イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
御父との和解
「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)
---
しばしばヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、上の聖書箇所は聖書のサマリーといえるかも知れない。
この聖書は私たちの魂が救われるための書物であり、魂の救いとは、私たちをお造りになった御父の怒りからの救いである。
御父は怒っているのである。私たちの不義のゆえに怒っている。昔も今も変わらない。
しかしその一方で、御父は造り主であるがゆえに私たちを愛していて、だからこそ怒るのであるが、その都度チャンスを与え、御子イエスの受肉という最大のチャンスを私たちに与えられた。
そして受肉した神の子が極刑の十字架に架かってその肉を処分し、3日後によみがえるというわざが行われたのである。
このわざに預かって私たちがよみがえるためには、まずイエスと同じように極刑に死ぬ必要があるのだが、私たちが死のうと思って死ぬのではなく、気づくといつの間にか細い十字架の道に入り込んでいる。
そして死んでよみがえる。
イエスはこの救いの道を切り開いたからこそ救い主なのである。
「キリストの血によって」開かれた救いの道を通り抜けてよみがえったとき、不義な私たちであっても御父は義と認めてくださる。
御父が和解してくださり、もう御父は私たちを怒らない。
これを魂の平安といっていいのだろう。もう御父からの責めはない。
---
[一版]2019年 9月22日
[二版]2021年 7月31日(本日)
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正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:6-11)
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しばしばヨハネ3:16が聖書の中の聖書と言われるが、上の聖書箇所は聖書のサマリーといえるかも知れない。
この聖書は私たちの魂が救われるための書物であり、魂の救いとは、私たちをお造りになった御父の怒りからの救いである。
御父は怒っているのである。私たちの不義のゆえに怒っている。昔も今も変わらない。
しかしその一方で、御父は造り主であるがゆえに私たちを愛していて、だからこそ怒るのであるが、その都度チャンスを与え、御子イエスの受肉という最大のチャンスを私たちに与えられた。
そして受肉した神の子が極刑の十字架に架かってその肉を処分し、3日後によみがえるというわざが行われたのである。
このわざに預かって私たちがよみがえるためには、まずイエスと同じように極刑に死ぬ必要があるのだが、私たちが死のうと思って死ぬのではなく、気づくといつの間にか細い十字架の道に入り込んでいる。
そして死んでよみがえる。
イエスはこの救いの道を切り開いたからこそ救い主なのである。
「キリストの血によって」開かれた救いの道を通り抜けてよみがえったとき、不義な私たちであっても御父は義と認めてくださる。
御父が和解してくださり、もう御父は私たちを怒らない。
これを魂の平安といっていいのだろう。もう御父からの責めはない。
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患難が生み出す希望
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)
---
教会の門を叩いたのは、まだ20世紀の頃だ。
購入した聖書を読んでいって最初にありがたく思った聖句が上の「患難が忍耐を生み出し」のくだりだった。
それから教会に通い、毎週賛美歌を歌い説教に耳を傾け兄弟姉妹と交わった。教会を変えもした。
ある教会で、いきさつは忘れたのだが老牧師とサシでやりとりを重ねた挙げ句、「あなたはイエス様を分かっていますか!」と問い詰められて「いえ、全然……」と悄然として答えたということがあった。老牧師は言葉を失ってしまった。
以来教会に行くことはなくなり聖書も放り投げてしまった。
しかし数年してこのブログを書き始めた。希望が生み出されたのだ。
---
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忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)
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教会の門を叩いたのは、まだ20世紀の頃だ。
購入した聖書を読んでいって最初にありがたく思った聖句が上の「患難が忍耐を生み出し」のくだりだった。
それから教会に通い、毎週賛美歌を歌い説教に耳を傾け兄弟姉妹と交わった。教会を変えもした。
ある教会で、いきさつは忘れたのだが老牧師とサシでやりとりを重ねた挙げ句、「あなたはイエス様を分かっていますか!」と問い詰められて「いえ、全然……」と悄然として答えたということがあった。老牧師は言葉を失ってしまった。
以来教会に行くことはなくなり聖書も放り投げてしまった。
しかし数年してこのブログを書き始めた。希望が生み出されたのだ。
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極端なまでに非合理なことが死人を生かす
「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)
---
「およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認め」るアブラハムのこの認識は合理的な思考に基づいている。
しかしそれでもアブラハムは「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」という非合理を貫き通す。
この合理的か非合理的かということについて、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)とトマスが言うのは、証拠に基づく判断を行いたいという観念的な合理性であるから、「決して信じません」という信心の話にはつながらないのだが、この不整合にも人間の非合理さが顕れている。希代の芸術家である岡本太郎は「”生きる” ということの非合理」と書いている(「自分の中に毒を持て」, p.220)。
たしかに人間は合理的に考えるということができ、そのことによって近代の物質的繁栄がもたらされた。自然科学は輝かしい近代の大看板であり続けている。
人体のはたらきはその自然科学によってかなり分かってきて、私たちは治療を受けることを通して合理性の恩恵を受けている。
ところが、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)ようになることについて、つまり生ける死人をよみがえらせることについては、我々の合理的思考では歯が立たない。
彼ら生ける死人にとって最も大切なことは、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」という非合理、それも極端なまでの非合理なのである。
そうしてよみがえった人は、いのちあふれる生を生きるようになる。
このいのちとは、いつのまに塞がれていた水源のその塞ぎをイエスが取り去って勢いよくほとばしるようなものである。
詩篇の150の詩にあきらかなように、うれしいことでもつらいことでも生きる実感はどちらも大きく、その先には生きる歓びが湧き上がる。
私は日頃は理屈を突き詰める仕事をしているが、このほとばしりこそ生きるということと確信している。
---
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彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:19-25)
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「およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認め」るアブラハムのこの認識は合理的な思考に基づいている。
しかしそれでもアブラハムは「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」という非合理を貫き通す。
この合理的か非合理的かということについて、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)とトマスが言うのは、証拠に基づく判断を行いたいという観念的な合理性であるから、「決して信じません」という信心の話にはつながらないのだが、この不整合にも人間の非合理さが顕れている。希代の芸術家である岡本太郎は「”生きる” ということの非合理」と書いている(「自分の中に毒を持て」, p.220)。
たしかに人間は合理的に考えるということができ、そのことによって近代の物質的繁栄がもたらされた。自然科学は輝かしい近代の大看板であり続けている。
人体のはたらきはその自然科学によってかなり分かってきて、私たちは治療を受けることを通して合理性の恩恵を受けている。
ところが、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」(ヨハネ7:38)ようになることについて、つまり生ける死人をよみがえらせることについては、我々の合理的思考では歯が立たない。
彼ら生ける死人にとって最も大切なことは、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」という非合理、それも極端なまでの非合理なのである。
そうしてよみがえった人は、いのちあふれる生を生きるようになる。
このいのちとは、いつのまに塞がれていた水源のその塞ぎをイエスが取り去って勢いよくほとばしるようなものである。
詩篇の150の詩にあきらかなように、うれしいことでもつらいことでも生きる実感はどちらも大きく、その先には生きる歓びが湧き上がる。
私は日頃は理屈を突き詰める仕事をしているが、このほとばしりこそ生きるということと確信している。
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信じるとは
「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5)
---
信じるとはどういうことなのだろう。
自分は信じていると思って「口で告白」すること(ローマ10:10)は簡単なことだ。
しかしこれは、なんでもない石ころに金メッキを被せて、そうしてこれは金塊だと思い込むのと同じ事で、自己啓発と変わるところがない。
なにかがあればメッキははがれて地の石ころの表面が顕わになる(参/マタイ13:20-21)。
これを言い換えると、自分は信じているのだと自分自身に言い聞かせているようなものだ。
しかし、それではどうすれば信じるようになるのだろうか。自分の力でできるのだろうか。
それは、自分で信じるのではなく、救い主イエスによって力ずくで信じさせられるのである。
公生涯でのイエスが全世界に示した神の愛とは、十字架の死とよみがえりに集約される。
私たちは気づくとイエスによってこの狭き道に導かれ、今までもこれからもないほどの苦しみの果てに死に、そして復活のイエスが出会ってくださりよみがえる。
このとき、罪深い私たちをそのままで義と認め、聖霊様を住まわせて私たちの内側に律法を置いてくださる。
