天の王国、世の王国

 「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
 彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」(ヨハネ18:37-38)

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 総督ピラトのイエスへの尋問。

 「それでは、あなたは王なのですか」というピラトの尋問は、イエスがローマ法に照らして有罪(guilty)か無罪(not guilty)かを問うものである。
 つまり、イエスがカイザルに対する反逆罪に当たるかどうかを調べている。
 これは、これからイエスが成し遂げようとする肉の罪(sin)の赦しとは全く異なる。
 この世の権力者ピラトはこの違いが分からないので、「真理とは何ですか」とイエスに問う。

 このイエスとピラトとのすれ違いは、突き詰めると、天の者と世の者とは分かり合うことができないことの象徴なのかもしれない。
 天の王国と世の王国とは異なるのだ。
 しかし私たちは、世の王国で労苦しながらも国籍は天にある。
 神の子の十字架と復活が、私たちに罪(sin)の赦しと御父との和解をもたらしてくれたので、私たちはイエスを介して御父とつながっているからである。

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[一版]2008年 5月 3日
[二版]2011年 5月28日
[三版]2021年 4月29日(本日)

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肉の弱さについて

 「一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:25-27)

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 一番弟子を自称するシモン・ペテロはイエスを否む。

 大祭司邸の私刑の場に、ペテロは潜り込む。
 弟子としてこの私刑を見届ける必要を感じたからだろうか。あるいは、もっとドライに情報収集をしていたのだろうか。
 おそらくそうではなく、単にイエスが心配だったからだろう。
 そうすると、神のことを人が心配するという構図になる。
 そして周囲の者から詰問されると「そんな者ではない」とイエスを否み、今度は人が神を突き放す。

 このペテロの一連の行動にこそ、人間の肉の弱さがよく現れている。
 この弱い肉は神の律法を守ることができずに罪が宿る。
 しかしイエスは肉のこの罪から人を救うべく、ここで私刑を受けているのである。
 肉の罪からの救いを成し遂げようとするイエスと、その肉の弱さを無防備にさらすペテロとが、大祭司邸内で対比されている。

 そしてイエスがここで行おうとしているのは、この弱い肉に宿る罪からの解放なのであり、弱い肉を強くすることではない。
 もしも弱い肉を強くすることができても、それは救いとは反対の無頼なのではないか。
 だから、イエスはこのペテロを情けなさいとかその類のものは感じてはいないだろう。むしろ、罪深さを自覚することを願い続けてきたはずだ。
 このことは、私たちについてもそのままあてはまる。イエスを否むかどうかよりずっと大切なことだ。

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[一版]2019年 5月 6日
[二版]2021年 4月25日(本日)

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イエスはスケープゴートか

 「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
 カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(ヨハネ18:10-14)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、こう書いている。
 「この現し身(うつしみ)は自分自身のそして社会の、象徴的な生けにえであってかまわない。そう覚悟したんだ。」
(「自分の中に孤独を抱け」,p.92)

 これは、上の聖書箇所で大祭司カヤパが言ったことを自分自身についてそうあろうと覚悟したということだろう。岡本太郎は、精神的に追い詰められた青年時代を過ごしたらしく、そのさなかにこの覚悟をしたようだ。
 通勤電車の中でこの言葉に接したとき、私は感動のあまり泣いてしまった。
 カヤパの言うことは今でも多く行われていることで、スケープゴートをしつらえて集団の維持を図るということだ。ここではあえて善し悪しは問わないが、自らそのスケープゴートたらんとはと驚いて感極まった。
 さてイエスは捕らえられたが、これは多くの人の罪が赦されて自らの肉を御父への捧げ物とするためであり、およそすべての人への神の愛の現れである。
 イエスはパリサイ人社会のスケープゴートにさせられたのでも、また、パリサイ人社会のために自らスケープゴート役を買って出たのでもない。まさに「父がわたしに下さった杯」なのである。
 人は自分を造った御父とあまりにも離れてしまったが、イエスを介してこの御父に赦され懐に戻るとき、自然さと満足感を取り戻すことができる。
 今朝、駅の構内を歩いていると、「私は許さない。あなたは許されない」と書かれているポスターに出くわした。
 「あなたは許されない」。
 聖書のメッセージとは真逆でむき出しのこの言葉を前にして、私はしばらくその場に立ちつくしてしまった。コロナ禍はもう1年以上になり、先もまったく見えてこない。現代の貪欲なパリサイ人たちは、次から次へとスケープゴートを消費してゆく。
 帰宅してこの文章を書き始めたのだが、聖書に向かうと揺れた自分をすぐ取り戻せる、自分の軸にすぐ戻れるので、杯を飲んでくれたイエスに改めて感謝した。

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信仰を与えられるということ

 「正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:25-26)

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 イエスの祈り。

 信仰とは、自分で取得できる類のものではなく、信じさせられるものである。
 このことについては何度か書いてきたが、上の聖書箇所もその信仰についてである。

 まず、弟子たちは「あなたがわたしを遣わされたことを知りました」。
 つまりイエスが知らせてはじめて御父を分かったのである。
 神が神であるということについて、どれだけ自分の力でつかみ取ろうとしても、観念の域を出ることはないだろう。
 それとは違い、イエスが私たちにお会い下さるとき、私たちは神が神であることを分からされる。サウロ(パウロ)を思い起こせばこのことは明らかだ。

 神の実在と統御、これを認めざるを得なくなったとき、自分の好き放題に生きていた頃は終わり、イエスを介した御父とのつながりの中に入る。
 私たちは、人としての本来の自然さに戻ったのだ。
 救いとは、このような回復のことであり、迷っていた羊がもとに戻ることである。

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[一版]2014年11月 8日
[二版]2017年 7月23日
[三版]2019年 5月 5日
[四版]2021年 4月17日(本日)

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『この世のものでない』人々

 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:14-20)

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 イエスの祈り。

 イエスは正に今、自分自身を聖別しようとしている。
 そして、のちの復活のイエス・キリストは、弟子たちを聖別して、イエスと同じくこの世から切り離す。
 イエスはこの聖別を、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」、すなわち、聖書越しに想像するしかない私たちについても御父に願っている。
 イエスのみ姿を知らなくとも、復活のイエスが出会ってくださり私たちは聖別されるのである。
 この恵みによって私たちはイエスを信じることとなる。正確には、聖別によってイエスを信じさせられる。

 そのイエスは父に、これら「この世のものでない」人々を「この世から取り去ってくださるように」とは願わない。
 私たちに安逸な逃避をさせるためにイエスが十字架にかかる訳ではないし、厄除けの類いとは全く異なるものだ。
 復活のイエスからいただいたこの素晴らしい「いのち」は、かえってイエスと同じく世に打ち勝つためのものであり、逆に言うと、私たちの存在によって世が死んでいることが対比によって明かされる。
 死人たちが「いのち」ある私たちを、死人でないので憎んでいる。
 それでイエスは、「悪い者から守ってくださるよう」、御父に取りなしている。
 そして、「彼らのことばによってわたしを信じる人々」が、この死人の中から救われる。私もその一人だ。

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[1版]2008年 4月27日
[2版]2011年 5月18日
[3版]2014年11月 3日
[4版]2017年 7月17日
[5版]2019年 5月 1日
[6版]2021年 4月11日(本日)

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『みことば』と『あなたがわたしに下さったみことば』

 「いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(ヨハネ17:7-8)

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 イエスの祈り。

 私たちは聖書を通して、日々みことばに接している。
 聖書に何かがあると思うので、日々みことばを調べている。
 そのことが無駄になることは決してない。
 だがそれは「みことば」であって、「あなたがわたしに下さったみことば」とは異なる。

 両者はいったい、何が違うのだろう。
 復活のイエスは、みことばを通して私たちにお会いになる。
 まさに、「あなたがわたしに下さったみことば」を通して、私たちにお会いになる。
 このとき、みことばは字面の意味などはるかに超えて私たちの中に入ってきて、私たちは子を知り、御父を知ることとなる。

 違う言い方をすると、日ごろ接するみことばは、頭で理解し想像したり考えたりするもの以上のものではない。そこは他の書物と変わるところはあまりない。
 ところがそのときには、みことばという剣で、イエスは私を一瞬のうちになぎ倒すのである。
 なぎ倒されてはじめて、私はイエスが誰かを知り、御父の全能さに圧倒される。
 どのみことばかが与えられるのかは、そのときにならないと分からない。
 だからこそ、日々みことばに接することが大切になってくる。
 みことばを知らないのに、みことばを介したイエスとの出会いがどうしてあり得るだろう。
 賢い娘と愚かな娘のたとえ話にあるように、備えが非常に大切なのである。

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[一版]2017年 7月 9日
[二版]2019年 4月20日
[三版]2021年 4月 4日(本日)

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彼らはあなたのみことばを守りました

 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)

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 イエスの祈り。
 ここでイエスは、御父に私たちを取りなしている。

 一体いつ、私たちは御父のみ言葉を守っただろうか。守ることができたであろうか。
 第一、私たちのアダムの肉は、そのようにはできていないではないか。
 それなのに、イエスは「彼らはあなたのみことばを守りました。」とみなした上で御父に取りなしている。
 みことばを守ることの到底叶わぬ私たちを、みことばを守ったから義とみなして下さい、そうイエスは御父にとりなしている。
 そして、イエスがこれから行う十字架と復活のわざを通して、私たちはこの信仰義認にあずかったのである。

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[一版]2011年 5月14日
[二版]2017年 7月 2日
[三版]2019年 4月14日
[四版]2021年 4月 3日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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