イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
『麦』と『殻』
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11-12)
---
二元論について。
二元論とはすなわち、人は「麦」か「殻」かのどちらかだということで、マタイ伝の様々な箇所に出てくる(たとえば13:24-30など)。
では、何を基準にして、人を「麦」と「殻」に分けるのであろうか。
それは信仰の有無によってである。
この信仰の有無とは、技によるものではない。イエスの恵みによる。
そして、「麦」は天の御国に行き、「殻」は燃えるゲヘナへと行くのである。それ以外はない。
イエスの恵みを受けるためには、自分自身の罪に気付くことが、どうしても欠かせない。
この罪の基準は神の律法であり、この律法を遵守しようもない存在だと悟ることが、自分が罪人であるということが分かるということである。観念的な、頭だけの問題などではない。
そうだとしたら、世界中の全ての人が「殻」なのではないだろうか。
しかし、世界中の少なくない人が、恵みによって「麦」とされている。
全ての人が「麦」であることを最も望んでいるのは御父であることは、いうまでもない。
---
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手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11-12)
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二元論について。
二元論とはすなわち、人は「麦」か「殻」かのどちらかだということで、マタイ伝の様々な箇所に出てくる(たとえば13:24-30など)。
では、何を基準にして、人を「麦」と「殻」に分けるのであろうか。
それは信仰の有無によってである。
この信仰の有無とは、技によるものではない。イエスの恵みによる。
そして、「麦」は天の御国に行き、「殻」は燃えるゲヘナへと行くのである。それ以外はない。
イエスの恵みを受けるためには、自分自身の罪に気付くことが、どうしても欠かせない。
この罪の基準は神の律法であり、この律法を遵守しようもない存在だと悟ることが、自分が罪人であるということが分かるということである。観念的な、頭だけの問題などではない。
そうだとしたら、世界中の全ての人が「殻」なのではないだろうか。
しかし、世界中の少なくない人が、恵みによって「麦」とされている。
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自分の罪に目を向けない者
「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:5-11)
---
バステスマのヨハネがヨルダン川でバステスマを授けている。
そこに、パリサイ人やサドカイ人がバステスマを受けにやってきた。
彼らは律法を人々に強要するが、自分ではやろうとはしない(たとえばマタイ23:3)。
行いによってすら救われようとせず、専ら血筋に救いの根拠を求める。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と。
何が人を罪に定めるかというと神の律法なのであるが、このパリサイ人たちの血筋に頼るスタンスだと自分の内側に潜む罪に気付きようがない。
ここヨルダン川には、大勢の人がヨハネのもとにやってきては自身の罪を告白している。
この、罪に気付くことこそが、救いの始まりである。
そしてこのアダムの肉の罪は、恵みによってイエスのバステスマによる赦しを受ける。
パリサイ人達は、律法を人々に強要しながらそれを自分に当てはめないために自身の罪そのものに無自覚であり、スタートラインにすら立っていない。
それでヨハネは、やってきた彼らにしのごの言うのである。
---
[一版]2011年11月27日
[二版]2015年 9月23日(本日)
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自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:5-11)
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バステスマのヨハネがヨルダン川でバステスマを授けている。
そこに、パリサイ人やサドカイ人がバステスマを受けにやってきた。
彼らは律法を人々に強要するが、自分ではやろうとはしない(たとえばマタイ23:3)。
行いによってすら救われようとせず、専ら血筋に救いの根拠を求める。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と。
何が人を罪に定めるかというと神の律法なのであるが、このパリサイ人たちの血筋に頼るスタンスだと自分の内側に潜む罪に気付きようがない。
