タイトルは山茱萸(さんしゅ又はさんしゅう)と読むらしい? 宮崎県民謡「ひえつき節」の出だし
庭の山茱萸(さんしゅう)の木ー~ 鳴~るすーず~掛ーけ~て~~よぅー と唄われていますね。あれのことらしい
この字はは知りませんでしたが、鎌倉は「竹の寺報国寺」のお庭で教えてもらいました。 写真の山茱萸は我が自慢の「持芳庭」にて輝いています。
鎌倉広島宮崎 合作の1ページでございますよ
3/15日 まったく閑、何もする予定のない日。骨休みのタイミングに合わせ、雨がザンザン降っています。心置きなくゴロゴロです。
気の置けない仲間と云うことで、どうしても深酒をしてしまう傾向あり。
3/14日 第二水曜日は地元「落合郷土史研究会」月例の定例会。後は概ね月1回の歴史探歩と随時に宿泊遠征も含む研究会がある。
最近こちらも懇親会の開催頻度が増している。しかし泥酔会にはあらず…比較的アカデミックな活動なのだ。
何とか農水大臣が連日話題を賑わしているが、オイラのミネラルウォーターは山の自然水を汲んでいる。
用途は焼酎、ウィスキーの割り水とお茶、コーヒーに利用している。
神社も祀られる本格的なもの、なんてったって御神水なのだから
オイラの知識としては、この美術館前の駅が「ルイスシーティファニー庭園美術館前」と云う、日本一長い駅名であることぐらい。立派な施設をもったいないと思うが、さしたる感慨はなし。
反対に安来市にある「足立美術館」は益々意気盛ん 今回も自慢の横山大観コーナーに24点と充実した展示がされていたが、彼の代表作「山海二十題」の内八題を所有したと云う。素晴らしい
こちらはこれから何度でも楽しむ事が出来ますね。
写真は足立美術館の鯉魚
3/5~7日 春の鎌倉探歩のまとめをしてみると、次も又訪れてみたくなる思いに駆られます。
広島の祖:大江広元の屋敷跡(現在は個人の住宅が建っている)でいにしえをを偲び、源頼朝の墓からロープを頼りに急坂をよじ登ると、やっと大江広元の墓に辿りつきます。安らかにお休み下さい 合掌
良く観察するとナント隣には島津家の墓が建てられているのです。薩長連合は鎌倉時代まで遡りますかね? それとも考えすぎですか
鎌倉の特長は幕府・侍屋敷・寺地域は山側、庶民の住居地は海岸側と明確に分離されており、中でも寺は判で押したように谷(ヤトあるいはヤツと呼ぶ)に建てられています。谷の最奥には岩をくりぬいてやぐら(身分の高い人の墓)が建てられており、意外な方がこの場所に葬られています。
代表例として縁切寺・駆込寺として有名な東慶寺を紹介します。寺内には用堂尼(後醍醐の皇女)や、豊臣秀頼の息女天秀尼の墓も建てられ、四季美しいお花が咲く癒しの尼寺です。
写真は用堂尼のやぐらです。
源頼朝に実力を認められて京から鎌倉に呼ばれ、幕府開府に貢献するとともに、以降政権の実力者として君臨した。
大江広元本当の終焉地は現在墓とされ、比定されている場所ではなく、数キロ離れた滑川沿いにあった屋敷跡であるといわれている。いずれにしても広島の祖と云われる人の人生大いに興味がある。
何方か広島在住のもの書さん、安芸のローカル部分のみ取り上げるのでなく、「広島の祖:大江広元」の系譜から明治維新に続く大河ドラマを綴ってたもれ
写真は大江広元の墓、鎌倉独特のやぐらである
3/5日 鎌倉探訪の最初は、「鎌倉五山 第二位 円覚寺」であります。
本当に鄙びたJR北鎌倉駅から徒歩1分の場所にある円覚寺。縁起は?
