出発点としての律法

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

---

 ロマ書でのクライマックスの箇所のひとつ。

 なぜ律法が与えられたのだろうか。
 それはそれを守り通すためというよりも、それを守り通せないという罪の意識を自覚させるためだろう。
 かつて私が律法を知らなかった頃、ひごろ罪の意識にさいなまれることは全くなかったし、明らかに悪いことも平気でやってのけた。
 罪の基準を知らないのだから、仕方がない。
 だが、聖書を通して律法が入ってきたとき、私はその律法に照らして罪深き者であり、また、この律法を守ろうにもどうにも守り通せない者、つまり存在そのものが罪であることを知ることとなった。
 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)という声は、今も高らかに鳴り響いている。
 この罪意識から、どうしても救われたい。

 ところでバステスマのヨハネは、水の洗礼を行った。
 だがそれは、救いの型でしかない。
 型を示すことが目的なので、来た者に水のバステスマを施す。一種の宣伝のようなものだろうか。
 だがイエス・キリストによる本来のバステスマは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とあるように恵みによるのであり、それは罪からの救いを求めるすべての人に注がれうる。

 では何故キリストは罪深き私たちを救うことができるのだろうか。
 肉ある身としてこの世に来られ、何ら罪が見いだされなかったにもかかわらず極刑の十字架によってイエスの肉は処分された。
 私たちの罪の身代わりに、罪なき御子が十字架に架かってくださったのである。
 そしてそのわざは御父の思いに適って、三日目によみがえる。
 この復活のイエスが、恵みによって私たちに「いのち」を分け与えて下さるのである。
 私たちの肉から罪はなくなりようもないが、このイエスの仲介によって罪赦され、義から程遠い者であるにもかかわらず義とみなされる。
 私たちをがんじがらめにし続けていたものから、私たちは解放されるのだ。

 であるから、律法が救いのためのすべての出発点なのである。
 律法を知らないならば罪と無縁であるから、イエスとも十字架とも、そして救いとも無縁だろう。
 律法が私たちに肉の罪を知らしめるので、それから解放されたくて十字架にすがる私たちに恵みが降り注ぐのである。

---

[一版]2011年 9月 4日
[二版]2015年 4月29日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

怒れる神との和解

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-10)

---

 ロマ書5章では、同じ事が形を変えて、繰り返し書かれている。
 上の聖書箇所もまた、そうである。

 アダムの違反以来、私たちはアダムの肉をまとった存在であり、そのゆえに神の御前に罪深い者である。
 言い換えると、神との間に平和がなく、人間はこの絶対者たる神の怒りをかいつづけている。
 人間は神によって造られたにもかかわらず、アダムの違反以降、その神と常に対立構造に置かれている、と言ってもよい。

 そのさなかに、神の側から救いの手が差し伸べられた。
 すなわち、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかに」されたのである。
 罪のなきイエスに私たちの罪を負わせ、そのイエスが極刑の十字架に架かる。
 その血のわざによって私たちの罪は処理され、その処理はイエスの復活によって承認された。
 このイエスを信じることができれば、神によって義とみなされて神との間に平和が訪れる。
 平和とは、この、罪からの救いのことだ。

 私たちの肉は、依然としてアダムの肉なのであり、本質的に罪深いことは変わらない。
 それにもかかわらず、イエス・キリストを信じるが故に、神は私たちを義と認めてくださった。
 これほどまでに創造主が私たちを愛しておられることを、私たちは日々実感するのである。

---

[一版]2009年 9月20日
[二版]2011年 8月27日
[三版]2015年 4月19日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神との平和

 「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

---

 人は本来、神との関係性の中にのみ存在する。
 だが、アダムの違反によって、その関係は破綻してしまった。
 神はアダムを、園から追い出してしまう。

 この、神-人という関係性の中では、神が絶対的に上位にあり、人は絶対的下位にある。
 その絶対的上位にある神がお怒りであるならば、人は脅えるほかない。
 だが、神の子イエスが身代わりに極刑の十字架に架かって下さったという和解の手を信じることができるならば、神と自分との間に平和が取り戻され、もはやそこに怒りはない。

 こうして、信じる者にとって、世界は神との絶対的な二者関係に収束してしまう。
 神は世界そのものなのである。
 もちろん私たちは、この神にひざまずく立場であり続ける。
 ひざまずきつつ、これ以上ない平和をかみしめている。

---
[一版]2008年 4月 6日
[二版]2011年 8月21日
[三版]2015年 4月18日(本日)

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

信じ続ける

 「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:18-25)

---

 アブラハムの信仰について。

 100歳の夫婦が子供を授かるというのは、医学的、物理的また常識的にありえないだろう。鼻で笑ってしまうような話だ。大笑いしたっていい。
 しかし、可能性のなんら見いだせないこの神の約束を、アブラハムは信じ続けた。
 「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じ」たのである。
 私たちが既に知っているように、この老夫婦は一人息子イサクを授かることとなるが、アブラハムの信心に応えて、御父は約束通りに無から有をお生みになったのだった。
 これは、信仰ということの型であり、アブラハムが信仰の父といわれる所以である。

 さて、私たちもまた、神から約束をいただいている。
 その約束とはイエス・キリストの十字架と復活に表されたものであり、この罪深い肉から解放されて義と見なされるということである。
 「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」とあるとおりである。
 だから、私たちはキリストを通した魂の救済を待ち望み、この神の約束を信じている。
 もうだめだ疲れ切った、とか、心が荒廃してしまったなど、どん底の日々であっても、イエスを信じ続けた。
 そうして恵みによって極刑に死んで救われ、今は御父との間に平和がある。
 肉そのものは変わらないから、もうだめだ疲れ切った、とか、心が荒廃してしまったということは未だしばしばあっても、御父がキリストを通して私たちを義とみなしてくださっているという根底での安心感が奪われることはない。

 私たちは信仰の父アブラハムに習って神の約束を信じ抜き、そして約束のものである信仰を得たのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )