いよいよ沖縄2009本編最後の記事です。すこし長いです。お許しを!!
本日はお勉強!世界遺産になっている「グスク(城)」を訪ねる旅なのだ。
グスクにも説明が要るが、ニライカナイを頂点とする多神教の沖縄信仰の聖地であったり、まさに城であったり、集落そのものを指したりと、3説ほどあるらしいが、めぐって分かるのは、信仰・居城・集落は、聖なる場所を中心に、一体となっている感がある。
世界遺産については、まあ、偶然今回の旅の目的・・グスクの散策が、世界遺産であったに過ぎないのだが、過去の首里城や斎場御嶽(せーふぁうたき)をめぐる旅あわせて、琉球王国のグスク及び関連遺産群の9つの内5つをめぐることが出来たわけである。
僕のめぐった5つについて言えば、見事にめぐる価値のある場所であった。
少し話は長くなる。その分、以下は、短くするので、興味のある方は一読願いたい。
西洋の歴史の尺度で、日本史を眺め、日本史の価値尺度で、沖縄の歴史を眺める・・・このような歴史の見方は、民族史を見る目を曇らせる・・・と思っているがまあ、説明のデフォルメとして、以下の記述になる。
僕は、沖縄の中世・尚氏が琉球王国を統一する1400年代を眺めに来たのだ。
神話の時代から、を有力者収める・そのようないくつものクニが北部・中部・南部の三山に分かれる・やがて中部の尚氏が三山を侵略統一し、第一尚氏時代となり、琉球王国が成立した時代だ。(実際は1470年代にその家来であった、金丸によって第一尚氏は滅ぼされ、金丸自ら尚円と名乗り、第二尚氏時代になり、その尚氏は、薩摩の侵略や、徳川幕府の侵略統治を受けながら、明治へと続くのであるが・・・・)
綿々たる民族の歴史や信仰を知ることは、僕が好きな沖縄の食文化・芸能・人々の暮らしぶり、そこに流れる意識と時間を、僕自身が「腑に落ちる」に必要な気がしたのだ。
さて、僕は、最初のグスク・中部読谷村にある「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」に向かったのだ。
写真・どうしても通らなければならない「嘉手納基地」と基地内の「黙認耕作地」である。町の70%を占めるどうしょうもないほど広い基地である。基地フェンスの向こう側にサトウキビ畑が揺れ、隣の耕地は耕され、新しいサトウキビが植えられていた。
数週間前米兵の車が、現地の人を跳ね、逃げて、翌日死体が発見され・・・と、今また基地と米兵の問題がクローズアップされている場所を通過。
写真左の道の突き当たりを、左に曲がった辺りらしい・・・・
写真の道路は、2006年に返還された、読谷補助飛行場の滑走路だ。広い!
今、読谷村には、有名なトリイステーション(Torii Station)がある。・アメリカ軍の、極東地域における軍事情報戦略の要と言える施設である。まあ、巨大なスパイ施設よ!
グスクの前に、知り合いを尋ねた。友人の娘さんであり、音楽では仲間であったユキちゃんだ。焼き物の修行で、「やちむんの里・金城敏幸さん」のところで修行中なのだが、今年こちらで結婚した。
連絡せずに行ったので、申し訳なかったが、温かく迎えてくれた。元気そうで嬉しかった。
帰りはタクシーの側で手を振って見送ってくれた。
運転手氏曰く「もう、あれはウチナンチューですね」
ユキちゃんところから5分、さて、座喜味城跡にやって来た。
北部・北山の要、今帰仁城をにらんだ、中部の北の押さえの城(以下グスクと読むべし)だ。地方豪族の首長(按司・・アジと琉球史では呼ぶ)護佐丸の納めた場所だ。
美しいアーチの城壁・アーチ門には、築城技術の粋、くさびが中央でささえる。
本殿跡。
琉球王国統一の最後の武将達の時代だ。すでに北山は侵略し、南山は併合・尚氏の中山の磐石なる体制が急がれたが、この座喜味の護佐丸(ゴサマル)、そして勝連の阿麻和利(アマワリ)の台頭が尚氏の悩みでもあった。
護佐丸・阿麻和利に、尚氏は娘など嫁がせ、姻戚関係など結ぶ。やがて、阿麻和利を押さえるため護佐丸は、このグスクから尚氏居城の首里城と阿麻和利の勝連を結んだ真ん中に位置する、中城城に移り、にらみを利かせることになる。
グスクの入り口には「読谷村民族資料館」がある。
小さな村だが、石垣市の資料館などより充実、この辺りは学芸員の力の具合だろうな。
骨壷も貧富の差を反映。彩色の高価なものから、テラコッタまでだ。
触れることの許される展示もよろしい!
さて、車で30分・勝連城跡にやってきた。
阿麻和利の城だ。
築城とあるが、護佐丸の中城も含め、中世、群雄割拠の時代の滅ぼされた城跡を修復や利用し、大きくしたものだろう。
長く急峻な坂を上り、正門にたどり着く。まるで、西洋中世の居城のたたずまいに圧倒される。
城を取り囲む幾重ものアーチの城壁・そこには配下の武将達の住居なども建っていたことだろう。
どのグスクも、神を祭る聖域を持ち、いくつもの井戸が掘られている。
多くの神々との生活・その神の力の庇護・沖縄の信仰はまさに現代にも当時の姿のまま残って、行き続けているように見える。
どのグスクもまだ発掘・復元の最中である。
写真・白い城壁は、戦後の発掘復元の姿だ。
本殿より「二の郭殿舎跡」の眺め。
勝連を後に、護佐丸居城の中城城跡に向かった。
先の座喜味の如く、護佐丸らしいアーチ門の、北門をくぐる。拝所には、おばあが祈りを捧げていた。護佐丸に続く、門中(沖縄はこの父系の血縁の繋がりが今も支配しているのだ)の方であろう。
尚氏の伝える歴史では、勝連の脅威を守るべく、護佐丸が中城に移る。阿麻和利は天下を狙い、護佐丸謀反のうわさを流し、尚氏より、護佐丸討伐の了解を得る。
それで、まあ、言って見れば「錦の御旗」を建て進軍・御旗を見た護佐丸は、天子に弓は弾けないと、自害するが、やがて真意が尚氏に伝わり、阿麻和利が撃たれる。数十年の後、成人した護佐丸の子供は、尚氏に迎えられ、取り立てられるとなっているが、歴史の真実は、台頭した阿麻和利・護佐丸を尚氏が、けん制、討伐したということらしい。
この統一を果たした第一尚氏は、やがて、家来に撃たれる。
第二尚氏の世になって、第一尚氏は、墓まで壊され、末裔は地方に「落ち武者」のようになって永らえる・・・のである。
城壁は、硬い古代石灰岩をただ積んだ「野面積み(ノズラヅミ)」から、長方形に加工した琉球石灰岩(時代が進んだ琉球石灰岩は柔らかく、加工しやすかった)を積んだ「布積み」そして、5画や6画に刻んだものを積む、「あいかた積み」などがある。古代石灰岩は非常に硬いので、加工が難しいなどが、積み方の違いに現れるようだが、まあ、時代的にも古いのだろう。
ここは、ペリーが訪れ、その築城技術と、美しさに絵を書かせ、「首里城より美しい」と讃えたグスクである。
多くのグスクが戦争の時代には日本軍の基地に使われ、爆弾を打ち込まれ、壊れてゆくのである。
戦争は、文明の破壊以外になのも無いのが、見て取れるのだ。
残っているものでさえ「美しく・感嘆の声が沸いてくる」・・・・・・あの戦争さえなかったらどんなにかすばらしい景観であっただろうと、無念な思いがこみ上げた。
発掘は続いている。無用な道路やダムを作るなら、こうした発掘に多くの予算をかけ、人を雇ったらどうだ!!
