日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「黄砂」が飛んできました。のどが痛いという学生があっちにもこっちにも。

2023-04-14 08:14:34 | 日本語学校
晴れ。

「柳青める北上の…」という歌がすぐに口をついて出てきそうなほどの、「ヤナギ」の「緑」です。中国では「玉」にたとえられたりするようですが、日本人には、ちょっと肌感覚が違うような。色よりも触った感じ、軽やかさに目が行くような気がします。

病院の植え込みには、ちょうど「スズラン」が真っ盛り。自転車を止めて見ている人もいました。そのそばに、名前を書いて差し込まれているのがあったりすると、たくさんあるその花の一つ一つが、「名乗り出ている」ようで、どこか微笑ましい。

さて、学校です。

関東地方にも、「黄砂」は飛んできているようで、昨日など、具合が悪いと言って二人欠席。席に着いている学生も(聞いてみると)、のどが痛いだの言っています。ただ、「黄砂」とは「何ぞや」で、説明しても、「はてな?」なのです。

大気汚染が進んでいる国や都市から来た学生にとってみれば、「(先生は)いろいろなことを言っているけれども、まだここの空はきれいじゃないか」というところなのでしょう。(排気ガスなどの)汚染と別に「何?黄砂?」。それとこれと、一体どう違いの?ということなのでしょうね。

日本人にとっては、洗濯物に匂いや埃が付くから、外に干せなくなるとか、うっすらと空が淀んで、青くないとかで、例年ですと、西日本の春の風物詩(…そう言いたくはないが)。それが今年は偏西風の影響で、東日本にやってきた…。話に聞いていた「これが黄砂か」で、大騒ぎなのです。

西の人間にとっては、春の終わりくらい、ちょうど「サクラ」の頃にやってくるので、いつだったか、「せっかくの『サクラ』が、黄砂にやられて、可哀想。今年の「サクラ」は桜色とはならなかった」という時もありましたっけ。まあ、「自然現象」といえば「自然現象」、「土を堀繰り返した報い」といえば、「報い」。「その土地の伝統的なやり方、生き方を尊重せずに、己がやり方」を「押しつけたその挙げ句の果て」がこれ。…と言えるかどうかはさておき、今年はいつもよりひどいようですから、大変です。

もっとも、何事であれ、「自然現象に過ぎん」と、ノホホンと構えていてはならぬわけで、そうにかせねばならぬのでしょう。

海に囲まれた日本でも、海の汚染というのが焦眉の急であった時代がありました。いや、まだその状態から脱却できたわけではない…そうで、永続する力、努力が、より一層必要であるとのこと。

そして、実際に行動を起こしているのは、その地に住んでいる民、人々なのです。

「森は海の恋人」という考え方が、今では、ごく普通のことになっていますが、以前はそうではありませんでした。山は山、海は海で、「山の民」と「海の民」とは、遠い遠い関係にありました。山のことを「海の民」は知らず、海のことを「山の民」は知らぬ。何が起こっても「我がこと」とはならなかったのです。それが、今では、「海の民」が、山の木々の間伐作業に出向いたり、植樹に励んだりしています。そうなると互いに力を合わせ、山を守ろう、海を守ろうとなってきます。

もっとも、こういう「知見」は専門家の間では、古くからあったのかもしれません。それが、その地に住んでいる人たちを突き動かし、自分たちの力で海を守ろう、山を守ろうとなったのには、それ相応の危機意識があったからに違いありません。その「危機を知る力」を身につけた人々は強い。

「お上の言うことを、ただ、口をあんぐりと開けて待っている」だけであったら、こういうことは起こらなかったでしょう。  

「民は由らしむべし。知らしむべからず」を、まだそう信じて疑わない国の首長もいれば、「知らしむべし」を実践できる国の首長もいる。その違いは何なのでしょうね。昔とは違い、為政者であれ、一般大衆であれ、その差は「情報量」だけと思っている日本人は少なくない。「知っているからできる」と「知らないからできない」でしかないのです。だいたい、為政者と民の能力に、大きな差があると思っている日本人は、ほとんどいないでしょう。向き不向きがあるくらいでしょうね。あとは為政者は「3バン」(「地盤」「看板」「鞄」)があって、なりやすいくらい…でしょうか。能力と考えている人は、よほどおめでたい人でしょう。

行動できないのは、その知識が無いからに過ぎない。為政者がそれをわかっていれば、「畏れる」ことを知り、「己の足らざる」を知り、つまり「限界」を知り、そして、人々に助けを求めることもできるのでしょう(この「知」がない人間ほど、人に頭を下げられない)。その上、そういう為政者は、ブレーンと言われる専門家集団か有識者集団かを持っているでしょうから、その「知」を施政に生かしていけば、その国の民にとっては「幸」、同時に他国から侮られることもないでしょう。

おそらく、民を信じることのできる為政者が、一番強いのでしょう。そのためには、やはり教育です。国民のレベルを上げること。学びたい人には学ぶ機会を提供し、知識を増やし、はっきりと自分の意見を言え、同時に譲るべき所は譲れるだけの度量を持つ国民を育てることが必要なのです。国民は「メダカ」であるのが一番いいというような為政者は困ります。

日々是好日
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