まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11回四国八十八所めぐり~愛ある伊予灘線

2017年09月08日 | 四国八十八ヶ所
・・・何だかすっかり「四国半周記」のついでに札所の記事があるような文章になったが、もうしばしお付きあいお願いします。

19日午後、伊予大洲駅に戻る。後は松山までどう戻るかということで選んだのは、予讃線の長浜回り。今は特急はすべて内子を経由するので、長浜回りは紛れもないローカル線と言っていいだろう。ただ最近は、伊予灘沿いに走る風情が人気のようで、観光列車の「伊予灘ものがたり」は連日満席御礼である。ちなみに、今回の四国めぐりの途中で、1ヶ月先の列車に空席があるか駅で聞いてみたのだが、1ヶ月先はちょうど連休ということもあり、松山~伊予大洲・八幡浜間の2往復4本の列車ともほぼ満席だった。

その人気の象徴とも言えるスポットが、途中の下灘駅である。海を見下ろす、海に近い駅として過去には青春18きっぷのポスターにも登場したし、今は一般の観光客にも知られるようになった。先日、私の勤め先の上司が愛媛県に旅行した時、地元のお知り合いにわざわざこの駅にも案内してもらったという。そんなことなどあって、松山までは「愛ある伊予灘線」の愛称を持つ長浜回りで行き、下灘駅にも降りてみることにした。伊予大洲14時09分の長浜回り松山行きに乗ると、15時07分に下灘着。下灘で一本後の16時20分発の松山行きに乗ると17時10分に松山に着く。なお、大阪まで戻る高速バスは松山駅前を17時30分に出る。松山滞在がわずか20分とは、往路の夜光バスで高知駅前に着き、すぐに窪川行きの列車に乗り込んだのと同じくらいの慌ただしさである。夕食の買い物くらいならできるかな。今回、起点と終点の二つの県庁所在地駅はほぼスルーすることになるが、それもまたよいか。どうせ松山市内はこの次以降に回ることになるし・・。

八幡浜方面からやってきたのはキハ32という小ぶりな車両。学校帰りや、「愛ある伊予灘線」目当ての客でロングシートが埋まり、立つ人も出る。私はロングシートの先頭部に座り、これなら首を後ろに向けると海が見える。

その海に出るにはしばらく距離がある。まずは大洲の町を抜け、先ほど訪ねた十夜ヶ橋の辺りを遠くに見て、内子方面と分かれる。次は五郎。正に人名のような駅名だが、その昔大洲藩にいた陶工たちの名前が地名になったという。野口五郎がかつて人気だった時には名前が同じということで入場券がよく売れたとか。ただ、今の五郎駅は無人駅で、ホームには野口五郎ではなくタヌキの像がお出迎え。この辺りは野生のタヌキが出るそうである。

学校帰りの生徒たちが駅ごとに降りる中、付いたり離れたりして流れるのが肱川である。下流なのだが両岸には山が迫っていて、平地が広がるわけではない。ようやく少し開けたかなと思うとそこが河口部の伊予長浜。ここで18分停車となる。列車にトイレがないぶん、ここがトイレ休憩も兼ねている。ワンマンの運転手も「トイレはこちらで」と案内する。

そして停車時間が終わろうとする頃に、「伊予灘ものがたりの通過を待って発車します」とのアナウンス。向こうから赤く塗られた気動車がやって来た。車内からカメラやスマホを向ける人、列車からも手を振って応える(ように見えた)人、ほんのわずかなすれ違いの時間だったが、次はこちらの鈍行列車が伊予灘に向き合う番である。

そしてこの景色。今回、黒潮~宇和海と見てきて、伊予灘という瀬戸内の穏やかな海に初めて出会った。四国八十八所をめぐる車窓も、ここで次のページに変わったなと実感する。この後は瀬戸内側を香川まで回ることになる。

・・・そうして伊予灘を見ながら走る列車は下灘のホームに差し掛かる。さて下車しようかと腰を浮かせて・・・次の瞬間にその腰を下ろした。下車せずそのまま乗り続けることにしたのだ。

それは下灘駅の様子にあった。ホームには多くの「見物客」がいて、列車にも大勢の客が乗り込んで来る。そう、下灘駅はローカル線の風情なんてものはなく、完全に観光スポットとなっていた。まあ、夏休み時期ということもあり、この瞬間だけを切り取るのも良くないのだが、これなら下車しないほうがいいなと思った。無理に降りて人の多さにイライラするくらいなら、ここはスルーして先に行ったほうがいいだろう。まあ、時期を考えずに私が勝手にイメージを膨らませていただけのことで、訪ねた人たちは何も悪くないことだ。

結局そのまま松山まで乗る。下灘駅は期待が大きすぎたとしても、それを除くと肱川や伊予灘の景色は晴天の下で十分車窓から楽しむことができたし、このルートでよかった。

最後は松山坊っちゃんスタジアムのある市坪を過ぎる。球場じたいは何回か来たことがあるが、この「四国八十八所プラス四国アイランドリーグ」という私のミッションの中で来ることがあるだろうか・・・?
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第11回四国八十八所めぐり~別格8番「十夜ヶ橋」

