殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

危犬

2022年10月17日 13時24分40秒 | みりこんぐらし

『秋のチョウチョは羽が傷んで、はかなげよね。

うちの干からびた庭でも蜜があるのかしら…たくさん召し上がれ』



10月11日の夜。

早寝早起きの私は例のごとく、二階の寝室ですっかり寝入っていた。

…と、階下が何やら騒がしい。

ガヤガヤした人の声と足音に目を覚まし、尋常でない空気を感じる私。


最初は、強盗かと思った。

うちへ入ったって、盗る物なんて無いのに…

ボンヤリとそんなことを考え、護身用の金属バットは玄関の傘立てだと気づいて残念に思う。

敵は一階に居るんだから、丸腰で玄関まで行かれんじゃないか。

二階にも武器を用意しておくべきだった…。


ほどなく階下から、長男が叫んだ。

「母さん!起きて!」

この子が階下に居るのであれば、強盗ではなさそう。

私が寝ようとした時、彼は応接間でグローブの手入れをしていたが

そのまま下に居たらしい。

日頃は大きな声を出さない彼が叫ぶからには、よっぽどのことだ。


飛び起きて階段を駆け下りると、義母ヨシコが居間のテーブルに突っ伏して泣いていた。

あたりは血の海だ。

「リュウがばあちゃんを噛んだ!」

長男が言う。

「俺が応接間におったら、ばあちゃんの叫び声がして血だらけになっとった」


ヨシコは、愛犬リュウに額を噛まれていた。

額に当てた血染めのタオルを外して患部を見ると

彼女のおでこはリンゴをかじったような状態で皮がペロリとめくれ

そこから容赦なく出血している。

狭心症のために血液がサラサラになる薬を飲んでいるので、出血量が多くて血が止まりにくいのだ。


「あんた…これ、ゾウキンじゃん」

私は長男に小言を言った。

血染めのタオルと思ったのはゾウキンで、長男がヨシコに渡したものだった。


家で何とかできる傷ではないので、長男に近くの救急病院へ電話させ

その間に服を着替えていると夫も起きてきた。

病院がすぐ来いと言ったので、夫と二人でヨシコを連れて行くことにした。


救急には先客が無かったので、すぐ診てもらえることになったが

診察室へ入るとヨシコが言った。

「入れ歯忘れた、入れ歯、入れ歯」

みなまで言わずに相手が察して行動することを望み

叶うまで言い続ける、いつものペースだ。

家へ取りに帰って、持って来いと言いたいのである。

入れ歯が届くまで、医者を待たせる気満々。

その余裕にホッとしつつ

「もう間に合わんけん、あきらめんさい」

と答え、ヨシコを残して廊下に出る。


当直の外科医は、たまたまヨシコの主治医だった。

同じ日の午前中、ヨシコは定期検診で主治医に会っており

彼はそのまま当直に入ってヨシコの額を縫うことになったのだ。

この偶然にヨシコは上機嫌らしく、主治医と彼女の笑い声は廊下まで聞こえた。

病院慣れしているというのか、こんな時のヨシコは肝が座っていて頼もしい。


結局、ヨシコは17針縫った。

「化膿したらいけないので、大きめに縫っときました」

と説明があった。

犬の前歯はUの字になっているので、額の傷もUの字状で

縫い目が多くなるのは仕方のないことだった。


縫合が終わると化膿止めの点滴をしてもらい、帰宅したのが12時。

点滴中に30代後半らしき看護師が出てきて、我々夫婦に言った。

「お母さんとワンちゃんは、一緒に寝ておられるんですよね?」

額を縫われながら、ヨシコが話したらしい。

「はい」

…そうなのだ…

ヨシコとリュウはダブルベッドで一緒に寝ていた…

「男と寝られて、ええじゃんか」

私はよく、彼女をからかっていたものだ…。


「先週も噛まれたんですよね?」

「はい」

…そうなのだ…

ヨシコは先週、リュウに口の周りを噛まれた…

リュウが寝ているところを触って、いきなりガブリとやられた…。


今回も、先にヨシコのベッドで寝ていたリュウを動かそうとして噛まれた。

体調1メートル、体重30キロに育ったリュウは普段はおとなしいが

寝ているのを邪魔すると豹変する不良犬に成長していた。

機嫌が悪いと、首から尻尾の手間までの背中の毛が魚の背びれみたいに立ち上がる。


こやつは雑種とはいえ、親がダックスフンドとセッター。

