今回、鳥取シリーズの前倒しとして特別霊場の摩尼寺に向かう。覚寺口の集落の先にある。まずは県道をてくてくと歩く。
ちょうど鯉のぼりもあがっている。そうするうちに寺まで2キロの案内板が建つ。
昔からの参道なのか、沿道には多くの石仏、石碑が並ぶ。あるところでは江戸時代から昭和までさまざまな年代の石碑が並んでいるが、ここに集めたのかな。それだけ昔からこの寺を目指す人が多かったのだろうか。
小川を挟んだ対岸にも石仏が並ぶ。これもかなり年数が経過しているようだ。
また小さいながらも丁石が並ぶ。「文化○○年」という文字も見え、歴史がうかがえる。こうしたものを見ながら歩くと四国の遍路道を思い出す。この先も緩やかな上りが続く。
いい天気で少し暑いとすら感じる中、バス停から35分ほどで門前に到着した。門脇茶屋、源平茶屋という2軒の茶屋があり、精進料理や山菜料理が名物という。先ほど歩いている時に何台かのクルマが追い越して行ったが、中にはここが目当てという客もいるようだ。
茶屋の先に石段がある。そういえば前日に訪ねた三佛寺の人が「この後の長谷寺も石段、摩尼寺も石段」と言っていた。この先300段の石段が続き、参詣用の杖も置かれている。
石段の横には摩尼山の案内がある。私がこれから目指す摩尼寺だが、元々は山全体が信仰の対象で、山頂にある立岩は帝釈天降臨の霊地とされている。これを回るハイキングコースがあり、ハイカーらしき人の姿も見える。本来なら山頂まで行ってこそ摩尼寺に参詣したことになるのだろうが、そこまでの準備がないので寺の本堂まで行って中国観音霊場めぐりとする。
石段を上るが、灯籠が倒れていたり上部が失われているのが目につく。1943年に鳥取で発生した大地震で倒壊したというが、それから80年近く経過しても倒れたのがそのままというのはいかがなものかと思う。
石段の途中で山門に着く。「中国観音特別霊場」のほかに「帝釈天出現霊場」と書かれている。その昔、この辺りの長者の娘が帝釈天に化身して「この峰に鎮座して永く仏法を守り、衆生を救済しよう」と告げた。その帝釈天が出現したとされるのが摩尼山の頂上にある立岩で、後に慈覚大師円仁が寺を開いたのが摩尼寺の始まりである。しかし豊臣秀吉の鳥取攻めの際、摩尼寺も破壊されてしまう。
江戸時代、池田氏が鳥取藩を治めるようになって、鳥取城の鬼門を護るということで現在の場所に寺が再建された。
この上も石段が続くが、横の石碑も倒れている。これも1943年の地震?・・ではないだろう。
石垣がそびえ、城のような構えの門から境内に入る。赤い石州瓦が日に照らされて輝いている。
本堂に向かう。扉が開いていて、中に入ってのお勤めである。本尊は帝釈天と千手観音。その両脇に四天王が祀られている。その他の諸仏もあり、歴史と格式を感じさせる。
他にもお堂がある。閻魔大王を祀る閻魔堂や、伝教大師、弘法大師、慈覚大師を祀る三師堂がある。先ほど訪ねた長谷寺と同じく、こちら摩尼寺も天台宗の寺院なのだが、真言宗の弘法大師像も一緒にいるというのは何かわけがあるのだろうか。同じ平安仏教つながりで、教義も融合されているものがあるかもしれない。
奥には如来堂ということで、長野の善光寺の分身と虚空蔵菩薩が祀られている。さまざまな信仰の対象のようだ。この如来堂の正面から、境内を経て奥のほうに日本海をちらりと見える。その手前に砂地が広がるが、ひょっとして鳥取砂丘だろうか。
如来堂の裏が、さまざまな地蔵が並ぶ法界場である。ここから奥の院に当たる立岩への登山口となるが、そこまではいいかなと思う。その前に、熊に注意との立札があるのも気になる。
ここで折り返しとして朱印をいただく。文字は「千徳殿」とある。
帰りは下りということで足取りも軽く進む。さてこの後だが、摩尼寺口のバス停は本数が限られているので、もう少し進んだ覚寺口のバス停まで行くことにする。このまま鳥取駅に戻れば、帰りの広島行きのバスの時間までに残り2ヶ所を回り、この大型連休で一気に結願とすることができる。ただそこは最後、鳥取での祝杯も含めて取っておくことにしている。
ならば、ということでせっかく来たので鳥取砂丘に向かうことにする・・・。
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