羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

坐禅 ふたたび 六十七日目・・・・・明日からは百八つ数えようかな!

2019年08月14日 08時53分25秒 | Weblog

鰻、食べたいー。

鼻先に蒲焼の匂いが、プーン。

25、16、17、18・・・・・

坐禅さん ごめんなさい。

急に音大付属の高校一年の時、浜松のヤマハ楽器まで、グランドピアノ(免税)の選定に出かけた時の鰻を思い出した。

フジ子・ヘミングさんの親戚に当たる調律師さんと、母と私の三人で出かけた。

あの時の鰻の味は忘れられない。

ただ、母は苦虫を噛み潰したような顔で、我慢しながら食していた。

嫌いなのだ。

他に食べるものがなかったから、と言いながら。

実にもったいない話だが、こればかりは仕方がない。

51、52、53、、54・・・・・

一応、100 数えましたわ。

そうだ、明日からは、108 数えることにしよう!

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認知症の母、喜びを爆発させる!

2019年08月13日 09時11分23秒 | Weblog

おととい日曜日に、母を施設に訪ねた。

午後は、35、36度の気温だったが、風があったので、施設までそれほど苦にならず歩くことができた。

それで、1時半過ぎに公園に母を連れ出した。

並木は木陰で涼しい。

公園のごく一部だが、明治大学と帝京大学の建物が大きな日陰を作っていて風通しもよく、暑さはキツくなかった。

早めに切り上げて2時には戻った。

それからお三時を食べてから、施設内の水槽の魚を見せに一階ロビーに降りた。

そこで看護師さんが通りかかって、話しかけてくれる。

「うちへ帰りたいわ」

「どちらですか」

「は?」

私が母に聞く。

「多摩川、新宿、それとも高円寺?」

「わからない」

母はそう答えた。

自宅でないことだけは判っているらしい。

その時、新館の身障者施設で、インコを飼っているので見に行くことを勧められた。

黄色と青色の二匹のインコが、色とりどりな可愛らしいものがぶら下げられている籠の中で、元気に動き回っていた。

見ていると、通りかかった介護士さんが、母を見つけてニコニコ顔で話しかけてくれた。

大きな体と同様に、おおらかな性格の男性だ。

二人は手をしっかり握って、再会を喜んでいる。

「羽鳥さん、元気で・・・・」

「えー。おかげさまで」

母は無垢な子供にかえって、全身で喜びを表していた。

すごくホッとした。

入所して2年間、母がパニック状態に陥った時、お世話になった介護士さんだ。

配置換えになって、ここ半年ほどは会うことがなかった。

 

母は、今あったことが数秒のうちに、綺麗に消去されてしまう認知症。

なのに自分に向けられた人間としての優しさ、大事なことは、記憶の底に残っている、としか思えない反応だった。

 

家に帰りたいという母の思いに触れると、いつも言葉にならない胸の締め付けを感じる。

その場所がわからない、と知った瞬間にホッとするような、しないような居心地の悪さを感じた。

 

一つ言えることは、認知症でも豊かな感情は失われていない。そこに人間としての最後の砦・尊厳が宿っている。

怖いけれど、私は母の心情を想像してみる。

・・・施設に突然入れられた戸惑い。

・・・施設での寂しさや孤独・・・それでも理不尽さを、言葉で訴えることをしない。

その母が、インコの側で話しかけてくれた介護士さんに見せた喜びの爆発。

母の喜びは、大空に開いた大輪の花火の様だった。

 

 

 

 

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坐禅 ふたたび 六十五日目 六十六日目 

2019年08月13日 09時04分55秒 | Weblog

昨日もゆったりと坐った。

坐り初めてすぐに、汗が顔から首にかけて滴ってきたが、しばらくすると落ち着いた。

そもままに任せることができた。

 