発掘の石垣は番号が打たれ、修復の際、収まるべき場所(元の位置)が定められる。丁寧な発掘調査が見て取れる。
日本軍が壕を掘ろうとしたが、石垣が続き、掘るのをあきらめた名残だそうだ・・・
グスクの側には潰れたホテルの廃墟が建っている。
観光を当て込み、本丸跡にホテルを建設しようとしたが、多くの反対にあって、グスクの隣に建てたホテルである。(管理組合と、まあ、民間企業のよくある結託だ)海洋博覧会を当て込んだが、潰れて今も廃墟だ・・・かなり見苦しい。
計画通りに、グスク散策が出来て幸せだった。
充実の1日であった。
見る・触るは大事だね~
さて、ホテルに帰って、メモの整理や、マッサージなど行なって、Fもっちゃんとの待ち合わせ時間までを埋めた。
スジグワー(路地)の似合う男である・・・・
二人の意見の一致した栄町の「おとん」を訪ねた。
いわゆる沖縄料理の居酒屋でなく、本土の人が沖縄に移り住んで、始めた店だ。
乾杯は本日の行程で失った水分に、最高だった。
「冷やしゆしどうふ」「グルクンのかまぼこ」・・コチュジャンが効いて見事に旨い!
泡盛は必須!!
「スーチカー」「韓国風タコの刺身」タコは浅草のホッピーの店に同じようなのがあって、旨いったら、ウマイ。
アケタの店か??
地元のベーベーも来ていた。
僕のお勧めを、食べてくれた。うまい~と、言っていた。
泡盛はおかわりね。
「鳥ナベ」「揚げ物」も注文してから作るので、うまい。
もうね、僕は十分だったが、彼がこのまま終わるはずが無い・・・・
手を振って、相変わらず闇に消えていった・・・・
街の賑わいの大通りをちょっとそれると、沖縄の夜の街も、ゆったりと流れる。
コウシュンカズラの黄色が鮮やかだった。
大きな本屋に寄り、「沖縄本」を購入・330円のカレーを食べて、ホテルに戻った。
翌朝は、散歩や、マチグワーを散策。ほとんどの荷物を郵便局から送って、リュックを軽くする。
最後のおみやげ(天ぷらなど、帰って家族で食べるやつね)など、リュックにつめ空港に向かった。
全く、帰りたくなかった・・・・・・・・
本当に、帰りたくなかった・・・・・・・・・・・
本島に、帰りたくなかった・・・・・・・・・・・・・・・
長かったね・・・・ここまで読んでくれた貴方!!!ありがとう!!!なのだ。
本日はお勉強!世界遺産になっている「グスク(城)」を訪ねる旅なのだ。
グスクにも説明が要るが、ニライカナイを頂点とする多神教の沖縄信仰の聖地であったり、まさに城であったり、集落そのものを指したりと、3説ほどあるらしいが、めぐって分かるのは、信仰・居城・集落は、聖なる場所を中心に、一体となっている感がある。
世界遺産については、まあ、偶然今回の旅の目的・・グスクの散策が、世界遺産であったに過ぎないのだが、過去の首里城や斎場御嶽(せーふぁうたき)をめぐる旅あわせて、琉球王国のグスク及び関連遺産群の9つの内5つをめぐることが出来たわけである。
僕のめぐった5つについて言えば、見事にめぐる価値のある場所であった。
少し話は長くなる。その分、以下は、短くするので、興味のある方は一読願いたい。
西洋の歴史の尺度で、日本史を眺め、日本史の価値尺度で、沖縄の歴史を眺める・・・このような歴史の見方は、民族史を見る目を曇らせる・・・と思っているがまあ、説明のデフォルメとして、以下の記述になる。
僕は、沖縄の中世・尚氏が琉球王国を統一する1400年代を眺めに来たのだ。
神話の時代から、を有力者収める・そのようないくつものクニが北部・中部・南部の三山に分かれる・やがて中部の尚氏が三山を侵略統一し、第一尚氏時代となり、琉球王国が成立した時代だ。(実際は1470年代にその家来であった、金丸によって第一尚氏は滅ぼされ、金丸自ら尚円と名乗り、第二尚氏時代になり、その尚氏は、薩摩の侵略や、徳川幕府の侵略統治を受けながら、明治へと続くのであるが・・・・)
綿々たる民族の歴史や信仰を知ることは、僕が好きな沖縄の食文化・芸能・人々の暮らしぶり、そこに流れる意識と時間を、僕自身が「腑に落ちる」に必要な気がしたのだ。
さて、僕は、最初のグスク・中部読谷村にある「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」に向かったのだ。
写真・どうしても通らなければならない「嘉手納基地」と基地内の「黙認耕作地」である。町の70%を占めるどうしょうもないほど広い基地である。基地フェンスの向こう側にサトウキビ畑が揺れ、隣の耕地は耕され、新しいサトウキビが植えられていた。
数週間前米兵の車が、現地の人を跳ね、逃げて、翌日死体が発見され・・・と、今また基地と米兵の問題がクローズアップされている場所を通過。
写真左の道の突き当たりを、左に曲がった辺りらしい・・・・
写真の道路は、2006年に返還された、読谷補助飛行場の滑走路だ。広い!