2017年09月06日 | 四国八十八ヶ所
「ゆきなやむ 浮き世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋と思ほゆ」

弘法大師が詠んだとされる歌がある。諸国救済で回っていた弘法大師はこの伊予大洲にもやって来た。一夜の宿を求めたが、当時は今のような城下町でもなく、また農繁期ということもあり土地の人たちもその余裕がなかった。弘法大師は仕方なく、小川にかかる橋の下で一夜を明かしたのだが、さすがに空腹である。「飯食うかい」とはいかず、一夜が十夜のように長く感じられ、えらい目にあった・・・という意味とされる。これだけなら単なる弘法大師のボヤキの歌である。どうも、馬方に積んでいた鯖を一匹くれと頼んだが断られたのにキレて馬を動けなくしたり、たまたま宿と食事にありつけなかったからと橋の下でぼやいたり、弘法大師と言えども結構食い物の恨みは恐ろしい。

・・・という感想だけで片付けてはいけないようだ。この歌の深いところには次のような意味がこめられているそうだ。世の人は日々の暮らしで手一杯で、自分のことを考えることもできず、迷いと悩みばかりである。自分は野宿という艱難辛苦にあったとしても、この人たちを悟りの世界、日々充実した生活に導くにはどうすればよいか、それを考えると一夜が十夜のように長く感じた・・・という意味だという。この「長く感じた」というのは、「少年老いやすく学成りがたし」という感じで、弘法大師も苦悩したところなのかもしれない。

それを聞いた大洲の人たちは、 人々のことをそこまで思ってくれていると感謝して、橋の下に横になる大師像を祀った。このことからこの橋には「十夜ヶ橋(とやがばし)」の名前がつけられたという。

四国めぐりの「ルール」の一つに、「橋の上では金剛杖を突いてはいけない」というのがある。ガチの歩き遍路の方なら実践されているだろうし、私も歩くところで橋に出会ったら杖は地面から浮かせている(はずだ)。このルールができたのも十夜ヶ橋だという。お大師さまが橋の下でお休みのところを妨げてはいけないから、ということである。もっともこのルールができた背景として広く解かれているのが、昔の橋は板切れを川に渡しただけのもので、杖を突かれると橋が傷んで仕方がないから・・・というものである。今の道路事情なら木の杖のほうがコンクリートに負けるので、現実には意味がないことなのかもしれないが、伝承というのはそうしたものである。やはり、橋の上では杖を突かないでいいのだと思う。弘法大師が寝ている橋の上で杖を突いて「人が飯も食えずに寝とんのに、じゃかぁしぃんじゃあボケぇ!!」・・・とリアルに言われるのも一興かとは思うが・・・。

そろそろ話を紀行文に戻す。てなわけで大洲では臥龍山荘や大洲城に加えて、この十夜ヶ橋に行くのが目的だった。駅から歩くと1時間はかかるところで、キャリーバッグを転がすのもどうかという位置にある。その中で、町の中心部を回るコミュニティバスが十夜ヶ橋にも行くことがわかり、町歩きのプランと合わせたのである。まちの駅「あさもや」を11時08分に出発し、いったん伊予大洲駅に立ち寄る。そのまま乗り続け、国道56線に出る。郊外の町のご多分にもれず、昔ながらの商店街の活気が失われているとかシャッター通りと言われる一方で、幹線道路沿いの駐車場完備の大型店は賑わっているし、道路は混んでいる。先の記事で、大洲城跡の横にコンクリート造りの市民会館が建てられていたのにがっかりした司馬遼太郎・・に触れたが、ロードサイドに大型店が並ぶ現況を見たらどのような印象を持っただろうか。

そんな中で、コミュニティバスはクルマを持たないお年寄りや学生たちの足として活躍しているようで、どこまで行っても1回100円というのもあって結構乗っている。オズメッセ21というショッピングモールを過ぎ、大洲インターの下をくぐって、フレスポという大型スーパーの前のバス停で降りる。地図を見ると国道を100メートルほど戻ったところが十夜ヶ橋である。

そしてやって来たのがこの風景。今は国道56線、大型トラックを含めて車両がひっきりなしに行き交う。十夜ヶ橋の標識は出ているが、知らなければ一瞬で通過する橋である。

で、十夜ヶ橋が十夜ヶ橋である所以は橋の下である。橋の松山側のたもとから橋の下への階段があり、そこを下りると一つの空間があった。横になり、布団を掛けられている弘法大師像。この記事の初めに紹介した歌の碑文もある。お参りする人が絶えないのか、線香やろうそくを使った跡も時間の経過を感じさせないし、全体的に「保たれている」感じがする。

100メートルならと、バス停からキャリーバッグも引いてきたが、ここはお勤めである。金剛杖をケースから出し、笈摺を羽織る。真上は国道56線でクルマの通過音が止まないが、橋の下で日陰だし、わずかながらも川面を風が抜けるので悪くない。

そんなクルマの音や暑さよりも鬱陶しかったのが、ハトの群れ。橋の下にハトの群れがいるのも理由があり、この川にコイの群れがいる。コイのエサが入った箱があり、料金を賽銭箱に入れるとエサやりができる。エサは箱からアルミの器ですくって取り出すので、そのおこぼれを狙うハトが集まると。せっかくなので私もエサを買い、まずはハトを向かわせるように土手のほうに撒く。ハトがそちらに行った後で、口を開けて集まってきたコイに向けて撒く。水面がばしゃばしゃ言う。寝ている弘法大師の前でコイやハトの餌付けとはね。

「ワシにもくれ」・・・え、何かおっしゃいましたか?コイのエサ空海・・・もとい食うかい?

