イエスはその人に君臨して主となる。主よと言われて主になるわけではない

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

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 もうずっと前、すがりつくように聖書を読み続けていた頃、マルコ伝のある箇所でのイエスの言葉をとても嫌みに感じていた頃があった(それがどの箇所なのか、今では思い出せない)。
 そしてその箇所を読むときには、あわれみ深い主のおことばをどうしてこう感じてしまうのだろうといつも葛藤を覚えていた。なぜなら、そのころの私にとって、主イエスがあわれみ深いお方であるということは当たり前の大前提だったからだ。
 しかし、信仰とは信じるものというよりも信じさせられるものなのである。
 私が主よとイエスを追い求めるというよりも、イエスが私のもとを訪れるのである。イエスが私の主である根拠はこのことにある。
 過日の我田引水の日々は、イエスが私の主として君臨したそのときに過ぎ去った。

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狭き道には入らされる

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 世の道は広く、誰しもがそこを通ろうとする。
 周りと同じように振る舞うのは、さしあたり楽なのである。
 流されるようにこの広い道を歩いていく。
 そこにイエスは、狭き道を切り開いた。
 十字架と復活の、いのちへと至る道だ。

 この狭き道に入る門は、目には見えない。
 だから探してもみつからない。
 この門にはいつの間に入らされ、気付くとこのイエスの道にいる。
 そして、イエスと同じく死とよみがえりとをくぐった先に「いのち」がある。

 そののちも、私たちはこの狭い道を通り続ける。
 世とは異なる原理で歩むため道のりは険しい。イエスも「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15:19)と言っている。
 広い道で流されていた方がよっぽどいいようにも思える。
 だが、流されていたのではけっして味わうことのできない「いのち」のすばらしさが何者にも代え難い。

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[一版]2013年11月 7日
[五版]2024年 8月25日

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イエスに何を求めるのか

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)
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 このマタイ伝には金持ちのボンの話が記されている(19:16-22)。
 持ち物を売って貧しい人に分け与えよとイエスに言われ、悲しんで去って行く。
 この金持ちが欲しいと言った永遠のいのちとは、リッチなこの生活を永遠にということだったかもしれない。
 だから、求めなさいというときには何を求めるのかということが常に問われる。
 もちろん魂の救いを求めるのであり、魂の満たされることを求めてたたき続ける。
 求め、捜し、たたけば開かれるとイエスは言う。
 ところが、たたいて、たたいて、さらにたたいても、開かれないどころかびくともしない。
 これだけたたきつづけてもびくともせず、ぼろぼろになってあきらめかけたそのときに、それは開かれイエスが出会ってくださる。

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[一版]2022年 2月20日
[二版]2024年 8月24日

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人にちょっかい出す前にまず自分の救いに専心せよ

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。
 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイ7:1-6)

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 この世はあらゆる種類のさばきに満ちている。
 あのSNSなど、罪深いアダムの肉の性質がここまでわかりやすく現れている。
 法令はこれを禁じて臭いものに蓋をしようとする。
 一方、神の律法はこの臭いものは自分の罪であるという自覚、自分は罪人であるという自覚に導くものである。
 この自覚は、自分の内側から気づいて身になるものなので、「あなたの目のちりを取らせてください」と他人が律法違反を指摘することは、罪そのものについては意味はなく、単にさばくためにさばいている。聖句を用いてさばくのだから、正にこの世はあらゆる種類のさばきに満ちている。
 昔も今もそういう世であるからこそ、自分の罪に自ら気づくことの大切さはとても大きい。
 その罪に死んで、イエスと同じくよみがえって救われるのである。
 言い方を変えると、人にちょっかい出す前にまず自分の救いに専心せよということになる。

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[一版]2022年 2月13日
[二版]2024年 8月18日

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ものがありふれたら一番大切なものを見失ってしまった

 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:31-33)

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 唐突だが、近代という時代は、もっぱら頭による支配だったのではないかと思い始めている。
 ヴォルテールやルソーらが頭で紡いだ思想はフランス革命の一因となり、建前の上ではこれら諸思想が政治原理となった。
 物理学を用いエネルギーを操って、機関車や飛行機といった金属の塊を自在に動かせるようになった。
 農学や化学は収量を大幅に増やし、さらにそれを加工した食べ物や飲み物は大量に増産された。
 原油から合成繊維が作り出され、安価な服があふれんばかりに行き渡った。
 心配することなど何一つない、なんでもある! 我らが頭の大勝利だ!
 なにしろなんでもあるので、神の国は必要とされなくなった。
 心身共に疲弊しきってぼろんぼろんになりながら、片時もスマホを離さず勝利の雄叫びを上げている。
 しかし、この近代にあっても、神の国とその義に満ち足りたなら、その人は、この頭の支配から解放されて自然な営みをできるようになる。
 ほんとうのもの、すなわちイエスの復活のいのちが与えられると、飲んでもまた乾くものに満足できない人がすっかり満ち足りるのである。

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[一版]2018年 2月11日
[三版]2024年 8月17日

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あなたのうちの光

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22-23)

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 「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」。

 「あなたのうちの光」。
 これが私たちの中で光放たなければ、私たちのうちの暗さは耐え難い。
 福音書の登場人物で言うとニコデががこの暗さに絶望している。
 そしてこの点については、どの人もニコデモと変わらない。
 日々を忙しくしてこの暗さから目をそらすようにしている人も少なくないだろう。
 強い刺激でこの暗さをごまかす人も少なくないだろう。
 しかし、どうしようとも私たちのうちの光は暗いのだ。
 暗く、絶望している。
 これは、魂についての問題であるから、頭の考えでどうなるものでもない。
 さらに輪を掛けて、あの物質主義が私たちをこの暗さの淵に追いつめ続けている。

 では、何が私のうちを照らすのであろう。
 「あなたのうちの光」、それは「いのち」だ。
 この「いのち」の光が内側から輝く。
 そして、内側を照らすいのちの光が、私たちの魂をよみがえらせる。
 イエスは、この「いのち」を多くの人に与えるために、この世に来られた。

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[一版]2007年11月18日
[八版]2024年 8月12日

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それがなくなると困り果てるもの

 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

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 宝とは何だろう。その人にとって価値の高いもの、値打ちのあるものというところだろうか。
 あるいは、それがなくなるとその人が非常に困るものともいえるだろう。
 金銭については、私にとって生活の必要のものであり、価値は低くはないがそれほど高くもなく、また、なくなると困るが一番困るものではない。
 もしなくなったとして一番困るとしたら、イエスへの信仰、神との和解である。これほど価値のあるものはなく、長年にわたって私の心棒でありつづけてきたものだ。
 これは天の宝であり、上にイエスも言うように、実際にはなくなることはない。
 私が私の力で天にたくわえたというよりは、天から宝が自分に降ってきたものなので、なくなりようがないのである。

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私が神に赦されたいからあなたを赦しますとのメールが来た

 「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14-15)

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 まだネットに性善説が残っていた頃には、私も見知らぬクリスチャンたちとメールで交流していた。
 ある人から久しぶりにメールがあったのだが、私はあなたを赦しますという。
 私はこの人に何かした覚えはないのだが、この人は何かのことで私に腹が立ったのだろう。
 それにしても、私はあなたを赦しますというのは、このメールを寄こした人が御父に赦されたいがために書いたことが明らかで、私の何らかのことでなど赦してなんかいないのである。
 全く身に覚えのないことで赦すの赦さないの、しかもそれは私のためなどではないのだから、返信など書かずにほおったことは言うまでもない。

 この人は、おそらくは聖書をマニュアルと思っていたのだと思う。
 書いてあることをそのとおりにやれば天の御父から赦される、そういうマニュアルだ。
 しかしそうではない。聖書は十字架と復活なのである。
 イエスが切り拓いた狭い道に入り込まされ、苦しみの末に十字架に死ぬ。
 そしてイエスを介して御父がすべての罪を赦してくださり復活する。

 私は狭量な人間であるから、何かあるとその人を許せずにいる。
 そのことで心が責められることも多くある。また、私のことを許さない人も数多い。
 だが、私はイエスを介した造り主との和平の中にいる。
 一番大切な、というより唯一大切な赦しをいただき、こんな狭量な人間であっても心満ち足りている。

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[一版]2022年 2月 6日
[二版]2024年 8月10日

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施しの報いは神からのものか、人からのものか

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:1-2)

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 ある歌手は、「しない善よりする偽善」と言っている。また、その人の奥さんのこれまた歌手は、かつて東北の大震災があったときにトラック10台を連ねて何でも提供できるようにという趣旨のことを当時言っていた。
 まさに自分の前でラッパを吹いているわけだが、こういう人たちの受ける報いというのは、歌手としてのブランドイメージの向上ということになるのだろうか。
 だが、善と偽善とは似て非なるものであり、トラック10台で駆けつけたとしても、それは果たして被災地の隣人たちを愛しているからなのだろうか。この人たちを想っていてのことだろうか。むしろ、この人たちを踏み台にして自分のブランドイメージを高めているとすれば、偽善というより悪だろう。
 そうではなく、もっぱらその人のために施すときに御父が報いて下さるとイエスは言う。どういうところから出た行動なのか、その心の内を御父はご存じなのである。

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