ここヨルダン川には、大勢の人がヨハネのもとにやってきては自身の罪を告白している。
この、罪に気付くことこそが、救いの始まりである。
そしてこのアダムの肉の罪は、恵みによってイエスのバステスマによる赦しを受ける。
パリサイ人達は、律法を人々に強要しながらそれを自分に当てはめないために自身の罪そのものに無自覚であり、スタートラインにすら立っていない。
それでヨハネは、やってきた彼らにしのごの言うのである。
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[一版]2011年11月27日
[二版]2015年 9月23日(本日)
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苦しみののちの完全
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(1ペテロ5:10-11)
---
世界はすべて、神の御支配の下にある。
その神は、「あらゆる恵みに満ち」ておられる。
どれくらい恵み豊かなのかというと、キリストの十字架という「しばらくの苦しみ」の下に私たちを置かれるほどだ。
神の子・キリストは、十字架の苦難に遭われた。
苦しみの期間は短かったが、文字通り苦難であった。
この苦難は、私たちのためにキリストが受けたものだ。
私たちのために、というのは、道なきところにキリストが道を切り開いてくださって、私たちがその後をついて行けるようにして下さったからだ。
この道こそ、十字架の道である。
私たちが十字架に架かることは、ない。
だが、恵まれた人は、キリストの十字架の苦しみ、あの狭い道を通る。
その期間は長い。少なくともキリストよりはるかに長い。
アウグスティヌスは一体どれだけの期間、苦しみ抜いたことだろうか。
そのアウグスティヌスにとっての「とどめ」は、ロマ書13:14だった。
彼はこの聖句を、100回は読んでいただろうが、ほんとうに入ったのは、苦しみが頂点に達した時の101回目だ。
彼のこの道程こそ、「自分の十字架」を全うするということだ。
キリストが切り開いた狭き道を、アウグスティヌスは無事通り抜けた。
キリストは十字架に死に三日目に復活する。
それと同様に、狭き道を通る苦しみの後には、「完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者」といった類の、ある種の変容がある。
外形上、表面上は、ものの見事に何の変化もない。
しかし、決定的に異なる変化がある。
「いのち」の有無だ。
たしかにそれは、ある地点に堅く立っており、タフで、そして不動だ。
イエスは、この「いのち」を与えるために十字架に死に復活された。
苦しみを通り抜けたところにこそ「いのち」がある、ということ。
その苦しみは短くはない、ということ。
その苦しみを自分の十字架として、きちんと背負うということ。
先が見えないようだがゴールがきちんと用意されていることは、イエスが御自身の歩みをもって教えて下さっている。
この狭き道を見いだすということは、ただ神の恵みによる。
---
[一版]2007年 8月 5日
[二版]2008年 2月23日
[三版]2015年 9月21日(本日)
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どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」(1ペテロ5:10-11)
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世界はすべて、神の御支配の下にある。
その神は、「あらゆる恵みに満ち」ておられる。
どれくらい恵み豊かなのかというと、キリストの十字架という「しばらくの苦しみ」の下に私たちを置かれるほどだ。
神の子・キリストは、十字架の苦難に遭われた。
苦しみの期間は短かったが、文字通り苦難であった。
この苦難は、私たちのためにキリストが受けたものだ。
私たちのために、というのは、道なきところにキリストが道を切り開いてくださって、私たちがその後をついて行けるようにして下さったからだ。
この道こそ、十字架の道である。
私たちが十字架に架かることは、ない。
だが、恵まれた人は、キリストの十字架の苦しみ、あの狭い道を通る。
その期間は長い。少なくともキリストよりはるかに長い。
アウグスティヌスは一体どれだけの期間、苦しみ抜いたことだろうか。
そのアウグスティヌスにとっての「とどめ」は、ロマ書13:14だった。
彼はこの聖句を、100回は読んでいただろうが、ほんとうに入ったのは、苦しみが頂点に達した時の101回目だ。
彼のこの道程こそ、「自分の十字架」を全うするということだ。
キリストが切り開いた狭き道を、アウグスティヌスは無事通り抜けた。
キリストは十字架に死に三日目に復活する。
