系図のある神

 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
  ……
 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」
(マタイ1:1,18)

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 「イエス・キリストの系図」。
 キリストは神であるにも拘わらず、アブラハムの子孫、またダビデの子孫として、脈々とした肉のつながりの中、マリヤからお生まれになった。
 肉を持った神、それも罪深い系図から出た肉を持つ神なのである。
 しかし、イエス・キリストご自身の肉には、この罪を引き継いではいない。
 処女マリヤから生まれたことが、そのことをほのめかしている。

 罪深い人間の肉と同じ肉をイエスがまとってこの世に来られた。
 このイエスは、私たちの苦しみ悲しみを、ご自身の肉も体験されたので、深く共感することができる。
 そして何より、このイエスは、まとった罪なき肉を処罰して、信じる者の罪深い肉を解放するために、極刑の十字架に架かる。
 そうなるために、キリスト・イエスは、天から下ってきたとか、そのようにして世に来られたのではなくて、罪深い系図を通してひとりの処女からおぎゃあと生まれてこられた。

 仮にキリストが肉を持っていなかったとしたら、福音には何の意味も力も救いもない。
 むしろ、まとった肉を十字架につけて罪深い肉を救うために、処女から生まれたのである。

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歯車

 「私は身を横たえて、眠る。
 私はまた目をさます。
 主がささえてくださるから。」(詩3:5)

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 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」。
 その営みはあたかも機械の歯車かのようだ。
 あわてずさわがず、声も出さず主張もしない。
 淡々とおんなじ速度で隣の歯車とかみ合いつつ、ごく自然と回り続ける。
 隣の歯車に歩調を乱されることも、ない。
 「主がささえてくださるから」。

 「この歯車」がないと、多分どこかしらが困り果てるだろう。
 けれども逆に、「この歯車」があるからといって「歯車さん、ありがとう」とありがたがられることは、まったくない。
 暗黙の内に、「そこ」できちんと役割を果たしてよしとされる、「この歯車」。
 「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます」、その繰り返し。
 「主がささえてくださるから」成り立つ、歯車の動きのような営みだ。

 そして週に一度、主がグリスを丁寧に塗り込んでくれる。

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[注記]
 本日の記事は、
  [一版]2007年 2月17日
  [二版]2007年 9月23日
  [三版]2008年11月 8日
  [四版]今回
 若干の筆を入れました。

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神に教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

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 イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
 いや、受肉しているイエスの肉自体は、わたしたちのそれとは何ら変わらないアダムの肉だ。
 肉をまとった神。
 その肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 どのようにして供するのかというと、十字架でのいけにえということだ。
 神御自身が極刑を受け、このアダムの肉を処断された。
 そして神はこのイエスを復活させ、このアダムの肉に赦しを与えられた。
 この赦しは、「マナ」とは全く何の関係もない。
 今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話されているが、彼らが欲しいのはあくまで空腹を満たすマナにすぎず、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。

 だからイエスは、この群衆に仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。
 パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
 「赦された」ということが、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
 もちろんイエスは、彼を受け入れる。

---

[付記]
 本日の記事は、
  [一版]2007年11月19日
  [二版]2009年 1月 5日
  [三版]ほんじつ
 その都度、筆を入れました。

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新しいエルサレム

 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:1-4)

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 上の聖書箇所は、筆者ヨハネが見たままをそのまま記したもの、言い換えると黙示ではない箇所だろうと確信している。

 私たちは新しいエルサレムで神の民となる。
 すべては過ぎ去った。
 そのとき神は、今まで流し続けてきたぬぐいきれない程の涙を、すっかりぬぐい取ってくださる。
 悲しみも叫びも、苦しみも怒りも、そして死も、ここに至ってすべては過ぎ去った。

 では何故神は、あのアダムの違反をすぐにも快復なさらなかったのだろう。
 それはおそらく、悪が悪と明らかにされてさばきを受けるためなのではないだろうか。

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[付記]
 ほんじつの記事は、2008年11月5日付の記事に筆を加えたものです。


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約束のもの

 「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
……
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
……
 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
……
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:6-7,13-14,17-19,42)