父親だか母親だかはビーグルと聞いていたが、獣医師が判断したところ

セッターということになった。

いずれにしても猟犬だから、性質が戦闘的なのだ。


猟犬は、後ずさりができる。

後ずさりができるから、猟犬なんだそう。

前に進むだけでなく、後ろにも進めるということだ。

熊なんかの大物と遭遇した際、後ずさりができない犬だと、すぐやられてしまうからだ。

そこが愛玩犬との違いだと狩猟をする人が言っていたが、リュウも後ずさりがうまい。

つまり先天的に戦い方を知っている犬種だ。

そんなターミネーターみたいなのと、おばあさんを一緒に寝させていた

我々の罪は軽くないかもしれない。


「噛み癖が付いていると思うので、ワンちゃんとお母さんを離して生活してくださいね。

でないと、また噛まれると思います」

看護師は言う。

その話し方から、この人も犬を飼っているのかも、と思った。


我々夫婦も、リュウの身の振り方を考えていたところだった。

小型犬と違って攻撃力の強いリュウを今後、どう扱うかは

我ら一家にとって重大な問題である。

人を噛んだら相手がおとなしくなると知った犬は、タチが悪い。

この癖は、ちょっとやそっとでは治らないだろう。


人間の思いと犬の思いは真逆であることが多い。

ヨシコは自分のベッドへ、リュウを寝かせてやっていると思っていたが

リュウの方はベッドを自分の物と認識していて

そこへ侵入しようとしたヨシコを敵とみなしたのだ。


ともあれ縫合が終わり、化膿止めの点滴をして帰宅すると12時半。

が、やれやれ大変だった、さあ寝ようというわけにはいかない。

問題は髪だった。

ヨシコの髪には血が大量に流れていて、点滴の間に看護師が軽く洗い流してくれたが

綺麗にシャンプーするわけではないので髪がゴワゴワに固まり始めている。

血液は凝固する成分を持っているからだ。


ヨシコの心配は、翌日の診察にあった。

傷を診てもらうため、明日も病院へ行かなければならない。

病院へ行くからには人に会ってしまうから、こんな頭では行けないと言うのだ。

たとえ診察が無くても、このまま時間を経たらペッチャンコのゴワゴワは必至。

それはお洒落なヨシコにとって、耐え難い屈辱であろう。


濡れタオルを次々に交換しながら、ヨシコの薄くなった髪や地肌を拭い続けてみるが

ネバネバのゴワゴワはなかなか落ちない。

血液のすごさを改めて実感。


1時間後、私は妙案を思いつく。

「どうせ固まるんなら、カールしとけや」

ということで、拭き取りを諦めた箇所から順に手巻きでカール。

恐ろしいことに、ピンやカーラーを使わなくとも

巻いた髪はクルリとした形を保ったまま乾いていくのだった。


その夜から、リュウは夫と寝ることになった。

ダックスの雑種であるリュウは、足が短くて階段を上がれない。

重たいので、抱いて二階の寝室へ連れて行くこともできないため

夫が一階に降り、ヨシコの隣の部屋でリュウと一緒に寝ることになった。

ヨシコは自分の息子が近くなったので安心感が大きいらしく

リュウは大好きなパパを独占できてご満悦である。


翌朝、ヨシコの髪の仕上がりは満足のいくものであった。

さすが血液、そんじょそこらのセットローションよりカールのキープ力が強い。

ヨシコもまんざらではなさそうだが、顔の方はパンパンに腫れて、赤と紫のグラデーション。

見るも無残な姿となり、髪がどうこうの騒ぎではなくなった。


病院へ行き、人目を避けて順番を待つが、誰もヨシコだとは気づかない。

いっそ別人のように変わり果てたら、他人は案外、気がつかないものらしい。

傷の消毒後、ヨシコの頭には帽子のような網が被されたので

せっかくカールした髪は無駄になった。


魔の一夜から1週間。

ヨシコは病院へ消毒に通い、日に日に回復している。

そしてリュウは再び「危犬」、「魔犬」、「暗黒の貴公子」と

もらわれて来た当初と同じニックネームで呼ばれるようになったが

ヨシコを含めた家族の心にあまり変化は無く、普通に扱われている。

私はリュウを訓練学校へ入れてしつけ直すことを始め

もっと厳しい措置も考えていたが、かわいそうだとヨシコが反対するので現状維持のまま。

噛まれた人がそれでいいなら、いいか…と思っている。
コメント (6)
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