イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
実を結ぶとは
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1-5)
---
剪定をするのは御父であるから、実を結ぶかどうか、さらに、そもそも実とは何かということを判断するのは、御父であって人ではない。
そうすると、たとえば善行の類は、人にはほめられても御父にとってはどうなのであろうか。
イエスもこう言っている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:3-4)。
では、実を結ぶとはいったい何のことであろうか。
それは、私たちが死んでよみがえって御父と和解することである。
イエスはこのことの型をこれから示す。
このイエスにとどまることが、救いの唯一の手段であることを明らかにするためである。
御父は、この世でのご自身の手下が欲しいのではない。
一人でも多く、この世からお救いになりたいのである。
---
[一版]2017年 5月30日
[二版]2019年 3月14日
[三版]2023年 4月30日
健やかな一日をお祈りします!
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わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:1-5)
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剪定をするのは御父であるから、実を結ぶかどうか、さらに、そもそも実とは何かということを判断するのは、御父であって人ではない。
そうすると、たとえば善行の類は、人にはほめられても御父にとってはどうなのであろうか。
イエスもこう言っている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:3-4)。
では、実を結ぶとはいったい何のことであろうか。
それは、私たちが死んでよみがえって御父と和解することである。
イエスはこのことの型をこれから示す。
このイエスにとどまることが、救いの唯一の手段であることを明らかにするためである。
御父は、この世でのご自身の手下が欲しいのではない。
一人でも多く、この世からお救いになりたいのである。
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イエスが与える平安
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
---
平安とは何だろう。イエスが与えるこの平安とは何だろう。
ストレスのないことだろうか。
しかし、このストレスは多くの場合外部環境によってもたらされるので、イエスが私たちひとりひとりに与える何かとは異なるように思える。
イエスがここで約束しているのは、もっとずっと奥深いところ、すなわちたましいの平安のことである。
このことについては、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)ともイエスは言っているので、平安というのは、御父との和解によってたましいの滅びがなくなるという安堵感のことをいうのかもしれない。
だから、イエスが平安をいうときにも、御父と私たちとの和解、そしてこの和解をもたらすイエスの十字架と復活のわざが底流にある。
---
[一版]2021年 2月23日
[二版]2023年 4月29日
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平安とは何だろう。イエスが与えるこの平安とは何だろう。
ストレスのないことだろうか。
しかし、このストレスは多くの場合外部環境によってもたらされるので、イエスが私たちひとりひとりに与える何かとは異なるように思える。
イエスがここで約束しているのは、もっとずっと奥深いところ、すなわちたましいの平安のことである。
このことについては、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)ともイエスは言っているので、平安というのは、御父との和解によってたましいの滅びがなくなるという安堵感のことをいうのかもしれない。
だから、イエスが平安をいうときにも、御父と私たちとの和解、そしてこの和解をもたらすイエスの十字架と復活のわざが底流にある。
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世の原理に死に御父の原理によみがえる
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)
---
聖書の目的、すなわち救いということ。
「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。
しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
世は異なる原理によるからである。
たとえばマモニズムにどっぷり漬かっている人は、イエスとその救いそのものを否むだろう。
だが、そのような人々の中にも、魂の奥底では救いを必要としている人も少なくないはずだ。
救いを求めるとき、救い主イエスは必ず応えてくださる。
世の原理からは離れることとなるのだが、そのことも含めてすべてイエスが整えてくれている。
このイエスの十字架の道は、世の原理に死んで、それとはまるで異なる御父の原理によみがえるものであるから、かつてなく辛い道のりを歩かされる。
しかしよみがえったときには原理や価値観が新たにされる。それも瞬時に変わる。聖霊が住まわれるからだ。
自分のことになるが、昔日教会に行っていた頃、「キリストにはかえられません」、あの有名な賛美歌を悲しい気持ちで歌っていた。
富も宝も欲しいし、有名にもなりたい。それをあきらめなくてはいけないのだろうか?
しかし、今振り返ると、そういったものをあきらめたわけではないのだが、そういったものに対する興味そのものがいつしか消えてしまった。
それは、富よりも名誉よりも、人にとって本来的に必要なもので満たされたからではないかと思っている。
---
[一版]2014年 9月15日
[二版]2017年 5月23日
[三版]2019年 3月 9日
[四版]2021年 2月21日
[五版]2023年 4月23日
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その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)
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聖書の目的、すなわち救いということ。
「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。
しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
世は異なる原理によるからである。
たとえばマモニズムにどっぷり漬かっている人は、イエスとその救いそのものを否むだろう。
だが、そのような人々の中にも、魂の奥底では救いを必要としている人も少なくないはずだ。
救いを求めるとき、救い主イエスは必ず応えてくださる。
世の原理からは離れることとなるのだが、そのことも含めてすべてイエスが整えてくれている。
このイエスの十字架の道は、世の原理に死んで、それとはまるで異なる御父の原理によみがえるものであるから、かつてなく辛い道のりを歩かされる。
しかしよみがえったときには原理や価値観が新たにされる。それも瞬時に変わる。聖霊が住まわれるからだ。
自分のことになるが、昔日教会に行っていた頃、「キリストにはかえられません」、あの有名な賛美歌を悲しい気持ちで歌っていた。
富も宝も欲しいし、有名にもなりたい。それをあきらめなくてはいけないのだろうか?