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 先日、新聞で小さい仏像の宣伝を見た。
 眺めていると、この仏像には開運なんとか商売繁盛云々かんぬん、あわせて十の御利益がございます、というものであった。
 聖書は、この類の御利益を、あっけないほど約束していない。
 なお、キリスト教系には、病気の治癒(いやし)を表看板に出す一群が存在するが、この表看板には警戒すること。)

 新約が約束するものは、ひとこと、「いのち」だ。
 そしてこの「いのち」は、あるいはあすにでも授かることがかなう。
 ちなみに、この「いのち」は病気の癒しとは似て非なるものである。

 サマリアの女の前歴、それは「夫が五人あった」。
 すなわち、とっかえひっかえ、5人の男と結婚しては離婚してを繰り返しても満足できず、そうして今は「6人目の男」と同居中、そういう、正に「底なし沼」なのである。
 それでもどうにも満ち足りない。
 この状態こそ、「死んでいる状態」である。

 しかしこの女は、イエスに出会う。
 話は飛んで最後、人々の方からこの女に、「この方がほんとうに世の救い主だと知っている」と話しかけてくる。もちろん、喜びの表情で。
 サマリアの女はイエスに出会って、「渇かない水」(いのち)を得たのだ。

 イエスが約束するものは、実に、この「いのち」である。
 「御利益」ではない。
 むしろ「御利益」とは逆のものかも知れない。
 「御利益」、それはかえって、人を「いのち」から遠ざけてしまうのである。

 サマリアの女は、男を何人も取り替えていたのだから、男に困らなかったには違いない。
 だが彼女は男に困らなかったから、さいわいだったか? 心満たされていたか?
 取税人レビ(マルコ2:14)は、イエスの招きに応じて、すぐさま全てを捨てて従った。
 取税人の頭で金持ちのザアカイ(ルカ19:2)、彼がイエスを求めるさまは、こっけいですらあるが、それほどまでに、イエスによるさいわいを求めていた。
 カネもまた、心満たす何物も有していない。
 彼らはみな、大きな「御利益」の方ばかりを向いていた。
 だが皆、「死んで」いた。

 ほかの何物によっても埋めようのないもの。
 そして、それがあれば、もうなにも必要ないもの。
(参/マタイ13:44-46)
 それが、「いのち」、十字架に死に復活したイエスが下さると聖書が約束するものだ。
 イエスはもっぱら、「死んでいる状態」の人間に「永遠のいのち」を与えるがために来られた。
 しかも、気が遠くなるほどかなたの約束というわけでもない。
 サマリアの女は、すぐ約束のものにあずかった。
 レビもザアカイも、約束のものにあずかった。


[お断り]
 本日の記事の既出歴は、
    第一版 2006年 9月21日
    第二版 2007年 1月29日
    第三版 2007年 7月11日
    第四版 2009年 7月26日
    第五版 (ほんじつ)
です。その都度、筆を入れました。

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罪について

(1)
 「『原罪とは何ですか』という便りが殺到し、……。私は『人間が生まれながらにして持っている罪のことです』などと答えたりしたが、……」( P.24 )。
(三浦綾子「光あるうちに」より)

(2)
上の部
 悲嘆
 内心の分離 (英語は略す)
 脱罪術 その一 リバイバル
 脱罪術 その二 学問
 脱罪術 その三 自然の研究
 脱罪術 その四 慈善事業
 脱罪術 その五 神学研究
 神学校
 忘罪術 その一 ホーム
 忘罪術 その二 利欲主義 (英語は略す)
 忘罪術 その三 オプティミズム(楽天教) (小見出しを略す)
下の部
 罪の原理
 喜びの訪れ
 信仰の解
 楽園の回復 (英語は略す)
 贖罪の哲理
 最終問題
(内村鑑三「求安録」の「見出し」、教文社全集1所収版より)

---

 「信仰三部作」ともてはやされているうちの一冊、三浦綾子の「光あるうちに」。
 上の引用はその中からのものだが、では「人間が生まれながらにして持っている罪」とは一体、何なのだろうか。
 さらに続けて彼女は書いている。
 「『性欲も、食欲も原罪だそうです』と座談会で語っておられ、わたしはこまったなあと思った……」。(同頁)。
 教会の受け売りしかしていないので、まぜっかえされて困ることになる。
 ただ、このことは彼女ばかりではない。

