《すいませ〜ん。
操作ミスでシリーズの順番が狂っちゃいました〜。
直し方がわからないので、このままにします》
自分を取り巻く人間関係にくたびれたら、上の層に行く時期が来たと思え…
人格でも風格でも霊格でも何でもいいから、格上げに取り組むチャンス…
前回の記事では、そう述べた。
自分のいる層から一つでも二つでも上に上がれば、出会う人が変わってくるからである。
世の中には、生まれつきシード権が与えられ
最初から上の方の層に置かれた人もいるように見えて、何だか羨ましく思うけど
私のような下層スタートの者は、地道に一つずつ這い上がって行くしかないのだ。
「自分を変えたい」、「変わりたい」と言う人は多い。
昔の私も、漠然とそう願っていた。
何で私ばっかりがこんな目に遭わなければならないのか…
何かを変えなければ、今の苦境は生涯変わらないのではないか…
そう考えては一発逆転のカンフル剤を探す日々。
とはいえ浅学無知で怠け者の私が、これといった物が見つけられるはずもなく
焦燥感にさいなまれたものだ。
やがてその心境は、「自分は変わらずに周りの人の心がけが変わって欲しい」
そう願っていたのと同じだと気づく。
だからいつまで経っても自分は変わらず、自分を取り巻く環境も変わらなかったのだ。
そこでようやく、この思いに至った。
平面180度の大変化を目指さずとも、上に目を向けたらどうだろう…
階段をほんの一段登って上に上がってみれば、自分は変わらなくても景色が変わるのではないか…
横着な私がいかにも考えそうなことである。
その這い上がる方法というのを模索するのに長い年月がかかり
気付けば老人の仲間入りをしていて、実際に上の層へ行けたかどうかも怪しいものだ。
それでもやはりあの考え方は、他の人にはどうだか知らないが
自分にとって有益だったのではないかと思っている。
で、その登り方だが、私の考えることだから、たいしたことではない。
自分はなぜ人に振り回されてしまうのかを考えるのだ。
経験から言うと、人には振り回されやすい人と、そうでない人がいて
家庭や職場を始め、どんなコミュニティーでも
振り回される人と振り回す人の二通りで成立していることがわかる。
振り回される側になるのは、当たり前だが頼まれたら嫌と言えない人である。
言い換えれば、ノーと言った後の気まずさを知っている人だ。
何かを頼まれたのに断ったら雰囲気が悪くなると思ったり
人によっては相手に失望されたくない、孤立してしまうのではないかと
心配する癖がついていることもある。
いずれにしても自分にできることならと、つい振り回されてしまう。
一方で振り回す側は、相手の立場になって物事を考える習慣が無い人だ。
自分だったらできるのか、自分がやらされたらどんな気持ちか…
そういったことを全く考えないので、いとも簡単に頼み事や命令をする。
考えないのは当然だ。
そういう人は、逆に何か頼まれてもちゃんとできない。
そのため人からあてにされたことが無いので、実は物知らずで経験値が低い。
何も知らず、何もできない、実はつまらんヤツだからこそ
自分はやらなくて済むように指示する側や仕向ける側に先回りして、言葉巧みに人を操る。
それはまた、自分がつまらんヤツだというのを人に知られないようにする最良の策でもある。
人は、自身の残念な実態を隠蔽するためなら何でもやるものだ。
振り回される側は、そんな振り回す側のずるさを薄々感じ取っているので
不公平感にさいなまれ苦しむ。
しかしそれを言及して詰め寄ったところで、何も解決しないことも知っている。
卑怯者は逃げるのがうまいとわかっているからだ。
話をすり替えたり、泣きわめいたり、味方を集めたりして必ず逃げ切る。
何もできない分、人に用事をやらせることと逃げることにかけてはプロなんじゃ。
その逃げる後ろ姿に歯噛みしながら、振り回される側は自分を責めてしまうものだ。
私とて、不器用だから、頭が悪いから、人を見る目が無いからと
謙虚にも自分を責めていた。
クヨクヨと悩み、うっかり引き受けてしまった自分を呪った経験は数え切れない。
しかし、自分を責めることはないのだ。
劣っているのは、かわいそうなのは、指示やお願いをされて動いてしまうこちらではなく
実は無能なあちらさんである。
この真相がわかれば、景色がちょっと変わる。
一段高い所から周りを見回すと、冒頭でお話しした
生まれつきシード権を持っているような人の実情が理解できるようになる。
ゲスと関わらなくていい層で、人に振り回されずに暮らしているように見えた人々は
人を振り回す人間に寛大なだけだった。
なぜ寛大かというと、これは力量の違いなのだ。
人のために用事をするとなると、どんな事柄であっても体力、あるいは知恵や技術
