行ないの原理、信仰の原理

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:27-28)

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 人々はかつて、行ないによって救われようとしていた。
 人を殺さず、父母を敬い、安息日を厳格に守った。
 ではなぜ行ないをしたのかというと、人をあやめることが罪だからというよりかは、人を殺さないことによって永遠の命を得たいからであった。
 言い換えると、彼らはごほうびが欲しかっただけなのだ。
 その程度のものであるから、利害の衝突するイエスを殺そうと思うことについて、彼らは何も思わなかった。
 大衆たちは流されて、「十字架につけろ」と叫び続けた。
 誇らしい律法、その行ないの原理などというものは、実質的には崩壊していた。

 そこにイエスが現れ、新しい原理を打ち立てた。
 肉を持つ神であるイエス、そのイエスが極刑に架かるのである。
 私たち律法を守れない人間の代わりに、自分の肉をもっとも罪深いと断罪した。
 そして3日後、このイエスは復活する。

 この復活のイエスに出会ったとき、信仰の原理が与えられる。
 なぜなら、信仰の一切が、一瞬にして了解されるからだ。
 私たちの肉は昨日も今日も同じく罪深いが、これを断罪したイエスに出会った今日、罪赦された。
 だから、昨日読んだ聖書と今日開く聖書とが、全くの別物に見えてくるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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罪のとげ

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

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 自分語りをする。

 12年前に教会の門を叩き聖書を読み始めた。
 当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。
 その当時買い物に行ったときのこと、とても可愛らしくてしかも器量の良い若い娘がレジをしていて、その彼女を見ていて、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」が、即座に思い出された。
 私は今、姦淫の罪を犯したのである。
 この罪のとげは、ことさら痛かった。

 律法がもたらすのは、この罪の意識、罪のとげの痛さである。
 より正確に言うと、律法は、肉に宿す罪を白日の下にさらして私たち自身に突きつける。
 「お前は罪人なのだ!」と糾弾する。
 そうすると、買い物に行っただけでも罪のとげに痛む私などは、どう取り繕おうと神の御前に不義とならざるをえない。
 もし私が律法を、山上の説教を知らなかったら、このような罪の意識自体がわからなかったに違いない。
 そうであれば私にとって、御父もイエスも、十字架も復活も、そして赦しと救いも、まったく無関係だったろう。それを思うとぞっとする。

 このように、律法は私たちの罪深さを嫌と言うほど知らしめるために、必要不可欠なものである。上に書いた自分の経験に照らしても、そう思う。
 そして、この罪の自覚がキリスト・イエスによる罪の救いへと私たちを導く。
 律法が養育係(ガラテヤ3:24)たる所以であり、この養育係なしに救われるということ、すなわち罪のとげの痛みを知らない者が救われることは、以上のことから原理的にありえない。

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[一版]2011年 7月30日
[二版]2014年 2月22日
[三版]2017年 9月18日(本日)

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 健やかな一日をお祈りします!

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知者であると言いながら愚かな者

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:18-23)

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 もし、神の存在を理詰めで証明するとしたら、どのような筋道ならうまくいくだろうか。
 自分なら、書き始めでつまづいてしまうだろう。一行も書けない。
 頭とか観念だけで神を認めようとするのは、非常に無理がある。
 それらとは違うところ、心とか魂が、神を求め神と出会うのである。

 近代以降、人々は頭でっかちになってしまった。頭ですべてが制御できると思っている。
 この頭は、自分の認識の外にある神を認めようとしない。
 しかしゲーテは、1772年という時点で既に、「頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!」と書いている。
 頭が全てになると、その人の中で、頭と心(魂)とが分離してしまう。
 熱エネルギーを自在に用いて巨大な機関車を動かせても、自分の気持ち一つ分からなくなる。
 それが「知者であると言いながら、愚かな者」ということである。
 まったく愚かしい。これは、我が身を省みてもそう思う。

 この、分離してしまった頭と心との調和を取り戻すには、どうしたらいいだろうか。
 絶対的な存在を認めることは、とても大切なことだ。
 頭では認識できないが全人格的に認めざるを得ない、そういうことがある。
 それがイエスとの出会いなのである。
 極刑に死んだが復活した赦し主イエスとの出会いによって、この絶対的存在を認めざるを得なくなり、その結果、調和が取り戻される。
 このときに、頭が絶対者なのではないことに、否応なしに気付かされるのである。実際、この出会いに頭は何の役にも立たなかった。

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 健やかな一日をお祈りします!

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キリストの無謬と十字架について

 「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:19-25)

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 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」。
 それはイエスが忍耐を重ねていたからだろうか。
 そうではない。
 罪とか偽り、善とか悪の基準は、まさに神の御子キリストにあるからである。律法を御父が定めたのと同じだ。
 いいかえると、キリストは忍耐していたというより、自然な立ち振る舞いであった。

 大切なことは、その罪のない御子イエスが極刑の十字架に架かったということだ。
 善悪の基準、罪の基準である神が極刑を受ける。
 このキリストの十字架という極刑は、本来私たちが御父から課せられるべき極刑であったものをすべて身代わりしてくれたもので、罪を犯す肉という存在そのものへの処罰である。
 アダムの違反以来長い間御父との断絶が続いていた私たちは、その十字架それから復活というキリストの御業を通して、その御父と和解することができた。
 「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」のである。
 依然として罪深い肉を宿すこの身であっても、この牧者のもとで心安らぐことがかなっている。

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[一版]2014年 3月29日
[二版]2017年 9月10日(本日)

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ことば/神のことば

 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(1ペテロ1:23-25)

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 神のことばについて。

 ここでペテロが書く「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」は、ヨハネ1:1の「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」に同じ。
 聖書は一貫して「神のことば」に触れている。
 「神のことば」なのであり、「ことば」とは異なる。

 私たちは聖書のことばをを「ことば」として読み、受け取り、解釈する。
 しかし、それだと、字面での意味を理解にとどまる。
 「草はしおれ、花は散る」ところのものと変わるところはない。
 私たちは、聖書を「神のことば」として取り扱うすべを持っていなかった。

 ところが、「神のことば」とは、恵みによって上から与えられる。わざではない。
 長く理不尽な苦しみの果てに、突如この「神の言葉」が与えられる。
 ここで、この大きな苦しみとはイエスの十字架の苦しみと同じものであり、「神のことば」が与えられてイエス同様復活する。
 こうして与えられた「神のことば」はすなわち「いのち」であり、それによってその人の一番奥底の部分がごろんと変わる。
 だから、その奥底に根付いたこの「神のことば」が取り去られることはない。

 このように、聖書の見方が全く変わるとき、この聖書は今までとは全く異なる「神のことば」としての輝きを放つのである。

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[一版]2014年 3月15日
[二版]2017年 9月 3日(本日)

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