盲人が見えるようになる時代

 「彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:38-41)

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 「彼」とは、イエスに目を見えるようにしていただいた、元盲人。
 イエスが来られて、盲人が見えるようになる時代が到来した。
 このことは、今もってそうだ。今もイエスはおられるのだから。

 パリサイ人が言う。「私たちも盲目なのですか」。
 イエスは、こうお答えになる。
 「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」。
 もし盲目であるならば、その人はそもそも自身の罪に気付きすらしない。
 見えないのだから。
 だからその人は、神からの責めを、今は免除されている。
(終わりの日にどうであるかは、おわかりいただけると思う。)
 また、本当に見えたのであれば、そこで自分自身の存在そのものが罪深いことがはっきりと見えるので、あわててイエスに救いを乞う。
 その救いは、十字架と復活によって成就されて、罪赦される。
(罪がなくなるのとは全く異なる。神から赦される。)
 だが、パリサイ人は、まったくの盲目であるにもかかわらず『私たちは目が見える。』と思っており、それで宗教警察ごっこに興じている。
 だから救いようがないのだ。
 救いようがないから、まさに「罪は残る」。救いから自ら漏れてしまっているようなものだ。

 上にも書いたように、今はまだ、盲人が見えるようになる時代が続いている。
 必要なことは、盲目であることの自覚だけだ。
 神の恵みによってイエスが触れてくだされば、たちどころに見えるようになる。
 罪について、十字架と復活について、救い、赦し、すなわち「いのち」について。
 そのために、イエスは肉をまとってこの世に来られた。

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とこしえから、とこしえまで

 「誠実を尽くしている私を強くささえ、
 いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。
 ほむべきかな。イスラエルの神、主。
 とこしえから、とこしえまで。
                 アーメン。アーメン。」(詩41:12-13)

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 この世の変化は、最近とみに大きい。
 世はそもそも変化するものだ、だからこの変化にも合わせてゆくのだ、そう説く者がいる。
 その一方で、その大変化に対応できずに、適応障害と称される状態へと陥ってしまう人たちもいる。

 この、世の変わりようというのは、流れる川の上ずみ部分での話だ。
 川の流れはあまりに急激で、いろいろな物が次々に流されては飲まれてゆく。
 しかしそうであっても、川底はあっけないほど静かなものだ。
 表層の揺れ動きをよそに、基底は全く動じない。
 「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで」。
 とこしえからとこしえまで変わらない神が、この地の基であられる。

  表層だけ見ているならば、誠実さを保つことなど馬鹿らしい。
 だが、とこしえからとこしえまで変わらない基底部であられる神、その存在は、きょうも明日も、誠実に生きようとする者のよるべである。
 なぜなら彼の誠実は、人に対して、また、業務に対してではなく、この神に対しての誠実なのだから。
 そのことが、結果的に人や業務に対する誠実へとつながる。

 上ずみばかり見てついて行こうとすると、飲み込まれないためには誠実さもなにもかもかなぐり捨てたあげく、結局はあがないきれずに流されてしまうのではないだろうか。
 「とこしえから、とこしえまで」という地点に根ざすことができれば、なにはさておき、その人は「いつまでも、あなたの御顔の前に立」つことができる。
 そうなると、彼はあたかも浮き草のようだ。

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姦淫の女

 「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:3-11)

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 いわゆる「姦淫の女の話」の箇所。

 新改訳聖書には詳細な注釈が付されているのだが、ヨハネ福音書7:53-8:11(上の引用聖句のおわりと一致)、この箇所について「古い写本のほとんど全部が7:53-8:11を欠いている。…」と注釈し、さらに本文でもこの箇所を〔 〕でくくっている。
 ちなみに7:52から飛んで8:12へと読むと、イエスの御言葉は実にスムーズにつながる。
 それで私は、この「姦淫の女の話」は後世よく考えもせず誰かが挿入したものと確信しており、この箇所に何の価値も見いだしていない。
 その価値のなさについて、書こうと思う。

