台風が近付いている。
病院の厨房へ勤めていた時は
台風や大雪はもちろん、事故だろうと病気だろうと
何が起きても…そう…死んでも行かなければならなかった。
一人ないし二人きりで作業することが多いので
「行けません」では済まされないのだ。
雪が降るらしい…台風が来るらしい…そんなことになると
私たち町外からの通勤組は震え上がった。
地元なら這ってでも行けようが、遠い者は文字通り命がけである。
道中で何か起きた時のために、1時間以上早めに出勤する。
「間に合わなかった」ということになれば
地元在住の上司に病院中に言いふらされたあげく
いつまでもネチネチと持ち出されるからだ。
言われるのは平気だが、低賃金・重労働の上に
人間関係がややこしい職場で
長々と面白くない目に遭うのは避けたい。
昔、道路が閉鎖になったことがあり
十数キロを徒歩で出勤した猛者がいたという。
それを引き合いにして
怖いなんて根性が無いと非難するのだ。
ただし、その頃は厨房の皆が公務員だった。
業務に金銭の差を持ち出すのは不本意であるが
この仕事では食べて行けないパートに
そこまでの根性を望むのはおかしい。
もちろん「交代してやろう」ということは一切無い。
私は一度包丁でうっかり腕を切ったことがあった。
あら?おててがぱっくり…血がザーザー。
病院は内科専門だが、幸い器用なドクターがいて
救急パックを使って4針縫ってくれた。
縫ったその足で厨房へ戻り、調理も洗い場もゴム手袋をしてすませた。
ギリギリの人数で回しているので、代わりがいない。
しかも人の出入りが激しいので、相棒はいつも新人。
やり甲斐みたいなものも多少は感じるが
人数に余裕が無いのは、こんな時不便である。
人気者のドクターに縫ってもらった上
治療費をタダにしてもらったことで
上司は長いこと妬けてブツブツ言っていた。
「不注意で他の患者様を待たせてまで…」
などともっともらしく、あらぬ方向へ論点を運ぶ。
そんなにうらやましいなら、自分も切ってみればいいのだ。
なんなら手伝ってやるぞよ。
ま、その程度の職場である。
数年前に大型の台風が来た夜
仕事が終わる頃には外は大変なことになっていたが
なんとか帰れそうなので、病院を出る。
「私、コールド(マッサージクリームの昔コトバね)がもう無いのよ」
同じ町から通う同僚が言うので
帰りに一緒に買物しようということになる。
誰も通らない突風吹きすさぶ海岸線を
2台ぴったりくっついて走る。
こんな時、大きい車の方が前を走って安全を確保するのだ。
前日の夜に遅番だった者は、翌日が早朝勤務と決まっているので
どちらか一人でも生き残り、翌朝の患者食に備える必要がある。
道路が海に向かって一直線に走る難所で
信じられないだろうが、3ナンバーの私のミニバンは
一瞬確かに浮いた。
我が町のスーパーまでたどり着くと真っ暗。
早じまいしていた。
当たり前だ…こんな夜に開いているほうがおかしい。
各自大笑いしながら、そのまま解散。
きれい事かもしれないが
「患者さんが待っている」という強い気持ちがある限り
何かの存在によって、ある程度は守護されていたような気がする。
だから、そんなに怖れるほどではなかったのかもしれない。
今は家に居て、その守護も消滅しているであろうから
じっとしているに限る。
社会の役に立ってない私なんぞ
ノコノコ外へ出たらひとたまりもないだろう。
今回も大型らしいので、皆様、くれぐれも気をつけてくださいませ。
それだけ言いたかったの。