律法の下

 「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(ガラテヤ4:3-7)

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 毎日おなじような話が続くのだが、律法とキリストについて。

 律法は果たして「幼稚な教え」なのだろうか。
 私はそうは思わない。神の完全なる秩序の現れだと思っている。
 ただ、人間の罪深い肉がその律法を行い詰めて義とされることがけっしてない点で、機能しきれない。
 イエスはこの世に受肉し、御自身が制定された「幼稚な」律法の支配下に自ら入られた。
 そしてイエスの肉は、律法を全うした。
 イエスに罪がないと言うのは、この意味においてであり、その罪のないイエスが十字架に架かる。
 傷のないささげものが、神との和解のためにささげられたのだ。
(「もしそのささげ物が和解のいけにえの場合、牛をささげようとするなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前にささげなければならない。」レビ3:1)
 十字架もまた、幼稚な律法の下で執り行われたのであり、イエスは肉を有していた時代、十字架の死までも律法を遵守なされた。

 しかしそのことは、「律法の下にある者を贖い出すため」である。
 復活のキリストに出会って信じる者が義とされる、そのような新しい契約の時代が始まった。
 ちなみに復活は、おそらく律法にも預言にもない。
(1コリント15:4の脚注に「詩篇16:8以下」とあるのだが、ピンとこない。)
 旧い約束の時代は神によって律法の奴隷であったのだが、今は信仰によって神の子ととしての身分を授かる。
 そのためのステップは、キリストが自らお示し下さったし、また要所要所でキリストが関わって下さる。

 律法は、その下で死ぬために、その人の古い時代が終わるまではその必要性がなくなることはない。
 律法が真に機能するのは、むしろ、この死に追い込む機能であるから、律法はやはり幼稚な教えではない。
 罪のないイエスが最高刑の十字架だったのであれば、私たちは一体どれだけ重い罪なのだろうか。
 だが恵みによって、キリスト同様律法に死に、キリスト同様復活して、信仰によって神の子とされて罪赦されるのである。

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養育係

 「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。
 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:19-26)

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 律法は、いのちを与えるものではない。
 だが、いのちを賜るために欠かせぬ役割、すなわち養育係としての役割がある。
 その養育係は、その人の違反を絶えず示し続ける。
 私たちは、「信仰が現われる以前」、旧約聖書によって「罪の下に閉じ込めました」。
 そしてそのことは、義を求めるために、言い換えると、いわば心の準備を整えるために必要不可欠なことなのだ。
 それは、「約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるため」である。
 約束とは、「神の子ども」となることである。

 罪が満ちあふれそうになるとき、義を求める人のもとに約束の子孫イエス・キリストが来られる。
 そのキリストを信じるとき、義と認められていのちを与えられる。
 その人は、養育係であった律法のくびきから解放されて、自由になっている。

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のろいと自由

 「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。
 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。
 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:9-13)

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 律法は、どこまで行っても義とされない、到達点がないという点で、その人をのろわれるべき存在にする。
 だがキリストは、「木」すなわち十字架に架かって自らのろわれるべき存在となられた。
 いかに罪を犯さなかったとはいえ、イエスは人間と同じ肉を持っている。
 そのイエスが肉を処罰するために、十字架に架かるのである。
 だとしたら、私たちの罪深さはどれほどのものであろうか。
 ちなみにその罪は、律法によってあぶりだされる。

 しかし、キリストの十字架によって、自らのろわれるべき存在となられたキリストを信じる私たちは、律法が拘束し続けていたのろわれるべき罪の肉から解放されて、義と認められる。
 律法自体は存在するのだが、その律法からは自由な立場にある。

 その自由は、ただ神の恵みによる。
 神の恵みとは、十字架のキリスト、復活のイエスに出会うということである。

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義と認められるということ

 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。
 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。
 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:16-21)

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 「律法の行ないによっては義と認められ」ないのみならず、律法を行うことによって、自分が不義な存在であることが判明する。
 であるから「キリストは罪の助成者」なのではなく、その人は「律法によって律法に死」んだのである。
 人間の肉が罪深いゆえんである。

 しかし、キリストがそうであったように、その罪の肉は最高刑としての十字架に釘付けにされて、そしてキリストとともに復活する。
 それはあたかも、「キリストが私のうちに生きておられる」ようなことであり、この一連の流れはただ神の恵みによるのである。

