神の御前に日々悔いなく

 「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」(ルカ12:16-20)

---

 このたとえ話は、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(21節)ということを例えている、という。
 しかし、それだと「神の前に富む」ということがどう例えられているのかが分からない。
 そこで、たとえの目的とされる事柄とは全く別のことを書いてゆこうと思う。

 溜め込んだ男は言う。
 「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。
 何年先までも困ることは何もない、さあ、我が魂よ、安んじて食べて飲んで楽しもうじゃないか!
 そんな男を神は嘲笑する。
 「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」。

 人についての数少ない絶対的平等の中に、「人は必ず死ぬ」というのがある。
 ただ、いつ死ぬのか、それは全くもって誰にも分からない。
 極端な話、私はこの記事をアップして5分後に脳卒中を起こす可能性が、全くのゼロではない。
 明日外出すれば、事故の可能性が、ゼロではない。
 この、いつ死ぬのかが分からないということは、神の知恵のような気がする。
 なぜかというと、死の有限性が、今日一日を全うしようというインセンティブを与えるであろうから。
 言い換えると、「いつ死ぬとも知れぬ身だから、今日も悔いなくやろう」ということ。
 「悔いなく」というのは、この場合、もちろん神の御前に悔いなく、という前提がある。
 曲がりなりにも人が一日一日を大切に過ごすために、神は「死の可能性」を見せつけているように思う。
 「死の可能性」を見るのは、「生への欲求」の裏返しなので、むしろ分かりはよい。

 「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。
 この男にとっての「安心」とは、食い物(飲み物)にしばらく困らないということだ。
 だが、彼はもし死なずに済むとしても、次第に無聊さをかこつことになってしまったであろう。
 だから、もしかすると「いつ死ぬとも知れぬ身だから、今日も悔いなくやろう」というスタンスこそが「神の前に富む」ということなのかも知れない。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )