生ける水の川

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)


---

 心の飢え乾きを潤すためには、人はどんなことをするのだろう。
 遊興や酒宴は、ほんのいっときのごまかしにしかならない。
 その余韻が過ぎさってしまうと、再びあの飢え乾きが襲ってくるのである。

 イエスを信じる者は、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
 そのように、心の根っこの部分が生ける水の川で潤される。
 「後になってから受ける御霊」、すなわち、キリストの十字架と復活とを了解することが、信じることである。
 十字架と、そののちの復活を信じることなしにイエスを信じることは、ありえない。
 だから、このときには「御霊はまだ注がれていなかった」のである。

 何をしても治癒することのなかった心の飢え乾きが、イエスを信じることで収まるのである。
 イエスが「いのち」だからである。
 信じることによって、イエスは内在して下さる。
 この生ける水の川は、その人の内部からじわりと湧き出てきて、枯れることはない。
 外部からの刺激によっては、そもそもこの水は流れ出てこない。
 行事につぐ行事というのは、だから全く意味がないのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

御神のもと

 「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7:32-34)

---

 イエスは、もうしばらくすると、十字架に架かって死に、よみがえって御神のもとに戻られる。
 この「御神のもと」のことを、端的に天国といっていい。
 役人達がくまなく探しても、天国はどこにもない。
 パリサイ人の指示に忠実なこの役人達が天国に行くことも、ない。
 そうイエスは言っている。

 では、誰が天国を見いだし天国に行けるのだろうか。
 それは、イエスをキリストと信じる人である。
 イエスが十字架に架かって死んで復活したことを信じる人である。
 祭司長、パリサイ人や木っ端役人は、はなから全く信じていない。
 また、信じるということは「わざ」ではないので、人間のおこないや努力の類によっては、どうなるようなものではない。
 信じて救われるというのは、ただ神の恵みだけによる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

正しいさばき

 「もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:23-24)

---

 この世に「正しい」さばきなど、存在しない。
 あるのは、強者や権力者に都合のいいさばきだ。

 イエスはこの世に来られて、「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」と仰った。
 うわべによるさばきというのが、上に書いたこの世でのさばきのことだ。
 正しいさばきというのは、神の義によるさばきである。

 イエスはパリサイ人から、この世でのさばきを受けている。
 しかし、彼らパリサイ人の側こそ、そのようにキリストをさばくことによって、神のさばきを受けたのだ。
 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)とあるとおりである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスを信じる

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)

---

 「イエスはまだ栄光を受けておられ」ていない。すなわち、十字架と復活のときはまだ先のことである。
 それとは違って、今はイエスの十字架と復活の後の時代にある。
 「イエスを信じる」とは、神の子の十字架と復活を信じるということに等しい。
 なぜなら、このわざこそ、罪の肉の処罰とそのことの神による承認という神のわざだからである。
 この神のわざを信じることができるために、自分の努力は意味をなさない。
 ただ神の恵みによるのである。そのことを「御霊」と言っても、差し支えないだろう。

 渇いていない人は、いない。
 あるいは、自分は渇いていないと思っている人は多いだろう。
 イエスは、渇きを自覚する者をいざなっている。
 「生ける水の川が流れ出るようになる」。
 これは、いきいき元気とか、テンションが高いとか、そういうこととは全く違う。
 神から与えられたこの生命を、その神のご意志通りにしっかりと生きることができる、そのような力強さ、たくましさ。それが、「生ける水の川」である。
 そのような者は、渇きを覚えない。虚無感、空虚感は、潤される。
 そうなるためには、イエスを信じる、分けても十字架と復活を信じるのである。
 信じる、というからには理解する必要があり、その理解のためには神の「御霊」を必要とするのである。

 「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)

とあるとおりである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

わたしの時

 「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。
 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」(ヨハネ7:2-6)

---

 肉の上でのイエスの兄弟もまた、イエスの「わざ」を見てはいる。
 それで「祭りに出ろ」と言っている。

 イエスが「わざ」を行うのはあかしであって、すなわち、自身が神の子であることの証明である。
 しかし、イエスはその証明だけのために「わざ」をするのではない。
 「わたしの時」に、肉を持った神の子は十字架という極刑で処罰されるのである。
 そのようにして、人間の身代わりに、この罪深い肉を処罰された。
 この罪深い人間の肉を処罰してしまうためには、神の子イエスを十字架で処分してしまう程のことが必要なのであった。
 イエスが「わざ」を行うのは、この、神の身代わりの処罰ということを分かって欲しかったからではないだろうか。
 「わざ」のために「わざ」をしていたのではない。
 イエスの兄弟には、そのことが全く分かっていない。

 そのイエスの十字架のわざを信じることによって、私たちは神に罪赦される。
 この十字架を信じることは、わざによるのではなく、ただ神の恵みによる。
 そしてその時は、まさにその人にとって「わたしの時」なのである。

 「私のとき」でないものは全て、「あなたがたの時」である。
 人間がわざによって信じようとするとき、それは「あなたがたの時」の中にある。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスの言葉

 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――
 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」(ヨハネ6:63-65)