今、読谷村には、有名なトリイステーション(Torii Station)がある。・アメリカ軍の、極東地域における軍事情報戦略の要と言える施設である。まあ、巨大なスパイ施設よ!
グスクの前に、知り合いを尋ねた。友人の娘さんであり、音楽では仲間であったユキちゃんだ。焼き物の修行で、「やちむんの里・金城敏幸さん」のところで修行中なのだが、今年こちらで結婚した。
連絡せずに行ったので、申し訳なかったが、温かく迎えてくれた。元気そうで嬉しかった。
帰りはタクシーの側で手を振って見送ってくれた。
運転手氏曰く「もう、あれはウチナンチューですね」
ユキちゃんところから5分、さて、座喜味城跡にやって来た。
北部・北山の要、今帰仁城をにらんだ、中部の北の押さえの城(以下グスクと読むべし)だ。地方豪族の首長(按司・・アジと琉球史では呼ぶ)護佐丸の納めた場所だ。
美しいアーチの城壁・アーチ門には、築城技術の粋、くさびが中央でささえる。
本殿跡。
琉球王国統一の最後の武将達の時代だ。すでに北山は侵略し、南山は併合・尚氏の中山の磐石なる体制が急がれたが、この座喜味の護佐丸(ゴサマル)、そして勝連の阿麻和利(アマワリ)の台頭が尚氏の悩みでもあった。
護佐丸・阿麻和利に、尚氏は娘など嫁がせ、姻戚関係など結ぶ。やがて、阿麻和利を押さえるため護佐丸は、このグスクから尚氏居城の首里城と阿麻和利の勝連を結んだ真ん中に位置する、中城城に移り、にらみを利かせることになる。
グスクの入り口には「読谷村民族資料館」がある。
小さな村だが、石垣市の資料館などより充実、この辺りは学芸員の力の具合だろうな。
骨壷も貧富の差を反映。彩色の高価なものから、テラコッタまでだ。
触れることの許される展示もよろしい!
さて、車で30分・勝連城跡にやってきた。
阿麻和利の城だ。
築城とあるが、護佐丸の中城も含め、中世、群雄割拠の時代の滅ぼされた城跡を修復や利用し、大きくしたものだろう。
長く急峻な坂を上り、正門にたどり着く。まるで、西洋中世の居城のたたずまいに圧倒される。
城を取り囲む幾重ものアーチの城壁・そこには配下の武将達の住居なども建っていたことだろう。
どのグスクも、神を祭る聖域を持ち、いくつもの井戸が掘られている。
多くの神々との生活・その神の力の庇護・沖縄の信仰はまさに現代にも当時の姿のまま残って、行き続けているように見える。
どのグスクもまだ発掘・復元の最中である。
写真・白い城壁は、戦後の発掘復元の姿だ。
本殿より「二の郭殿舎跡」の眺め。
勝連を後に、護佐丸居城の中城城跡に向かった。
先の座喜味の如く、護佐丸らしいアーチ門の、北門をくぐる。拝所には、おばあが祈りを捧げていた。護佐丸に続く、門中(沖縄はこの父系の血縁の繋がりが今も支配しているのだ)の方であろう。
尚氏の伝える歴史では、勝連の脅威を守るべく、護佐丸が中城に移る。阿麻和利は天下を狙い、護佐丸謀反のうわさを流し、尚氏より、護佐丸討伐の了解を得る。
それで、まあ、言って見れば「錦の御旗」を建て進軍・御旗を見た護佐丸は、天子に弓は弾けないと、自害するが、やがて真意が尚氏に伝わり、阿麻和利が撃たれる。数十年の後、成人した護佐丸の子供は、尚氏に迎えられ、取り立てられるとなっているが、歴史の真実は、台頭した阿麻和利・護佐丸を尚氏が、けん制、討伐したということらしい。
この統一を果たした第一尚氏は、やがて、家来に撃たれる。