 姦淫の女をイエスの下に連行するのは、「律法学者とパリサイ人」である。
 姦淫の現場で取り押さえ、この場合は律法によれば石打ちなのだが、あなたはどう思うか、そうイエスに詰め寄る。
(こう書いているだけで、この話がヨハネ福音書の前後の脈絡をよくもぶった切ってくれたものだと思う。)
 「自称イエス」は言う。
 「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。
 するとパリサイ人達は、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」。

 そもそもパリサイ人というのは、自分は律法を遵守し罪などなく目が見えていると思っている人種である(参/ヨハネ9:39-41)。
 「私たちも盲目なのですか。」(ヨハネ9:40)と、しれっと言ってのけるほど罪への自覚は皆無で、それで「罪とは何か」というそもそもの点でイエスと敵対し続ける。
 そんなパリサイ人がここでは様子が違う。
 「自称イエス」から「罪のない者が」石を投げろと言われ、「年長者たちから始めて、ひとりひとり……」などという物わかりの良さを示すのである。
 この分かり良さは、このヨハネ福音書をはじめ各福音書でのパリサイ人像とは全く整合性が取れていないではないか。

 さて、ひとり取り残された姦淫の女に、「自称イエス」は言う。
 「わたしもあなたを罪に定めない」。
 ……。
 これでは「自称イエス」の言っていることは、パリサイ人と変わらない。
 「安息日を破ったあなたには罪がある」、「あなたには罪はない」。
 罪(sin)という概念について、「自称イエス」がパリサイ人と同じ考えを持っているということになる。
 つまり、姦淫という「行為」について罪を判断しており、これは "guilty" の方の「罪」である。

 イエスは "sin" としての「罪」から人類を救うために来られたお方だ。
 そして、その罪とはすなわち、人がまとうアダムの肉である。
 人にはこれをぬぐう力がないので、神が身代わりにこの肉をまとい十字架上で処罰なさったことを信じることで、肉のままで赦される。
 そのように贖罪なされたイエスが、「わたしもあなたを罪に定めない」と言うのは、そういうわけで「罪」についての矛盾を取りつくろいようがない。
 姦淫という「単一の行為」について「罪に定めない」と裁決することを、イエスはなさらない。
 何故なら、姦淫しなくとも安息日は犯すのであり、安息日は犯さなくとも人を殺しうるからだ。
 「アダムの肉」とは、そういう性質を指す。

 「自分は罪人だと認めるパリサイ人」。
 「パリサイ人のように言動するイエス」。
 「姦淫の女の話」は、上の2点により、本来のヨハネ福音書には書かれていなかった話だろう。

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[お詫び]
 昨夜、記事を書いている途中に健忘を起こしてしまいまして、さくじつの記事の後半以降は、まったく意識がなく書いていました。
(記事アップも全く無意識です。)
 そのことに気付いて青ざめ、即座に記事を削除いたしました。
 本日の記事は、その後半部分を全部書き直したものです。
 さくじつの記事にコメントを下さった方がもしおられましたら、お手数ですが本記事に改めてコメント下さい。
 申し訳ありませんでした。

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預言の射程

(1)「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:32-34)

(2)「またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」(ヨハネ7:41-42)

(3)「彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」(使徒3:3-8)

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 イエスの公生涯のときには、イエスがどこの出身かについて(2)のように、すなわち、ミカ書に預言されているとおりベツレヘムではないのか?と物議を醸している。

 イエスが復活されてのち、ペテロはイエスの御名を用いる時に「ナザレのイエス・キリストの名によって」と言っている。
 「ベツレヘムのイエス」ではないのだ。
 福音書以降の書簡群、使徒行伝それから黙示録は、イエスが復活された後に書かれたものであるが、ヘブル書以外には旧約の預言からの引用をほとんど見いだすことができない。
(ざっと見ただけなので、まだなんともいえないが。)
 そして、ベツレヘムで生まれたのかも知れないイエスについて、預言書は無視され「ナザレのイエス」と称せられる。
(ナザレはガリラヤの町。)