まさに石ころが金塊そのものに化けたのだ。深くえぐられたとしても表出した面はやはり金であり、どこまでも金なのだ。
ときおり信仰が増したというようなことを耳にするが、このように、信仰はあるかないかの2状態しかない。
そして、この状態を変えるのは、私たち自身の力ではなくイエスなのである。
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信じるとはどういうことなのだろう。
自分は信じていると思って「口で告白」すること(ローマ10:10)は簡単なことだ。
しかしこれは、なんでもない石ころに金メッキを被せて、そうしてこれは金塊だと思い込むのと同じ事で、自己啓発と変わるところがない。
なにかがあればメッキははがれて地の石ころの表面が顕わになる(参/マタイ13:20-21)。
これを言い換えると、自分は信じているのだと自分自身に言い聞かせているようなものだ。
しかし、それではどうすれば信じるようになるのだろうか。自分の力でできるのだろうか。
それは、自分で信じるのではなく、救い主イエスによって力ずくで信じさせられるのである。
公生涯でのイエスが全世界に示した神の愛とは、十字架の死とよみがえりに集約される。
私たちは気づくとイエスによってこの狭き道に導かれ、今までもこれからもないほどの苦しみの果てに死に、そして復活のイエスが出会ってくださりよみがえる。
このとき、罪深い私たちをそのままで義と認め、聖霊様を住まわせて私たちの内側に律法を置いてくださる。
まさに石ころが金塊そのものに化けたのだ。深くえぐられたとしても表出した面はやはり金であり、どこまでも金なのだ。
ときおり信仰が増したというようなことを耳にするが、このように、信仰はあるかないかの2状態しかない。
そして、この状態を変えるのは、私たち自身の力ではなくイエスなのである。
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律法と信仰による義
「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:31)
---
もし行ないによって義を確立するのであれば、割礼をしないことは不義に当たる。分かりがいい。
では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。
イエス・キリストの十字架の死と復活以来、これは頭の上では分からなくなってくる。
行いによる義とは自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、信仰による義はそうではない。
というのは、信仰というのは自分が力ずくで獲得するものではなく、死んでよみがえったイエスによって信じさせられるものだからである。
信じさせられる以前には、自力ではどうやっても神の基準である律法には達することができず腹の底から罪意識が湧き出てきて、それにもかかわらず更に罪を重ねてのたうち回る過程がある。ここに養育係としての律法の役割がある。
そうして極度の苦しみの果てに、復活のイエスが私たちに出会ってくださるのである。
イエスが歩んだあの十字架への道は、のちに私たちがこのように通り抜けるために切り開いてくださったのだ。
割礼をしないというか割礼をできずに律法を守れないところには、このように罪意識が湧いてくる。
だから律法を守れないことを自覚することが救いへの第一歩になる。
そして、やがて訪れるイエスとの出会いによって御父から義と認められ、これによって律法はその人の中でかえって確立される。すなわち聖霊の内住である。
一方で、律法を遵守していることに疑いを持たないパリサイ人には、この罪意識が湧く余地がない。ここが決定的な違いなのである。
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[一版]2017年10月 1日
[二版]2019年 9月 8日
[三版]2021年 7月17日(本日)
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もし行ないによって義を確立するのであれば、割礼をしないことは不義に当たる。分かりがいい。
では、割礼をしないことは、律法を確立するであろうか、それともそれを貶めるだろうか。
イエス・キリストの十字架の死と復活以来、これは頭の上では分からなくなってくる。
行いによる義とは自力で義をつかみ取ろうとするものであるが、信仰による義はそうではない。
というのは、信仰というのは自分が力ずくで獲得するものではなく、死んでよみがえったイエスによって信じさせられるものだからである。
信じさせられる以前には、自力ではどうやっても神の基準である律法には達することができず腹の底から罪意識が湧き出てきて、それにもかかわらず更に罪を重ねてのたうち回る過程がある。ここに養育係としての律法の役割がある。
そうして極度の苦しみの果てに、復活のイエスが私たちに出会ってくださるのである。
イエスが歩んだあの十字架への道は、のちに私たちがこのように通り抜けるために切り開いてくださったのだ。
割礼をしないというか割礼をできずに律法を守れないところには、このように罪意識が湧いてくる。
だから律法を守れないことを自覚することが救いへの第一歩になる。
そして、やがて訪れるイエスとの出会いによって御父から義と認められ、これによって律法はその人の中でかえって確立される。すなわち聖霊の内住である。
一方で、律法を遵守していることに疑いを持たないパリサイ人には、この罪意識が湧く余地がない。ここが決定的な違いなのである。
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イエスの十字架は私を無罪放免にしたのだろうか
