イエスの光

 「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

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 福音について。

 イエスは、あるいは復活のイエスは、光である。
 その光とは、部屋全体を照らすようなシーリングライトのようなものではない。世の中全体を照らして明るくするのとは違う。
 むしろレーザー光のように、世の中を突き進んで私たち個々人に照射する類の光である。
 その光はあまりに鋭く強く、レーザーメスのように私たちを切り刻んでしまうのではないかというほどのものだ。

 その光がいつ照らされるか、それは誰にも分からないが、このイエスの光に照らされた者は、自らも「いのちの光」を持つ。それは、このようなものだ。

 「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:33-34)

 それで、もう闇の中、アダムの肉を持つ人間たちが織りなす世、その闇の部分をはっきりと認識できるので、その闇の中を歩むこともない。
 罪許され、私たちは救いを得る。

 だから、イエスの光に照らされるというのは、復活のイエスと出会うことと全く同義である。

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[一版]2014年 8月 2日
[二版]2017年 4月29日(本日)

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キリストのあらわれかた

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。
 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」(ヨハネ7:37-43)

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 イエスの言葉を聴いた群衆の反応について。
 イエスがやはり本当にキリストなのだという人々と、ガリラヤからキリストが出るはずがないという人々とに分裂する。
 想像だが、それほどキリスト待望論、救世主待望論が、この時代に大きかったのではないだろうか。
 それはローマ支配からの解放という願いに基づいていたかもしれない。
 あるいは、利権、利害の様々なしがらみで、社会全体が行き詰まってしまっていたからかもしれない。パリサイ人にしても、この利害構造の中でやっている。
 この人々の中に魂の救済の類を求めていた人は、ごく少数だったような気がする。六千人の給食で、なぜ人々はマナばかりを求めたのだろう(6章)。

 キリストがキリストであることは、救われてはじめて分かる。
 十字架と復活のキリストは、私たちを世から救うために来た。
 私たちが世に打ち勝つことができるように、障害物を処理してくれる。すなわち、罪の赦しだ。
 アダムの肉が解放されるのである。
 私たちの外側をどうこうするのではなく、内側から変えてくださる。
 まさに「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
 復活のキリストは公生涯のときとは違って、苦しみのさなかに、そっとドアをたたいてやってくる(黙示3:20)。
 あまりにもさりげなく、気付かないほどだ。それほどまで、気遣ってくださる。

 大声で「私はキリストだ」と来ることは、今の世にはけっしてない。もし、そんなことがあるとしたら、それはにせキリストだ(参/マタイ24:4-5)。

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[一版]2014年 7月22日
[二版]2017年 4月23日(本日)

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救いのしるし

 「群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」(ヨハネ7:31)

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 おそらくイエスは、群衆の前で多くのしるしを行ったのだろう。
 では、何故しるしを行うのか。
 自身が神の子であることをあらわすためであり(そのことは理解されなかったが)、また、それ以上に、自身への求心力を高めるためではなかったかと思う。
 もしイエスがわざを全くしなかったとしたら、当時の誰がイエスの話を聴いただろうか。
 誰一人、聞く耳を持たなかったかもしれない。

 この群衆は、イエスを見ずにしるしを見ている。
 「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか」、つまり、群衆にとっては、より多くのしるしを行う者こそキリストなのである。
 しかし、イエスが与えるしるしは、たったの3つである。
 十字架、復活。
 それから、恵みによる訪れ。
 この3つが、救いのためのしるしである。

 なんのためにイエスに集うのかを確認することは、とても大切なことだ。
 救いのためか、しるしのためか、集まるために集まるのか。

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挑発

 「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。
 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。
 うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:21-24)

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 イエスは安息日に人を癒し、激しい反発を招く。そのことについて。

 イエスはここで、安息日について、また割礼について言いたいのではない。
 そういった神が授けた律法群について、人々が自分たちの都合に合わせて勝手な解釈を施して適用してしまうということを言っている。
 安息日をてこに、人々を挑発しているのだと思う。
 「正しいさばきをしなさい」と言っているが、正しいさばきができるのが神おひとりであることも重々承知で言っているのだろう。

 律法という神の秩序を罪ある人間が完全に守ることは、到底出来ない。
 律法を意識すればするほど、肉の罪はいよいよ明らかになり、その罪の中に人は死ぬほかなくなる。
 私たちをこのように死に追い込むことこそ律法の役割であり、極刑に死んだイエスの復活の道によって、私たちもよみがえって罪赦される。
 これが、神の赦しを得るためにイエスが切り開いた道である。

 ところが上の聖書箇所の人たちは、律法を守ることそのものが善行だと考えている。
 それどころか、人の上に立って人に重荷を押しつけてさえいる。
 安息日には何もしてはいけない等。
 いや律法とは(モーセとは)そういうものではない、と、イエスは人々を挑発する。
 その挑発は、一人でも多くの人々が肉の罪に気付いてそこから救われるために他ならない。

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[一版]2011年 1月 3日
[二版]2017年 4月 9日(本日)

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忍耐ということ

 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
……
 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:58-60,65-66)

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 去っていった弟子たちは、イエスに従うという行為によって「いのち」を得ることができると思っていたのだと思う。
 ところが、ここでイエスが言ったのは、御父の御心による恵み、天からのパンに預かる恵みについてであった。行ないではなく恵みであるというのは、イエスがここで言うとおりの意味である。
 この去っていった弟子たちは、こう思っただろう。「こいつについて行ったって、何もないんだってさ!」。

 では、私たちは何故それでもイエスにつき従うのだろう。何の役に立つというので聖書に接するのだろうか。
 それはもちろん、私たちが救いを求めているからだ。
 イエスは私たちをあわれんで、私たちのもとを訪れてくる時が来る。それが天からのパンなのである。
 わざではなく恵みによってなのであるから、恵みにあずかるまで忍耐強く待つ必要がある。
 去っていった弟子たちは、この忍耐が足りなかった。

 イエスとの出会いに必要なものは、行ないではなく、恵み、そしてその恵みを待つ忍耐である。

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