 ところで、上の(1)には、その預言書・エレミヤ書の一節を掲げた。
 新しい契約について、神は預言者エレミヤを通して語っている。
 その新しい契約とは、
(A)「わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(B)そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。
(C)わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
というものである。
 上の(A),(B)からすると、もはやどの人も主を知っており、主について教えたりすることもない、そのような世界になることが新しい約束だ。
 それは(C)にあるように、どの人も罪赦されるからだ。
 ところで預言者というのは、エレミヤやミカのように、神が選ばれた召されし者を通して神の御心を人々に伝える、そのような存在であった。
 ところが、上に書いた新しい契約が実現すると、もはやどの人も主を知っているのだから、いわばメッセンジャーとしての預言者は全く不要となる。
 古い約束の範疇に含まれる預言、預言書は、イエスが十字架に死んで復活した新約の時代以降、廃れてしまったのではないだろうか。

 引用聖句の(3)に戻ると、ペテロもミカ書の記述は知っていたと思う。
 だが、ペテロの心に書き記されたのは「ナザレのイエス・キリスト」であった。
 ミカ書の預言とは異なる。
 だが、そんなことはまったくお構いなしに、男は歩けるようになる。

 以上、預言一般の射程の長さについての仮説である。

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最も大切なこと

 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。
 そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:3-10)

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 パウロが言う「最も大切なこと」、わけても復活について。

 ペテロ(ケパ)は、復活のイエスに出会った。
 十二弟子は、復活のイエスに出会った。
 そして「最後に」パウロも、復活のイエスに出会った。

 復活のイエスに出会ったパウロは言う。
 「神の恵みによって、私は今の私になりました」。
 つまりパウロは、変わったことを自覚し告白する。
 何が変わったのだろう。教会を迫害する立場から教会を組織、指導する側へと変わったということだろうか。
 では、なぜ教会を組織、指導し、また、それ以前に、「最も大切なこと」を伝えるために全世界を駆け回るのだろうか。
 それは、「最も大切なこと」がパウロに根本的な変化をもたらしたからである。
 この根本的な変化というのを復活と呼んでもよいし、罪の赦し等、救い等、種々のことばがある。
 では何が「最も大切なこと」なのかというと、上に長々と書かれているのだが、つまるところ、復活のイエスとの出会いである。

 イエスが死ぬ前、ペテロをはじめとする弟子たちは、誰一人としてイエスを信じていない。
 ところが、復活のイエスとの出会いによって、ペテロが、十二弟子が、ヤコブが、そして迫害者パウロが理屈抜きに信じた。
(参/使9:3-19)
 一方、この手紙「コリント人への手紙第一」の読み手は、復活のイエスに出会ってはいない。彼らは、信じたいからこれを読んでいる。

 パウロは、復活のイエスとの出会いについて、「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました」と書いている。
 各福音書の終わりにあるように、ペテロを初めとする十二弟子達は、復活のイエスに直接に出会った。
 同様に、イエスは迫害者パウロにも直接にお会いになった。
 復活のイエスに直接出会うというのは、これが「最後」となる。
 だが、私たちには聖書が遺されている。
 この聖書には「最も大切なこと」が記されている。
 どこ、と特定することはできない。
 上の引用聖句も、ここが大切なのだ、とマーカーを引いたりするような箇所ではない。
 大切なことは、聖書のどこにも記されている。
 だが、本当に必要な箇所は、たったの一行にすぎない。
 その時その人ごとに、その一行が明らかになる。
 そんな一行に突き当たった時こそ、復活のイエスとの出会いである。
 そしてこの出会いは、その人に根本的な変化をもたらす。
 イエスの弟子たちが証人だ。

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どうして学問が

 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。
 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。
 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」(ヨハネ7:14-19)

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 宮でのイエスの教えを聴いたパリサイ人達は、「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」と驚く。
 彼らパリサイ人は、「学問」によって信じる、信仰するようだ。
 このことをせんじつめると、信じるに値するものかどうか研究して突き詰めたいということで、これは本来的な信仰からは実に程遠く、むしろ信仰とは逆の方向だ。ちなみに、きわめて今日的なことがらでもある。

