まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

松阪町歩き・寺院と商人

2016年05月02日 | 旅行記D・東海北陸
30日の昼間は松阪の町を歩く。松阪市は市町村合併で広い面積を持つが、これから回るのは駅から徒歩で行ける範囲だ。蒲生氏郷が開いた城下町である。また松阪ゆかりの三大歴史上人物として、氏郷の他に三井高利、本居宣長が挙げられている。

駅内の立ち食いうどんで昼食として出発。松阪城は徒歩で15分のところで、観光案内所で市内の地図をもらい、城を目指しながらの見物である。

城下の町割りも武家屋敷、商人、職人などで分かれているのだが、駅前の商店街から右に曲がると、寺院の一帯に出る。浄土宗や曹洞宗、真言宗などさまざまな宗派が並ぶ。計画的にそういう一帯を設けたのであろう。まず立派な佇まいにひかれて入ったのが浄土宗の清光寺。蒲生氏が松阪にいた時には菩提寺にもなったそうである。阿弥陀如来を本尊として、如意輪観音や勢至菩薩などが祀られている。

本堂の向かいにも阿弥陀如来像があり、ここで参宮線の列車事故に遭難した修学旅行生を慰霊する小さな碑を見つける。この列車事故は昭和31(1956)年に参宮線の六軒駅(今は紀勢線の駅だが、当時はまだ紀勢線の多気から南が開通しておらず、この区間は参宮線だった)構内で列車の多重衝突が起き、死者42人、負傷者96人という大惨事となった。

当時は近鉄も今のような特急ネットワークがなく、伊勢方面の修学旅行も国鉄利用が多かったそうだが、犠牲者の多くがこの修学旅行生たちだったそうである。六軒駅には事故後に建てられた慰霊碑があるという。事故当日は伊勢神宮の大祭で列車の客が多いこともあり、亀山~伊勢間の列車に遅れが出ていた。本来なら亀山からの列車と伊勢からの列車は松阪で行き違うダイヤなのだが、亀山からの列車が遅れるため、松阪からひとつ亀山寄りの六軒で行き違うことにした。しかしこの指示が、津を出発した亀山発の列車の機関士に伝わっておらず、通常ダイヤなら六軒は通過なのでそのまま通過しようとしたところ、停止信号が出ていたのであわててブレーキをかけた。しかし間に合わず、列車は駅を過ぎたところで脱線転覆した。そこに松阪からの列車が入ってきて、これも停まることができずに衝突し、大惨事となった。

現在なら行き違い駅の変更といった緊急対応の指示はリアルタイムで運転手に伝わるだろうし、万が一通過してしまいそうになったとしても、その前にATSなどの装置が作動するだろう。こうした事故が起こったのは痛ましいが、これも安全に対する技術革新につながる契機になったのがせめてもの慰めであろう。

最近の列車事故といえば尼崎の福知山線脱線事故の記憶が生々しいのだが、11年前のこの事故から学んだことは何だろうか。原因が技術的、ハード面だけで結論づけられるものではなく、もっと根が深い問題だと思う。

話が脱線・・・は文脈上良くないな・・・話が少し広がったところで、町歩きを続ける。次に入ったのは継松寺。このところ西国三十三所、新西国三十三所の観音札所を回っているが、山門を入って境内を見渡して、おおっとうなる。先ほどの清光寺も風情があったが、継松寺はそれ以上。

歴史は、奈良時代に聖武天皇の勅願で行基の創建という。以後、本尊如意輪観音を中心に、日本最古の厄除け観音(の一つ)として信仰を集めている。これはここに来て初めて知った。西国、新西国の札所寺院にも引けを取らない立派な造りである。もっとも、観光寺院というのではなく、納経所にも人はいなかったのだが・・・。

寺と職人の一画を過ぎ、今度は商人のエリアに入る。やって来たのは松阪商人の館。

松阪商人で最も名を馳せたのは三井高利だろう。ただ、ここで取り上げられているのは呉服屋の三井高利ではなく、紙や松阪木綿で名を馳せた小津家。この館は当時の様子を伝える役割も果たしている。客間、店先、奉公人の部屋で少しずつ段差があるので足元に注意するよう言われて中に入る。

小津家も伊勢商人として結構活躍しており、江戸時代の番付では三役こそならなかったものの、番付の最上段、相撲なら幕内で頑張っていたことがうかがえる。史料の展示室になっている土蔵に入ると明治の頃の番付がある。この時代になると、三井、三菱、住友、安田、大倉、浅野などの財閥系が上位を占めているが、その中でも小津、長谷川といった松阪商人は番付の二段目、相撲なら十両か幕下というところに踏みとどまっている。もっともこれらも一時期のことで、今は地元で慎ましく商いをしているそうで・・・。

町人街の一画には三井家発祥の跡地もある。その向かいには、三越百貨店の前にあるのと同じライオンの像がある。前に来た時はこの像もなかったはずだと思い検索すると、今年に完成したものだという。三井のほうで、改めて三井高利の産まれの地を顕彰しようというものである。

三井と小津、これに長谷川が加わるのが松阪商人の主力となるのだろうが、三井と小津・長谷川の間には何か見えない線が走っているようにも感じられる。全国的には三井かもしれないが、地元の意識とか愛着は、あくまで松阪を拠点に商売した小津・長谷川にあるのかもしれない。別に松阪商人と会話したわけではないので検証できないのだが、「三井発祥の町」という感じで松阪を押し出しているようにも感じられない。

ただこれは乗り鉄の感想でしかないので、もし実情をご存じの方がいれば、何なりとご教示いただければ幸いです。

・・・松阪町歩きも、寺と商人で結構ダラダラ書いたので、続きは次の記事で・・・・。
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