明石寺~愛媛県歴史文化博物館と来て、卯之町の町並みに下りて来た。平日とあってかそれほど観光客がいるわけではないが、町歩きを楽しむ人たちがいる。金剛杖を持つ姿を珍しそうに見る人もいる。
卯之町は昔は西園寺氏の城下町だったのが始まりだそうだが、やがて西園寺氏が拠点を別に移し、江戸時代に宇和島藩の治世になった時に在郷の町として整備された。町のジャンルとしては何だろう・・・明石寺の門前町とも言えるし、宇和島への街道の宿場町とも言える。改めて昔のメインストリートに立つ。両側には妻入、平入などさまざまな造りの家が並び、白壁や卯建、格子が目につく。店は現役の酒屋だったり旅籠もあるが、土産物店や飲食店などうるさい感じでないのがよい。普段の生活感があるように見える。
そんな町の中心に格式ある一軒がある。江戸時代から続く松屋旅館。看板とともに、かつてはさまざまなお歴々が宿泊したことが記されている。いくつか挙げると・・・前島密、新渡戸稲造、犬養毅、浜口雄幸、尾崎行雄(元東映の投手でないほう)、後藤新平など。それに伊達のお殿様も加わる。格式高く、宿泊などおそれ多い気もするが、他の方の旅のブログなど拝見すると、中はお歴々の書や額もあるが、現代風に改装した箇所もあるし、価格も超高級までいかないそうである。むしろ素朴な、昔懐かしいおもてなしというこで、遍路で利用する人もいるとか(ちなみに系列にはビジネスホテルもある)。それよりも、さまざまなお歴々がこの卯之町にやって来て宿泊する目的が何だったのかと思う。
この町には四国最古の小学校である開明学校の校舎が残されている。卯之町で学校というと、長い廊下を雑巾がけで競う光景を思い浮かべる方がいるかもしれないが、それとは別である。やはり学問が古くから盛んだった地にお歴々が引かれる何かがあるのだろう。その手前に宇和民具館があり、開明学校と共通の入館券を売っている。ここでリュックを預かってもらい、先に見学する。
民具館は文字どおり土地に古くから伝わる工芸品や生活用具が並ぶ。それを過ぎて目を引くのが「栄座」の看板と模型。昭和40年代まで卯之町にあった芝居小屋で、昔の看板も飾られている。看板は昭和20年代のものが目立つが、このくらいの年代物を見ると、今もご存命の役者さんは何人いるのかな・・?と見てしまう。あるいは、今は大御所とか呼ばれている方々が役者の走りでまだチョイ役だったのを見つけるとか。
その奥には司馬遼太郎の写真である。司馬遼太郎、卯之町というと、熱心なファンの方々なら『花神』と答えるだろう。主人公は村田蔵六、後の大村益次郎だが、卯之町には二宮敬作やシーボルトの娘・イネが登場する。また、『街道をゆく』でも卯之町を訪れ、同行の須田剋太画伯も町並みの姿にうなったという。『花神』はさておき、『街道をゆく』の当時は、日本国内のいたるところが開発の波にさらされていた時期である。その中で卯之町礼賛とも読める一節を書いたのは、そう書かせるだけのものがあったということだろう。
展示室は町並みの格子の家に続き、その奥は収納庫である。見学ルートに収納庫って・・・と思うが、雑然とした中にもありのままの保存を見ることができてこれはこれで面白かった。
民具館を出て向かいの開明学校に入る。明治の校舎が今は教育に関する資料館として整備されている。先の二宮敬作に関する展示もあるが、ここは教科書や通知表というナマの学校関係のほうが興味を引く。この開明学校は長野県松本市の開智学校と昔からの校舎ということで提携していて、資料の中には開智学校から出展されたものもある。他には年代ごとの教科書も並ぶ。この手の資料展示を見ていつも思うのが、特に戦前の国語教育である。昔の漢文素読の名残があるのだろうが、文体や漢字の使い方を見ると、現代の小学生をはるかに上回る「国語力」の高さを感じる。子どもたちの中で国語は得意科目だったのか苦手科目だったのかはわからないが、私個人の感想としては、現代こそこのくらい、いやもっと「正しい(とされる)」国語を教えなければならないのではないかと思う。
開明学校にはかつての教室を再現したコーナーもある。当時の小学生の机や椅子・・・私にもそういう体型の頃があったよなと苦笑いする。
長い廊下で雑巾がけの旧校舎にも歩いて行ける範囲だが、そこはいいかと卯之町駅に戻る。宇和島行きの鈍行があり、これに揺られて宇和島に戻るとする。愛媛西部の鈍行用車両はキハ54、またはキハ32という、国鉄末期~JR発足当初に造られた車両がほぼ全て。最初からワンマン運転が前提で、車内は全てロングシート。JR四国から製造した車両はロングシートとクロスシートが互い違いに並ぶ構造だったが、松山から西の予讃線に予土線はこんな感じの扱いで・・・。
行き違い停車を長く取りながら宇和島に到着。時刻は13時を回っているが、昼食がまだである。宇和島に来たからには、やはり名物の一品をいただきたい。そう思って駅前に出る・・・。