それと同様に、狭き道を通る苦しみの後には、「完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者」といった類の、ある種の変容がある。
外形上、表面上は、ものの見事に何の変化もない。
しかし、決定的に異なる変化がある。
「いのち」の有無だ。
たしかにそれは、ある地点に堅く立っており、タフで、そして不動だ。
イエスは、この「いのち」を与えるために十字架に死に復活された。
苦しみを通り抜けたところにこそ「いのち」がある、ということ。
その苦しみは短くはない、ということ。
その苦しみを自分の十字架として、きちんと背負うということ。
先が見えないようだがゴールがきちんと用意されていることは、イエスが御自身の歩みをもって教えて下さっている。
この狭き道を見いだすということは、ただ神の恵みによる。
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イエスの道筋を共にする覚悟
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」(1ペテロ4:1)
---
救いについて。
罪のない神の子イエス・キリストは、自ら極刑の十字架に苦しみ肉を殺し、そして三日目に復活した。
このわざによって、イエスは救いの道を拓き、救いの型を示した。
私たちのような罪深い者であっても、イエスの道筋をたどることによって、罪のない者と認められて、解放され救われる。
ただ、この狭い道に、どうやれば入ることができるのだろうか。
気付くとすとんと入っている。それこそが恵みなのである。
イエスと同じ苦しみを味わい続け、それは極限に達し、そして生まれ変わる。
心構えも武装もいらない。それでは、救われたくないという意思表示になってしまう。
(ペテロはギリシャ語がほとんどできなかったと聴いたことがあるので、そのことが関係しているかもしれない。)
むしろ、必要なのはある種の覚悟だろう。
イエスの道筋を歩むこと、イエスの杯を飲むことは、今までも今後もないほどの苦しみを通り抜けることなので、この、イエスと共に死ぬ覚悟は必要だろう。
だから、フォークソング片手に「イエスは王」と歌っているのには、個人的には大きな違和感を覚える。
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救いについて。
罪のない神の子イエス・キリストは、自ら極刑の十字架に苦しみ肉を殺し、そして三日目に復活した。
このわざによって、イエスは救いの道を拓き、救いの型を示した。
私たちのような罪深い者であっても、イエスの道筋をたどることによって、罪のない者と認められて、解放され救われる。
ただ、この狭い道に、どうやれば入ることができるのだろうか。
気付くとすとんと入っている。それこそが恵みなのである。
イエスと同じ苦しみを味わい続け、それは極限に達し、そして生まれ変わる。
心構えも武装もいらない。それでは、救われたくないという意思表示になってしまう。
(ペテロはギリシャ語がほとんどできなかったと聴いたことがあるので、そのことが関係しているかもしれない。)
むしろ、必要なのはある種の覚悟だろう。
イエスの道筋を歩むこと、イエスの杯を飲むことは、今までも今後もないほどの苦しみを通り抜けることなので、この、イエスと共に死ぬ覚悟は必要だろう。
だから、フォークソング片手に「イエスは王」と歌っているのには、個人的には大きな違和感を覚える。
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金銀について
「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)
---
地獄の沙汰も金次第とはよく言うが、むなしさ、虚無感、喜びのなさ、さびしさなどを解決するのに、一体どれだけの金銀を要するだろうか。
どれだけあっても、そういったものから解放されることはないだろう。
伝道者の書(コヘレトの言葉)を著したソロモン王は、優秀な経営者として財をなし、妻やそばめを山ほど囲ったが、むなしさ、虚無感はかえって募るばかりだった。このことは、この書を読めば一目瞭然だ。
おおかたのものは金銀で解決できるだろう。しかし、人にとって本質的に必要なもの、これが金銀ではまったく解決できない。
そこに、そのような人類を救うために神の子イエスが受肉された。
その罪のない肉が、極刑である十字架で処分される。
そして、三日目に復活する。
私たちのように、肉に罪を宿す者、本質的に極刑を受けるべき者も、このイエス同様、恵みによって死んで、そして復活するのである。
そのとき私たちは、依然として罪深い者であるが、神によって罪なき者として取り扱われる。
これが、「信仰の結果である、たましいの救い」(1:9)に他ならない。信仰は、与えられるのである。
私たちは、金銀によってではなく、イエスの血によって救われたのだ。
金銀が大切でないというつもりはない。