 イエスが宮で教えられたことというのは、律法そのものであった。
 神が自らについて教えられると、それは、あの完璧な律法の世界が広がる。
(山上の説教がいい例だと思う。)
 というより、イエスが律法そのものなのである。
 肉をまとった律法というところだろうか。
 そのイエスは、「どうして学問があるのか」などという驚き方をする、律法を学んだパリサイ人に対して仰る。
 「あなたがたはだれも、律法を守っていません」。
 律法を学んで知っているはずのパリサイ人は、律法をちっとも守ることができない。
 そうとも気付かない彼らは、「どうして学問があるのか」と他人事のように驚いたりしている。
 ここに彼らの救いようのなさがある。
 「自分の目に丸太がある」(マタイ7:4)ことに気付きもしない。

 「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)とあるが、学問するというのは、わざわざ自ら見えなくしてしまうことだ。
 なぜならそれは所詮、人間のわざにすぎないのだから。
 神のわざは「見えない者は見えるようにな」る、そういう方向に働く。
 そのようにして見えるようになった者には、上に挙げたような学問は不要というか用済みだ。
 信じるということは、この神の恵みをただ望むことだ。

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イエスの血肉

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:56-63)

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 63節「肉は何の益ももたらしません」について、この箇所を英語聖書のTEV(あまりメジャーとは言えない)は、ストレートに
  " human power is of no use at all. "
と訳出している。
 まったくもってそのとおりで、人間の自力によってはどうにもならないこと「いのち」について、上の聖書箇所が述べている。

 端的に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」のである。
 だがそれは、差し出されない限りは、飲み食いすることはできない。
 それが差し出される前、人はイエスのこれらのお言葉を「これはひどいことばだ」ととらえている。
 ところが、ヨブの苦しみの果てに血肉が差し出されるとき、もはやそうとは全く思わなくなり、その血肉を飲み食いする。
 そのようにイエスを飲み食いした人は、イエスによって生きるようになる。
 そのことを「いのち」という。
 「いのち」には、自力はない。イエスによって生きているのだから。
 ちなみに、上に書いた「ヨブの苦しみ」も、ヨブはそこに自力で飛び込んだわけでは全くない。

 イエスの血肉、それは人としてまとったアダムの肉であって、十字架で引き裂かれて、したたり落ちたものだ。
 だから、イエスを飲み食いすると言うことは、イコール、イエスの十字架を受け入れるということである。
 そのことによって、イエスの復活にあやかるように、その人は「いのち」を得ることができる(参/ローマ6:4-5)。
 これももちろん、どこまでも他力だ。
 律法を守るというような自力の行いで救いを得ようと思うから、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」ということになる。

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神に教えられて

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:45-48)

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 イエスの公生涯というのは、たかだか3年間にすぎない。
 つまり有史以来、神の子イエスを実際に見ることができた期間は、たったの3年間しかなかった。
 その奇跡のような3年間のどこかでなされたイエスのお話が、上の引用聖句。

 預言者の書には、「彼らはみな神によって教えられる」と記されているという。
 古代イスラエルの人々は、士師や預言者を通して神から教えられていた。
 そうではなく、いまや神がじかにわたしたちに教えてくださる。
 では神は、何をじかに教えてくださるのだろう?
 それは、イエスの居場所、とでも言えばよいだろうか。
 そこでイエスとお会いできる、というような一種の情報とでもいえばいいのだろうか。
 漠たる書き方しかできないのだが、確かなことは「汝殺すなかれ」とか、その類のこと(律法それ自体)を教えるわけでは、全くない。

 さて、上の聖書箇所でイエスの言に耳を傾けている誰一人として、イエスを全く知らず、またイエスと出会ってもいない。
 イエスを目の前にしているにもかかわらず、そうなのである。
 そうであるならば、イエスが天に上げられてのち、一体どうやってイエスに出会うことができ、イエスに聞くことができるというのだろうか。
 ところが、数多の人々がイエスに出会ってきた。
 もっぱらその出会い方(?)について、「彼らはみな神によって教えられ」たのである。

 神に教えられてイエスに出会うと、いやが上にもイエスを信じざるをえない。
(ただ、聖書という媒体なくしてそうなるとは思えない。)
 そしてイエスという永遠のパンを食す。
 あたかもアダムが木の実を食して目が開かれたのと同じように(創3:7)、このパンは今まで閉じていた目を開かせる。
 その目から見えるもの、見渡せるもの……、「いのち」の確かな手応え。

