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今年も「おばぁスナック愛好会」3人のガイドツアーが21日から行われた。羽田待ち合わせ・弁当購入・・もう、心は島だ。
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11時半着、12時30分の「やんばる急行バス」発車まで、那覇ロビーで昼飯を食べ、高速道路を一路、名護へ。
14日は、100年に1度の大雨だったらしく、各地で被害があったようだ。高速から見えるダムも満水だった。
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数年前、学徒碑の「三中学徒の碑」を見学すべく、名護から本部・・八重岳に向かったがガイドの俺が八重岳への入り口を間違えて、遠回り。
その時は、豪雨で、八重岳を少しさ迷った。碑は拝め、さらに、予期せず「なごらん学徒隊(第三高女)」の勤務した「八重岳野戦病院跡」に出くわしたのだった。
今回はその追体験、しっかり地図で場所を確認し、案内できるように場所を頭に叩き込む、が、まずこの日のテーマだった。
間違えず、沖縄県立第三中学校「三中鉄血勤皇隊」の慰霊碑に立った。動員363名、犠牲者43名。碑からこぼれる無念に手を合わせた。
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その先に進み、舗装道路から右へ折れる砂利道を入ると「野戦病院跡」にたどり着く。
道しるべや、案内板が新しくなっていた。良いことだ。
なごらん学徒隊・・・動員数10名、犠牲者1名。
元々、北部は(国頭支隊)は伊江島守備隊の第一大隊と本島守備隊の第二大隊その他鉄血勤皇隊やら、今なら小学校高学年などを集めた護郷隊などの約4000名の少なさで、いわば南部の戦線の本格的戦闘の補助的かく乱の任であり、病院も小規模であった。
伊江島は4月21日には早々と「占領宣言」が出され、大隊は壊滅状態にすぐなった。第二大隊も1か月ほどで壊滅状態。山に避難していた住民も、隠れて避難していた故に多大な犠牲を出した。軍人・住民1700余名が亡くなっている。
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残された石垣などで、兵舎や、病院の建屋が想像できる。
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病院跡の少し先には、米軍施設が現存、使われている。米軍通信所・・・沖縄と日本本土を結ぶ重要な通信機能を担っていたが、現在は沖縄県内の米軍施設を結ぶマイクロ中継タワー施設として利用されているようだ。
これで、いつでも、請われれば案内できる。
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次にやってきたの、第三高女、そして第三中学校が前身で、今は「名護高等学校」になっている高校を訪ねた。
中学校時代の校歌の碑と高女時代の校歌(写真は忘れた)の碑が鎮座。
僕らは南燈慰霊之塔に向かった。
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南燈慰霊之塔、中学校と高女の合同の慰霊碑だが、多くの学徒碑は当時在校生で犠牲になった学徒、その時教師などが刻まれるが、この慰霊碑は、2校の出身で、沖縄戦で犠牲になった方々が、皆刻まれている。ある意味珍しい。
綺麗に芝生が刈られ、2日後の「沖縄慰霊の日」の式典に合わせ、在校生たちがテントを運んだり、準備に頑張っていた。
現存する学校には必ず学徒碑がある。戦争で無くなってしまった学校はゆかりの地に学徒碑が建つ。
学校にある学徒碑は「同窓会」が管理している。
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受付で、こうした見学を申し込む輩は少ない。受付中にロビーでちらちらと俺たちに目をやる方が居た。
見学して、札を返すと1人の方が、「どのような方々か?」と声をかけてくれた。何と!同窓会の副会長で、元はこの学校の校長先生であった。
色々話が聴けて、有意義な出会いだった。現場に立つ凄みは、こうした出会いも用意するか?
僕の書いた年金者新聞の「沖縄記事」など送ろうかと考えている。
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最後にやってきたのは「白い煙・黒い煙」の碑の見学だ。名護城址の入り口にある。
戦前も戦後も、貧しく職が少ない沖縄は本土への出稼ぎ含む移民の仕送りが、経済を支えた。
幼い乙女が那覇から船に乗り、鹿児島を入り口に本土に向かう・那覇まで見送りに行けない両親は名護湾を通過する船に向け柴をたく。
船から娘は立ち上る白い煙を見つめ、両親は汽船の吐く黒い煙を眺め、乗っている乙女を見送る。
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実話が碑になっているのだ。きっとここから汽船を眺めたか?
こうして、初日の旅は終わったのだった。
ホテルに行き、露天風呂で汗を流し、しばし部屋呑み。7時集合で、行きつけの居酒屋に向かい名護の夜は過ぎて行った。
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翌朝4時30起床・海岸を散歩・・3本のインターバル速歩をこなした。
少しだけ朝焼けの海岸は、いつも誰か釣りをしている。
10分ほど見学、小さな(リリースサイズでリリースしていた)魚が上がった。
さていよいよ65番線のバスでまずは本部港・・そしてフェリーでいよいよ伊江島だ。
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