本日、非常に湿度が高い。

滴る汗はなかったが、べったりと張り付く湿り気が、気分を低下させる。

それでもここは、我慢。

なんとか100回を数えきった。

セミのの声を聞きながら・・・・・・。

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漢字の造字および運用の原理「六書」

2019年08月10日 09時39分40秒 | Weblog

最近の朝日カルチャー「野口体操講座」では、漢字の問題をテーマにしています。

毎回、書籍を持参してご覧に入れていますが、様々な辞書があることを見ていただいています。

野口三千三著『野口体操 からだに貞く』『野口体操 おもさに貞く』に書かれている、漢字の字源についての内容を理解するための準備です。

藤堂明保と白川静の漢字解釈の違い、漢字について知っておきたいことなど、(私自身にとっても)復習と確認のために取り上げています。

本日は、次のテーマを選びました。

漢字の造語・運用の原理である「六書」

◆  「六書」とは、漢字の造字および運用の原理を6数類に分類したもの。

1、「象形」とは、必ずしも絵文字ではないから、形象と意味との関連を捉えるには、その意味体系の世界にまで踏み込まなければならない。形と義、と形象と意味の結合として存在する。象形はことばを示すものであるから、象形文字といっても「音」を持つもの。しかし、形義を主として音は従とする。例:日・月・耳・鼻・・・・

2、「指事」とは、上下・本末のような場所的な関係を示す方法。上下は掌の上下を、本末は樹木の本末をそれぞれ点によって表す。

  例:上・下・本・末・・・・

3、「会意」とは、複雑な事象や観念を表すときには、既成の象形文字を組み合わせる。帰る(歸)の初文は、シ師のつくりをとった部分+ソウ帚。シ  は、師の初文で出陣の時の祭肉の象。ソウ帚は、祖霊を祀るとき、その祭肉であるシを酒で清める。凱旋のとき、祭肉である。シを寝廟におさめるので、シとソウ帚とを合わせて、軍の帰還をしめす字。信・武・林・炎・・・ 

   記述の注:「シ」は「師」の作りをとった文字ですが、打ち出すことができませんでした。

文字が作られたとき、今でいう象形・指事・会意というような構造上の原則があったわけではない。古代文字を研究するために、のちに設けられた区別であるにすぎない。それらの境界は明らかではない。

4、「形声」とは、類型的な意味を表す音符と音を表す音符とを組み合わせて字を作ること。江・河

5、「転注」とは、用事法の一つとする説が有力であるが、定説はない。例えば「  」りんは、部首ではない。「複数の相対立するものの、統一体」という基本義である。そこから、人間関係においては「人倫」、言議の上では「論」、波紋の広がり「淪」、糸を縒りあわせる「綸」、両輪相対する「輪」。そのほか、呪術に関連して、悦・説・税・競など一系の文字である。

6、「仮借」とは、代名詞・助詞など具体性を持たない語の表記に、既存の象形文字の音を借りて用いる。他の同音・類字音の字を借用すること。「わたし」の意味に「我」、「そうだ」の意味に「然」、「くる」の意味に「来」など。

 以上です。

参考文献:『漢字類編』白川静 監修 小林博 編 木耳社

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昨日のつづき・・・・映画プラスα

2019年08月09日 09時16分10秒 | Weblog

1983(昭和58)に、映画「東京裁判」が公開された当時、私の中では一つの偏見があった。

知人のお嬢さんから“一緒に見ませんか”と、お誘いを受けた記憶がある。

その時、まったく乗り気にならなかった。

誤解を恐れず書かせていただくと、この映画をよしとする人々は、急進的な平和論者、・・・・・独特な思想を持つ方々がご覧になる映画、と言うような印象を持ってしまっていた。

 

それから36年後。

今、思うこと。

もし、私が、野口体操に出会わなかったら、今年の公開時でも見ることはなかったかもしれない。

もし、私が、「野口三千三伝」を書き始めていなかったら、今年の公開時にも見ることはしなかったかもしれない。

そう思う。

 