 「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました」(1コリント15:45)
 このとおりである。
 「最後のアダム」によって、「最初のアダム」が生きるのだ。
 この「生きる」というのが、端的に「いのち」だ。
 アダムは違反以前の地点に戻るのである。
 それは、アダムの肉をまとったイエス、いわば「もうやめにしようのアダム」によってである。

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血を流すまで

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

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 イエスが、「信仰の創始者」であり「完成者」である。
 それは、受肉、そして十字架と復活によってなされた。
 アブラハムが「信仰の父」と言われるのだが、それは「信じ切る」ということのお手本としての父であり、信仰の対象、すなわち、何を信じるのか、ということは、イエス・キリストが御自身に変更なされた。

 なぜ、このイエスを信じるのであろうか。
 イエスが救ってくださるからだ。
 では、何から救ってくださるのだろう。
 「罪」から、つまり、アダムの違反以来人間の身に染み込んだ罪深い肉からの救い、解放を、イエス・キリストはなしてくださる。
 その救いを為すために、人と同じアダムの肉を持ったイエスは十字架に架かる。
 神が死刑になったのではない。
 イエスもまとったこの肉のあまりの罪深さを、十字架につけたのだ。
 この肉のイエスは死んで、復活し、そして「神の御座の右に着座されました」。
 そのことを信じることができるのならば、その人は罪赦されたことを実感できるはずだ。
 イエス・キリストは、罪の赦しの信仰の創始者である。

 ところが、この「信じる」というのは、そうそうたやすいことではない。
 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とある。
 ヘブル書の作者は全くの不明だそうだが、この人は戦い切った果てに信じるに至った。そうでなければ、この一文は書けない。
 信じまいという罪の力(肉の力)が、あまりにも強力なのだ。
 だから、罪と戦うというのは、信じまいという力に抗して戦うことと同義であり、それほどまでに信じるということは難しい。
(針の穴の例えなどにも、そのことがよく現されている。)
 信じて罪赦されるためには、ほんとうに流血でも狂気でも、ともかくそういったところを通り抜けざるを得ない。
 そして、そのようなところに入って通り抜けるというのは、人の努力によってではなく、ただ神の恵みによってである。

 もしそういう道に分け入ったならば、イエスが十字架を忍んだように、流血、狂気や苦難を忍ぶのである。
 その忍び方すら、イエスが「型」、すなわちお手本となって下さった。
 その先には、イエス同様に復活がある。
 復活のイエスにアダムの肉がないということもまた、「型」である。
 そのときには、アブラハムのように肉の力によって信じようとするまでもなく、幼子のごとく信じて疑わなくなる。

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たった一つの欠け

 「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
 なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。」(ヤコブ2:9-12)

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 ルターが「藁(わら)の書」と言ったという、ヤコブ書。
 ルターが何故そう言ったのかを、私は知らない。
 ただ、私もこれを「藁の書」だと思う。
 たとえて言うなら、ノイズが多すぎるのだ。
 上の引用箇所では意図的に、9節、それから12節を加えている。これらがノイズだ。
(端的に、意味不明と言っていいと思う。)

 そのノイズの中から。
 「律法全体を守っても」、いや、アダムの肉を持つ人間としてそんな人はいないのだが、まあ仮定のお話として措いておく。
 「一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」。
 ここに律法の本質、その究極の正しさ、完璧さが現れている。
 たった一つの欠けですら、それは欠陥品と扱われて、その人は全てにおいて罪深い。
 律法群が提示する義や完全さにどれだけあこがれても、そのようなわけで、その律法を行うことによってはけっして義と認められない。
 このことについては、「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)とあるとおりだ。

 そしてこのことは、何故イエスがわざわざ我々と同じアダムの肉をまとって世に来られたのか、ということにつながってくる。
 天使(天の御使い)として来られてもよかったのではなかろうか。
 天の使いなのだ。「私が救ってあげよう」で、みな信じるではないか。
 だが、それでは「救う」ということについて、何の意味も持たない。
 神が卑小なアダムの肉をまとわれたことにこそ、「救い」のはじめがある。
 そこには、たった一つの欠けで壊れる義とは異なる義がある。

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