転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



書く機会を逸していたのだが、4月26日の夜は、
広島県立美術館で、イェルク・デムスのリサイタルを聴いた。
バッハ平均律クラヴィーア曲集の第四夜にあたる演奏会だった。

広島で、デムスは昨年から、平均律全曲演奏を手がけており、
第一夜は2012年11月2日(第二巻 第1番~第12番)
第二夜が11月16日(第二巻 第13番~第24番)、
第三夜が2013年4月2日(第一巻 第1番~第12番)、
そして完結の第四夜がこの26日(第一巻 第13番~第24番)だった。
平均律全曲演奏がメインだったが、どの日もそのほかに、それぞれ、
半音階的幻想曲とフーガ、或いはフランス組曲やパルティータのどれか、
等々が合わせて演奏されるプログラムになっていた。
26日のは、前半が平均律第一巻の13番から18番までと、
引き続いて、パルティータ第6番ホ短調が演奏され、
休憩を挟んで後半が、同第一巻の19番から24番、という構成だった。

私は残念ながら四夜すべてを聴くことは叶わず、
家庭事情などにより、第二夜と第四夜しか行けなかったのだが、
それでも本当に聴けて良かったと思っているし、
デムスについてはこの後も、機会ある限り逃したくない演奏家だと
聴き終えて改めて思った。

年齢的なこともあるのかもしれないが、デムスのバッハには
随所に軽やかな躍動感があって、テンポやリズムも柔軟な印象だった。
平均律に関しては、私はエル=バシャのCDを愛聴して来て、
彼の非常にタイトで抑制の効いた演奏が気に入っているのだが、
それとは別に、デムスの柔らかさや自由さは素晴らしいと感じた。
なんの足かせもないバッハだった。
使用楽器が19世紀のベヒシュタインであったことも、
彼の演奏の空気に、ぴったりと合っていたと思う。

その一方で、私は今回、デムスの右側にあたる席から、
演奏をこれまでよりつぶさに観察することができたのだが、
演奏中、デムスの姿勢の変わらなかったこと、
特に肩の位置、腕のポジションがきっちりと保たれていたことには、
とても感銘を受けた。
体を揺らしたり、腕を振ったりするような「動作」は
デムスのバッハ演奏には無縁だった。
それでいて、デムスの演奏態度には、窮屈さが全くなかった。
豊かな音量も速いパッセージも、ただ手をそこに置くだけで、
なんの無理もなく実現できる、というお手本のような演奏だった。

アンコールは、同じく平均律第一巻第1番の前奏曲とフーガだった。
平均律のすべてを弾き終えたあと、こうしてまた第一巻第1番に戻る、
あるいは再度ここから「始める」、という意味で、
音楽は途切れることがない、デムスの追求は終わることがない、
と、何か象徴的に示された気がした。

ピアニストにとって、平均律全曲演奏それ自体が大きな挑戦だが、
1928年生まれのデムスが、それをすべてを暗譜で、
しかも全回、完全に予定通り演奏会を実現させ、成功させたのは、
まことに見事な成果だったと感じた。
このあとデムスは、今年の秋に再び広島で、
『演奏家生活70周年記念演奏会』を行う予定だとのことで、
それもまた私は大変楽しみにしている。

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ところで、デムスの演奏会では、
客席がよけいな音をたてることは御法度だ。
自分の咳やクシャミが心配な人は、予め出口近くの席に居るようにして、
いざ出そうになったら速やかに退出するように、
という主旨の説明が、開演前にあるし、
それを書いた掲示物も、会場内に貼ってある。
こうしたことを、「窮屈だ」「肩が凝る」と嫌がる人も結構あるようだ。

だが、私にはむしろ不思議だ。

正直に言うが、
音を、それも限りなく繊細な音を、聴きに来ているのだから、
客席でそれ以外の物音など立てないように細心の注意を払うのは、
聴き手として、当然ではないだろうか?
デムスが怒ると怖いから、きょうだけ特別、というのではなく、
どのような演奏会でも、これは本当は当たり前ではないのだろうか。

私は、少なくともクラシックを聴くときに、
客席がゴソゴソ動くのを良いことだとは全然思わない
(一緒に手拍子したり、自然にリズムに乗って体が動くような、
勢いのある音楽のときは、この限りではないと思うけれども)。
私自身、聴いている最中には、自分が身じろぎすることにも抵抗がある。
周囲を気遣うからだけではなく、自分が細大漏らさず聴き取るためにも、
不用意に動いて、この場の空気に客席の側から穴をあけたら台無しだ、
という感覚があるのだ。

美輪(明宏)様の公演でも、開演前のアナウンスで、
デムスの演奏会とほぼ同様の注意が流れる。
音をたてるなら退出、とまでは言われないが、
「咳をする際にはハンカチやタオルなどで口元をおおって下さい」
という言葉が、決まって読み上げられる。
ついでに携帯もマナーモードは不可、全員、電源を完全に切るように、
という具体的な指示まで、必ずされる。
これらのアナウンスのとき、客席からはお約束のように、
「え……」「ゎ……」などと、一瞬ざわっとした反応が起こる。

しかし私には、これが特別厳しいことだとは思えない。
例えば、公演中に、発作的・事故的にひどい咳き込みに襲われた、
というような状況は、もちろんあり得ないことではないし、
それをいちいち徹底的に糾弾すべきだなどとは言わない。
けれども、聴衆の誰でも皆、咳が出そうならしても良いのが前提、
ということはないだろう。
「音」を聴くために、チケットを買って人々が集まっている場所なのだから、
一瞬だろうと「雑音」を入れることは、本来、最もいけないことだ。
会場に来られるほどの健康状態なのだから、その大半の人たちが、
咳やクシャミに対する配慮を求められるのは当然だと私は思っている。

それにつけても思い出すのが、2005年10月のポゴレリチの公演だ。
彼も若い頃から、客席の物音に対して決して寛大ではなかったが、
このときは、彼のほうから意思表示をしたわけではないのに、
最初から、客席の緊張感が物凄かった。
6年ぶりの来日のうえ、演奏内容が尋常でなかったせいもあろうが、
とにかく客席全体の集中力が凄まじかった。
ショパンもスクリャービンもラフマニノフも、
ソナタの楽章と楽章の間さえ、咳払いどころかコトリとも音がせず、
満席のサントリーホールが、耳鳴りのしそうな静寂に包まれ、
空気の隅々まで張り詰めていたことを、私は今も忘れない。
生理現象だなんだと言うが、つまり皆、やろうと思えばできるのだ。
普段はただ、本気でそうせねばならないとまで考えていないだけだ。
「東京の聴衆は素晴らしい」
と、あとでポゴレリチがインタビューで褒めていたものだった(汗)。

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