三千三伝を書きながら、戦争末期から終戦直後のことを調べ始めている。

当然のこととして「東京裁判」は、見ておかなければならなかった。

いや、義務以上の内側からの欲求を感じていた。

昭和を知るため、三千三が生きた青年期から壮年期に差し掛かかる時代の日本を知りたいがため。

そこでこの映画に出会った。

歴史上の人物の風貌、声色、表情、仕草、・・・・たとえ映像の中であっても、つぶさに見ること・聞くこと・感じることができる映画はそれだけで価値がある、と思う。

どんなにたくさんの本を読んでも、これだけ濃密で精緻で具体的な情報は得られない。

裁判が行われる法廷という限られた場で繰り広げられる、相互の人間同士の葛藤の姿・音声で発せられる言葉、言葉にならないがありありと出てしまう表情から受ける事柄は、書物という文字の世界からでは、絶対には伝わってこない一つのリアルが、そこには存在する。

その背景にある世界情勢・日本のありようが理解を深める手立て以上の意味がある。

 

見終わって思った。

言い訳がましいが、1983年時に見たとしても、当時の私には、この映画の素晴らしさを理解するだけのあらかじめの知識も欲求も持ち得なかった。今だからこそ、意味があったに違いない。

この数年間、三千三を通して、昭和の時代を探っている。その繋がりでこの映画に出会った。偏見を持っていた自分に、忸怩たる思いを抱いている。

それでも教わってこなかった日本の近現代を、生きているうちに、少しだけでも知ることができて、少しだけ考える時間を持つことができて、これが「私と野口体操」と言えるのかもしれない。

あれほど体操は不得意だった自分が、なぜ、野口体操にハマってしまったのか。

周りが心配するほどの入れ込みようは尋常ではなかった。ありがたいことに、若気の至りとは思えなくなってきた。

飛躍するが、一つのことを諦めずに継続して、歳をとるってまんざらではない。

だからこそわかることって、あるんだわー。

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座禅 ふたたび 六十四日目

2019年08月09日 09時10分56秒 | Weblog

今朝は、体操をするからだがとても軽かった。

その繋がりで坐った。

機嫌よく100回を数えることができた。

一つ浮かんだことはあるが、別立ててブログに書こうと思うようになって、引きずらなくなった。

大切なことならば、忘れることはない。

忘れてしまうことならば、それほどのことではない、と捨てることができるようになってきた。

ちょっと、進歩かな!?

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ドキュメンタリー映画『東京裁判』

2019年08月08日 10時00分38秒 | Weblog

午前11時から夕方4時まで、はじめの予告編と途中休憩10分を抜いて、4時間37分の上映時間中、一瞬たりともスクリーンから目を離すことができなかった。

全て実写である。

それも4Kリマスター版という好条件・音声、ナレーションも聞き取りやすい。適所で挿入される邪魔しない音楽等々。グイグイと惹きつけられ、観続けることができるのだ。

時間の経過の中で、「何を裁こうとし、(恣意的に)何を裁こうとしなかったのか」次第にはっきり見えてくる。

色々と書きたいことはあるけれど、ここがいちばんの大事なところなのだ。

裁判だけではなく、世界情勢や戦争の実情を、記録映像によって映し出し、世界の中で、明治以降、日本が行なった戦争の近現代史をしっかり学ぶこともできる。つまり歴史を知ることの本当の意味、そして日本の戦争を実感として得られる。それは、広い視野を持って、今、これから、を考える視点を、理屈抜きに持つことに通じている。

小林正樹監督は、戦争のおそろしさ・むなしさ・おろかさを、この作品の前に作られた映画で描き出してきたという。

それを経過して、最終的に作られた『東京裁判』。残された実写記録をどのようにまとめるのか、このドキュメンタリーを完成させた監督と監督を支えた人々のすごさは、映画を見ていただくことでしか伝えられない。

戦勝国に裁かれた敗戦国の人間・日本人としての矜持が隅々溢れているのだから。

何度か繰り返して見ないことには消化しきれないが、戦後の日本がここから始まった重さをズシリとからだに刻み込むことだけはできた、と思う。

 

とにかく凄い、凄すぎる。

最後に、偉そうな物言いをお許しいただこう。

「それそれの人が映画館に足を運んで、あなたの目で見て欲しい!あなたの耳で聞いて欲しい!」と。

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坐禅 ふたたび 六十三日目 

2019年08月08日 09時03分22秒 | Weblog

気温が高くなるのが早い朝だ。

いつもの通り、体操をして、座禅をして体操をすることができた。

 