卯之町は昔は西園寺氏の城下町だったのが始まりだそうだが、やがて西園寺氏が拠点を別に移し、江戸時代に宇和島藩の治世になった時に在郷の町として整備された。町のジャンルとしては何だろう・・・明石寺の門前町とも言えるし、宇和島への街道の宿場町とも言える。改めて昔のメインストリートに立つ。両側には妻入、平入などさまざまな造りの家が並び、白壁や卯建、格子が目につく。店は現役の酒屋だったり旅籠もあるが、土産物店や飲食店などうるさい感じでないのがよい。普段の生活感があるように見える。
そんな町の中心に格式ある一軒がある。江戸時代から続く松屋旅館。看板とともに、かつてはさまざまなお歴々が宿泊したことが記されている。いくつか挙げると・・・前島密、新渡戸稲造、犬養毅、浜口雄幸、尾崎行雄(元東映の投手でないほう)、後藤新平など。それに伊達のお殿様も加わる。格式高く、宿泊などおそれ多い気もするが、他の方の旅のブログなど拝見すると、中はお歴々の書や額もあるが、現代風に改装した箇所もあるし、価格も超高級までいかないそうである。むしろ素朴な、昔懐かしいおもてなしというこで、遍路で利用する人もいるとか(ちなみに系列にはビジネスホテルもある)。それよりも、さまざまなお歴々がこの卯之町にやって来て宿泊する目的が何だったのかと思う。
この町には四国最古の小学校である開明学校の校舎が残されている。卯之町で学校というと、長い廊下を雑巾がけで競う光景を思い浮かべる方がいるかもしれないが、それとは別である。やはり学問が古くから盛んだった地にお歴々が引かれる何かがあるのだろう。その手前に宇和民具館があり、開明学校と共通の入館券を売っている。ここでリュックを預かってもらい、先に見学する。
民具館は文字どおり土地に古くから伝わる工芸品や生活用具が並ぶ。それを過ぎて目を引くのが「栄座」の看板と模型。昭和40年代まで卯之町にあった芝居小屋で、昔の看板も飾られている。看板は昭和20年代のものが目立つが、このくらいの年代物を見ると、今もご存命の役者さんは何人いるのかな・・?と見てしまう。あるいは、今は大御所とか呼ばれている方々が役者の走りでまだチョイ役だったのを見つけるとか。
その奥には司馬遼太郎の写真である。司馬遼太郎、卯之町というと、熱心なファンの方々なら『花神』と答えるだろう。主人公は村田蔵六、後の大村益次郎だが、卯之町には二宮敬作やシーボルトの娘・イネが登場する。また、『街道をゆく』でも卯之町を訪れ、同行の須田剋太画伯も町並みの姿にうなったという。『花神』はさておき、『街道をゆく』の当時は、日本国内のいたるところが開発の波にさらされていた時期である。その中で卯之町礼賛とも読める一節を書いたのは、そう書かせるだけのものがあったということだろう。
展示室は町並みの格子の家に続き、その奥は収納庫である。見学ルートに収納庫って・・・と思うが、雑然とした中にもありのままの保存を見ることができてこれはこれで面白かった。
民具館を出て向かいの開明学校に入る。明治の校舎が今は教育に関する資料館として整備されている。先の二宮敬作に関する展示もあるが、ここは教科書や通知表というナマの学校関係のほうが興味を引く。この開明学校は長野県松本市の開智学校と昔からの校舎ということで提携していて、資料の中には開智学校から出展されたものもある。他には年代ごとの教科書も並ぶ。この手の資料展示を見ていつも思うのが、特に戦前の国語教育である。昔の漢文素読の名残があるのだろうが、文体や漢字の使い方を見ると、現代の小学生をはるかに上回る「国語力」の高さを感じる。子どもたちの中で国語は得意科目だったのか苦手科目だったのかはわからないが、私個人の感想としては、現代こそこのくらい、いやもっと「正しい(とされる)」国語を教えなければならないのではないかと思う。
開明学校にはかつての教室を再現したコーナーもある。当時の小学生の机や椅子・・・私にもそういう体型の頃があったよなと苦笑いする。
長い廊下で雑巾がけの旧校舎にも歩いて行ける範囲だが、そこはいいかと卯之町駅に戻る。宇和島行きの鈍行があり、これに揺られて宇和島に戻るとする。愛媛西部の鈍行用車両はキハ54、またはキハ32という、国鉄末期~JR発足当初に造られた車両がほぼ全て。最初からワンマン運転が前提で、車内は全てロングシート。JR四国から製造した車両はロングシートとクロスシートが互い違いに並ぶ構造だったが、松山から西の予讃線に予土線はこんな感じの扱いで・・・。
行き違い停車を長く取りながら宇和島に到着。時刻は13時を回っているが、昼食がまだである。宇和島に来たからには、やはり名物の一品をいただきたい。そう思って駅前に出る・・・。
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