この十夜ヶ橋の別格札所は現在は永徳寺というところが管理していて、橋の大洲市街側にお堂がある、永徳寺そのものは少し離れたところにあり、こちらは十夜ヶ橋サテライトのようなものだという。橋の下では見かけなかったが、国道沿いの敷地には歩き、クルマ、自転車というさまざまな形の猛者たちがいた。そんな中にコミュニティバスで乗り付けた形になったわけだが・・・せっかくなので、八十八所の納経帳の余白のページにご朱印をいただいた。

この後でフレスポに戻り、コミュニティバスで伊予大洲駅まで戻る。次に乗る列車まで1時間半ほどあるが、だからといってバスを次の便にすると今度は列車に間に合わない。ここは駅で待つほうを選んだ。

駅から少し歩くと愛媛、広島に展開するフジグランがある。この中にレストランがあり、昼食とする。メニューに今朝通りすぎた八幡浜のちゃんぽんがあり、それを注文。長崎のちゃんぽんとは一味違って瀬戸内、豊後水道の魚からの出汁をベースにしたものだという。まあこんなものかという感じだった。食後はフジグラン店内の売り場やフリースペースで涼ませていただいた。

次は松山までの列車に乗るが、伊予大洲から松山には二つのルートがある。一つは、昔からの予讃線で、海沿いを走る。ただこのルートは遠回りだとして、内陸の内子を通る内子線ルートというのがある。現在、特急は全て内子線ルートを通る。一方、取り残された感のある予讃線ルートは、海沿いのひなびたローカル線として人気を集めている。途中の下灘駅が人気スポットとなったり、このルートを走る観光列車「伊予灘ものがたり」は連日満席の人気である。

・・・という中で私が乗るのは・・・海沿いの予讃線、通称「長浜回り」である。何なら人気の下灘駅で途中下車も可能だが、さてこの後私はどう動いたのやら・・・?
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第11回四国八十八所めぐり~臥龍山荘、大洲城

2017年09月05日 | 四国八十八ヶ所
伊予大洲の中心部にあるまちの駅「あさもや」の観光案内所に荷物を預け、しばらく大洲の町歩きとする。肱川の南は江戸時代は大洲藩の城下町として栄えたところである。また四国の遍路道も大洲の城下町を経由している。

「あさもや」のすぐ横が「おはなはん通り」と呼ばれる歴史的な町並みである。江戸時代、明治時代の面影を残すということで、NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」のロケ地となり、観光スポットとなったところ。この作品、今から50年以上前のことであり私はピンと来ないのだが(かと言って、今もテレビドラマを見る習慣がないので、最近の作品のロケ地だとしてもそれほど興味を示さないだろうが)、通りとしては小ぢんまりとした中でも落ち着いた感じである。これについてウィキペディアで見た記事では、原作、モデルというのは徳島の人だったのだが、徳島の町が空襲で焼かれてロケ地に適した場所がなく、古い町並みが残っていた伊予大洲が選ばれたという。

ただ、その大洲も50年前の朝ドラだけでは観光としてやっていくのは難しいだろう。その「おはなはん通り」のすぐ横の通りも昔の風情を残す町並みとされているが、中には老舗の菓子屋もあるものの、人が住んでいるのかわからないような古さの家屋だったり、廃屋として壁がはがれたまま放置されている家屋、また家屋そのものも取り壊されて更地になっているところもある。町並みを維持するというのは難しいものだなと思い、例えば10年後に訪れた時には様子も変わっているかもしれない。

そんな中を歩いて着いたのが肱川に面した臥龍山荘。観光名所としてはこちらのほうが推されている。昨年には国の重要指定文化財にもなった。玄関から入るとここではリュックも預かっていただく。朝9時だがかなり暑い。受付にうちわもあり、それをバタバタやりながらの見学である。

臥龍山荘は大洲藩の加藤氏の庭園なのかなと思っていたが、造られたのは明治だという。大洲で木蝋の貿易で財を成した河内寅次郎という人が、構想10年、施工4年の歳月をかけて建てたものである。「臥龍」というのは、肱川を挟んだ蓬莱山が龍の臥す姿に似ていることから取られた名前である。その母屋の臥龍院には、清吹(せいすい)、壱是(いっし)、霞月(かげつ)という3つの部屋があり、それぞれに意匠が凝らされている。それぞれの部屋でCDによる案内や、係の人がついて説明をしてくれる。その中でも書院造の座敷である壱是の間は、どこからでも庭園が眺められるよう工夫がこらされており、その眺めにもうなるところである。