 そうであるから、もしも義が律法に依っているとすると、「それこそキリストの死は無意味」、十字架というのは意味や意義をまったく見出せなくなってしまう。
 律法は義に到達するためのものではなく、死に追いやるためのものである。
 その死からの救いがキリストの十字架と復活であり、その「キリストを信じる信仰によって義と認められる」のである。

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欲、罪、死

 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:15)

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 ある意味、有名な聖句。
 街宣で好んで用いられているようだ。

 「欲が」とあるが、人間はそもそも、あらゆる種類の欲を持っている。
 性欲がなければ、子孫は続かない。
 食欲が欠けると、自身の生存すら危ぶまれる。
 所有欲は、さまざまな行動の原動力となる。

 ところが、その欲が罪に行き着いてしまう。
 それは、例えば所有欲のために窃盗という罪を犯す、というような意味ではない。
 人間の肉は種々の欲を内在しており、それゆえそもそも神の御前に罪深いのである。
 そしてこの罪の肉は、律法により死とされる。
 このことは、パウロが次のように書いているのと同じことだ。

 「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:23-24)

 この死から救ってくださるのが、御自身死から復活されたキリストである。
 その救いのためには、死を認めるステップがどうしても必要だろう。
 律法群を行おうとすればするほど、それらを守りおおせず、罪深い死の肉であることに、あるいは気付くだろう。
(パリサイ人は、全く無自覚だった。)
 気付いたとき、その人は義を乞い願うだろう。
 そのような人に、神の恵みによってキリストが出会ってくださる。

 その意味で、「罪が熟すると死を生みます」というのは、やはり福音、よき知らせなのである。
 ただ、この箇所だけ拡声器でがなりたてても、それは死を用いた脅迫としか受け止められないのではないだろうか。
 「死」ということの意味合いが、違うのだろう。

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一つのとげ

 「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:7-9)

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 「その啓示」は、あまりにも素晴らしい。
 素晴らしすぎるので、有頂天にならないように、神は「一つのとげ」をパウロに与えた。

 パウロが言う啓示というのは、端的に復活のイエスとの出会いだと思う。
(それ以上の何かを、ちょっと思いつかない。)
 今まで迫害する側にいたパウロが、そのキリストによって救われて罪赦された。
 迫害していたのが、実は迫害対象にこそ真理があった。
 だから驚きもひとしおで、その素晴らしさをかみしめたことだろう。
 そして、その救いこそ神の恵みである。
 パウロは主の目に善を行って義とされたのでは、全くない。
 かえって主を迫害して、けれども義とされたのである。

 「一つのとげ」については、目の病気だとか、さては鬱病だとか、いろいろ聞いたことがある。
 確定的なことは何も分からないが、「一つのとげ」というのは「三度も主に」願ったほど苦痛なものだったことは確かなようである。
 神は、恵みとセットで、この「一つのとげ」を与えられたのである。
 それは恵みがあまりに素晴らしいので、そのことで「高ぶることのない」ためだ。
 また「一つのとげ」それ自体が、恵みによって救われたことの、自身への証明でもある。
 ある種の苦痛さこそ、救いの証しなのだ。
 それだから、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と主は仰ったのだろう。

 「一つのとげ」という弱さの部分こそ、神の御力が光り輝く。
 このことはなにも、不義を義とされたパウロに限った話では全くない。

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神との和解

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:17-21)

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 イエス・キリストは、律法に照らして全く落ち度がなかった。
(しばしばパリサイ人と対立するが、それは安息日論争に代表されるように、彼らがおかしな解釈をしていた事に由来する。)
 また、ローマ法に照らしても、罪とされるようなことはされていない。
 そのキリストが、最高刑としての十字架に架かる。
 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」、つまりキリストを十字架につけたのは、誰であろう、父である神である。
 というよりも、神が子イエスをこの世に送ったのは、子を十字架につけるためだった。

 それは、「古いもの」を過ぎ去らせるためである。
 この古いものとは、律法によって死へと堕した罪深い肉を指す。
 イエスは、父によって復活して肉を脱ぎ捨て、その復活の初穂となられた。
 「すべてが新しくな」ったのだ。
 全てを新しくするという契約を携えて、神はキリストを通して、御自身と人間との和解を試みる。
 その和解とは、「違反行為の責めを人々に負わせない」というものだ。
 すなわち、肉の罪を赦して義と認めるということである。
 その人を指して、「新しく造られた者」と呼ぶ。