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26))
---
私たちのアダムの肉は律法を守ることができず、罪を犯し続けてきた。
私たちをお造りになった御父は、今まさに義を示すために、ご自身の御子をなだめの供え物とされた。
ここで義とは、御父が定めた律法を破った者を自ら裁く義であるから、正に神の大義である。
その神の大義が私には直接には下されず、肉を持つが罪のない御子キリスト・イエスに下された。
では、イエスに下された神の大義、平たく言うと罰は、私の罪への罰を身代わりに受けたものなのであろうか。
言い換えると、イエスが私の代わりに罰を受けたというので、無罪放免となった私はイエスをありがたがっているのでだろうか。
しかしこれでは私はバラバではないか。このバラバはイエスとは関係はなく、イエスを信じてなどいなかった。
私がイエスを信じ信仰をもつのは、イエスが私に会ってくれたからだ。私への罰は、イエスの十字架と同じように私にも死をもたらしたし、そしてイエスと同じくよみがえったのである。
私の主権など関係なしに神の大義に基づいて事は起こったのであるから、信じるというよりも信じさせられたのであり、信仰は持つものではなく持たされるものであった。
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それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:25-26))
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私たちのアダムの肉は律法を守ることができず、罪を犯し続けてきた。
私たちをお造りになった御父は、今まさに義を示すために、ご自身の御子をなだめの供え物とされた。
ここで義とは、御父が定めた律法を破った者を自ら裁く義であるから、正に神の大義である。
その神の大義が私には直接には下されず、肉を持つが罪のない御子キリスト・イエスに下された。
では、イエスに下された神の大義、平たく言うと罰は、私の罪への罰を身代わりに受けたものなのであろうか。
言い換えると、イエスが私の代わりに罰を受けたというので、無罪放免となった私はイエスをありがたがっているのでだろうか。
しかしこれでは私はバラバではないか。このバラバはイエスとは関係はなく、イエスを信じてなどいなかった。
私がイエスを信じ信仰をもつのは、イエスが私に会ってくれたからだ。私への罰は、イエスの十字架と同じように私にも死をもたらしたし、そしてイエスと同じくよみがえったのである。
私の主権など関係なしに神の大義に基づいて事は起こったのであるから、信じるというよりも信じさせられたのであり、信仰は持つものではなく持たされるものであった。
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値なしに義と認められる
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)
---
すべての人が罪を犯している。
人間が持つアダムの肉を、神の律法が糾弾する。
それゆえ、神の御目に義と映る者はおらず、神の御前にはすべての人が罪深い。
何かをやったから罪だというよりも、存在そのものが罪深い。
「義人はいない」のである。
それゆえ、この絶対的な存在である神から栄誉や栄光を受けるには、私たちははるか程遠い。
だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、神の方から差し伸べられた。
それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰し、三日目に御父によって復活する。
これは、このイエスを信じる私たちの肉が神に赦されるための、救いの御技であり、型なのである。
私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義と認められ罪赦される。
そうなると、そもそも信じるとはどういうことかというところに行き着く。
端的にいうと、信じるのではなく、恵みによって信じさせられるのである。
「神を信じます」と言うのは、私たちが神を信じるかそうでないかについての選択の謂いであるから、神は選択される存在にすぎなくなってしまう。
そうではなく、創造主が有無をもいわさず私たちに信じさせ、そのことが恵みなのである。
恵みであるから対価は求められない。値なしで義と認められて、私たちは信仰に至る。
---
[一版]2008年 9月15日
[二版]2009年 8月23日
[三版]2010年 2月27日
[四版]2015年 3月 1日
[五版]2019年 9月 7日
[六版]2021年 7月10日(本日)
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ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)
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すべての人が罪を犯している。
人間が持つアダムの肉を、神の律法が糾弾する。
それゆえ、神の御目に義と映る者はおらず、神の御前にはすべての人が罪深い。
何かをやったから罪だというよりも、存在そのものが罪深い。
「義人はいない」のである。
それゆえ、この絶対的な存在である神から栄誉や栄光を受けるには、私たちははるか程遠い。
だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、神の方から差し伸べられた。
それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰し、三日目に御父によって復活する。
これは、このイエスを信じる私たちの肉が神に赦されるための、救いの御技であり、型なのである。
私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義と認められ罪赦される。
そうなると、そもそも信じるとはどういうことかというところに行き着く。
端的にいうと、信じるのではなく、恵みによって信じさせられるのである。
「神を信じます」と言うのは、私たちが神を信じるかそうでないかについての選択の謂いであるから、神は選択される存在にすぎなくなってしまう。
そうではなく、創造主が有無をもいわさず私たちに信じさせ、そのことが恵みなのである。
恵みであるから対価は求められない。値なしで義と認められて、私たちは信仰に至る。
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罪のとげ
「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)
---
自分語りをする。
まだ20世紀だった頃に教会の門を叩き聖書を読み始めた。
当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。
その当時買い物に行ったときのこと、可愛らしくて器量も良いレジ打ちの娘を見て、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」が即座に思い出された。
私は今、まさに姦淫の罪を犯したのだ。
律法が私たちにもたらすのは、この罪の意識、罪のとげの痛さである。
律法は、肉に宿る罪をこのように白日の下にさらして私自身に突きつけてくる。
「お前は罪人なのだ!」と糾弾する。
もし私が律法を、山上の説教を知らなかったら、このような罪を知ることなく過ごしていた。
そうであれば私にとっては御父もイエスも、十字架も復活も、そして赦しと救いも、まったく無関係だったのだから、今思うと空恐ろしい。
このように、律法は私たちの肉の罪を嫌と言うほど知らしめる。
そして、この罪の痛みから逃れたくて、イエスによる罪の救いを求めてゆく。
律法が養育係(ガラテヤ3:24)である所以である。
---
[一版]2011年 7月30日
[二版]2014年 2月22日
[三版]2017年 9月18日
[四版]2019年 9月 1日
[五版]2021年 7月 4日(本日)
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自分語りをする。
まだ20世紀だった頃に教会の門を叩き聖書を読み始めた。
当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。
その当時買い物に行ったときのこと、可愛らしくて器量も良いレジ打ちの娘を見て、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」が即座に思い出された。
私は今、まさに姦淫の罪を犯したのだ。
律法が私たちにもたらすのは、この罪の意識、罪のとげの痛さである。
律法は、肉に宿る罪をこのように白日の下にさらして私自身に突きつけてくる。
「お前は罪人なのだ!」と糾弾する。
もし私が律法を、山上の説教を知らなかったら、このような罪を知ることなく過ごしていた。
そうであれば私にとっては御父もイエスも、十字架も復活も、そして赦しと救いも、まったく無関係だったのだから、今思うと空恐ろしい。
このように、律法は私たちの肉の罪を嫌と言うほど知らしめる。
そして、この罪の痛みから逃れたくて、イエスによる罪の救いを求めてゆく。
律法が養育係(ガラテヤ3:24)である所以である。
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私の罪深さに表れる神の栄光
「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ3:7-8)
---
罪深い自分はその罪深さのゆえに人を傷つけ腹立たせることなど数知れない。
赦されたにもかかわらず人を許すことなどほとんどない。
そのような自分と対比すれば神の栄光はよりまぶしく見える。
しかし、そう見えるだけで、神の栄光は自分によって貶められる。
なぜなら自分はこの御父によって造られそしてイエスのゆえにこの御父と和解できたにもかかわらず、肉を持つ自分のこの有様は御父の顔に泥を塗っているようなものではないか。
それにもかかわらず御父は罪深い私を赦してくださるのであるから、ここにこそ御父の栄光が輝いている。
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健やかな一日をお祈りします!
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「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ3:7-8)
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罪深い自分はその罪深さのゆえに人を傷つけ腹立たせることなど数知れない。
赦されたにもかかわらず人を許すことなどほとんどない。
そのような自分と対比すれば神の栄光はよりまぶしく見える。
しかし、そう見えるだけで、神の栄光は自分によって貶められる。
なぜなら自分はこの御父によって造られそしてイエスのゆえにこの御父と和解できたにもかかわらず、肉を持つ自分のこの有様は御父の顔に泥を塗っているようなものではないか。
それにもかかわらず御父は罪深い私を赦してくださるのであるから、ここにこそ御父の栄光が輝いている。
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