しかし、今振り返ると、そういったものをあきらめたわけではないのだが、そういったものに対する興味そのものがいつしか消えてしまった。
それは、富よりも名誉よりも、人にとって本来的に必要なもので満たされたからではないかと思っている。
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[一版]2014年 9月15日
[二版]2017年 5月23日
[三版]2019年 3月 9日
[四版]2021年 2月21日
[五版]2023年 4月23日
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イエスを知っているのにイエスを知らない
「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:7-9)
---
ピリポはイエスの弟子として、長い間イエスに付き従っている。
そのピリポは、イエスに「私たちに父を見せてください」と願う。
しかしイエスは「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」と返す。
知っているのに知らないではないかと言い返している。
より長くいればイエスを知る、よりよく知るということではない。
イエスを知るときというのは、むしろ一瞬である。
この一瞬にイエスを知り、イエス越しに御父を見る。
このとき御父は、イエスによって罪赦された私たちと和解してくださる。
---
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ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:7-9)
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ピリポはイエスの弟子として、長い間イエスに付き従っている。
そのピリポは、イエスに「私たちに父を見せてください」と願う。
しかしイエスは「こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか」と返す。
知っているのに知らないではないかと言い返している。
より長くいればイエスを知る、よりよく知るということではない。
イエスを知るときというのは、むしろ一瞬である。
この一瞬にイエスを知り、イエス越しに御父を見る。
このとき御父は、イエスによって罪赦された私たちと和解してくださる。
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イエスが拓く道
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)
---
イエスは行かれる。
「場所」を備えるために、父の家へと。
十字架の道を通って。
この道をかつて通った者はいない。
イエスが初めて拓く道だ。
重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
その十字架の上で死に、三日目によみがえる。
よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。罪を宿すすべての肉は十字架で葬られてしまった。
こうして道が拓かれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道なのである。
救われるためには極刑を受けて実際に死ななくてはならない、ということではない。
だが、死ぬ、という点では全く変わるところはない。そして、イエスと同じくよみがえる。
このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いている。
イエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とも言う。
この道の先にある父の御許では、イエスが私たちの場所を備えてくださっている。
私たちがどこに属する者であるかが、がらりと変わるのである。
---
[一版]2008年 4月11日
[二版]2014年 9月14日
[三版]2017年 5月22日
[四版]2019年 3月 3日
[五版]2021年 2月12日
[六版]2023年 4月15日
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トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)
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イエスは行かれる。
「場所」を備えるために、父の家へと。
十字架の道を通って。
この道をかつて通った者はいない。
イエスが初めて拓く道だ。
重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
その十字架の上で死に、三日目によみがえる。
よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。罪を宿すすべての肉は十字架で葬られてしまった。
こうして道が拓かれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道なのである。
救われるためには極刑を受けて実際に死ななくてはならない、ということではない。
だが、死ぬ、という点では全く変わるところはない。そして、イエスと同じくよみがえる。
このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いている。
イエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とも言う。
この道の先にある父の御許では、イエスが私たちの場所を備えてくださっている。
私たちがどこに属する者であるかが、がらりと変わるのである。
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あなたがたは互いに愛し合いなさい
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
---
大分前のことだが、通勤電車が駅に着いてホームを走り出した途端、すてーんと滑って転んだ。バナナの皮が置いてあった。マンガの絵そのままに、すてーんと転んだ。
幸い体に痛みはなかったし何しろ乗り換え時間があまりないので、そのまま立ち上がってまた走った。
このことを職場で話すと、それはyoutuberがバナナの皮をホームに置いていて、どこかで動画を撮っているんだと教えてくれた。私は心底驚き、そして途方もない気分になった。
通勤時間帯の電車や駅が殺伐としていることは、他の人からもいろいろな話を聞く。どんどん殺伐さが増している。
秩序というものはほおっておいたらどんどんと崩壊するから、今はこの世の崩壊が進んでいるのかもしれない。
上の聖書箇所で、イエスは「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言っている。
このような世であるからこそ、イエスの弟子である私たちは互いに愛し合うことを命じられている。
しかも何故そうするのかというと、私たち自身のためというより、この崩れてゆく世がイエスを認めるためである。私たちは互いに愛することによって世にイエスを知らしめるのである。
世がどんどんと崩れていくのであればこそ、私たちはさらに自分を相手に捧げて愛し合うのである。
---