ただ、信心は金銀ではどうにもできないのである。
また、金銀はしばしばマモニズム、物質主義に陥りやすい。上に書いたソロモン王が典型的だ。
---
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傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)
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地獄の沙汰も金次第とはよく言うが、むなしさ、虚無感、喜びのなさ、さびしさなどを解決するのに、一体どれだけの金銀を要するだろうか。
どれだけあっても、そういったものから解放されることはないだろう。
伝道者の書(コヘレトの言葉)を著したソロモン王は、優秀な経営者として財をなし、妻やそばめを山ほど囲ったが、むなしさ、虚無感はかえって募るばかりだった。このことは、この書を読めば一目瞭然だ。
おおかたのものは金銀で解決できるだろう。しかし、人にとって本質的に必要なもの、これが金銀ではまったく解決できない。
そこに、そのような人類を救うために神の子イエスが受肉された。
その罪のない肉が、極刑である十字架で処分される。
そして、三日目に復活する。
私たちのように、肉に罪を宿す者、本質的に極刑を受けるべき者も、このイエス同様、恵みによって死んで、そして復活するのである。
そのとき私たちは、依然として罪深い者であるが、神によって罪なき者として取り扱われる。
これが、「信仰の結果である、たましいの救い」(1:9)に他ならない。信仰は、与えられるのである。
私たちは、金銀によってではなく、イエスの血によって救われたのだ。
金銀が大切でないというつもりはない。
ただ、信心は金銀ではどうにもできないのである。
また、金銀はしばしばマモニズム、物質主義に陥りやすい。上に書いたソロモン王が典型的だ。
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信仰ということ
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(1ペテロ1:7新共同訳)
---
信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。
その、信じさせられるときに必ず通るのが、イエスの十字架と死と復活であり、その信仰へと至る道を切り開いたのはイエス自身である。
つまり、極刑とされ、その刑に服して死に、復活して信仰に至る。
これが上の聖句に言う試練であり、かつてなかったほどの苦しみを味わう。もっとも、その苦しみは他人に分かる類のものではないかもしれない。
いただいた「いのち」は金銀よりもなによりも得難く、罪赦され、神からの責めはもうない。
そうであるから、私たちが日常味わう試練は、ここでいう試練とは異なるものである。
だが、救われた者は、その日常味わう試練に堪えやすくなることは確かなことだ。
信じさせられたがゆえに味わう試練が少なからずあっても、それにも堪えやすくなる。
それは私たちが、支えられているからだ。
十字架の道は、恵みとしかいいようがない狭い道であり、おそらく、見つけようとして見つかる類のものではない。むしろ、吸い寄せられるのである。
パウロ(サウロ)も、自分から信じたのではない。強引に信じさせられた(使徒9:3)。
恵みとはこういうもので、誰にでも機会がある。
---
[一版]2014年 2月10日
[二版]2015年 9月 6日
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信仰とは、信じるものではなく信じさせられるものである。
その、信じさせられるときに必ず通るのが、イエスの十字架と死と復活であり、その信仰へと至る道を切り開いたのはイエス自身である。
つまり、極刑とされ、その刑に服して死に、復活して信仰に至る。
これが上の聖句に言う試練であり、かつてなかったほどの苦しみを味わう。もっとも、その苦しみは他人に分かる類のものではないかもしれない。
いただいた「いのち」は金銀よりもなによりも得難く、罪赦され、神からの責めはもうない。
そうであるから、私たちが日常味わう試練は、ここでいう試練とは異なるものである。
だが、救われた者は、その日常味わう試練に堪えやすくなることは確かなことだ。
信じさせられたがゆえに味わう試練が少なからずあっても、それにも堪えやすくなる。
それは私たちが、支えられているからだ。
十字架の道は、恵みとしかいいようがない狭い道であり、おそらく、見つけようとして見つかる類のものではない。むしろ、吸い寄せられるのである。
パウロ(サウロ)も、自分から信じたのではない。強引に信じさせられた(使徒9:3)。
恵みとはこういうもので、誰にでも機会がある。
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