イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
血を流すまで
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)
---
イエスが、「信仰の創始者」であり「完成者」である。
それは、受肉、そして十字架と復活によってなされた。
アブラハムが「信仰の父」と言われるのだが、それは「信じ切る」ということのお手本としての父であり、信仰の対象、すなわち、何を信じるのか、ということは、イエス・キリストが御自身に変更なされた。
なぜ、このイエスを信じるのであろうか。
イエスが救ってくださるからだ。
では、何から救ってくださるのだろう。
「罪」から、つまり、アダムの違反以来人間の身に染み込んだ罪深い肉からの救い、解放を、イエス・キリストはなしてくださる。
その救いを為すために、人と同じアダムの肉を持ったイエスは十字架に架かる。
神が死刑になったのではない。
イエスもまとったこの肉のあまりの罪深さを、十字架につけたのだ。
この肉のイエスは死んで、復活し、そして「神の御座の右に着座されました」。
そのことを信じることができるのならば、その人は罪赦されたことを実感できるはずだ。
イエス・キリストは、罪の赦しの信仰の創始者である。
ところが、この「信じる」というのは、そうそうたやすいことではない。
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とある。
ヘブル書の作者は全くの不明だそうだが、この人は戦い切った果てに信じるに至った。そうでなければ、この一文は書けない。
信じまいという罪の力(肉の力)が、あまりにも強力なのだ。
だから、罪と戦うというのは、信じまいという力に抗して戦うことと同義であり、それほどまでに信じるということは難しい。
(針の穴の例えなどにも、そのことがよく現されている。)
信じて罪赦されるためには、ほんとうに流血でも狂気でも、ともかくそういったところを通り抜けざるを得ない。
そして、そのようなところに入って通り抜けるというのは、人の努力によってではなく、ただ神の恵みによってである。
もしそういう道に分け入ったならば、イエスが十字架を忍んだように、流血、狂気や苦難を忍ぶのである。
その忍び方すら、イエスが「型」、すなわちお手本となって下さった。
その先には、イエス同様に復活がある。
復活のイエスにアダムの肉がないということもまた、「型」である。
そのときには、アブラハムのように肉の力によって信じようとするまでもなく、幼子のごとく信じて疑わなくなる。
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あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)
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イエスが、「信仰の創始者」であり「完成者」である。
それは、受肉、そして十字架と復活によってなされた。
アブラハムが「信仰の父」と言われるのだが、それは「信じ切る」ということのお手本としての父であり、信仰の対象、すなわち、何を信じるのか、ということは、イエス・キリストが御自身に変更なされた。
なぜ、このイエスを信じるのであろうか。
イエスが救ってくださるからだ。
では、何から救ってくださるのだろう。
「罪」から、つまり、アダムの違反以来人間の身に染み込んだ罪深い肉からの救い、解放を、イエス・キリストはなしてくださる。
その救いを為すために、人と同じアダムの肉を持ったイエスは十字架に架かる。
神が死刑になったのではない。
イエスもまとったこの肉のあまりの罪深さを、十字架につけたのだ。
この肉のイエスは死んで、復活し、そして「神の御座の右に着座されました」。
そのことを信じることができるのならば、その人は罪赦されたことを実感できるはずだ。
イエス・キリストは、罪の赦しの信仰の創始者である。
ところが、この「信じる」というのは、そうそうたやすいことではない。
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とある。
ヘブル書の作者は全くの不明だそうだが、この人は戦い切った果てに信じるに至った。そうでなければ、この一文は書けない。
信じまいという罪の力(肉の力)が、あまりにも強力なのだ。
だから、罪と戦うというのは、信じまいという力に抗して戦うことと同義であり、それほどまでに信じるということは難しい。
(針の穴の例えなどにも、そのことがよく現されている。)
信じて罪赦されるためには、ほんとうに流血でも狂気でも、ともかくそういったところを通り抜けざるを得ない。
そして、そのようなところに入って通り抜けるというのは、人の努力によってではなく、ただ神の恵みによってである。
もしそういう道に分け入ったならば、イエスが十字架を忍んだように、流血、狂気や苦難を忍ぶのである。
その忍び方すら、イエスが「型」、すなわちお手本となって下さった。
その先には、イエス同様に復活がある。
復活のイエスにアダムの肉がないということもまた、「型」である。
そのときには、アブラハムのように肉の力によって信じようとするまでもなく、幼子のごとく信じて疑わなくなる。
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