あかしを受け入れる

 「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3:31-33)

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 イエス・キリストのあかしを受け入れるということについて。

 それは受け入れるというよりか、受け入れさせられる。
 復活のキリストは、恵みによって私たちにお会い下さる。そのときにあかしを受け入れさせられるのである。
 だから、信仰は自分で獲得するものではなく、キリストから与えられるものだ。
 信じるのではない。信じさせられる。

 与えられるために、まず、私たちには十字架の苦難が与えられる。
 これも、気付くと架かっている。架かろうと思って架かる類のものではない。
 そして、この十字架上で死ぬ。
 このときにキリストがわたしたちに、有無をも言わずにあかしを受け入れさせ、そして私たちはそのキリストと共に、新しいいのちをもって復活するのである。

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光によって子供に生まれ変わる

 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。」(ヨハネ3:18-19)

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 世俗の垢にまみれていると、時折、あくどいことや小ずるいことにばかり頭がくるくる回る人に難儀させられることがある。そっちの方ばかりくるくるっと頭が働くようで、感心するほどだ。
 上の聖書箇所からすれば、そのような人はやみを愛している、と言えるのかも知れない。

 では、「御子を信じる」、光を愛するとは、どのようなことだろう。

 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3新共同訳)

 肉から生まれた人間は、程度の差はあれどの人もやみに属しており、罪の中にいる。
 そして私たちは、光によって私たちの罪が照らされて、それを神から赦されたいと切に願っている。
 子供のようになることがすなわち信仰なのであり、御子の十字架と生まれ変わりによってはじめて可能となる。それは子供のような言動をすることではない。
 端的に、御子によって、やみから光へと生まれ変わることができ、そのとき罪は赦される。
 私たちは、アダムの肉を持つ罪まみれのものではあっても、罪赦され神を喜び、御国が中心の世界観へと変わってゆく。

 イエス・キリストという光に照らされた自分の罪を認めるか、それがいやでこの光から身を隠すかのどちらかなのだろう。
 冒頭に書いた頭がくるくるっと回るような人たちも、窮地に陥ってはじめて光を認めることはあるはずだ。

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新生とやり直しの違いについて

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

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 イエスと議員ニコデモとの問答。

 ニコデモの話を遮るかのように、イエスは言い放つ。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 対するニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」などと抜かす。

 ニコデモの言っていることは人生をやり直すということ、その究極として、もう一度胎内から出てくることを言っている。
 だが、イエスが言っていることは、やり直しではない。全く異なる。
 新しく生まれることである。
 やり直しではなく、新しく生まれること、これが「いのち」である。

 やり直しはメッキであり、こすればはがれて、元と同じ「地」が顔をのぞかせる。
 肉がやり直しをしても、所詮は罪深い肉で変わるところがない。
 一方、産みの苦しみを経て新しく生まれるときには、表は全く変わらないのだが、礎石がしっかりと据え付けられる(参/マタイ21:42)。
 このとき肉は赦され、霊が生かすようになり、生きる原理が一瞬にして変わる。

 そして、そのようなことは「風」が起こす。
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
 このようなつかみ所のない風、自分ではどうすることもできない風が、ただ神の御恵みによって自分に吹くときに「御霊によって生まれる者」とされるのである。

 やり直すことと新しく生まれることは全く違うし、自力でできるか風頼みかということも全く違う。

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[一版] 2010年11月20日
[二版] 2012年 9月28日(本日)

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