昨日、11時から4時まで、座り続けて観た「東京裁判」の余韻が残っていた。

予想では長時間座ることができるだろうか、と不安だったが、スクリーンに目は釘付け状態で全く苦にならなかった。

 

そうだ、映画については、別に書くことにしよう、と決めると、あとは静かに呼吸の回数を数えた。

数えきる頃には、からだは鎮まった。

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坐禅 ふたたび 六十二日目 

2019年08月07日 09時05分40秒 | Weblog

坐っている途中で、宅配便が届いた。

毎年、この時期にいただいているパッションフルーツだった。

箱を開ける前から、微かだが良い香りがしている。

もとい! 改めて坐り直し、と思ったが、30回から始めた。

数えるうちに、初めての体感があった。

からだの姿勢は、心地いいまっすぐさ。

骨盤の中心が、しっかり感じられた。

そのま上に頭が乗っている実感が掴めた。

しばらくすると、脳の中がクリアになっていくような気がする。

現実感はある。

しかし、フーッと浮いているような感じもある。

眠気とは違う。

雑念?もなく、ただそこに座り続ける気持ち良さに委ねて、漂っている感じなのであった。

パッションフルーツの南国の甘い香りに、導かれた境地かもしれない。

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坐禅 ふたたび 六十一日目 睡眠時も覚醒と坐禅呼吸イメージ効用

2019年08月06日 09時55分55秒 | Weblog

無事、100回数えて終了した。

一つ、二つ、坐禅に関連して書いておきたいことがある。

 

一つ目は、肩・腕の夜間痛を感じた時に、坐禅の呼吸をイメージしながら、仰向け姿勢え坐禅をする、というもの。

実は、痛みにもわずかな間隙があって、差し込むタイミングに合わせて息を吐く。それを繰り返すしていると、痛みそのものが薄れて、次第に呼吸回数を数えられなくなる。薄れていく意識を取り戻すことを何回か繰り返すうちに、眠りついている。おかげさまで、痛み止めの薬は、服用しないで済んでいる。

 

さて、もう二つ目も、眠りについてである。

夜間の暑さで、真夜中に、汗をびっしょりかいて目覚めることがある。これかが習慣化しているような気もするのだが。

毎回、起き上がって、汗を拭き取り、着替えをして、白湯を飲む。そこでしばらく体操することもあるし、そのま椅子に腰掛けてからだを冷まし、再び床に入る。

しばらくは覚醒状態がついづく。からだを横たえたまま、直立姿勢の坐禅をイメージして呼吸を整えるうちに、意識が薄らいで眠りについていく。

 

というわけで、坐禅の効用は思わぬところにも良い意味で波及してくれている。

これぞまさしく「坐禅に親しみ 坐禅に貞く」である。

 

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QRコード

2019年08月04日 10時25分26秒 | Weblog

今しがた、「東京裁判」の4Kリマスター上映の座席予約をした。

映画館の指定席をインターネットで取ることは、はじめてではないが、何年振りかのことだ。

 

全てが無事に完了した、と思うと、すぐにもメールが送信されていた。

IDだの予約番号だの座席番号など、一所懸命にメモして操作を行ったことが必要ない内容だ。

で、当日は携帯で「QRコード」を発券機にかざせば、それだけで済むことが表示されていた。

こうした作業に慣れている人たちは、何のことはなく、日常茶飯事なのだろうけれど、はじめてQRコードを使ってみようと思っている。

 