第二尚氏の世になって、第一尚氏は、墓まで壊され、末裔は地方に「落ち武者」のようになって永らえる・・・のである。
城壁は、硬い古代石灰岩をただ積んだ「野面積み(ノズラヅミ)」から、長方形に加工した琉球石灰岩(時代が進んだ琉球石灰岩は柔らかく、加工しやすかった)を積んだ「布積み」そして、5画や6画に刻んだものを積む、「あいかた積み」などがある。古代石灰岩は非常に硬いので、加工が難しいなどが、積み方の違いに現れるようだが、まあ、時代的にも古いのだろう。
ここは、ペリーが訪れ、その築城技術と、美しさに絵を書かせ、「首里城より美しい」と讃えたグスクである。
多くのグスクが戦争の時代には日本軍の基地に使われ、爆弾を打ち込まれ、壊れてゆくのである。
戦争は、文明の破壊以外になのも無いのが、見て取れるのだ。
残っているものでさえ「美しく・感嘆の声が沸いてくる」・・・・・・あの戦争さえなかったらどんなにかすばらしい景観であっただろうと、無念な思いがこみ上げた。
発掘は続いている。無用な道路やダムを作るなら、こうした発掘に多くの予算をかけ、人を雇ったらどうだ!!
発掘の石垣は番号が打たれ、修復の際、収まるべき場所(元の位置)が定められる。丁寧な発掘調査が見て取れる。
日本軍が壕を掘ろうとしたが、石垣が続き、掘るのをあきらめた名残だそうだ・・・
グスクの側には潰れたホテルの廃墟が建っている。
観光を当て込み、本丸跡にホテルを建設しようとしたが、多くの反対にあって、グスクの隣に建てたホテルである。(管理組合と、まあ、民間企業のよくある結託だ)海洋博覧会を当て込んだが、潰れて今も廃墟だ・・・かなり見苦しい。
計画通りに、グスク散策が出来て幸せだった。
充実の1日であった。
見る・触るは大事だね~
さて、ホテルに帰って、メモの整理や、マッサージなど行なって、Fもっちゃんとの待ち合わせ時間までを埋めた。
スジグワー(路地)の似合う男である・・・・
二人の意見の一致した栄町の「おとん」を訪ねた。
いわゆる沖縄料理の居酒屋でなく、本土の人が沖縄に移り住んで、始めた店だ。
乾杯は本日の行程で失った水分に、最高だった。
「冷やしゆしどうふ」「グルクンのかまぼこ」・・コチュジャンが効いて見事に旨い!
泡盛は必須!!
「スーチカー」「韓国風タコの刺身」タコは浅草のホッピーの店に同じようなのがあって、旨いったら、ウマイ。
アケタの店か??
地元のベーベーも来ていた。
僕のお勧めを、食べてくれた。うまい~と、言っていた。
泡盛はおかわりね。
「鳥ナベ」「揚げ物」も注文してから作るので、うまい。
もうね、僕は十分だったが、彼がこのまま終わるはずが無い・・・・
手を振って、相変わらず闇に消えていった・・・・
街の賑わいの大通りをちょっとそれると、沖縄の夜の街も、ゆったりと流れる。
コウシュンカズラの黄色が鮮やかだった。
大きな本屋に寄り、「沖縄本」を購入・330円のカレーを食べて、ホテルに戻った。
翌朝は、散歩や、マチグワーを散策。ほとんどの荷物を郵便局から送って、リュックを軽くする。
最後のおみやげ(天ぷらなど、帰って家族で食べるやつね)など、リュックにつめ空港に向かった。
全く、帰りたくなかった・・・・・・・・
本当に、帰りたくなかった・・・・・・・・・・・
本島に、帰りたくなかった・・・・・・・・・・・・・・・
長かったね・・・・ここまで読んでくれた貴方!!!ありがとう!!!なのだ。