 パウロは言う。「神の和解を受け入れなさい」。
 神は、ある人に和解勧告を迫る。
 それは、全くの神の恵みによるものだ。
 人には罪深い肉があるので、この勧告に対して全身で抵抗する。
 だが最後、抵抗しきれなくなって、キリストのように最高刑によって死ぬ。
 そして、キリスト同様、「新しく造られた者」として、キリスト同様よみがえる。
 そのときには、神に罪赦されて義と認められた、神との和解が、その人にはある。

 「キリストのうちにある」とは、ある一点をキリストによって通り超えて神と和解していることを言うのではないだろうか。

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律法と御霊

 「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。」(2コリント3:6-10)

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 古い契約と新しい契約ということについて。

 古い契約とは、「石に刻まれた文字」、すなわち十戒をはじめとする律法群である。
 この文字の役割は、その人を殺すことにある。
 つまり罪深きこの肉体に律法が照らし合わせるときに、どうであっても罪に定められて、「死の務め」に付き従うことになってしまう。
 それでも神が与えた絶対的な善の体系は、モーセの顔を覆わざるを得なかったほどにまばゆく輝いている。

 一方、新しい契約とは、キリストが十字架に死んで肉を処理して復活なされたことに由来する御霊についてのものである。
 御霊は、死んでいた人を生かす。
 初穂であるキリストに続く復活をする。
 これが、キリストが下さった新しい契約である。

 一度は古い契約に基づく死に行き着く必要がある。
 というより、律法は死に追い込んでいる。
 そして新しい契約がやってきたとき、その人はよみがえる。

 例えていうなら、律法は月で御霊は太陽だ。
 夜、月は光り輝いている。だが、太陽が昇ると、その輝きの故に月は見えなくなる。
 だが、月があること自体は代わりがない。

 キリストの栄光に比べると律法はめだたないのだが、律法が死へと追い込んで、恵みの御霊がその人をよみがえらせる。

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最後のラッパ

 「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(1コリント15:51-53)

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 いわゆる携挙についての箇所。

 体のよみがえりについては、イエス御自身「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:29)と仰っている。
 つまり、終わりの日には皆よみがえって、ある者は「いのちを受け」、またある者は「さばきを受ける」。
 その意味での体のよみがえり、これは最後のラッパによってである。

 だが、よみがえりということは入れ子構造のような者だと思う。
 体のよみがえりとは別の、「変えられる」よみがえりである。
 その人にだけ聞こえる最後のラッパ。
(というのは、既に何度もラッパが聞こえていて、追いつめられ続けていた。)
 その最後のラッパというとどめによって、一瞬のうちに変えられる。
 そこには、罪深い肉を赦された自由がある。
 罪深い肉自体は変わらないので、性格や行いが変わるわけでは全くない。
 だが、解放されて自由になるという点において、大きく変わる。しかも一瞬のうちに変わる。
 このよみがえりは、体のよみがえりの小さな相似形だろう。
 だが、小さくとも、とても大切なことだ。
 なぜなら、それが信仰ということなのだから。
 信仰を得て自由になったことが、大きく変わった点なのである。

 だから、最後のラッパとはこの場合、神の恵みなのだ。

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御名のため

 「主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。
 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。
 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、
 私を義の道に導かれます。」(詩23:1-3)

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 ひさしぶりに詩篇から。有名な23篇。

 「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」
 神はその人のたましいを生き返らせ、義の道へと導く。
 だがそれはいったい、何のためなのか。
 「御名のため」だからである。
 その人のためとかその人のことを思って、ということでは、ない。

 「御名のため」。
 このみ言葉は、旧約聖書に頻出する。
 神ご自身のために、というくらいの意味だろうか。
 そうすると、神がその人のたましいをお救いになるのは、その人を思ってのことなどではなく、神御自身のためだ。
 逆に言うと、その人の救いというのを、神はどうしても必要とされている。
 これが「御名のため」であり、言い換えると神の愛、その形ではないだろうか。
 また、その人の側から見ると、この出来事は神の恵みだろう。

 神は御名のために、この世に神の子・イエスを送られた。
 神は御名のために、ひとり子イエスを十字架に処した。
 神は御名のために、イエスを復活された。
 その復活のイエスは御名によってある人に現れてその人を救い、義の道へと導いてゆく。
 それは、私たちを救いたいからではなく、私たちは神にとって救われる必要が大きいからである。
 罪深い肉にあって私たちのたましいがたましいがうめくことを、神はよしとしないのだ。

 上の引用聖句、詩の前半部分は、ひとことでいいくるめると平安ということ。

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