 ところで神の基準は、律法に明らかに示されている。
 イエスは山上の説教で、この律法を更に厳格解釈された。
 これらを常にクリアーしている人は義人である。
 だがそんな人はおらず、すべての人は罪の下に閉じこめられている。
 「人間が生まれながらにして持っている罪」とは、実は聖書に照らして明らかで、この神の基準に従うことの到底できない肉を指す。
 だが、律法や山上の説教に接していても、自分が罪人だと悟ることは難しい。その盲目の様を、イエスは山上の説教で説いている。

 「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:4新共同訳)

 救いというのは罪からの救いなので、丸太に目を塞がれて罪に気付かないまま救われると言うことは、ありえない。
 だが、ふとしたきっかけなのであろうか恵みによってであろうか、自身の罪に嫌と言うほど気付かされるときが来る。
 そうすると、上の内村鑑三のようにもんどり打つ。
 「脱罪術」。
 「忘罪術」。
 そのように苦しみ抜いた果てに、イエス同様、肉に死んでいのちによみがえる。これが十字架と復活による救いであり、信仰義認である。
 だから、罪とは何かが分かってはじめて、そこから救いが始まってゆく。

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 ほんじつの記事は、2006年9月22日付の記事を再構成したものです。

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肉がないイエスの十字架

 「そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
 なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。」(2ヨハネ5-7)

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 さくじつ、「初めから聞いたこと」というタイトルの記事を書いた。
 、「あなたがたを惑わそうとする人たち」がいるので、それを確認しよう、そういう旨だ。
 今日の聖書箇所では、ヨハネは「お願い」をしている。
 「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行った」。
 では彼らこそ、「惑わそうとする人たち」なのだろうか。
 そうである。まったくもって、そうなのだ。

 イエスが人として来られたのでなければ、一切は無意味だ。
 「人」とは、罪深いアダムの肉、いずれ死ぬ肉を意味し、イエスは私たちと同じこの肉をまとってこの世に来られた。
 神はこの肉を極刑の十字架に架けて私たちの罪を処理し、そして死んだイエスをよみがえらせた。
 これが、私たちのアダムの肉が解放されるためにイエスが切り開いた道なのである。

 だから、「人間ではないイエス」が来られたということになると、一見ありがたいようで、実は何のありがたみもない。
 「肉がないイエスの十字架」が一体、何を救おうというのだろう。

 このような惑わしがあると、「初めから聞いたこと」を再確認することの必要性がよくわかる。
 ちなみに昨日引用した聖書箇所には、「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。」(1ヨハネ2:27)とある。

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 ほんじつの記事は、2007年10月18日の記事に筆を加えたものです。
 [初版]2007年10月18日
 [二版]2010年 3月 7日

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イエス・キリストに対する信仰

 「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:21-26)

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 律法は、「すべての人を罪の下に閉じ込め」、すべての人に自身が罪深いと悟らせる。
 この罪深さはアダムの肉に由来し、性質として備わってしまっているものなので、律法を守り行なおうとして救われることはないし、それ以前にこの律法を守り通せるものではない。

 このアダムの肉の罪から解放するのが、「イエス・キリストに対する信仰」である。
 むしろ、律法で追い込んで自覚させて、十字架がその人を解放する、というところだろうか。
 律法なくして十字架はなく、十字架なくして律法に意味はない。
 つまり、「イエス・キリストに対する信仰」とは、端的に、イエスの十字架と復活への信仰なのだ。
 この信仰は、アダムの肉が赦されて義とされたというものであるから、もはやこのアダムの肉を責め立てていた律法は不必要になる。

 そうすると、私たちは「イエス・キリストに対する信仰」をどのようにして獲得できるのだろうか。
 それは、こちらの意志によるものではない。
 恵みによって与えられるもの、信じさせられるものである。
 復活のイエスが訪れてくださって、信じさせられる。
 そこが、律法によって義を立てようとする営みとは全く異なるところである。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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