大洲は伊予の小京都と称されているが、盆地の地形で、夏暑く、紅葉が美しく、冬は愛媛県ながら雪が積もることもある。その辺りは京都にも似た気候で、この臥龍山荘も京都のどこかの別荘に置いてもかなりの魅力的なスポットになるのではないかと思わせる。

庭を抜け、その先にある不老庵を見る。肱川にかかる崖の上に建てられたもので、建物半分が川面の上にせり出している。覗き込むとなかなかスリルがある。他に客がいないのをいいことに畳の上で少しゴロンとすると気持ちいい。

そろそろ出るかと玄関のほうに向かう。ちょうどバスツアーらしい団体客が入ってくるところで、早めに入っていてよかった。

続いて町並みを抜け、これも同じく肱川沿いにある大洲城に向かう。天守閣がそびえるが、これは江戸時代のものではなく再建されたもの。その再建も、2004年という。昭和どころか平成、さらには21世紀に入ってのものである。また驚きなのは、これは主に町の人たちの寄付によって建てられたということである。

大洲城は、前日訪ねた卯之町と同じく、司馬遼太郎が『街道をゆく』で賞賛された町である。ただし、大洲城のすぐ横にコンクリート造りの建造物があることについて実に不快である旨を記している。おそらく、石垣の下にある市民会館がそうだろう。私が見る限りでは特段目立つものでもないし、城跡の一部を公共施設の用地として使うのはよくある話だから別に何とも思わず写真も撮らなかったのだが、昭和の高度成長期の中で地方の形が次々に開発のため変わりつつある姿を見た司馬遼太郎には我慢がならなかったのだろう。もっとも、司馬遼太郎が取材した当時は新しい開発の象徴だったかもしれないこの建物も、今となっては古びた感じで、今後近い将来、この建物をどうするのかが気になる。このまま残すのか、真新しく建て替えるのか。

それよりも大洲の人たちは新しくできた天守閣のほうが大切なのだろう。また観光客も多く訪れていた。かつて登城で使われたであろう道も今は舗装されており、坂道を上る形で天守閣前に出た。見学は臥龍山荘との共通券で入ることができる。再建されたのは外側だけでなく、中についても昔の設計図や史料を元にしており、靴を脱いでスリッパに履き替える。再建された2004年といえば近鉄、オリックスの球団合併に端を発した「球界再編」の年であり(どういうところからそういう連想になるか)、それから10数年、城としてはまだまだ「新築」の部類に入るだろう。梁や柱で使われている木もまだ新しいし、壁もまだ白い。一方で急な階段は昔ながらの角度で、あまり急なものだから「スリッパはここで脱いでください」とある。前日訪れた宇和島城も、築城当時はこのような感じだったのかなと思う。大洲城から見れば、この先宇和島城くらいの年季が入るようになるまで長持ちしてほしいところである。

天守閣の最上階に立ち、肱川や大洲の町並みを見る。もし司馬遼太郎が現在も生きていて、この天守閣に上って今の大洲の町並みを見たら、どういう感想を持つだろうか。

これで大洲見物はとりあえず終わりにして、歩いて朝方立ち寄ったまちの駅「あさもや」に戻る。ここで、預けていた荷物と金剛杖を受け取り、コミュニティバスを待つ。11時08分発のバスに乗り、大洲駅に戻る。ただしここで下車せずにそのまま乗る。大洲でもう一つ訪ねたかった場所があり、それにはこのバスが手ごろだからというところで・・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~宇和島「がいや」

2017年09月04日 | 四国八十八ヶ所
高校野球の熱戦を見て野球の面白さを改めて感じたところで、そろそろ夕方となる。早い時間ではあるが夕食に向かうとする。グランドホテルの表通りを駅とは反対方向に5分ほど歩いたところにある「がいや」。「外野」ではなく、土地のことばで「すごい」という意味である。宇和島の居酒屋では上位の人気店だという。早い時間から満席になるという情報もあり、17時の開店直後に入る。カウンターが空いていたので無事に座れたが、奥の方からは早くも歓声が挙がっている。

カウンターの内側で調理をするお兄さんから「どちらから?」と声をかけられる。八十八所めぐりや野球観戦をしたという言うと「それはそれは、宇和島はいいところでしょ?」と。お兄さんは地元の産まれではなく、福岡のほうから縁あって宇和島に来て間もないとのことで、「宇和島城もこの間初めて上ってきた」という。大阪や東京から見ると、宇和島というのは愛媛の西の果てのイメージがあるが、九州の方から見ればむしろ四国の玄関口のように思えるといい、単純なことだがちょっとした気づきである。

ここは純粋に魚をいただこうと刺身の盛り合わせを注文。運ばれてきたのは五合枡に盛られた一品。「これもがいやの売りでして」と、大皿や舟盛りとはまた違った見た目の面白さを感じる。これが「大」がと一升枡になる。そしてこれにあてるのはキリン一番搾りの「愛媛に乾杯」。昨夜は球場で夜風に吹かれながら「愛媛に乾杯」の缶ビール、そして今夜は宇和島の店での「愛媛に乾杯」。みかんの栽培が盛んな愛媛らしく、ほんのり柑橘系の味が入るのが特徴である。

そうするうちに次々と宴会予約や地元の人、旅行者らしき人も次々とやって来て、店内も賑やかになった。厨房のお兄さんもさすがに次々と注文が入って忙しくなる。

この他にじゃこ天やその他の一品をいただいた後で、締めはやはり郷土料理の鯛めし。これで「夜の八十八所」のほうも大満足である。

しばらく外を散歩する。山の上に照明が灯っているのが見える。前夜訪ねた丸山公園野球場で、今まさに熱戦中というところである。商店街にも愛媛マンダリンパイレーツの宇和島3連戦のポスターが貼られていたのを見たが、後で公式記録を見たところでは、18日の試合は7対0で愛媛が香川相手に快勝、観客は286人とあった。金曜の夜だから仕事帰りにもう少し観客がいてもいいのではと思ったのだが・・・。ただかくいう私も一杯入った状態で今から球場まで歩くのも面倒で、そこはまたの機会を楽しみにすることに。

・・・さて翌19日。今回の四国めぐりの最終日である。チェックアウト時、これまで着た衣類など荷物の一部をホテルから宅配便で自宅に送る。キャリーバッグはそのまま手に持ち、その代わりにリュックの中身を減らす。この日は伊予大洲に移動し、町並み見物や別格霊場を訪ねた後で松山に出る。松山から夕方の高速バスで大阪に戻るというもの。とりあえず今回松山までを押さえておけば、次回以降は大阪から直接松山にアクセスできる。

乗ったのは前日卯之町まで利用した7時38分発の特急宇和海6号。今度は「四万十・宇和海フリーきっぷ」を使っての乗車である。往路、高知から窪川までは鈍行で移動したから、特急自由席利用の恩恵を受けるのは初めてである。今回のルートはまさにこのきっぷに沿っており、十分元が取れているし、旅の形としてもまとまったなと思う。

17日の午後から何やかんやで滞在した宇和島に別れを告げて、宇和海とみかん畑の車窓を見る。前日訪ねた卯之町も過ぎて、ここからまた四国一周の新たな区間となる。

この後八幡浜を過ぎる。当初の計画では、伊予大洲に行く前にここでの下車も考えていた。その目的は「吉蔵寺」。前回、37番の岩本寺を訪ねた時の記事でこの寺について触れた。明治~大正のある時期、岩本寺から本尊と札所の権利を買い、「37番」を名乗っていたところである。九州からの巡拝者は航路で八幡浜に上陸して遍路を始める人が多かったこともあり、境内にはそうした人たちの石碑もあるそうだが、現在「奥の院」を名乗るわけでもなく、納経もやっていないそうである。・・というか、四国八十八所の「黒歴史」とも言える形で扱われている。あえてそういうところも回ってもいいかなと思ったが、駅からも離れているし、あえて途中下車して行くほどのところかなという思いのほうが強かった。また、訪ねることもあるだろう。

肱川の鉄橋を渡り、8時25分、伊予大洲に到着。ここから町歩きとなるのでキャリーバッグは預けて・・・と思ったが、ガランとした待合室にはコインロッカーなどない。まあ、四国の駅の事情はこのようなものである。

伊予大洲ではまず町歩きだが、町の中心部は駅から2キロほど離れている。そこは、市内の循環バスである「ぐるりんおおず」というのがある。1乗車100円均一で、次は8時35分発の便がある。これで町並みの中心部、観光案内所のある「あさもや」まで移動する。観光案内所にもコインロッカーはなかったが、カウンターで聞くと無料で荷物を預かってくれるという。キャリーバッグに金剛杖も預け、身軽になった大洲の町歩きとする・・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~宇和島郷土料理と宇和島城

2017年09月03日 | 四国八十八ヶ所
8月18日の午後は宇和島の町歩きとする。とは言ってもこの暑さ、遠くに行こうとは思わない。町の中央にある宇和島城に行けばいいかなという気持ちである。

その前に昼食である。宇和島での食事と聞いて思い浮かべるのは、鯛めしにさつま汁である。昔に読んだ鉄道紀行作家の宮脇俊三の作品に『途中下車の味』というのがあり、宇和島を訪ねるくだりでさつま汁が登場する。それを読んで「宇和島に来たらこれ」という感じで以前に食べたことがある。ただ、ものの本を見る限りでは、宇和島の代表的な郷土料理といえば鯛めしに軍配が上がるようだ。鯛めしは前々日に愛南町で食べたが、宇和島に来ればもう一杯というところである。

というわけで駅前を歩くとやってきたのは「かどや」。創業50年の老舗である。訪ねたのが13時すぎということで待つこともなく通される。

ここで選んだのが「伊達御膳」。先ほど書いた鯛めしにさつま汁の両方が味わえるもので、これに他の郷土料理がついてくる。見た目も豪華である。

鯛めしとさつまは最後にするとして、まずはビールをやりながら一品ものをつまむ。じゃこ天は定番として、他にも海の幸を生かした一品がある。さっぱりした食感の鯵の南蛮漬け、ふくめん(糸こんにゃくにねぎやそぼろをかぶせて乗せたもの)、フカの湯引き(クセなくいただけた)、丸寿司(シャリの代わりに固めたおからに酢締めの魚を乗せたもの)というところ。伊達のお殿様はこういうのを食べていたのかなと勝手に想像するのもいい。

そして二枚看板の鯛めしとさつま汁。これを交互にいただく。さつまのほうは、白身魚をすりおろして麦味噌を加えた「汁」がすでにかかった状態だが、麦とろ飯のような感じで夏の暑い時季にもスルスルといただける。そして鯛めしは玉子を溶いた出汁に鯛の切り身をなじませていただく。いずれも美味しいのだが、やはり見た目の鮮やかさや食べ方のバリエーションという点で、鯛めしに軍配が上がるのかなということも感じられた一時だった。

・・・昼食がこんな感じだったので、暑い中の町歩きも軽いものになる。やはり楽なほうへ楽なほうへと行ってしまう。「宇和島きさいやロード」というアーケードを見つけると迷わずそちらを歩く。いたるところに牛鬼のお面がある。

そしてやって来た登城口。手には朝から持っている金剛杖があるが、さすがにこのくらいの石段ならと、ケースにしまったまま上る。

そしてやって来た本丸。築城の名手と称された藤堂高虎の手によるものである。この高虎、あちらこちらの築城を手掛けるものの、完成したかと思うと次の領地に移されているイメージがある。時の権力者があえてそうしたのか、あるいは自分が住むことには執着しない根っからの築城マニアだったのか。現存する小ぶりな天守閣は伊達氏の手によるものだそうだが、全体の構造は「高虎作品」という。

天守閣に上がる。急な階段を上って最上層に着き、周囲を見渡す。前日訪ねた龍光院や丸山公園野球場もはっきり見える。

それにしても、町の真ん中に、周囲を見渡すように城が建てられているが、ここだけこんもりと丘の地形なのはどういうわけだろうか。町中の平城ではなく、平山城のほうにカウントされるだろう。上手い具合にこういう地形があったのだろうが、だとすれば宇和島の町というのは大昔は海の底で、今の宇和島城とは、元々は海上に顔をのぞかせる小島の地形だったのかなと思う。それが今の地形になり、周囲を見渡すのに絶好の地ということで城ができたのかなと思う。

宇和島の町歩きの標準コースなら、この後は天赦園や伊達博物館など回るところだろうが、この日の私は宇和島城に上ってよしとして、またアーケードに戻る。途中書店をのぞいたりもしたが、15時過ぎには連泊中の駅前のグランドホテルに戻ってきた。夜は夜で宇和島の居酒屋に行くつもりで、それまでしばらく休憩のつもり。テレビをつけると高校野球、鹿児島の神村学園と大分の明豊の試合である。

・・・高校野球ファンの中には、この試合が今大会屈指の大接戦だったと覚えている方も多いだろう。テレビをつけた時は終盤、5対2で明豊リード。そして迎えた9回表の土壇場で神村学園が3点を取って5対5の同点とする。その後延長戦となり、12回表に神村学園が3点を挙げて8対5。これは最後に粘った神村学園の執念やなと感心した。

それが、追い込まれた明豊がその裏に同点として、その勢いのままサヨナラ勝ち、9対8で試合終了となった。両校の応援席の表情もアップダウンが激しく、これは大変な試合だったなと思う。大会としては花咲徳栄の優勝、広陵の中村選手の新記録がメインだが、終盤の試合のもつれとなると神村学園対明豊がすごかった(・・・と、旅先のテレビで見ただけに余計印象に残る)。

この18日は、以前の記事でも書いた四国アイランドリーグの愛媛対香川の次の試合が行われていたが、ナイター観戦はパスして宇和島の居酒屋で味わうこととする。グランドホテルから少し南に行ったところで・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~卯之町の家並みと開明学校

2017年09月02日 | 四国八十八ヶ所
明石寺~愛媛県歴史文化博物館と来て、卯之町の町並みに下りて来た。平日とあってかそれほど観光客がいるわけではないが、町歩きを楽しむ人たちがいる。金剛杖を持つ姿を珍しそうに見る人もいる。

卯之町は昔は西園寺氏の城下町だったのが始まりだそうだが、やがて西園寺氏が拠点を別に移し、江戸時代に宇和島藩の治世になった時に在郷の町として整備された。町のジャンルとしては何だろう・・・明石寺の門前町とも言えるし、宇和島への街道の宿場町とも言える。改めて昔のメインストリートに立つ。両側には妻入、平入などさまざまな造りの家が並び、白壁や卯建、格子が目につく。店は現役の酒屋だったり旅籠もあるが、土産物店や飲食店などうるさい感じでないのがよい。普段の生活感があるように見える。

そんな町の中心に格式ある一軒がある。江戸時代から続く松屋旅館。看板とともに、かつてはさまざまなお歴々が宿泊したことが記されている。いくつか挙げると・・・前島密、新渡戸稲造、犬養毅、浜口雄幸、尾崎行雄(元東映の投手でないほう)、後藤新平など。それに伊達のお殿様も加わる。格式高く、宿泊などおそれ多い気もするが、他の方の旅のブログなど拝見すると、中はお歴々の書や額もあるが、現代風に改装した箇所もあるし、価格も超高級までいかないそうである。むしろ素朴な、昔懐かしいおもてなしというこで、遍路で利用する人もいるとか(ちなみに系列にはビジネスホテルもある)。それよりも、さまざまなお歴々がこの卯之町にやって来て宿泊する目的が何だったのかと思う。

この町には四国最古の小学校である開明学校の校舎が残されている。卯之町で学校というと、長い廊下を雑巾がけで競う光景を思い浮かべる方がいるかもしれないが、それとは別である。やはり学問が古くから盛んだった地にお歴々が引かれる何かがあるのだろう。その手前に宇和民具館があり、開明学校と共通の入館券を売っている。ここでリュックを預かってもらい、先に見学する。

民具館は文字どおり土地に古くから伝わる工芸品や生活用具が並ぶ。それを過ぎて目を引くのが「栄座」の看板と模型。昭和40年代まで卯之町にあった芝居小屋で、昔の看板も飾られている。看板は昭和20年代のものが目立つが、このくらいの年代物を見ると、今もご存命の役者さんは何人いるのかな・・?と見てしまう。あるいは、今は大御所とか呼ばれている方々が役者の走りでまだチョイ役だったのを見つけるとか。

その奥には司馬遼太郎の写真である。司馬遼太郎、卯之町というと、熱心なファンの方々なら『花神』と答えるだろう。主人公は村田蔵六、後の大村益次郎だが、卯之町には二宮敬作やシーボルトの娘・イネが登場する。また、『街道をゆく』でも卯之町を訪れ、同行の須田剋太画伯も町並みの姿にうなったという。『花神』はさておき、『街道をゆく』の当時は、日本国内のいたるところが開発の波にさらされていた時期である。その中で卯之町礼賛とも読める一節を書いたのは、そう書かせるだけのものがあったということだろう。

展示室は町並みの格子の家に続き、その奥は収納庫である。見学ルートに収納庫って・・・と思うが、雑然とした中にもありのままの保存を見ることができてこれはこれで面白かった。

民具館を出て向かいの開明学校に入る。明治の校舎が今は教育に関する資料館として整備されている。先の二宮敬作に関する展示もあるが、ここは教科書や通知表というナマの学校関係のほうが興味を引く。この開明学校は長野県松本市の開智学校と昔からの校舎ということで提携していて、資料の中には開智学校から出展されたものもある。他には年代ごとの教科書も並ぶ。この手の資料展示を見ていつも思うのが、特に戦前の国語教育である。昔の漢文素読の名残があるのだろうが、文体や漢字の使い方を見ると、現代の小学生をはるかに上回る「国語力」の高さを感じる。子どもたちの中で国語は得意科目だったのか苦手科目だったのかはわからないが、私個人の感想としては、現代こそこのくらい、いやもっと「正しい(とされる)」国語を教えなければならないのではないかと思う。

開明学校にはかつての教室を再現したコーナーもある。当時の小学生の机や椅子・・・私にもそういう体型の頃があったよなと苦笑いする。

長い廊下で雑巾がけの旧校舎にも歩いて行ける範囲だが、そこはいいかと卯之町駅に戻る。宇和島行きの鈍行があり、これに揺られて宇和島に戻るとする。愛媛西部の鈍行用車両はキハ54、またはキハ32という、国鉄末期~JR発足当初に造られた車両がほぼ全て。最初からワンマン運転が前提で、車内は全てロングシート。JR四国から製造した車両はロングシートとクロスシートが互い違いに並ぶ構造だったが、松山から西の予讃線に予土線はこんな感じの扱いで・・・。

行き違い停車を長く取りながら宇和島に到着。時刻は13時を回っているが、昼食がまだである。宇和島に来たからには、やはり名物の一品をいただきたい。そう思って駅前に出る・・・。
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第11回四国八十八所めぐり~愛媛県歴史文化博物館

2017年09月01日 | 四国八十八ヶ所
明石寺にお参りして坂道を下り、再び別の坂道を上って到着した愛媛県歴史文化博物館。通常、この手の博物館といえば松山市内にでもあるイメージだが、松山からかなり西に来た西予市にあるというのが独特である。四国めぐりの中で県立の歴史博物館にも立ち寄っており、徳島では駅前の徳島城跡、高知ではかつての国分寺、その後の岡豊城跡にあった。ただ愛媛の歴史文化博物館は、何かの城跡というわけではないが、建物の下には卯之町の町並みが広がる。学問の町としても知られていることから、この地に建てることになったのだろうか。

