晴れ。
「花の盛り」というのは、こういうことを言うのでしょうね。「サクラ(桜)」の花が一つ一つの存在を忘れて、雲となっています。これも確かに美しい。けれども、七分咲きの頃のような、花が花びらまで感じられた…そのころの方が、桜としては幸せであったかもしれません。
道には昨日の風で飛ばされた花びらが少し重なっていました。春の終わりが近づいています…。
「サクラ」の花期が終わると、途端に忙しくなります。それを考えますと、「サクラ」が存在している限り、日本では、「年度」で区切るという考え方は消滅しないのではないかとさえ思われてきます。
グローバル化と言い、それですべての問題は解決できるかのように振る舞ったり、何でも欧米と同じにしないと「遅れてしまうぞ」と駆り立てようとしても、無理はどこかに出てくるものです。その無理が、人の心を蝕んだり、根無し草にしたりしてしまうと、何のための「先進」であるのかわからなくなってしまいます。
「改革」もソロリソロリとですね。急がば回れというように、日本の風土に根ざしながらの変革でないと、自分たちの文化を失った哀れな「富国の民」となってしまうかもしれませんもの。
便利さとか合理的なやり方とかいうものに、胡散臭さを感じ始めているのは、なにも私一人ではないでしょう。
さて、4日に来た学生達、昨日は元気でしたね。
4日には、荷物を置かせてからすぐに学校に来させて、諸注意やら、学習の程度とかの確認などをしたのですが、そのときと全く違いましたね。
4日には、頭が、眠くてボウッとしていたのでしょう、何を言ってもわからない…いえ、聞き取れていたように見えたのは、男子学生が一人(元気がよかったですね、体力があるのでしょう)と女子学生が一人。女の子は、だいたい「しゃべり」ですから、男子六人の中にあっても、存在感はあります。
ほかの男子は、(先生が)何を言っているのか、全くわからない…。目も虚ろという感じでした。
ところが、昨日は、学校に集めてから、先にサインをさせ、それからすぐに、(市役所の)支所へ(教員と先輩一人と一緒に)行ったのですが、そのとき(学校に来ていた時)の様子は、前日と全く違っていました。
日本語で答えることはできなくとも、何となくこちらの言っていることがわかっている、そしてそれに反応したいという風が見えたのです。ちょっと…ホッとしましたね。
あいにく、支所では2,30人ほどの団体に先を越され、何時間も待たされたようでしたが(何のための予約かわかりません)、学生達、戻ってきたときも、元気なのです。もっとも、「おなかがすきました」とは「喚いて」いましたけれども。
きっと待っている間、引率の教員とおしゃべりをして、少しは「日本人の日本語」の勘が掴めたのかもしれません。
戻ってきてからも、サインをするところがあったので、その説明を、連れて行った教員がしていたのですが、先輩のベトナム人学生が何も通訳をしないのです。注意すると「みんなわかります」。で、『みんなの日本語Ⅰ』が終わらずに来日している学生二人のうちの一人に、「わかりますか」。…全然わかっていない…。
「ほら、ちゃんと通訳する」。『Ⅱ』を終えていると、やはり違いますね。(口頭の練習は不十分であっても)単語を覚えたことがある、文法の説明をベトナム語で受けたことがあるというのは、強いのです。素地があれば、ドンドン上に構築していくこともできます。皆まだ若いですから、適応できるのです。
やはりベトナム人は、『Ⅱ』を終えてから来た方がいい。他の国の学生はそこまで要求せずとも、日本で勉強すればどうにかなるものなのですが、ベトナム人はなかなか、どうにもならないのです。
ベトナムでベトナム人の先生にベトナム語で、『初級』だけは教えてもらって、そして、日本に来てから、もう一度それをやり直すという形をとった方がいい。本当にそう思います、4日に来た学生達を見ていても。
まあ、それはともかく、昨日の話です。
そんなわけで、話を続けたのですが、それからは、教員が「わかりましたか」と問うたびに、「先生、○○さんはわかりません」などという輩がいる。リラックスしたのかもしれません。
言われた方は、別に意に介する風もなくヘラヘラと笑っている。同じ学校から来ていますからね、いいのでしょう。
昨日は、先輩の学生が、新入生のうちの一人をアルバイトの面接に連れて行くと言っていました。自分のアルバイト先へ連れて行くらしいのです。そういう流れができれば、私たちも安心です。もっとも、日本語ができなければ、「不合格」になってしまうかもしれませんけれども。
日々是好日
「花の盛り」というのは、こういうことを言うのでしょうね。「サクラ(桜)」の花が一つ一つの存在を忘れて、雲となっています。これも確かに美しい。けれども、七分咲きの頃のような、花が花びらまで感じられた…そのころの方が、桜としては幸せであったかもしれません。
道には昨日の風で飛ばされた花びらが少し重なっていました。春の終わりが近づいています…。
「サクラ」の花期が終わると、途端に忙しくなります。それを考えますと、「サクラ」が存在している限り、日本では、「年度」で区切るという考え方は消滅しないのではないかとさえ思われてきます。
グローバル化と言い、それですべての問題は解決できるかのように振る舞ったり、何でも欧米と同じにしないと「遅れてしまうぞ」と駆り立てようとしても、無理はどこかに出てくるものです。その無理が、人の心を蝕んだり、根無し草にしたりしてしまうと、何のための「先進」であるのかわからなくなってしまいます。
「改革」もソロリソロリとですね。急がば回れというように、日本の風土に根ざしながらの変革でないと、自分たちの文化を失った哀れな「富国の民」となってしまうかもしれませんもの。
便利さとか合理的なやり方とかいうものに、胡散臭さを感じ始めているのは、なにも私一人ではないでしょう。
さて、4日に来た学生達、昨日は元気でしたね。
4日には、荷物を置かせてからすぐに学校に来させて、諸注意やら、学習の程度とかの確認などをしたのですが、そのときと全く違いましたね。
4日には、頭が、眠くてボウッとしていたのでしょう、何を言ってもわからない…いえ、聞き取れていたように見えたのは、男子学生が一人(元気がよかったですね、体力があるのでしょう)と女子学生が一人。女の子は、だいたい「しゃべり」ですから、男子六人の中にあっても、存在感はあります。
ほかの男子は、(先生が)何を言っているのか、全くわからない…。目も虚ろという感じでした。
ところが、昨日は、学校に集めてから、先にサインをさせ、それからすぐに、(市役所の)支所へ(教員と先輩一人と一緒に)行ったのですが、そのとき(学校に来ていた時)の様子は、前日と全く違っていました。
日本語で答えることはできなくとも、何となくこちらの言っていることがわかっている、そしてそれに反応したいという風が見えたのです。ちょっと…ホッとしましたね。
あいにく、支所では2,30人ほどの団体に先を越され、何時間も待たされたようでしたが(何のための予約かわかりません)、学生達、戻ってきたときも、元気なのです。もっとも、「おなかがすきました」とは「喚いて」いましたけれども。
きっと待っている間、引率の教員とおしゃべりをして、少しは「日本人の日本語」の勘が掴めたのかもしれません。
戻ってきてからも、サインをするところがあったので、その説明を、連れて行った教員がしていたのですが、先輩のベトナム人学生が何も通訳をしないのです。注意すると「みんなわかります」。で、『みんなの日本語Ⅰ』が終わらずに来日している学生二人のうちの一人に、「わかりますか」。…全然わかっていない…。
「ほら、ちゃんと通訳する」。『Ⅱ』を終えていると、やはり違いますね。(口頭の練習は不十分であっても)単語を覚えたことがある、文法の説明をベトナム語で受けたことがあるというのは、強いのです。素地があれば、ドンドン上に構築していくこともできます。皆まだ若いですから、適応できるのです。
やはりベトナム人は、『Ⅱ』を終えてから来た方がいい。他の国の学生はそこまで要求せずとも、日本で勉強すればどうにかなるものなのですが、ベトナム人はなかなか、どうにもならないのです。
ベトナムでベトナム人の先生にベトナム語で、『初級』だけは教えてもらって、そして、日本に来てから、もう一度それをやり直すという形をとった方がいい。本当にそう思います、4日に来た学生達を見ていても。
まあ、それはともかく、昨日の話です。
そんなわけで、話を続けたのですが、それからは、教員が「わかりましたか」と問うたびに、「先生、○○さんはわかりません」などという輩がいる。リラックスしたのかもしれません。
言われた方は、別に意に介する風もなくヘラヘラと笑っている。同じ学校から来ていますからね、いいのでしょう。
昨日は、先輩の学生が、新入生のうちの一人をアルバイトの面接に連れて行くと言っていました。自分のアルバイト先へ連れて行くらしいのです。そういう流れができれば、私たちも安心です。もっとも、日本語ができなければ、「不合格」になってしまうかもしれませんけれども。
日々是好日