そして気遣い、慈悲、場合によってはお金が必要になる。
それらを総合して力量と呼ぶなら、シード組はその力量が豊富というわけよ。
だから彼ら彼女らには、人から振り回されているという概念が無く
いつも涼しい顔で余裕をかましている。
かたや、いつも誰かに振り回されては嘆き悲しみ、我が人生を呪う私は
体力、知恵、技術、気遣い、慈悲、お金…
これらの力量がまだ足りないから、やらされるという受け身になり
結果を案じながら、こわごわと取り組んでいたのだと思う。
そりゃあ何をやっても心配は尽きないし、面白くないのは当たり前だ。
頼まれたら嫌と言えない性分、私は良いことだと思っている。
しかしその性分とこなせる力量が、初めから同じ割合で揃っていることはマレだ。
力量が備わるまでには時間、つまり年月がかかるようだから
それまでは砂を噛みながら待つしかない…
階段を一段登った時に、そう思った次第である。
《続く》
操作ミスでシリーズの順番が狂っちゃいました〜。
直し方がわからないので、このままにします》
自分を取り巻く人間関係にくたびれたら、上の層に行く時期が来たと思え…
人格でも風格でも霊格でも何でもいいから、格上げに取り組むチャンス…
前回の記事では、そう述べた。
自分のいる層から一つでも二つでも上に上がれば、出会う人が変わってくるからである。
世の中には、生まれつきシード権が与えられ
最初から上の方の層に置かれた人もいるように見えて、何だか羨ましく思うけど
私のような下層スタートの者は、地道に一つずつ這い上がって行くしかないのだ。
「自分を変えたい」、「変わりたい」と言う人は多い。
昔の私も、漠然とそう願っていた。
何で私ばっかりがこんな目に遭わなければならないのか…
何かを変えなければ、今の苦境は生涯変わらないのではないか…
そう考えては一発逆転のカンフル剤を探す日々。
とはいえ浅学無知で怠け者の私が、これといった物が見つけられるはずもなく
焦燥感にさいなまれたものだ。
やがてその心境は、「自分は変わらずに周りの人の心がけが変わって欲しい」
そう願っていたのと同じだと気づく。
だからいつまで経っても自分は変わらず、自分を取り巻く環境も変わらなかったのだ。
そこでようやく、この思いに至った。
平面180度の大変化を目指さずとも、上に目を向けたらどうだろう…
階段をほんの一段登って上に上がってみれば、自分は変わらなくても景色が変わるのではないか…
横着な私がいかにも考えそうなことである。
その這い上がる方法というのを模索するのに長い年月がかかり
気付けば老人の仲間入りをしていて、実際に上の層へ行けたかどうかも怪しいものだ。
それでもやはりあの考え方は、他の人にはどうだか知らないが
自分にとって有益だったのではないかと思っている。
で、その登り方だが、私の考えることだから、たいしたことではない。
自分はなぜ人に振り回されてしまうのかを考えるのだ。
経験から言うと、人には振り回されやすい人と、そうでない人がいて
家庭や職場を始め、どんなコミュニティーでも
振り回される人と振り回す人の二通りで成立していることがわかる。
振り回される側になるのは、当たり前だが頼まれたら嫌と言えない人である。
言い換えれば、ノーと言った後の気まずさを知っている人だ。
何かを頼まれたのに断ったら雰囲気が悪くなると思ったり
人によっては相手に失望されたくない、孤立してしまうのではないかと
心配する癖がついていることもある。
いずれにしても自分にできることならと、つい振り回されてしまう。
一方で振り回す側は、相手の立場になって物事を考える習慣が無い人だ。
自分だったらできるのか、自分がやらされたらどんな気持ちか…
そういったことを全く考えないので、いとも簡単に頼み事や命令をする。
考えないのは当然だ。
そういう人は、逆に何か頼まれてもちゃんとできない。
そのため人からあてにされたことが無いので、実は物知らずで経験値が低い。
何も知らず、何もできない、実はつまらんヤツだからこそ
自分はやらなくて済むように指示する側や仕向ける側に先回りして、言葉巧みに人を操る。
それはまた、自分がつまらんヤツだというのを人に知られないようにする最良の策でもある。
人は、自身の残念な実態を隠蔽するためなら何でもやるものだ。
振り回される側は、そんな振り回す側のずるさを薄々感じ取っているので
不公平感にさいなまれ苦しむ。
しかしそれを言及して詰め寄ったところで、何も解決しないことも知っている。
卑怯者は逃げるのがうまいとわかっているからだ。
話をすり替えたり、泣きわめいたり、味方を集めたりして必ず逃げ切る。
何もできない分、人に用事をやらせることと逃げることにかけてはプロなんじゃ。