そこで気づいた。

こんな風にして、ゆくゆくはスマホ決済やQRコードに慣れていくと、抵抗感が薄れてしまうのだろうなー、と。

そういえばアマゾンから荷物を受け取るのは、もっぱら駅前のローソンになって久しい。

携帯から、QRコードを読み取って、受け取る方法をとっていたっけ。

こんな風に、ズルズルと時代の流れに巻き込まれていくだなー、ため息。

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坐禅 ふたたび 六十日目

2019年08月04日 10時18分22秒 | Weblog

体操を坐禅の前後に入れるようになってから、感じることがある。

体操をするとうっすらと汗を描く。

少し、暑いなー、と感じる。

しかし、坐禅をはじめて50回をすぎる頃になると、からだの中心から涼しくなるようだ。

冷えるというほどではないが、かいた汗がスーッと引いていく。

その頃には、背筋が気持ちよく伸びてくれる。

本日は、100回を数え終わってからしばらく続けてから、結跏趺坐の組み方を変えて、そのままの体操をしてみた。

立ち上がって、上体のぶら下げやそのほかの動きに、すんなりと移ることができた。

結跏趺坐の姿勢で、股関節や腿を伸展できるようである。

発見!

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坐禅 ふたたび 五十九日目

2019年08月03日 09時55分43秒 | Weblog

気づきというのは不思議なものだ。

今までも肩の力が抜けていく感覚はあったのだと思う。

だが、今朝は30回を数える頃になって、急にストンと肩の力が抜けた!と実感になったのだ。

その瞬間に前のめり気味だった重心が、からだの長軸の真下に落ち着いてくれるのが感じられた。

「そへ(へその真後ろ)」で、呼吸をするようなイメージが浮かんだ。

あとは、静かに、ゆっくり、回数を数えて無事終了。

背骨が立つ感覚は、本日もしっかりつかめた。

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坐禅 ふたたび 五十八日目

2019年08月02日 09時25分34秒 | Weblog

昨日の掃除が功をそうして、気持ちよく座ることができた。

襖をはずして、二部屋を開け放ったことも気持ち良さに通じてくれたと思う。

そんな部屋の中で、一人坐っていると、捨てたいもの・片付けたいところが、次から次へと浮かんでは消える。

すぐ消えてくれるから助かるんだけど。

 

さて、いつも思うことがある。

短い時間の坐禅を終えて、2度目の体操をして、パソコンの前に正座したとき実感として得られること。

それは、背骨のスッキリ感、つまりからだの長軸が鉛直方向に一致している感である。

この感じは得難い。

ただ坐るだけで、得られるなんて!

貴重だ、と思えてならない。

 

それに一銭もかからないのだ・・・・。

結局、現世利益を求めて坐っているのかも。

それって、さもしいかな?

 

でもね、私の場合、背骨が伸びている気持ち良さから得られることは、何にかはわからないけれど、生きていることを許されている安心につながるんだよね。

ここにいる自分を肯定できる気持ちが溢れてくるのって、それは充実感だと思う。

 

そんなわけで、休み休みでも、自己流でも、もう少し続けていたい。

以上、58日目の坐禅日記でした。

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いよいよ始めるのだろうか?

2019年08月01日 12時10分58秒 | Weblog

7月の下旬から片付けと掃除を、梅雨明けからはそれに加えて大きなものの洗濯をし続けている。

およそ2週間かけて、住まいの方は目処がたった。

恥ずかしくなるくらいの大量のゴミを、収集日の度に出していた。一気に持っていってくれたことに、感謝している。

 

さて、いよいよ積年の懸案場所に取り掛かりたいと思っている。思っているが果たして、なのである。

蔵の一階は足の踏み場もないくらいに、本やダンボールに入った冊子、ありとあらゆるものが散乱状態である。

取っておいた再生機の類。これらはもう動かない可能性が高い。

弾かなくなったピアノ・物置になっているクラビコードを救い出そう。

et cetera

「まずは、入った足元からはじめるといいですよ」

そうだ、とうなづいている。

 

またまた大量のゴミを出すことになりそうだ。

そういっても、ボチボチですが。

何年かかるのかわからないが、自分でできるところまでやって、そのあとは誰かの手を煩わすことになるのだろう。

死なない程度に、のんびり焦らず取り掛かりたい、と思うものの大きなため息をついている私。

一日、一歩。

いやいや ケ・セラ・セラ・・・・・

それじゃダメじゃ!

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