---

 イエスのお言葉は、単に言葉にとどまるものではない。
 単に意味を伝えるという言葉の役割を遙かに超えて、「霊であり、またいのち」を伝え、聴く者に与える。
 その霊や「いのち」を得るためには、人間の罪深い肉は何の役にも立たない。
 言い換えると、それらのものは人間がどうこう行動して得ることのできる類のものではなく、ただ神の恵みによるのである。
 人間はどこまでも受け手でしかない。
 実際イエスは仰る。
 「父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」 。
 神の御旨によって復活のイエスの御許に行くことが叶い、そこで単なる言葉を遙かに超えたイエスの言葉によって「いのち」が伝えられる。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

正餐

 「すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:52-55)

---

 昔日読んだドイツ流儀の教理書に、上の聖書箇所はイエスが正餐式を制定した下りだ、という解釈が載っていた。
 それを目にして、私は二度とその本を開くことはなかった。

 イエスの肉を食べ、血を飲む。それは実は、確かに正餐なのだ。
 ただ、毎月(毎週)執り行われる儀式としての正餐式とは、全く異なる。
(それには別の意味がある。)

 このイエスの肉を、どうすれば食することができるのだろう。
 その肉は、極刑の十字架の上で、どうにでもできるようにさらされた。
 むち打たれ、また釘で打たれて、イエスの血はしたたっている。
 イエスの血肉は、ゴルゴダの丘で食べて飲むことができるのである。

 この十字架は、人間の肉と同じ肉を処罰し、またそれがよみがえるという過程を通して、罪にがんじがらめにされた人間の肉に神が罪の赦しを与えるためのものである。
 肉による罪からの解放、これが「いのち」であり、よみがえりである。
 「わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」。
 神の恵みによるこの罪の赦しに与るとき、私たちはこのゴルゴダの丘に立たされる。
 その丘でイエスの十字架のわざにあずかって、その血肉をいただく。
 これこそ真の正餐である。
 定期的に行われる儀式とは異なり、ただ一度きりの通過点なのだ。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大切な問題

 「そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」(ヨハネ6:25-27)

---

 五千人の給食後にイエスを追ってやってきた群衆達。
 だが、この群衆がイエスを追ったのは、「パンを食べて満腹したから」、すなわち、イエスがメシを食わせてくれると見込んだからだ。
 給食の奇跡に神を認めたからではない。

 人の子が来られたのは、「永遠のいのちに至る食物」を与えるためである。
 そしてそのことは、十字架と復活で成就する。
 この十字架と復活を認めることができるように「働きなさい」、そう、イエスは呼びかけている。
 「いつまでも保」たれるいのちが、そこに用意されているのである。

 イエス・キリストがどのように見えるかということは、とても大切な問題である。


---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

神に教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

---

 イエスは仰る。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与えるのだという。
 いや、受肉しているイエスの肉自体は、わたしたちのそれとは何ら変わらないアダムの肉だ。
 肉をまとった神。
 その肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 それはどのようにしてかというと、十字架でのいけにえということだ。
 神御自身が最高刑を受け、このアダムの肉を処断された。
 そして神によってイエスが復活して、このアダムの肉が赦される。
 この「赦し」は、「マナ」とは全く何の関係もない。
 今イエスは群集を相手に話されているが、はるばるとイエスを追ってきたこの群衆は、空腹を満たすためのマナを欲しがっているが、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なるものだ。

 だからイエスは、この群衆に仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。
 パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、「神によって教えられる」とき、その人はおのずとイエスのもとに駆けつける。
 「赦された」ということが、字面をはるか超えてはっきり了解できたからだ。
 もちろん、赦しの御技の主であるイエスは、彼を受け入れる。

---

[付記]
 本日の記事は、2007年11月19日付記事に修正を施したものです。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

いのちのパン

 「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:31-37)

---

 イエスと群集との、全くかみ合わない会話。

 群集が欲しいのは、どこまでも食べるパン、腹を満たすパンである、要するにマナである。
 ところがイエスが世に来て与えたいと思っているのは、そのようなものではない。
 それをイエスは「いのちのパン」と呼んだ。
 「わたしがいのちのパンです」。

 マナは食べると無くなってしまうので、マナが再び天から降ってくるのを待つよりほかない。
 今ここでイエスと言い合っている群集もそうで、施しを得たら、ただ次の施しを求める。
 これではいつまでたっても自分で食うということができない。
 だが、それができるだけのものを与えてくれるのが「いのちのパン」である。

 この「いのちのパン」は食物ではない。
 だが、それを「食する」ことによって、食べていけるだけの力を得ることができるのである。
 だから「わたしに来る者は決して飢えることがな」いと、イエスは言っている。
 それは全くの自力で食えるようになる、ということでは全くない。
 「わたしは決して捨てません」とあるように、神の御力に常に依っているのであり、そのことは、イエスという「いのちのパン」を食した人にとっては自明のことにすぎない。
 イエスを信じる人というのは、「いのちのパン」を食したそのような人々のことである。

 一方で群集についてイエスは、「あなたがたはわたしを見ながら信じようとしない」と言っている。
 イエスを目の前にしても、全く「見えない」。
 見えないから、無くなる食物であるマナを求めてしまう。
 だが、そんな彼らの中にも、あるときイエスが「いのちのパン」という本来の姿に見えてくる人が出てくる。
 それが神の御恵みなのであり、「父がわたしにお与えになる者」はそのとおりにたぐり寄せられて、「いのちのパン」に預かるのである。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