コイン返却式のロッカーにリュックを入れて(金剛杖は玄関の傘立てに)、身軽になって中に入る。笈摺は明石寺を出る時にすでに脱いでいた。まず見学エリアに入る前に、無料ゾーンの展示に向かう。和紙彫塑家の内海清美(うちうみきよはる)さんの作品展で、「弘法大師の世界 密 空と海」というものである。弘法大師の生涯の数々の場面を和紙人形で表現したもので、一種の歴史絵巻である。前半生と後半生で展示替えをしており、私が訪れた時は後半生、遣唐使から帰国し、日本国内に密教を広めようとするところから始まる。その中では伝教大師最澄との出会いと確執、薬子の変、東寺、満濃池、そして高野山などの画面で、和紙は大洲和紙をはじめとした四国産のものを使っている。背景の照明は色あでやかだが、人形そのものには彩色がされていない。それでも表情が浮かび上がってくるようで、見ていてうなるものがあった。

夏休み期間中ということで、企画展ではトリックアートやお化け屋敷などもあったがそれは省略し、通常展のみの見学とする。それでも結構な敷地があり、一つ一つをじっくり見ているとそれこそ1日かけることになる。そこははしょって見ることになるが、ここに来た時点で、朝方に考えていた「この後一旦伊予大洲まで行ってから夕方に宇和島に戻る」ことは断念した。伊予大洲は最終日となる翌19日、松山までの途中下車の形で訪ねることにする。

愛媛県は瀬戸内海、宇和海、豊後水道という海に面した地理的条件があり、一方では石鎚山を中心とした山の顔も持つ。歴史博物館ということで最初は縄文・弥生時代からとなり、石器や土器が並ぶが、これはどこに行ってもそれほど地域性が大きく異なるものでもないし、展示物もあまり興味をひくものはない。やはりこの国が国として成り立ってからの話のほうが面白い。愛媛県・・・というよりは伊予の国は、瀬戸内海に面したこともあり、朝廷と大陸とを結ぶルートの沿線として古くから重要視されていたことがうかがえる。万葉集に、熟田津(にきたつ)にて斉明天皇の新羅遠征を讃える額田王の歌があるが、熟田津は現在の道後温泉、三津浜のあたりとも言われている。また海が舞台ということとなると、水軍が登場する。古くは藤原純友、時代が下ると村上水軍である。

また中世からは河野氏、西園寺氏といった一族の支配を経て、長宗我部元親の四国統一である。一方では信仰文化の歴史も古く、弘法大師にまつわる伝説が多く残り、現在の札所にもつながる多くの寺院が建立された。さらに伊予には「踊り念仏」で知られる時宗を開いた一遍上人がいる。元々は河野氏の一族だった人物だが、諸国を回り一生を踊り念仏に尽くした。一遍上人絵伝の主な場面を紹介した映像もあり、なかなか興味深い。

江戸時代には伊予国内の8つの藩の紹介。それぞれにカラーがあり、現在その姿を(現物、再建それぞれで)残す天守閣、城郭の模型が目を引く。西の宇和島から始まって、大洲、松山、今治と、伊予の国にも「サマになる」城がいくつか残っているものだ。今後はこうしたところのスポットめぐりも盛り込みたいものである(高知では、かつて旅行で訪れたことがあるとはいえ、高知城は下から見ただけ、桂浜もパスしてしまったので・・・)。また前の記事で触れた吉田藩や、この先の伊予小松藩といった小藩もある。

そして近代のコーナー。伊予の国が廃藩置県を経て愛媛県として成立した後の発展である。正岡子規をはじめとした俳人たち、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で知られる秋山兄弟など。

歴史コーナーでの人気は、ある時期の松山の繁華街・大街道の町並みを再現した一角だろう。路面電車の実物が展示され、さまざまな商店も復元されている。・・・とここまで来て展示の半分である。次は1階に下りての民俗文化編で、愛媛のさまざまな祭の様子が紹介された後は、漁村、農村、山中での民家の暮らしの様子である。

最後に「四国遍路」が紹介されていたのが興味深い。県内に残る遍路道や道標のパネルがあり、装束や巡礼用品の変遷、遍路の指南書や地図も展示されている。愛媛編の巡拝は今回が初めてだが、ちょうど距離の半分を超え、札所番号が43番と中間近くのところで、改めて四国遍路の歴史に触れて気持ちを新たにするのもいいかもしれない。こういう展示は第1番の鳴門あたりでやってくれたほうが本当は理想なのだろうが・・・。

展示室も広く、内容も充実していた歴史文化博物館。今回、見たところをさらっと列記しただけの記事でしかないが、ゆっくりじっくり見学するともっと理解が深まるだけの材料は豊富だった。また訪ねてみたいスポットである。

さてこれから卯之町の町並みに向かうが、博物館の裏に遊歩道がある。これは「坪ヶ谷新四国」という、四国八十八所のミニ霊場の一部である。全長6キロの山道だが、この遊歩道は先ほどの明石寺も経由していた。ちなみに明石寺にはミニ霊場でも43番があるそうで、博物館の裏にある石像は60番台だった。ということは、明石寺から博物館に歩いてくるのに、坂道を下りてまた上らなくても、裏の遊歩道で来れば近道だったかもしれない。途中、地元の人たちによる俳句の石碑も見ながら山道と階段を下りると、町並みのすぐ横に出てきた。こういう道があったとは気づかなかった。

・・・本来なら卯之町の町並み見物も一緒に書くつもりだったが、博物館のところだけでまた長くなった。この後は次の記事ということで・・・・。
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