心の貧しさに目を向けるか、そむけるか

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

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 山上の説教より。

 まず、心の豊かな人というのは、どのくらいいるだろうか。
 心が貧しい(豊か)というときには、必ず自分の内面への洞察があるはずだ。律法は、そのための大切な道具である。
 そしてそのときに、自分の内面は貧しくなんかない、豊かだと、一体誰が胸を張れるだろうか。
 そういう人はいることはいる。というか、彼らは自分の内面から目を背けてしまうのだ。
 だが、このような人には、天の御国へのとっかかりがどこにもないので、救いようもない。
 自分の心貧しさ、内面のどうしようもなさを見つめて(というか、見つめざるを得ず)、何とかして逃れたくて外に手を差し伸べる。天の御国がそのような人により近いのは、自明のことだ。
 言い換えると、アダムの肉の醜さむごさに目を背けるか、見つめざるを得ないか、この違いである。

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恵みについて

 「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:18-20)

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 いわゆる召命。

 イエスはここで、ペテロとアンデレに、次いでヤコブとヨハネに「ついて来なさい」と呼びかける。
 では、なぜこの4人にイエスは声を掛けたのだろう。
 勤勉そうだったからだろうか。
 漁師なのでたくましくて、とても力になりそうだったからだろうか。
 特に信仰に篤かったように見えたのだろうか。
 それとも、この4人こそ、必ずやご自身のお言葉を世界中に広めるに違いない、そう確信したのだろうか。

 おそらく、そのどれも違うだろう。
 イエスが弟子を必要としていたところにたまたまそこにペテロ達がいた、そんなところなのではないかと思うのである。
 つまり、ペテロ召命というのは、全くのたまたまなのではないか。
 というのは、恵みというのは、まさにこの、たまたま、の世界だからである。
 言い方を変えると、恵みは因果関係に基づくものとは全く異なる。
 たくましいという理由で恵みに預かるということはない。
 理由は、ないのである。

 信仰は恵みによる(ローマ3:24)というのも、上と同じ意味である。
 条件をクリアするよう努力してクリアできれば信仰に至るというのではない。
 律法を完全に遵守しようとすることそれ自体は、この恵みとは直接の関係はない。
(なお、律法は人に罪性を自覚させるための、非常に大切な過程である。)
 断食祈祷も、聖句暗記も、この恵みとは何の関係もない。
 ただ、求めれば与えられる。復活のイエスが訪れてくださる。
 この復活のイエスは、たまたま来てくださるのである。
 ペテロにとっても、まったくたまたま、イエスに声を掛けられた。

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悔い改め

 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)

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 罪深い人間の肉を救うための、最後のしかし最大のチャンス、それがイエスである。
 そのように肉をまとった神であるイエスが来られたということがすなわち、「天の御国が近づいた」ことにほかならない。

 イエスは言う。「悔い改めなさい」。
 しかし、人間の肉は、それを耳に入れることまではできても、実際に悔い改めに至ることが出来ない。
 まず、そもそも受け入れない人が大半である。そもそも耳に入らない人も少なくない。
 また、受け入れようとしても肉が大きく邪魔をして、悔い改めには至らない。
 悔い改めとは、ヨブの悔い改め(ヨブ42:5-6)と同じであり、自分から悔い改めるのではなく、神によって悔い改めさせられるものなのである。人は自分で肉を突き抜けることは出来ないが、神にはお出来になるのである(マタイ19:26)。
 だから私たちは、肉に染みついた罪から脱するために、イエスに救いを求め、イエスとの出会いを待ち続けるのである。

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[一版]2010年 4月10日
[二版]2015年11月15日(本日)

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イエスの肉への誘惑

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
……
 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」(マタイ4:1,8-11)

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 ヨハネからバステスマを受けて、人間と同じ肉を持っていることを、イエスは自ら明らかにした。
 その「人間イエス」の肉に、誘惑が次から次へと襲いかかっている。

 私は「悪魔(サタン)」とは何かがよくわからないのだが、ともかくその悪魔が「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」とイエスを誘惑する。
 私たち罪深き人間だと、この種の誘惑には常に乗せられてしまう。日々乗せ続けられている、と言ってもいいほどだ。
 私たちの肉は、神の国よりも、「この世のすべての国々とその栄華」の方に目が行ってしまうのである。
 「すばらしい値うちの真珠を一つ見つけ」るまでは(マタイ13:46)、肉がこのマモニズムから離れることはできないだろう。

 罪なき肉を持つイエスは、そんな私たちと違い、悪魔のさまざまな誘惑に乗せられることはない。そもそも誘惑にはなっていないだろう。
 この、罪のない肉、誘惑に載せられることのない肉を持つイエスが十字架に架かって、私たちの身代わりになる。
 そのことによって、私たちは罪赦される。
 この罪深い肉が処分されるのであるから、まさしく「すばらしい値うちの真珠」なのである。

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[一版]2010年 4月 4日
[二版]2015年11月 8日(本日)

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我田引水について

 「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(マタイ4:5-7)

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 聖書の読み方について。

 ここで悪魔は、イエスを試し損なおうとするために、聖書にはこう書いてあるから身を投げよとそそのかしている。
 このような読み方は、我田引水の読み方、ご都合主義の読み方である。
 自分に都合良く書かれている(ように思われる)み言葉だけをつまみ食いする。
 そのような読み方は何度も見聞きしたし、私もかつて同じ事をやっていたと思う。

 しばしば耳にしたのは、「イエスは婚礼の席でぶどう酒を作ったのだから、酒は大いに飲んで構わない」という論法だった。
 これはもちろん、自分が酒を飲みたいからその根拠をヨハネ伝に求めたのであり、我田引水、ご都合主義以外の何者でもない。
 「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」(1コリント5:11)にはほおかむりをするのだろうか。

 酒を飲むのはけしからんと言いたいのではない。
 我田引水、ご都合主義は、害が大きいのではないか、ということを言いたいのである。
 物事の本質から完全にそれてしまうのだ。
 上の例だと、聖書というのは飲酒を根拠づける書物だという結論になってしまうだろう。
 大切なことは、何故イエスが婚礼の席で上質のぶどう酒を作ったのだろうか、ということではないだろうか。

 上の聖書箇所は、読み方の違いについて、考えの順序について、悪魔とイエスとのコントラストという形でよく見える。

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