その逃げる後ろ姿に歯噛みしながら、振り回される側は自分を責めてしまうものだ。
私とて、不器用だから、頭が悪いから、人を見る目が無いからと
謙虚にも自分を責めていた。
クヨクヨと悩み、うっかり引き受けてしまった自分を呪った経験は数え切れない。
しかし、自分を責めることはないのだ。
劣っているのは、かわいそうなのは、指示やお願いをされて動いてしまうこちらではなく
実は無能なあちらさんである。
この真相がわかれば、景色がちょっと変わる。
一段高い所から周りを見回すと、冒頭でお話しした
生まれつきシード権を持っているような人の実情が理解できるようになる。
ゲスと関わらなくていい層で、人に振り回されずに暮らしているように見えた人々は
人を振り回す人間に寛大なだけだった。
なぜ寛大かというと、これは力量の違いなのだ。
人のために用事をするとなると、どんな事柄であっても体力、あるいは知恵や技術
そして気遣い、慈悲、場合によってはお金が必要になる。
それらを総合して力量と呼ぶなら、シード組はその力量が豊富というわけよ。
だから彼ら彼女らには、人から振り回されているという概念が無く
いつも涼しい顔で余裕をかましている。
かたや、いつも誰かに振り回されては嘆き悲しみ、我が人生を呪う私は
体力、知恵、技術、気遣い、慈悲、お金…
これらの力量がまだ足りないから、やらされるという受け身になり
結果を案じながら、こわごわと取り組んでいたのだと思う。
そりゃあ何をやっても心配は尽きないし、面白くないのは当たり前だ。
頼まれたら嫌と言えない性分、私は良いことだと思っている。
しかしその性分とこなせる力量が、初めから同じ割合で揃っていることはマレだ。
力量が備わるまでには時間、つまり年月がかかるようだから
それまでは砂を噛みながら待つしかない…
階段を一段登った時に、そう思った次第である。
《続く》
・お互いに、関係ない人の目をとてもきにする
・お互いに、お互いの気持ち・気分の変化に敏感で、気づかんでいいことまで気づく
・お互い、喋りすぎる
ような気がします。とくに喋りすぎることで、振り回したい人と振り回される人が喋った言葉でガッチリ絡み合い、離れられなくなる。
振り回されない人は、みりこんさんが仰るように振り回す人にとても寛大です。そして自分にできることはしっかりやりますができないことはきっぱりやりません。そのためには不必要なことを言わないことを徹底しているように見えます。
私もみりこんさんのように学校役員をやり、仕事でもめ、何やかんやありww、「トラブル何にもなくすーーと上手く言ってるひと」を観察してました。
ただし、その上手くやる人は、みな旦那さんの親族にはどうなんかな~?。みなすっ、と離れてます。みりこんさんのように一緒に暮らして七転八倒させられつつご飯作ってあげません。振り回されてるとわかってて一緒にいるみりこんさんのほうがどんだけ温かいか。
話をすり替える人って数名いましたけど
かなり上手いですね。
大体最後にメンドイ事になって
本人は知らぬ顔、
むしろそれでも偉そうに指南するという…
家族は何だかんだで付き合わないといけないけど
その他は距離を取るしかないですね·
あ、前のコメントで触れた
金持ちだけどドケチで引いちゃう話
本人が無駄に庶民派気取ってケチエピソード披露とかも芋演技すぎてだるい
何もせんでええわ~。
しおやさんも苦労なさったのね。
振り回す方は得や楽をするため…
振り回される方は自分をわかってもらいたいためや
場の雰囲気を壊さないため…
お互いに目的は違っても共通点はあります。
振り回される方がしゃべり過ぎると、振り回す方に言質を取られ
断れなくなったり後へ引けなくなって結局振り回されます。
次で触れるつもりでしたが、この関係から抜けて
振り回されない人になるには、誰とでも親しく話さず
相手を選別することが必須要項。
その方針が冷たい対応になる場合も多く、ことに身内に対しては
その辺の調整が難しいところです。
身内は他人より近い分、振り回されるのが頻繁で内容も厄介ですが
年月の経過を待つしかないとあきらめているのが実情です。
ヤバくなると話をすり替える人、手口が本当に上手いです。
それでも命令権はギリギリまで手放さず
いよいよダメとなるとサッと逃げてる。
他人は絶交できますけど、身内はできませんからね。
年を取ると脳が衰えて理性が無くなるので
人間の大半が自分のことしか考えない毒親になっちまうんですよ。
伴侶を失って一人になると、さらにひどくなる。
うちには2人いますからね。
芋演技!かなり笑えるフレーズ!
金持ちにもランクがありますからね。
喫茶店でテーブルに置いてある砂糖を水に溶かして飲む
自称金持ちには笑ったことがあります。
つい出ちゃうのよね。