塩気をなくした塩は塩気をつけてもらえる

 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

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 塩気をなくした塩は、どうなるのであろう。
 神の御国の役には立っていないようになる。
 では、どうすれば、あるいは、どうであれば、神の御国の役に立つことができるのだろうか。
 それは自分一人でできることではなく、このことのためにイエスが受肉して公生涯を開始したのである。塩気はこのイエスがつけてくださるのだ。
 塩気をなくした私たちに会いに来て、ご自身と同じように私たちを死なせそしてよみがえらせる。
 罪が赦され義と認められ、御父との和解に至る。
 こうして、私たちはイエスを介した御父への信仰を与えられ、塩気をつけてもらって地の塩たるを回復する。
 神の御国の役に立つとは、このような信仰者であることだけで足りるのである。

 イエスは、自分が塩気を失ってしまったと嘆く人々を歓迎する。
 私は地の塩だと思っているパリサイ人に対しては、イエスは容赦がなかった。

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[一版]2021年 1月 2日
[二版]2021年12月31日(本日)

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心貧しき者には天の御国を、柔和な者にはそこいらの土地を

 「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:5)

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 イエスのこの山上の説教は、心貧しい者の幸いと並んで、柔和な者の幸いに触れている。
 ところが彼らの幸いは「地を相続するから」だというのだ。
 天の御国への招待をイエスはしているのに、なぜここにだけ現実的な物事が出るのだろう。
 ここでいう地とは天国の土地を指すのかもしれないが、天国に所有権とか私有地といった概念があるのかどうかよくわからない。

 柔和な者というのは、人に対して穏やかで温厚な人という印象がある。にこやかで円満な人柄の持ち主だ。
 このような誰からも慕われるような人は、そもそもこの山上の説教が行われているこの山には来ていないのではないか。柔和な人には神を求めるだけの動機が乏しいような気がするのである。
 一方で、心貧しき者の多くは気持ちに余裕がなく表情も硬く緊張していて、常に穏やかに人に接するというわけには行かないのではと思う。それどころか、人や物に当たる人も少なくないだろう。自分にも思い当たる節がいくつもある。
 この心貧しき者には「天の御国はその人のもの」と呼びかける一方で、柔和な者には土地を言う。 たしかに柔和な人なら土地を親から相続したり他人から譲渡されたりするかもしれない。
 しかしこれは、神の子イエスが受肉してもしていなくとも同じ事ではないか。

 では、イエスは柔和な人を疎んじているのだろうか。天の御国には招待しないのだろうか。
 たとえ彼らが神を求める動機に乏しいとしても、イエスは彼らを招待していると思う。
 ここでの土地の祝福は、土地をもらってそれで本当に心満たされるのか、どの人も同じである内面の貧しさに気づけよ、そういう挑発めいたものなのかもしれない。
 タイプ毎に招待のやり方が違うわけで、イエスはすべての人を歓迎しているのである。

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満ち足りないのは義に無頓着だから

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

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 ここにいう義とは第一義的には神の義である。
 救われたくて神の律法を追い求める人は、やがてそれに満ち足りる。このことはイエスが約束している。
 ここで上の聖句を言い換えると、満ち足りない理由は義に無頓着だからであり、ここでの義は神の義に限ったことではない。
 人はパンのみではうまくいかず、心の満ち足りることがどうしても必要になる。だから義を追い求めることは、一般的にも大切なことだと思う。
 自分のパンが有り余りすぎて宇宙ステーションまで行った人は、次はどこまで行けば満ち足りるというのだろう。それこそ人知れずにパンを施せばいいのにと他人事ながら思わずにはいられない。

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心の貧しさに気づかぬ者も、気づく者も

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)

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 イエスの山上の説教は、この招待のことばから始まる。「心の貧しい者は幸いです」。
 心の貧しい者とは誰が当てはまるであろうか。心が貧しいすべての人が当てはまる。
 ところで私は「リア充」を数人知っている。
 意外にも、彼らは自分の内面をのぞき見ることを恐れている。それも極度に恐れていて、それだから私から見てもそうと気づく。
 みずぼらしい内面から目をそらすために外を見て「リア充」をやっているのではないかとさえ思える。
 この「リア充」が、内面を見ないことによって心の貧しさを認めているとしたら、イエスは全人類に「心の貧しい者」と呼びかけているように思える。
 それどころか、心の貧しさに直面することにおびえる人たちをこそ、イエスは熱心に招待しているのかもしれない。
 彼らがイエスの招待に応じてこわごわその内面を垣間見ようとするならば、その人は知らなかった天の御国への扉を開けようとしているのである。
 そしてこのことは、私たちももちろん同じだ。イエスはあらゆる人に天の御国を呼びかけている。
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ペテロはなぜイエスに声を掛けられたのか -理由はない

 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。
 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」(マタイ4:18-22)

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 イエスが歩くガリラヤ湖のほとりには、多くの漁船が並び持ち主たちが手入れをしていた。
 その中で、イエスはペテロ、アンデレとヤコブ、ヨハネに声を掛け、彼らは仕事も何もなげうってイエスに従う。
 ここで、イエスとこの4人には、計算とか打算とか因果とか、そういう合理性を見いだせない。
 イエスがこの2組に声を掛けたことに理由はなく、大勢の人の中、たまたまイエスの目に入ったからだ。これが恵みである。
 そして声を掛けられた4人がすぐさまイエスに従ったのは、「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:46)とある通りである。
 イエスが門をたたいて私たちのもとを訪れ、私たちはすべてを捨ててイエスに従う。上の聖書箇所にはこの信仰の型があらわれている。

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この世をくれると言われてもイエスはさっぱり興味がない

 「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ4:8-10)

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 荒野で悪魔は引き続きイエスを誘惑するが、気前のいいこの悪魔はこの世と世の栄華のすべてをくれるというのだ。
 自分が聖書に接して以来、自分が長らく分からなかったのがここだった。
 この世とこの都の栄華を手に入れてそれを神の国にしてしまえばずっと簡単ではないか。
 しかしこれは神を知らないゆえの考えだった。
 神と御子にとっては、この世とこの世の栄華は引きつけられるものではなく、悪魔がくれてやると言われても、欲しいと感じないし要るとも思わない。
 「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24新共同訳)とあるとおり、両者は互いに相反するものである。
 だから悪魔のこの誘いは実は誘惑にはなっていないのであり、むしろ、神のご性質と悪魔の性質との違いが鮮やかに浮き出た形になっている。
 このことは人にも大いに関係する。
 イエスとの出会いを通して、その人の価値観は富や栄華といったものから『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』ということに変化するのである。一瞬でくるっと変化する。

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み言葉は悪魔も使う -道具としてのみ言葉

 「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)

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 悪魔の誘惑に遭うイエス。
 その誘惑とは詩篇91:11-12のみ言葉によるものであった。
 悪魔もみ言葉を使うのであり、ここではイエスを挑発するためである。
 だからここではみ言葉は、いのちのことばとしてではなく、もっぱら道具として使われている。
 言い換えると、み言葉がもっぱら表面的な意味で用いられているのだが、はじめからあるところのこの言葉は、あるとき意味など超えて存在として迫ってくるのである。

 さて聖書を知らない知人から何度も聞かされた話なのだが、その人が困難に突き当たっていたときに「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(1コリント10:13)と言ってくる人がいて、その知人の困難に寄り添うつもりもないのに上から目線で言い放つその姿勢に腹が立ったそうだ。私はその話を聞いて、教会の中では良いこととして普通にやっていることなので、その人もよかれと思ってやっているのだと思うとフォローするしかなかった。
 このように、み言葉を処方箋であるかのように用い用いられることは少なくないが、それだと上に書いた悪魔の用法と変わるところがないのではないか。
 み言葉はこのような道具なのではなく、いのちなのである。
 イエスは悪魔からの誘惑にみ言葉で対抗しているが、このみ言葉は御子の存在そのものなのであり、悪魔とみ言葉合戦をしているわけではない。
 実は上に書いた知人の話を聞いたとき、私はあの有名なみ言葉をすっかり忘れてしまっていた。
 しかし、大切なことは、このみ言葉が自分の内側にあり血肉となっているということだ。

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つらさを分かってくれる神

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 私たち人間はしばしば試練にさらされる。
 短い試練もあれば長い試練もある。
 じくじくとくる試練もあれば激しい痛みの伴う試練もある。
 ここで問われているのは、その試練にどう向き合うかではないかと思う。
 なぜなら、私たちはそのことでしか、大切ないろいろなことが分かってこないからだ。

 さて、受肉した神の子イエスは試練に遭う。
 「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」、イエスは腹が減る神なのだ。
 試みる者のささやきよりも前から、イエスは誘惑に駆られ続けていただろう。この石をパンや牛肉や羊肉に変えてやりたいものだ、ああ、むしゃむしゃ食いたい、と。
 しかし、受肉したイエスは『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』という血肉化したみことば(イエスは神なのだ)によって、わき上がってくる欲求に対抗する。
 腹が減ったら石をもパンや牛肉に変えたくなるのは誰しもそうなのだから、神の子イエスは、人々がしばしばさらされる試練のつらさを身をもって体験し、このつらさを分かってくれる神なのである。

 ところで、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』というのは、人を本当の意味で生かすのはパンよりもみことばであるという意味であろう。
 みことばというよりは、もっと広い意味での精神的なものと言えばいいだろうか。
 いいやパンだけだね、という人々は数多い。カネですべてを還元できると思っている。
 しかし、この物質主義に参りきってしまう人も数多い。かつての自分もそうだった。
 そしてその自分がいうのだが、やはりパンだけなどではなかったのである。
 パンはほんとうの満足を与えやしないというのが、今の自分の実感である。

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[一版]2018年 1月 3日
[二版]2021年12月 5日(本日)

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『パンだけで生きよ』と世の声が聞こえ

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 「人はパンだけで生きる」、世の価値観とはこうである。
 パンを食らってパンを作れ。
 これだと人が人である必要など全くなく、ロボットなどで代替可能なモノに成り下がる。
 なぜパンを作り続けるのかをまるで見失ってしまったモノも少なくない。

 「神の口から出る一つ一つのことば」は、モノがいのちを吹き返すためにある。
 そもそも神がいのちを吹き込んで人をお造りになったのである。
 その神が、モノと化してしまった人に改めていのちを吹き込む。
 人にはモノだけでなく、このような神のものがどうしても必要なのである。

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