館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2018梅雨明けの沖縄その1・学徒の碑をめぐる。そして大バカ者牛島中将終焉の壕も見たさ!

2018-06-27 04:58:20 | 旅は続く


俺はダメな男だ・・・今度こそ新しい空弁を・・と決意しつつ、やはり「しゅうまい弁当」・・・



11時半に那覇・・いつもの砂川タクシーと待ち合わせ、まずは糸満で昼飯。




検索で見つけた店。これが、当たりで、見事にミニカレー&蕎麦が美味い。いわゆる進化系の蕎麦だが、今のところ3本の指に入るな!



本日のメイン企画。
数か月前、BSで「ひめゆりからHIMEYURIへ」という番組を見た。それはひめゆり祈念館がここまできたあゆみと沖縄戦の体験がない新しい語り部たちの話がメインだった。
そのひめゆりの慰霊塔の敷地の隣に、昭和高等女学校の慰霊碑「梯梧の塔」がある。
番組で、その生き残りの学徒のおばぁが「ひめゆりには多くの人が訪ねるが、ここにはほとんどやってこない」とぼそりと語る言葉に、俺は唖然とし、立ち尽くした。
まさに・・・俺だって、片手に足りないほどひめゆりには来ているが、「梯梧」には手を合わせていないではないか!!とさ。

それそれから、「戦場に動員された学徒隊」について調べ始めた(今頃かようぅ・・・)。

宮古・石垣・・・・それから今回、嘉手納・名護・本部は無理としても、回ってない南部の碑・那覇の碑はすべて回ろうと思い立った。
那覇以南は全部で、12の学徒隊の慰霊碑がある。その半分6しか回っていなかった。

21の学徒隊(ひめゆりは沖縄師範女子部と第一高女でできていて、慰霊碑は1つなので、慰霊碑は20だ。
宮古・石垣に5校・嘉手納・本部・名護で3校・せめて南部12校を回ろうってことさ。

な・・わけで、ここ「沖縄水産高校」にやってきた。船乗りのエリートを育てる有名な学校だ。



少しのっけから長い話になるが、ここを過ぎれば、写真と小解説になる・・・

学校なので予約がいるとは思っていたが、タクシーの砂川さんが入れていてくれた。(ここは同窓会が管理していて、同窓会の許可なしに学校で判断できないらしく・・)
許可まで結構苦労したようだ・・・ありがとう砂川さんなのだ・・

(ちょいと偉そうに)教頭先生が出てきて、やがて同窓会担当の先生に引き継ぎ・・・慰霊碑の前に立つことができ、手も合わせられた。




ひめゆり会館の敷地続きの、先の「梯梧の塔」にやってきた。心の中で「きましたよ!」とつぶやいて、手を合わせた。



梯梧から車で5分?「平和創造の森」にある「開南中学」の塔がこちら。





摩文仁の丘の行政が作った「国立戦没者墓苑」・・事の始まりは、ここなのである。ここは是非訪ねてほしい場所だ。
翁長助静・・・歌人にして、立法院の議員も務めた、翁長知事のお父さんの碑がそばにある。魂魄の塔の命名者でもある。知事は3男だそうだ。

和魂(にぎたま)となりてしずまるおくつきの み床の上をわたる潮風・・・(おくつき・・・お墓の意味・・注は俺)

悲惨な戦争犠牲者のめい福を祈るとともに、とくに最後の「潮風」の中に、「これからの沖縄にはもっと厳しさが襲ってくるだろう」という思いを込めて詠んだつもりである。(私の戦後史 翁長助静 1981年3月~4月 沖縄タイムス連載)



沖縄戦で一番兵士の死が多かった北海道・・・・その慰霊碑もこちらにある。



子供たち・太陽・飛ぶ鳥たち・・・なんだか、軽やかで、この広島の碑は好きだ。




本日のもう1つのセッションのために、「平和祈念堂」に向かった。3日後の慰霊の日の式典の仮設のテントなど整っていた。




各県の慰霊碑・国立戦没者墓苑のある、摩文仁の丘を目指し坂道を登る。やがて登りきると右にカーブ。
ここからは、関西の県が多い・・・




靖国ではない、こうした施設こそ、今こそ大事だんべ?あそこ靖国に戦犯と一緒に祭られている間は、真の隣国との未来志向の関係はありえないだろう。



突き当りに来ると、坂を右に登る結構急な階段がある。前ではおばぁが花を売っている(かなり強引に買わされるのだが・・)。
ここは、あの32軍司令部の終焉の地。最高司令官のお馬鹿・・牛島中将が「皆、最後まで戦え(戦って死ねだわさ・・)」と言って、自分はさっさと自決した壕があるばしょだ。

何度も摩文仁に来ているのに、所在は知っていたが、来る気になれず来なかった場所だ。やはり、歩いて・見ておくべき・・と、やってきた。これで、ここ摩文仁はたぶん見るべき場所は回ったことになるだろう・・・



階段の突き当りには「32軍司令部将校・軍属600人の慰霊碑だある。



左を見ると、絶壁の崖・・・太平洋・・・ここに彼らがおびただしい数の軍艦が並び、艦砲射撃を浴びせられたとき・・あの時の絶望が、それだけはわかる気がする。



下りの階段が続き・・・階段を下ると、急に左へ続く階段に分岐する。分岐の先には、壕らしき入り口が見える。




おばぁから買った(買わされた)はなを手向ける気にならず・・



また、階段を南を目指し・・下り・・下る・・・



所々、すっかり埋まった穴が見える。師範学校男子部・・・鉄血勤皇隊のガマか?



やがて、鉄血勤皇隊・・・慰霊の塔にたどり着く・・・・最高学府のエリートたちが散った場所だ。おばぁの花はここに手向けた。
1945年3月に第32軍の命令で、防衛召集された旧制中学生ら1780人による鉄血勤皇隊が編成され、戦闘行為に動員されて、約半数が戦死した(17歳未満の戦死者は567名)。


こうして、糸満に集中する戦跡をまわり・・・那覇を目指した。




城岳公園にある二中健児の塔を最後に目指したのだが・・すぐそばなので、こちらも・・・
戦後瀬長亀次郎が収監された刑務所跡の公園。そして当時亀次郎の家があった場所など写真に収め・・・




二中健児の塔に立つ。195名が戦死している。

21学徒・・・みな、若きエリート達だ。塔の前に立つときいつも僕は、こう思うのだった・・・

「彼らが生きていて、戦後その若き知性が生きていたなら、沖縄の戦後は今と違う、もう少し自由や民主主義がまかり通る、豊かな社会になっていったのではなかろうか」・・・と。
たくさんの未来が死んでいったのだ・・・



ホテルにチェックインして、少し休み・・・街を徘徊・・・・いつもの本屋で数冊購入。




まずは、タンパラヤのセイボーに挨拶・・・

台湾からの団体ベーベーが仰山いて、セイボーはてんぱっていた・・・とりあえず生ビールが美味い!



挨拶を済ませ、2軒目・・・




こちらもすっかり馴染みになって・・・落ち着いて呑む。




明日はたくさん歩く企画なのだ・・・・


こうして初日は暮れていったのだった・・・・


しかし長いなぁ・・・・ここまで読んだ方には、わしゃ、ほおずり」したい!
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2 コメント

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Unknown (ATOM)
2018-06-27 05:31:24
ここまでは…読んだぞ! でも…頬ずりは遠慮しておく!!
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ATOMさん (オ サム)
2018-06-27 17:49:07
気持ちいいよ?

きっと・・・
返信する

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