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もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
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大分前のことだが、通勤電車が駅に着いてホームを走り出した途端、すてーんと滑って転んだ。バナナの皮が置いてあった。マンガの絵そのままに、すてーんと転んだ。
幸い体に痛みはなかったし何しろ乗り換え時間があまりないので、そのまま立ち上がってまた走った。
このことを職場で話すと、それはyoutuberがバナナの皮をホームに置いていて、どこかで動画を撮っているんだと教えてくれた。私は心底驚き、そして途方もない気分になった。
通勤時間帯の電車や駅が殺伐としていることは、他の人からもいろいろな話を聞く。どんどん殺伐さが増している。
秩序というものはほおっておいたらどんどんと崩壊するから、今はこの世の崩壊が進んでいるのかもしれない。
上の聖書箇所で、イエスは「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言っている。
このような世であるからこそ、イエスの弟子である私たちは互いに愛し合うことを命じられている。
しかも何故そうするのかというと、私たち自身のためというより、この崩れてゆく世がイエスを認めるためである。私たちは互いに愛することによって世にイエスを知らしめるのである。
世がどんどんと崩れていくのであればこそ、私たちはさらに自分を相手に捧げて愛し合うのである。
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裏切りを受ける神の子
「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)
---
イエスの動揺、そしてそれを目の当たりにする弟子たちの当惑。
イエスは何に動揺しているのだろう。
イスカリオテ・ユダの裏切りを間近にして、それで動揺している。
死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食をも行った神の子イエス。
その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。
公生涯での御子イエスと私たちとでは、同じところが1つだけある。
それは肉をまとっているということで、私たち人間と同じことでイエスも痛みを感じる。
裏切りというのは、人と人との間で起こることの中でも、もっとも辛く苦しいものだろう。
怒り憤り、失望、さまざまな感情にさいなまれる。
イエスの動揺というのも、こういった苦しみによるものだったろう。
つまり、神の子イエスは、私たちが時に体験するあの辛い体験をも、実際に味わっている。
この神の子は、観念的に私たちを理解するのではなく、私たちの悩み苦しみが身に染みて分かっているのである。
私たちがどれだけ辛いところを通っても、そのことをご自身のことのように理解してくださる神、それがイエス・キリストなのである。
そのイエスを信仰するということは、私はもはや1人きりではないということである。
---
[一版]2014年 9月 7日
[二版]2017年 5月21日
[三版]2019年 2月24日
[四版]2023年 4月 2日(本日)
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弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)
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イエスの動揺、そしてそれを目の当たりにする弟子たちの当惑。
イエスは何に動揺しているのだろう。
イスカリオテ・ユダの裏切りを間近にして、それで動揺している。
死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食をも行った神の子イエス。
その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。
公生涯での御子イエスと私たちとでは、同じところが1つだけある。
それは肉をまとっているということで、私たち人間と同じことでイエスも痛みを感じる。
裏切りというのは、人と人との間で起こることの中でも、もっとも辛く苦しいものだろう。
怒り憤り、失望、さまざまな感情にさいなまれる。
イエスの動揺というのも、こういった苦しみによるものだったろう。
つまり、神の子イエスは、私たちが時に体験するあの辛い体験をも、実際に味わっている。
この神の子は、観念的に私たちを理解するのではなく、私たちの悩み苦しみが身に染みて分かっているのである。
私たちがどれだけ辛いところを通っても、そのことをご自身のことのように理解してくださる神、それがイエス・キリストなのである。
そのイエスを信仰するということは、私はもはや1人きりではないということである。
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苦痛のない愛は愛とはちがう
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)
---
遙か昔、教会にいた頃、足を洗い合うということがあった。
総勢20人くらいだっただろうか、はしゃぎながらやっている。
自分も誰かの足を洗った。誰かはまるで覚えていない。多分、向こうも覚えていないだろう。
思うに、足を洗った相手をまるで覚えていないというのは、私にとってその人は大切ではないわけで、上の聖書箇所でイエスが言った意味での足を洗うというのとは似て非なるものだった。
このような、自分にたいして痛みの伴わない行為というのは、誰でも彼でもやっている。
しかし、ここでイエスが相手に行ったことは、自身に大きな苦痛を伴うことである。
当時、足を洗うことは下僕がやっていたことでもあり、苦痛感や屈辱感は大きかったろう。
足を洗うでもケツを拭くでも、その苦痛を伴うことを相手に対して行うことをイエスは示したのである。
それどころか、イエスはこれから十字架の苦痛を一身に受けて多くの人を救うのである。
---
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わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)
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遙か昔、教会にいた頃、足を洗い合うということがあった。
総勢20人くらいだっただろうか、はしゃぎながらやっている。
自分も誰かの足を洗った。誰かはまるで覚えていない。多分、向こうも覚えていないだろう。
思うに、足を洗った相手をまるで覚えていないというのは、私にとってその人は大切ではないわけで、上の聖書箇所でイエスが言った意味での足を洗うというのとは似て非なるものだった。
このような、自分にたいして痛みの伴わない行為というのは、誰でも彼でもやっている。
しかし、ここでイエスが相手に行ったことは、自身に大きな苦痛を伴うことである。
当時、足を洗うことは下僕がやっていたことでもあり、苦痛感や屈辱感は大きかったろう。
足を洗うでもケツを拭くでも、その苦痛を伴うことを相手に対して行うことをイエスは示したのである。
それどころか、イエスはこれから十字架の苦痛を一身に受けて多くの人を救うのである。
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