日本はおよそ700年前大陸蒙古から二度に亘って攻撃され、未曾有の国難を迎えた。時の権力者は、源氏が開いた鎌倉幕府を継いだ執権北条時宗。
文永・弘安二度の蒙古襲来を、日本の総力を挙げて撃退した北条時宗は、この合戦における死者を手厚く弔うため禅に帰依し、この地に寺を建立したと云う。
正式には「瑞鹿山大円覚興聖禅寺」臨済宗の古刹である。現在も山内に18の塔頭があり、人々の心の支えとなっている。
源実朝が中国から請来した仏舎利を納める国宝舎利殿を初め、1301年に鋳造された洪鐘(おおがね)も全国に数少ない国宝の梵鐘である。
仏殿は寄棟に茅葺屋根と花頭窓を持つ典型的な禅宗様式で、荘厳な佇まいを今に伝えている。
閑谷学校に興味をお持ちの方、お待たせいたしました。なんちゃって本当はオイラが思い入れひとしおなのであります。
細かい事はさておき、今回は学問の木と言われる「楷の木」を紹介します。閑谷学校と異なり、ここ湯島では大胆に剪定(枝打ち)された姿となっています。
これで毎年紅葉が美しいのなら、閑谷学校も同様な管理をしたらと思いましたので、老婆心ながら一筆
樹高は、閑谷=湯島で甲乙付け難いと思います。
庭園鑑賞に拘りをお持ちの方にジミー(地味)な情報
これも小石川後楽園に作られている景色の一つ。一般のお客様はほとんど興味を示さないが、大名庭園に多く配される田圃(広島の縮景園では有年場と名付けられている)もある。
写真で奥側にはしが見えるが、あれが知立の八橋で橋上からカキツバタを眺める。
実は東京にも縮景園がありました
尋ねましたるここ小石川後楽園には、木曾谷の名勝「寝覚ノ床」、愛知は知立の名所「カキツバタの八橋」「京は嵐山の渡月橋」等。そしてなんと縮景園で西湖を模したと云われる跨虹橋は、円月橋の名で園に配されていました。西湖堤も築堤される念の入れようです。
このお庭は水戸藩上屋敷に築かれたもので、初代頼房が手掛け、二代光圀(黄門様)によって完成されたと伝えられています。
写真で円月橋をどうぞ
後楽園の命名は岡山と同義で「先に憂いて後に楽しむ」だそうです
泉岳寺には浅野内匠頭や、大石内蔵助を初めとする赤穂義士、そして瑤泉院の墓もあり、私が訪ねた時も線香があげられていました。
江戸の人情もさすがですね。
浅野家の家紋が、違い鷹の羽であるのは皆さんご存知の通りですが、広島本家と赤穂分家では紋様に明確な違いがあるそうです。私も忠臣蔵講座で「梶ケ野弘美さん」から初めて教えていただきました。
どのように違うのかと云いますと、広島本家の紋は右の鷹羽が上、赤穂分家は左の鷹羽が上なのだそうです。
泉岳寺にある瑤泉院の墓石には赤穂分家の家紋が刻まれ、前に立てられた燈篭には広島本家の家紋が彫られています。
したの写真では分かりませんかね
ちなみに隣の内匠頭の墓石には当然の如く、赤穂部分家の家紋が刻まれていました。
意味がわかって使い分けられているのでしょうか
昨年12月14日:赤穂義士討ち入りの日から、今年2月4日:赤穂義士切腹の日にかけて、集中的に忠臣蔵講座を受講した。
単純なオイラの事、こうなるとすぐに現地探訪に出掛けたくなってしまう。思い立ったらまったくブレーキが掛からないのは、子供の時から何も変わっちゃいない。変な意味で一本筋が通っているのである。エッヘン
羽田空港から乗り換えずに行かれるので、おのぼりさん(この言葉は京都に行く時に使うのかな?)でも迷うことなく簡単でありがたい。
それなりの山門が出迎えてくれた。