明治以降、日本は西欧に追いつけ追い越せを目標に、様々な分野の人々が海外へと学びに出かけた。
体育・体操・スポーツ界では、こうした留学組が、今言うところの学校体育「指導要領」を作成している。
その中心は、もちろん東京高等師範学校の教授たちである。
実は、「いだてん」の中でも描かれていた。
『学校体操教授要目』が、画面に映し出されていたことを、ご記憶の方は少ないかもしれない。
文部省が最初に指導基準を『学校体操教授要目』として交付したのは1913(大正2)年のことだった。
経緯はこうだ。
日本の体操の父と呼ばれる高等師範の永井道明(1968〜1950年)によって『要目』は作られた。
永井は自らが受けた森有礼の軍隊式教育色を排除する改革を目指していた。
ところが文部省だけでは決められなかった事情がある。
日本全国の学校でバラバラだった体育の方向を、一つにまとめる『要目』作成の苦労があったのだ。
台頭してきた軍部(陸軍)に、お伺いを立てなければ、一向に進まななかったのだ。
そこで永井が考えたのは、兵士の訓練にも向くとして「スエーデン体操」を核に据えた『教授要目』を持って掛け合いに出向いた。
見事、文部省令として交付する許可を得ることに成功したのである。
それから第一次改変がなされ、第二次改変は1936(昭和11)年に行われた。
この新しい要目には、新体操や自然体操の要素が見られるという。
この改変は指導力を買われて委員となった大谷武一(1887年〜1966)の影響が大きいと言われている。。
東京高等師範教授で文部省体育研究所の技官であった大谷は、永井同様に留学組である。
大谷は高高等師範卒業後に、アメリカの大学に2年以上官費留学し、帰国の途中で数ヶ月に渡ってヨーロッパの体操・スポーツ事情を視察してきたエリート中のエリートであった。ちなみに、永井が命名した「デッドボール」を私たちも知っている「ドッジボール」に改名した人である。
他にも東京高等師範学校には、官費による留学組を迎え入れていた。
「いだてん」では、そうした教授たちの微妙な権力バランスを、何気ない演出で描いていた。
さて、野口体操としては、何を言いたいのか?
野口三千三が小学校訓導(教師)として指導に当たり、その後に群馬師範学校の教官であった通年間、第二次改変の『学校体操教授要目』にしたがって授業を進める必要があった。にも関わらず、野口はそれを無視して自分の方法を貫いたわけだ。
これには、これまで知らなかった驚くような後日談がある。
それは野口体操につながる道筋、とだけ今は書いておこう