この数字。新型コロナは治療法もなくワクチンもなくてこの数字だ。
年齢、環境、余病、いろいろ条件は異なるから、比較の対象にはならないかもしれない。
ただ、はしかを恐れなかった昔なら、もちろんここまで情報が行き渡らないし、仮に状況を知っていても、ここまで震え上がって、すべてが停止するようなパニックにはならなかっただろう。これは死生観の問題だからだ。